―― 地獄への道は善意で舗装されている……この言葉、正しく使っているかどうかは分かりませんが、今の気持ちはまさにそれ
遺言については先送りし、まずは平常心で今まで通りにすごそうと ―― 公務を終え臣民が一目彼女を観ようと溢れかえっていた沿道を抜けて、背もたれに体を預けてあらぬ方向を見つめながら、彼女は内心そう考えていた。
「ジークリンデさま」
「大丈夫ですよ、キスリング……」
彼女が茫然自失に近い状態に陥っている原因は、先ほどの公務にあった。
公務は期間限定の展示を行っている美術館へと行き、館長の説明を聞きながら観て回るというもの。
作品や作者について前もって調べ目を通し、館長の説明に頷き、的外れではない質問をし、彼らの自尊心を僅かばかりくすぐり、良い気分を引き出し、無難に終えた。
その後、美術館前で彼女を一目見ようと集まった臣民に手を振る。大勢の群衆の前で彼女は微笑みを絶やさず。特に何事もなく、いつも通り終わるはずだったのだが、突如どこからともなく「ホーフ・カイザーリン」という声が響いた。
群衆はその掛け声を聞き一瞬静まり、そして「ああ、そうだ」とばかりに、群衆は笑顔で次々と「ホーフ・カイザーリン」叫びだした。
表情が硬直しかけたが ―― 危険に遭遇した時は動けなくなる彼女だが、表情は訓練しているので、多少のことでは動揺を気取られるようなことはない。
表情はそのまま、彼らの前を去り地上車に乗り込み、沿道にいた群衆に応えきり、そして地獄への……と、繋がる。
「あれは、皇帝のお妃万歳でしたよね? キスリング」
帝国語では君臨している女帝と、皇帝の妃である皇后・皇妃を表す単語はカイザーリン。この一つの単語が、時と場合によって使い分けられる。
普通は皇帝が存在してこその妃(カイザーリン)なので、皇后なのか女帝なのかなど、判別に悩むことはないが、彼女ではない女帝が存在し、皇帝のいない帝国で「ホーフ・カイザーリン」は、何を指し示しているのか? 甚だ曖昧であり、どちらを指していたとしても問題である。
「小官には女帝陛下万歳に聞こえましたが」
「私は、国家反逆罪で捕まってしまうのですか……」
女帝万歳であろうが、皇妃万歳であろうが、他に皇帝が存在している以上、不敬どころか反逆である。
彼女は肩を落としかけたが、もともとゴールデンバウム王朝は滅ぼすつもりはあったので、あながち嘘でもなく、気を落とす資格などないと考え直し、そこから起こりうる事態を考慮した結果、
―― 私が逮捕……逮捕は嫌ですねえ。あれ? 私が国家反逆罪で逮捕されてしまうと、夫のラインハルトも逮捕されてしまうわけですよね。表向きは逮捕ですけれど、捕まったらそのまま、なぶり殺されるだけ。連座大好きな帝国ですのでアンネローゼにも被害が及びます……ラインハルトさん、お姉さまを守るために武力使用。クーデター発生……ああああ!
疑わしきは罰するのが帝国。
ここで行動に移さなくては、事態は悲惨なものになる。これも運命だと覚悟を決めて拷問されるのは彼女とて嫌である。
側にいてくれる人々、そしてカザリンの身を守るためにも、皇妃になるしかないと、かなり嫌々ながら覚悟を決めた。
**********
邸に戻った彼女は着替えもせず、オーベルシュタインに、美術館での出来事を語り ―― もちろん、彼はすでに報告を受けていたが ―― 国家反逆罪で捕まる前に、ラインハルトを即位させてしまいたいと、思いの丈を語った所、時機ではないと返された。
「身を守るためにも、皇妃になろうと思うのですが」
「いまはまだ、公が即位する時機ではありません」
現在ラインハルトが皇帝となった場合、最も不利益を被るのは彼女である。むろん、彼女が皇妃になりたいと言うのならば、オーベルシュタインは止めはしないが、身の安全の確保が先決。
「公爵には、なにが足りないのですか?」
なんの目的でこのような噂が跋扈し、世論を誘導するのか。それらに関する情報が、不足していた。
「根本的に全て”あと少し”足りない状況です」
「そうなの」
何が足りないのか気にはなったが、それに時間を費やしている状況でもなければ、彼女は自分ががそれを知ったところで無駄だと分かっているので、話を進めることに。
「現在、ジークリンデさまがフリードリヒ四世の孫であるという噂の出所、目的について調査を続けております。私の不甲斐なさから、お心を悩ませ、非常に申し訳なく、弁解の余地もありません」
「大丈夫ですけれど……私は逮捕されないの?」
「はい。それに関してはご安心ください」
反逆罪が適応されないのであれば……と、彼女は自分が「カイザーリン」と呼ばれる奇妙な状況を耐えることにした。
「私に向かって、カイザーリンと叫んだ者たちは?」
「逮捕はしておりませんが」
「逮捕はしないで欲しいわ」
「畏まりました」
あとは無知と善意と無責任の塊である彼らに、罪が及ばぬよう指示を出す。それは優しさというよりは、無知に対する慈悲である。彼らはあの歓声によりなにが起こるかなど分かっていない。
「それで、話とはなんですか? オーベルシュタイン」
オーベルシュタインは彼女に、シェーンコップを皇太子リヒャルトの落胤に仕立て上げるための、許可を求めにやって来たのだ。
「留まることを知らぬ噂を抑えるために、ダミーを用意いたします」
かつては彼女の一門の端にいた一族。彼をリヒャルトの落胤とするには、彼女の協力が不可欠であり、同意はそれ以上に必要であった。
「ダミーとは?」
彼女は机に両肘をつき、指を組んで顎を乗せるようにして、正面に立っているオーベルシュタインを見つめる。
「とある人物を、オトフリート五世の子、リヒャルト皇太子の落胤に仕立て上げます」
「誰を仕立て上げたとしても、門閥貴族を欺しきれるとは思いませんが。それで、誰を仕立て上げるのですか? 」
弟に陥れられ死を賜り、死後名誉を回復したリヒャルト皇太子。彼に関して、ルートヴィッヒ皇太子とは別の感情で、そっとしておきたいと彼女は思う。だが、死に至る経緯から、彼の関係者の多くが処刑され、真実を知る者が数少ないのも事実であり、嘘を突き通すには丁度良い立場でもあった。
「ワルター・フォン・シェーンコップ」
彼女は当たり前のことだが、自分の顔見知りの帝国人だろうと考えていたので、その名を聞いても、すぐに誰なのか分からなかった。
覚えているワルターという名の貴族を、何人か思い浮かべ、その誰もがシェーンコップではないと理解してから、ローゼンリッターのシェーンコップのことを言っているのだと気付く。
―― あれ、たしか……原作では、リューネブルクが皇帝の隠し子だと噂されて、そのまま自滅していったような。シェーンコップ? シェーンコップ逆亡命でもしてきたの?
シェーンコップが捕虜になるという図式がなかった彼女はオーベルシュタインに、なぜ唐突にシェーンコップにその役を振ったのか? を尋ねる。
先日のイゼルローン要塞攻略戦で捕虜となり、オーディンに護送されていると聞き、
―― あの男でも、そういうこと、あるんですねー
原作でシェーンコップが死んだと聞いた時のキャゼルヌと、よく似た気持ちに包まれた。
「そう……まあ、分かりました。私になにかできることは、あるのかしら?」
”得意とする者に任せる”それが彼女の主義。権謀術数絡みなど、彼女の手に負えることではないので、全面的に得意であろうオーベルシュタインに任せ、彼にできないこと ―― 豊富な資金力と、皇族の立場を使って進めたいところはあるのか? 彼女は、先ほどから表情を変えず、声も大きくはないが揺るぎなく、責任を負う覚悟があることが聞いて取れる声の主を見つめた。
「ございます。ジークリンデさまにしか、できないことが」
オーベルシュタインは胸元に手を置き、会釈をしたままの角度を保ち、彼女にしかできない頼みごとをする。
「なにかしら?」
「ワルター・フォン・シェーンコップを従わせてください」
「……私が? ですか」
「はい」
やや俯いているため、彼女はオーベルシュタインの表情をはっきりとは見ることはできなかった。
―― あんな癖の強そうなのを、従わせろというの、オーベルシュタイン……なんの罰ゲーム! それとも、あれ? あれですか! 主としての力量を見せろ! いや推し量ってやるとか? そういうの?
あまりにも唐突な頼みごとに、彼女はかなり慌てた。
「その男は、たしかに過去には我が一門に属しており、私はその一門の現当主。ですが一度帝国を捨てた男に、当主が従えと命じたところで……」
シェーンコップはキャラクターとしては好きだが、従わせるとなると違う。シェーンコップの性格に合う受け答えができて、彼のジョークに上手く切り返すことができ、しっかりとした性格で ―― などと、彼女は難しく考えていたのだが、
「お姿を見せる許可をいただきたいのです。それだけで、彼は従います」
彼女の最大の武器はその美貌。
「え? ……それで、従うの?」
彼女は組んでいた指を解き、背もたれに体を押しつけるようにし「貴方まで、そんなことを言い出すのですか、オーベルシュタイン」と。
容姿だけで人をひれ伏せさせることができると言われたのは、これが初めてではない。リヒテンラーデ公にも、そしてフェルナーにもよく言われていたが、彼女はあまり信じていなかった。
「間違いなく。誓約の後、ジークリンデさまの御前に連れて行くと条件を出せば、拒否することなど不可能にございます」
そんな彼女の心中の動揺を読み取っているのか、それとも無視しているのか? 側に控えているキスリングにも分からないが、オーベルシュタインの口調に淀みも迷いもなかった。
―― 私はシェーンコップの好みではないと思うのですが……見た目だけなら……見た目しかないとも言いますけれど……
彼女はあることを思いつき、解いていた手を軽く打った。
キスリングは生き生きし始めた彼女の横顔を、優しく見守る。これがフェルナーやファーレンハイトならば「またロクでもないことを、考えていらっしゃるのだろう。まあ、なにをしたいと言われても、構いはしませんが」位は思うのだが。
「分かりました。ではオーベルシュタイン、まず聞きたいのですけれど、どこでその男に私の姿を見せるつもりですか?」
「できれば、こちらで」
シェーンコップの身柄を移したのは、外部に動きを悟られないようにするため。彼女の邸に軍隊を伴い出入りしても誰も怪しまないファーレンハイトならば、逃走防止用の部隊と共にシェーンコップを邸に連れてくることができる。
「分かりました」
彼女は椅子から立ち上がり、ドレスの裾を摘まみオーベルシュタインへと近づく。
「オーベルシュタイン、一緒にいらっしゃい」
「どこへでございましょうか?」
「衣装部屋よ。その男に姿を見せる時の洋服を、一緒に選んで」
オーベルシュタインの軍服の裾を掴み”くいくい”と引っ張る。
その力の入れ具合、強すぎず弱すぎず。
ファーレンハイトやフェルナー、シューマッハやシュトライトに頼みごとをするとき、彼女は裾を、まさに甘えるように引っ張り、扇子で口元を隠さず笑顔 ――
「私などではなく、他の方にお聞き下さい」
その容姿でシェーンコップを落とせると断言した当人が、その威力を目の当たりにして慌てふためく。
「シェーンコップは元帝国貴族で軍人、年も貴方と近いのだから、趣味がもっとも近いでしょう」
オーベルシュタインは帝国歴四五二年生まれ。シェーンコップはというと、帝国歴四五五年生まれ。
年齢は近いと言える範囲で、出自は似たようなもの。先天性の疾患と、亡命者という、種別は違えど長年差別を受けてきた ―― とはいえ、オーベルシュタインとシェーンコップが似ているなどと考える人はいないだろう。
彼女自身、オーベルシュタインの趣味とシェーンコップの趣味は、違うだろうと思っているが、彼女はまだシェーンコップのことは名しか知らない「ことになっている」ので、似たところを見つけた場合、素直に”似ているわよね”と言うのが無難である。
なにより彼女の目的は別のところ。
「年齢はファーレンハイト提督のほうが、近いですよ」
ファーレンハイトの生まれは帝国歴四五六年で、シェーンコップとは一歳違い。
「いま、オーディンにいませんから」
いつの間にやらドアを開けて待機しているキスリングのほうを向き、彼女はもう一度、手袋に隠されている細く華奢な指で、軍服の裾を引っ張る。
「お供させていただきます」
オーベルシュタインは彼女に連れられ、衣装部屋へ。
衣装部屋はその名の通り、ハンガーラックが並び、そこに均等な間隔でドレスが吊り下げられている。
高価なものになると ―― 彼女が着用するドレスは、どれも高価だが、特に高価で正式な場面で使われる物は、一着一着マネキンにかけられていた。
彼女が袖を通していないドレスは「これ、本当に着られるのか?」と疑いたくなるほど、腕は細く腰も細い。胸は人並みにある……とされている。
とにもかくにも華やかなその部屋で、彼女はまずオーベルシュタインに”当人の趣味”を尋ねた。
「オーベルシュタインは、どのドレスを着た私が好き?」
「何を着られても、お似合いですが……」
気に入った物を持って来てと言われたオーベルシュタインは、真面目に、そして言われた通り自分の好みのドレスを数着選びだし、彼女の前に運ばれていた空のハンガーラックにかけた。
―― アメリカンスリーブで首元から胸にかけてレース地のマーメイドラインドレスが、好きみたいですね
オーベルシュタイン自身、自分が選び並べたドレスを見て、口元を押さえて決まり悪そうに視線を逸らしたほど、好みが徹底していた。
彼女は公務を終えて帰宅してから、まだ着替えていなかったので、丁度良いとばかりに、オーベルシュタインが選んだドレスの中から一着選び、小物について指示を出し隣室へ。
着替えて、ドレスに合ったメイクをし直し、並べられた小物や宝飾類をざっと見て、このドレスに似合いつつも、オーベルシュタインが好みそうなものを選び身につける。
オープンフィンガーの手袋、手の甲には花形のブローチ。指にはプラチナのリング。
ドレスのデザインは上記のもので、色はマゼンダ。裾には幅のある刺繍。図案は苺だが、実はデザインにはなく、葉と蔦と花のみで、色も単色ゆえ、落ち着いた雰囲気がある。
揃いの顔の半分が隠れる程度の長さのベールが付いた帽子を持ち、彼女は衣装部屋へと戻ってきた。
「どうかしら?」
彼女は帽子片手に、回ってみせる。
「とてもよくお似合いですが、私の趣味ではなく……」
どのドレスも彼女の体型に合わせてつくられているので、ボディラインが美しく出るのは当然だが、細く、だが柔らかく女性的で優美な曲線は、華奢でありながら見る者を圧倒する。
彼女はオーベルシュタインに手招きしながら、衣装部屋から廊下へと出てる。
大きな窓に手を軽く乗せ、窓ガラスに映るオーベルシュタインの表情を見つめながら、彼女は本題を切り出した。
「オーベルシュタイン。貴方はその男を、何時頃連れて来るつもり」
「ジークリンデさまのご都合の良い時間に」
「私はいつでも構わないは。望みのシチュエーションを言って」
「望みとは?」
「私はこれでも、ブラウンシュヴァイク公爵夫人になるかもしれなかった女です。公爵夫人としてこの邸を守り、人々を招き感嘆の声を上げさせる催し物の総指揮を執る可能性もありました。これは、公爵夫人になったからと言ってすぐにできるものではないので、男爵夫人のころから、さまざまな準備と勉強を続けておりました。この邸にその男を連れてくるのならば、季節も時間も問いません。その時に合わせた、最高の演出を約束するわ」
武器である容姿を、更に効果的に見せる演出も心得ている。
「オーベルシュタイン、貴方はどのようなシチュエーションが好きなのかしら?」
彼女が、先ほど手を叩き思いついたこと。
「私でございますか?」
「そうよ」
「私ではなく、シェーンコップという男を」
「その男が私に従うかどうか? 私にとってはどうでもいいわ。貴方の言うことを信じていないわけではありませんが、その男が従わなかったとしても、貴方のことです対処策はあるのでしょう。その替えが効く男より、私は貴方の心を奪ってみたい。貴方がそれほど言ってくれるのなら、きっと貴方の心も奪えるはずよね、パウル」
オーベルシュタインがそこまで言うのならば、彼自身を完全に従わせることができるのだろうかと、彼女はゆっくりとオーベルシュタインに振り返る。
口紅が塗り直され艶めかしい、形の良い唇が優雅に笑い、形の良い瞳がオーベルシュタインを捕らえる。
「私は悪い女なので、返すつもりはありません。もっとも私が気付かぬうちに、貴方の元に帰っている可能性もありますけれど」