黒絹の皇妃   作:朱緒

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第187話

―― 良い天気ねえ

 

 国務省書として執務机につき、彼女は外を眺めていた。

 執務室にはオーベルシュタインが一人。

 

「失礼します」

 

 ドアをノックし現れたのは従卒のエミール・フォン・ゼッレ。

 

「炭酸水をお持ちいたしました」

 

 氷入りのグラスと炭酸水が入っている瓶を乗せたトレイを持ち、彼女の側へとやってきて給仕をする。

 

―― まさか、エミールが私の従卒になるとは、思いもしませんでした

 

 緊張した面持ちで炭酸水を注いでいるエミール。

 彼が配属になったと聞いた時、彼女は当たり前だが驚いたものの、キルヒアイスが生きており、アンネローゼも山荘に引きこもっていないので、身の回りの世話をする人物に困っていないのだろうと自らを納得させ、彼を従卒として迎えた。

 エミールの実家はオーディンの首都にあるので、自宅から通っても良いと言ったものの、従卒を務めると決めたからには、しっかりと務めたいと希望され、通常の従卒とほぼ同じように扱うことにした。

 

「どうぞ」

「ありがとう」

 

 グラスに炭酸水を注ぎ終えたエミールが、ストローを丁重に差し、空になったトレイを持ち、ドアで礼をして執務室を出てゆく。

 彼女はストローを指で挟み、少量口に含む。

 

「グリンメルスハウゼン子爵の遺言状の開示は今日でしたよね、オーベルシュタイン」

「はい」

 

―― ケスラーに遺産を残すとは思えないのですが……金銭的なものでしたら辞退させ、私が同額を渡しましょう

 

 弁護士が立ち会いを希望していると聞き、彼女はグリンメルスハウゼン子爵の親族について調査をさせた ―― 彼女が命じる前に、全て調査は終わっていたが、その辺りを彼らはおくびにも出さず、少し時間をあけてから報告する。

 報告書に目を通した彼女が頭痛を覚え、見なければ良かったと後悔するほど、飲む打つ買うに借金という、典型的な駄目門閥貴族の縁者。

 彼らならば一帝国マルクも平民のケスラーには支払いたくないだろうし、ケスラーが受け取ったら殺しかねないと思わせるほど。

 

 エミールが運んできた炭酸水を飲み終えた彼女は、オーベルシュタインとキスリングを伴い、グリンメルスハウゼン邸へと向かった。

 

 邸にはすでに人が揃っており、彼女が最後の一人であった。

 

―― 部外者なにの、待たせなくてはならないのが……本当は私だって、予定の刻限よりも前に来たいのですよ! でも……

 

 かといって彼女が一番に来てもおかしく、時間通りにやってきても、やはりおかしい。

 彼女はソファーは用意されていても、誰も座っていないホールに、最後にやってきて、背もたれがひときわ大きい、一人がけの椅子に腰を下ろし、手のひらに扇子を打ち付けて、彼らに座るよう促す存在ではなくてはならない。

 彼女の扇子の音を聞き、親族たちはソファーに、ケスラーと弁護士は立ったまま。

 護衛のキスリングやオーベルシュタインは、彼女の両サイドに。

 

「リヒャルト老からは、フリードリヒ四世陛下にまつわる、面白い話をたくさん聞かせてもらったものだわ。今日も面白い話を聞けるといいのですけれど」

 

 彼女はグリンメルスハウゼン子爵の遺言など、まったく興味はないのだが、まさかケスラーの為にやってきたとは言えないので、自分が興味を持ったという形を取ることにした。

 彼女が弁護士を見つめ ―― 空白の後、正気を取り戻した弁護士が鞄を開けて、遺言状を取り出す。

 

 グリンメルスハウゼン子爵は子爵家の三男で、上の二人が戦死したので子爵家を継いだ ―― 上の二人は妻帯者ではあったが、子を儲けてはいなかった。

 ここに集まっている親族は、子爵の父親の弟妹の子や孫たち。本流ではないが、充分に爵位を継ぐことができる血筋の者であった。

 

 弁護士は親族宛の遺言が開かれていないことを、親族たちに確認させてから封を切り、内容を読み上げた。

 

「グリンメルスハウゼン子爵家の爵位、及び全財産は、一切の例外なく帝室に返却する」

 

―― ……あーあ

 

 ある女性は貧血を起こして倒れ、ある男性は怒りに顔を赤くして怒鳴り出す。彼女はその有様を前に、なんとも言えない気持ちになり、口元を開いた扇子で隠す。

 弁護士は当然ながら慣れているので、気にすることなく、次にケスラー宛ての遺言を取り出し、キスリングに差し出した。

 

「開封されていないこと、大公妃殿下にご確認いただきたい」

 

 遺言はフェザーンがなにか仕込んでいる可能性もあるので、前日のうちにあらゆる調査を終え、ここに彼らが運んできたほど管理を徹底していた。

 受け取ったキスリングは、親族たちの視線を受けつつ、上下を返し確認したポーズだけを取り彼女へと差し出した。

 彼女は扇子を膝の上に置き、遺言の封を淡い紫色の手袋で覆われている指先でなぞり、キスリングへと返す。

 

―― 換金できる財産ではないようですが……なんでしょう?

 

 弁護士が封を開け、騒いでいた親族たちは弁護士の手元を凝視する。

 

[ケスラー大佐。これが読まれている頃には、少将にでもなっておるかな? それとも、その性格が災いして、大佐のままかのう。まあ、儂には分からぬが ――]

 

 封筒の中身はケスラーへの頼み事が認められた手紙と、それに対する報酬としての推薦状。

 その依頼なのだが、

 

[卿は若い頃、フライリヒラート伯爵閣下グントラム殿のご令嬢の護衛を務めたことがあったそうじゃな。実は儂の頼み事とはそのご令嬢ジークリンデ殿に、是非とも頼みたいことがあってな――]

 

 彼女へグリンメルスハウゼン子爵の頼み事を伝えて欲しいというものであった。

 頼み事に至るまで、かの老人らしいと言うべき、話の寄り道、逸脱が続く。

 

[……というわけじゃ。陛下にお頼みすれば、取り次いでもらえるのじゃが、それでは少々面白みにかけるからのう。頼んだぞ、ケスラー大佐]

 

―― どういう……ことなの……

 

 聞き終わった彼女は、内容に愕然としていた。むろん、それは表情には出さず、

 

「臨席して良かったわ。ウルリッヒ、リヒャルト老からの最後の褒美、ありがたく受けなさい。オーベルシュタイン、ここに残って手続きの手伝いをなさい」

「畏まりました」

 

 遺産を得ることができず、呆然としている親族を残して邸を後にした。

 地上車に乗り込んだ彼女は、

 

「キスリング、ファーレンハイトに、軍務省の庶務課に大至急来るよう伝えて」

 

 事情を知っているかもしれない、ファーレンハイトを呼びだした。

 

 グリンメルスハウゼン子爵がケスラーに依頼したのは「墓参り」

 子爵は若いころ、第二次ティアマト会戦に従軍しており、その際、とある下級貴族の士官に命を救ってもらったことがあった。

 その人物は子爵を救ったことで、命を落としてしまい ―― 彼がその家の最後の一人で、係累がいないので、子爵は恩返しとしてその墓をずっと守ってきたのだが、それも、もうじきできなくなる。

 自分亡き後、墓の管理を頼みたいのだが、財産を全て帝室に返還するので、親族を頼ることはできない。そこで誰かに片手間で良いので、依頼したいと考え、帝国の門閥貴族を見回し、フレーゲル男爵夫人ジークリンデならば、頼みを聞いてくれそうだと考えた ―― 子爵の回顧録じみた遺言にはそう書かれていた。

 

 ここまでの下りは、子爵の親族も不思議には思わなかった。彼女ならば、子爵の頼みを聞き、人を派遣して毎月墓を掃除させ、年に一度くらいは足を運ぶであろうと。

 彼女としてもそれだけであれば、驚かなかったし、墓を守るのも構わなかったのだが、

 

[この遺言が開かれる時には、ブラウンシュヴァイク公爵夫人になっておるかも知れぬが、きっと令嬢ならば卿に会ってくれるであろう。儂と違って賢いお方ゆえ、卿のことは覚えていらっしゃるはずだ]

 

 この文章に、彼女は内心首を傾げた。

 なぜ子爵は、ケスラーと彼女に面識があることを知っていたのか?

 父親が子爵にわざわざ「娘が五歳の頃、平民の男性を気に入っていた」と語るとは到底思えない。娘が結婚前も、結婚後も語るに相応しくない内容。

 

 ケスラーを抜擢した際に、彼の経歴を調べたとしても、それは掲載されてはいない。

 となれば、行き着く答えは子爵は、彼女の身辺を探ったことになる。

 たしかに彼女が生きてきた世界は、門閥貴族の令嬢としては大きいが、普通の人間としてみれば世界は小さく、とくに軍人で接することができる者は数少ないので、調べることは可能。

 だが、墓参りを依頼するのに、そこまで調べる必要があるのか? となる。

 その答えが出ないうちに、まさに爆弾が投下されると表現するのが相応しい内容へと繋がった。

 

[その人物の名はJ.V.D。軍務省の庶務課へと行けば、墓の場所が分かるようになっておる。庶務課に行く際は、ケスラー大佐は同行せんでも良かろう。A.V.Fは知っておるであろうからな]

 

 A.V.F。このイニシャルと彼女となれば、誰もがアーダルベルト・フォン・ファーレンハイトを思い浮かべるがJ.V.Dと組み合わさった時、このイニシャルは別の名を意味する ―― アウレーリア・フォン・ファーレンホルスト、本名ジークリンデ・フォン・オラニエンブルク、彼女である。

 

―― なぜファーレンハイトに託さなかったのかしら?

 

 ひなたぼっこ提督などと呼ばれていた子爵だが、軍人であり艦隊を率いる提督でもあった。ファーレンハイトに接触する機会は何度もあったはず。なにより、ケスラーを通して彼女に届けるより、確実性が高い。だが子爵はその方法を選ばなかった。

 

 ”A.V.Fは知っておるであろうからな”

 

 そしてこの文面。

 知らない者は、当然ファーレンハイトは庶務課にJ.V.Dを照会する方法を知っていると捉えるのだが、J.V.Dが彼女の想像する通り皇太子であるのなら、墓の場所は分かるし、参ることもできる。

 

 だが子爵が墓参りを依頼する理由は、まったく分からず。

 

―― どうしてケスラーに

 

 地上車が軍務省に到着すると、彼女は鏡で自分の表情を確認し、深呼吸をしてから降車した。

 

―― うん、先に言ってちょうだい、キスリングにフェルナー

 

 彼女は貴賓室に通されると、先に到着していたフェルナーが、野菜たっぷりの塩ケーキを皿に並べ、お茶を淹れだした。

 

「食べながらお待ちください」

 

 フェルナーが入れたキーマンを飲み、事情を聞くと、ファーレンハイトはオーディンから少々離れた所にいたことが判明。

 

「いま、大急ぎでワープしてますので、もう少しお待ちくださいね」

 

―― たしかに、所用で一週間ほど戻れませんとは言っていました! 言っていました……宇宙にいるなんて、思わなかったのよ……本職なのだから、艦隊を率いて宇宙にいても、なんら不思議ではありませんが

 

 彼らは彼女の予定を完璧に押さえているが、高貴な方は下々の予定など知らないのは当然のことなので、彼女は彼らの予定は知らない。

 

「それで、ファーレンハイトから連絡を受けて、あなたが大急ぎでやってきたのね、フェルナー」

「はい」

 

 彼女は薔薇の模様が美しい、塩ケーキが乗った皿を手に持ち、一口食べてから、改めて聞いたことはなかった気がしたので、給仕よろしく立っているフェルナーに尋ねた。

 

「ねえ、フェルナー。あなたJ.V.Dについて、話は聞いているのかしら?」

「最近聞きました。二人とも、余計なことは言わないタイプでしたので、なかなか聞く機会がなくて」

「そうですか」

 

―― フェルナーが知っているのなら、フェルナーを連れて庶務課でも良さそうですが……遺言にA.V.Fと書かれていましたから、念には念を入れてファーレンハイトを……オーディンにいないのなら、別の日でも……いまさら、帰ってこなくていいとも言えませんし。みんなのスケジュールを把握する者を……フェルデベルト? 戻ってきてもらおうかしら

 

 彼女はフェルナーに子爵の遺言を渡すよう、キスリングに指示を出す。

 

 ハムにトマトに茄子が刻んで混ぜ込まれている、丁度良い塩味のパウンド型のケーキを、再び口に運ぶ。

 彼女が二切れ目の半分ほど食べた辺りで、ファーレンハイトはオーディンに到着し、二杯目の紅茶を飲み終えたところで、息を切らせて貴賓室へとやって来て跪き頭を下げた。

 

「お待たせして、申し訳ございません」

 

―― 悪いのは私なのですけれど……

 

「悪いと思っているのでしたら、頭を上げなさい。フェルナー、先ほどの遺言をファーレンハイトに」

 

 遺言を受け取ったファーレンハイトは、跪いたまま読み、顔を上げる。

 

「読み終わりましたか?」

「はい」

「では庶務にいきますよ」

「ジークリンデさまは、ここでお待ち下さい。私が行って参ります」

 

 彼女に足を運ばせる必要はないのは確かだが、それでは今まで貴賓室で彼女が待っていた意味もない。

 

「座ってるの、飽きました」

 

 それと、ファーレンハイトが到着するまで、彼女なりに子爵の遺言について考え「子爵はファーレンハイトやフェルナーが、握り潰してしまうことを警戒し、ケスラーに依頼したのではないか」と仮説を組み立ててみた。

 この二人は子爵にとっても、接触しやすいが、間にリヒテンラーデ公が必ず入り遺言を先に読む可能性が高く、場合によっては遺言がなかったことにされる恐れがある。

 

―― 大伯父上が握り潰しかねない内容だと思うと、気が重くなりますが……J.V.Dの時点で逃げたい気持ちでいっぱいですが

 

「申し訳ございません。ですが……」

 

 再度彼女をここに留めようとするファーレンハイトに、彼女は小首を傾げるようにし、指を組み、美しい瞳で見つめ ―― 彼女はファーレンハイトを連れて、庶務課へ行くことになった。

 

「提督、甘いですね」

「自覚はある」

 

 キスリングにそのように言われたファーレンハイトだが、まったく悪びれてはいなかった。

 庶務課にやってきた彼女は、またもや応接ソファーを勧められ、仕方なく座る。

 そして責任者の中将に、遺言の該当部分を見せ、

 

「第二次ティアマト会戦に従軍していたJ.V.Dについて、全ての情報を出せ」

 

 ファーレンハイトと中将のやり取りを、微笑みを絶やさず眺めていた。

 職員が一斉に半世紀以上昔の、歴史的大損害を受けた会戦の戦死者について調査を開始し ―― 三十分後、省内全ての情報にアクセスした結果が、彼女に提出された。

 

 受け取った彼女は、貴族には珍しい感謝を口にし労をねぎらって、墓地へと向かう。

 J.V.Dについてだが、庶務課にだけ記録が残っていた。

 

「職員に聞きましたが、ある日突然やってきて、言い出したそうです」

 

 八年ほど前に、グリンメルスハウゼン子爵が突然、庶務課へやってきて、第二次ティアマト会戦の戦死者名簿にJ.V.Dことユリアーヌス・フォン・デーニッツの名が載っていないと言い出したのだという。

 職員だけではなく、お供の部下も「グリンメルス、呆けてるんじゃないのか」とは思ったが、相手はフリードリヒ四世の侍従武官まで務めた門閥貴族ゆえ、無下にするわけにはいかず、当時の責任者がお供の部下と話し合い、子爵の言う通りに、戦死者名簿に載せ、戦没者墓地に墓を作ることにした。

 名簿はデータに手を加えるだけ、墓を作る予算は子爵が出すと言い、金銭的な問題が発生しなかったことで、すんなりと決まった。

 子爵は墓石に、とある文を刻むように指示を出し、彼らは子爵の指示通りの墓を作った。

 

 遺言を見せられた中将は、戦没者墓地に埋葬されているのだから、彼女が管理する必要はないと ―― 遺言を書いた辺りには、もう呆けていたのだろうと、誰もがそう考え、死後迷惑をかけられている彼女に、心から「ご苦労様です」と思ったのだが、彼女自身にとってはそうではなかった。

 

 時刻はすでに、辺りの景色が色を失いつつある黄昏時。見渡す限り、遺体のない墓が規則正しく並ぶ墓地にたどり着き、キスリングが銃と懐中電灯を持ち足下を照らしJ.V.Dの墓を目指す。

 飾り気のない四角い墓石。それは左右前後、どの墓とも同じであったが、

 墓石にはユリアーヌス・”ルートヴィヒ”・フォン・デーニッツという名。年は省かれた十二月五日という日付。第二次ティアマト会戦が行われていた日付ではあるが、皇太子が処刑された日でもある。そして、

 

 【私はバラが嫌いだ 父がこよなく愛しているからだ】

 

 覚えのある文が刻み込まれていた。だが文は「私はバラが――」だけではなく、続きがあった。

 

 【棺の中で微睡み あなたを待っている 会いに来てくれ 我が愛しき S.V.G】

 

 第二次ティアマト会戦で戦死し、数年前に建て直したばかりの墓。それは墓石だけで、棺などはない。

 子爵は彼の死後、彼女がここへとやってきて、この文章を読むように手を尽くしていた。よってSはジークリンデ、Vはフォンと考えるのが妥当。ならば最後のGはなにか?

 

「グリンメルスハウゼンという訳ではなさそうですね……あの老人は、どこまで知っていたのでしょう。そして、私に何をさせるつもりなのかしら」

 

 誰もがまっさきに思い浮かべるのはゴールデンバウム。

 彼女は墓石を見下ろし呟いた。

 


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