黒絹の皇妃   作:朱緒

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第186話

 彼女は真面目に仕事をしているが、全ての案件が彼女の元へと上がってくるわけではない。

 中には彼女に読ませる必要がないものや、目に触れさせないで処理したほうが良いと、オーベルシュタインが代理でサインをする案件もある。

 

 その日彼女はキスリングを伴い、帝国美術館へと足を運び芸術品の数々を見て回った。このような場所に彼女が足を運ぶと、館長との面会が付随するのが常で、今回もいつも通り館長室で会話をした。

 

―― お金欲しいのは分かりますが、それは学芸省に言ってください。他の省に口だしするのは、嫌なんですよ……

 

 帝国も長引く戦争で、軍事費がかさみ、それ以外に回される予算は年々減っており、その窮乏を切々と訴えられても、彼女としては困るのだ。

 

「寄付するのは簡単ですけれど、まずは省庁に掛け合って欲しいものです」

 

 少しばかり歩きたかったので、美術館を出てから、あまり人気のない道路を散策しながら、彼女はキスリングに話し掛ける。

 

「そうで……」

 

 彼女の呟きに答えようとしたキスリングだが、何者かが近づいてくるのに気付き、それを一撃の元に地に這わせた。

 彼の号令で近くに控えていた衛兵が現れ、彼女は地上車に乗せられ、護衛車に守られ帰途に就く。

 

―― 私の部下はクブルスリーの護衛と違って、怪我する前に止めてくれました……

 

 まさに電光石火の早業で、彼女は地上車のフロントガラスに邸が現れるまで、頭が働かず、何が起こったのか分からなかったほど。

 彼女は貴族の子女としては、もっとも襲撃されているといっても、誰も異議を唱えない。彼女自身も、そうは思っているのだが、慣れることはなかった。

 大きな音が響けば驚くし、銃声が鳴れば体が硬直する。

 

「あれ、でもあの人……」

 

 停止していた思考が動き出すと、彼女は襲撃者の男性が誰であるかを思い出した。

 

―― クリューガーだとしたら……クブルスリーは仕方ないわよね、相手が首席卒業した軍人フォークだったんですから

 

 帰宅後、彼女は襲撃者の名を聞き、会うことにした。

 彼の名はヴァルデマール・クリューガー。

 

「なぜ私を襲おうとしたのですか? クリューガー」

 

 普段はかなり厚めの化粧をしている男性。

 

「殿下を襲うなど! 恐怖させてしまったのでしたらば、謝罪の言葉もございません。ですがオーディンに誓って、危害を加えるつもりはありません!」

 

 張りのある大きく、それでいて澄んだ少年のような声が室内に響き渡る。

 そして彼、ヴァルデマール・クリューガーは苦境を彼女に訴え出た。

 

「カストラートが廃止ですか? 聞いていませんが」

 

 彼女は聞かされてはいなかったが、カストラートは廃止されることが閣議で正式に決まった。

 カストラートであるクリューガーの発言に、彼女は帝国演劇場の一ヶ月の予定表をフェルナーに求めた。

 

「味気のない端末ですが」

 

 彼女が演劇場に足を運ぶ際に、警備に必要な事柄の一つである事務的な予定表を前に置く。

 そこには通常であれば一ヶ月に五日ほどはあったカストラートの講演が、一つも無かった。

 

「いつの間に廃止が決まったのですか?」

「先日の閣議で」

 

 彼女は基本、閣議には出席しない。これは彼女だけではなく、他の尚書も代理を送ることが多い。特に彼女は、財政について語られても、何がなんだか分からないので、分かるオーベルシュタインを「しっかりと手続きを踏んで」送り出し、要点を教えてもらっていた。

 

「閣議に出ずとも、書類は上がってくるのでは?」

「パウルさんが代理で決裁しました」

「財政などの難しいことは、私には分かりませんが、芸術関係でしたら、ある程度は分かっているのよ」

 

 だが、できることは、できる範囲でこなしており、彼女が分かりそうな事柄であれば、彼らは彼女に回していた。

 カストラートの廃止などは、彼女でも理解できること。

 

「ジークリンデさまが芸術にお詳しいこと、このフェルナー、よく存じておりますし、他の尚書の方々も承知しておりましたが、書類にはジークリンデさまにお見せできない写真が幾つも添付されておりましたので」

 

 だが、どうしても彼らは彼女にこの案件に触れて欲しくはなかった。

 

「私に見せられない写真?」

 

 カストラートの廃止は、帝国が人権に目覚めたというものではなく、男性が足りない帝国の現状が理由であった。

 カストラートはボーイ・ソプラノを維持するために去勢された男性のこと。

 このカストラートが再登場した当時の帝国は、人口が3000億を越えていたので問題はなかったが、戦争が始まり、慢性的になり男性が戦死しし続け、男女の人口比が歪になり、人口減の一途を辿っている現状を鑑みると、まったく現実に即していないもの。

 健康な男児の睾丸を切除して、子供を作れないようにするなど ―― 廃止するに際し、フェザーンにて機能回復手術を行うこと、それらの費用を全て国家が負担することにもなっていた。

 

 彼女に尋ねられたフェルナーは、この上なく嫌そうな表情を浮かべ、両手両足を拘束され、キスリングの腰ベルトに繋がれているクリューガーを一瞥してから、心底嫌だという意思が伝わるため息を吐き出して、

 

「機能再建手術の写真が幾つも添付されていたのです」

 

 言葉を選び、具体的な名称を避けて彼女に伝えた。

 カストラート廃止だけならば、彼女の元にも届いたのだが、再建手術が込みだったため、参考資料として局部の手術写真という、男性にもダメージのある写真が添付されていたのだ。

 

「再建手術ってこ……」

 

―― 睾丸はアウトでした

 

 彼女がこの種の単語を口にするのをフェルナーが極端に嫌うことは、過去に習得済み。そしてカストラートが睾丸切除されているのも彼女は知っている。

 

「…………まあ、手術の写真は、私も見たくはありませんので、仕方ありませんね。カストラートが廃止されたのは分かりましたが、私にはなにもできませんよクリューガー……そうは言っても、幼少期からカストラートとして生きてきた貴方たちに、今更違う生き方をしろと言っても。フェルナー、カストラート廃止に関する書類を。再建手術については必要ありません」

 

 クリューガーを軟禁しておくよう命じ、彼女はカストラートについて想いを馳せる。

 

―― どうしてルドルフはカストラートを復活させたのでしょう。男性からその機能を奪うような存在を復活させるなど。大体、ルドルフの好みではないでしょうに

 

 ルドルフは大雑把に言えば、知的であると有権者に思わせるために、芸術は好きだというポーズを取ってはいたが、実際は疎かったし興味もなかった。そんな彼が、なぜわざわざカストラートなどを復活させたのか?

 

―― 一般的に皇后エリザベートの希望で……と言われていますが、許可を出したのはルドルフなのよねえ

 

 そんなことを考えているとフェルナーが「書類です」と、書類と共にオーベルシュタインを連れてやってきた。

 

「分からないことがありましたら聞きますから、それまで退屈でしょうが、そこで立っていて」

「退屈など滅相もございません」

 

 彼女の顔を見ていられるのだから、オーベルシュタインとしては退屈もなにもない。

 

「そう? まあ、貴方を退屈させるくらい、理解力があることが望ましいのですが……」

 

 書類は全て理解でき、対処法らしきものも思いついたので、オーベルシュタインに「これはどうかしら?」と尋ね、添削してもらい尚書の面々に個別で面談し、彼女の思い通りになった。

 

 カストラート廃止令は、新たなカストラートを作ることの、彼らを商用で歌わせることなどが禁止事項となっている。

 彼女としても新しいカストラートを作るのを禁止するのは同意できるが、今まで歌で生きてきた者たちから歌を奪うのはどうなのかと。

 またカストラートを復活させた者の子孫として、最後まで責任を取ろうと ――

 

 帝国全土でカストラートは約八千人。そのうちの半分は無理矢理カストラートにされたので、普通の人生に戻れるのならばと再建手術を受けることになった。

 残り四千人のうち、一千人ほどはまだ十代だったため、半強制的になったがカストラートを止めさせることにした。

 残った約三千人のカストラートを、彼女は奴隷として買い上げる。

 

「奴隷となれば、国家はなにも言えません」

 

 こうして彼らは彼女の所有物となった。

 そして彼女は領内にカストラート禁止令を施行するのは「最後のカストラートが死亡したら」と条件付きで猶予を得る。

 これで三千人のカストラートは、彼女が所有する領地内では歌で金を稼ぐことができるようになった。

 

「奴隷である以上、生産活動をしてもらわなければなりませんからね」

 

 カストラートをカストラートとして働かせる ―― 歌って金を稼がせるのだが、環境を整えてやる必要がある。

 

 彼女は軍の演習場を借り、野外円形劇場を作らせ、そこに著名人や没落していない門閥貴族を招き、彼らの歌を聴かせ、誰が最も優れているのかを投票させた。

 

 結果、二位が彼女に窮乏を訴えた新鋭のクリューガーで、一位はギルベルト・バーデという、今まさに円熟期にある、評判の高い歌い手であった。

 彼女はこの二名は自分の手元に置き、他の者たちは領地へと送る。

 

 これらと平行し、彼女はルビンスキーに話しを持ちかけた。

 

「久しぶりね、ルビンスキー」

『これは大公妃殿下、ご壮健でなによりです』

 

 不貞不貞しさに、磨きがかかったようだと彼女は感じたものの、そうではないルビンスキーなど……と思い直して、本題を語り始めた。

 彼女はカストラートに金を稼がせるため、フェザーンに「ツアー」を組ませることにした。

 滅びる奇跡の歌い手、聴けるのは今だけ ―― 銘打ち宣伝させ、人を呼ぶ。

 流行を作るのはフェザーンであり、それで儲けるのもフェザーン。

 

「どうかしら?」

『フェザーンが独占ですかな?』

「もちろん。本国では廃止されたものですから。カストラートの歌を聴きたくば、フェザーン経由で私の領地に行かなくてはならないのよ。ただの大金持ちなどは、私の邸にやってきてバーデとクリューガーの歌を聴くことはできません。懐古趣味や貴族趣味の金満家には売れそうよね」

 

 門閥貴族とそうではない者をあくまでも区別するために、最良の歌い手二名は彼女の手元に置かれ、サロンへと連れていき歌わせたり、知り合いを招いて邸のホールで歌わせたりと。あくまでも差別化を図る。

 

『悪くはありませんな。ですが、なぜその話を私に』

「褒美よ」

 

 滅び行くカストラートの歌を聴けるツアーは評判がよく、フェザーンに多大な利益をもたらす。

 

『なにに対しての褒美でしょうか?』

「それは、貴方自身が知っているでしょう」

 

 ヤンを排除したかどうか? 彼女は聞きもしなければ、状況も知らないが、ルビンスキーは笑みを浮かべた彼女が、全てを知っていると錯覚した。

 

『では、ありがたく』

「また私の役に立ちなさい、アドリアン・ルビンスキー」

 

 彼女はそう言い通信を切ろうとした ―― のだが、

 

『大公妃殿下。お時間のほど、宜しいでしょうか?』

 

 ルビンスキーが、もう少し話がしたいと食い下がってきた。

 

「なにかしら?」

『フェザーンに多大なる利をもたらして下さる大公妃殿下に、一つお知らせしておこうと思いまして』

「面白いこと?」

『面白くはございません。おそらく、大公妃殿下のような高潔な精神をお持ちのお方には、まるで興味のないことでしょう』

 

―― 高潔な精神って、なんですか……容姿を褒められるのもむず痒いですが、中身を褒められるのも痒いわあ

 

 ルビンスキーの阿諛追従に、すでに嫌な気分にはなっていたが、なにか重要な情報ならばと彼女は話すことにした。

 

「なにかしら?」

『大公妃殿下は、マールバッハ伯の母親の浮気相手をご存じですかな?』

「知りません」

 

―― これほど興味のないこともありません

 

 聞かなければ良かったと後悔していた彼女だが、名前を聞かされ驚きを隠すのに苦労した。

 

『カストラートのギルベルト・バーデにございます』

 

 カストラートはその性質上、性交渉をしても子供ができぬので、上流階級の夫人の浮気相手として重宝されていることは、彼女も知っている。

 

「それは……本当なのですか?」

『もちろん、信頼できる筋の情報です』

 

 ロイエンタールの母親が、頻繁に浮気相手と逢瀬を重ねていても、父親が気付かなかった ―― 下級貴族であった父親は、このような習慣に詳しくなく、お気に入りのカストラートと会っているというのを、額面通り受け取っていたのだと。

 

「情報源については聞きませんが、それだけですか?」

 

 彼女はギルベルト・バーデの姿を脳裏に思い浮かべた。彼は青い瞳を持っている。その青は、淡い青色のファーレンハイトや、アイスブルーのラインハルトとはまるで違うが、ロイエンタールとはどこか似通ったところがあった。

 

―― たしかに浮気していたら、愕然とはするでしょうね

 

『マールバッハ伯の父親は、息子が生まれても妻の浮気には気付かず、妻が息子の目を刳り抜こうとしても意味がわからず、愚鈍に妻を愛し続けましたが、ある日某子爵から妻がギルベルト・バーデと浮気していたと聞かされ、妻に問いただし激高の果て殺してしまったそうです。以降彼は酒に溺れることになったとか』

 

 自分の人生において、これほど必要のない情報もそうはないだろうと思いつつ聞いていた彼女だが「某子爵」のくだりが少しばかり気になった。

 

「……ロイエンタールは知っているのかしら?」

『父親が母親を殺害したことに関してはわかりませぬが、母親の浮気相手がギルベルト・バーデであったことは知っているようです』

「そうですか。貴重な情報ね。そうそう、あなたが帝国を訪れたら、邸に招待してあげてもいいわ。確約はしないけれど」

『ありがたき幸せ』

 

 彼女は通信を切ってから、録画していた今のやり取りを再生させる。

 

「ロイエンタールの母親の浮気相手がバーデとは、本当かしら?」

「フェザーンの自治領主が嘘をつく必要はないので、本当のこととみて宜しいのではないでしょうか」

 

 彼女に問われたフェルナーは、ルビンスキーのあからさまな挑発に、内心で舌打ちしつつ答える。

 

「そうねえ」

「カストラートと浮気するご婦人は珍しいものではありませんし、当時のバーデはまだ十六、七歳の新人。上流階級に自分を売り込むにしても、有名どころの夫人は当時隆盛を誇っていたカストラートに押さえられているのですから、金だけはあるロイエンタール卿の母親の相手をしていても、おかしくはありません」

 

―― ロイエンタールの母親が青い瞳を見て”間違いなくロイエンタールの子の筈なのに”と動揺していたのは、相手がカストラートだったから……納得はできますね

 

「ところで、某子爵とは誰だとおもいます?」

 

 ロイエンタールの父親にわざわざそのことを告げた人物。意地の悪さからなのか、ただの愉快犯なのか、それとも何か意味があってのことなのか?

 

「さあ、それは分かりません。自治領主の出任せかもしれませんしね」

 

 それが子爵であるとして ―― 他にも情報を持ち、フェザーンに流しているとしたら厄介なことになる。

 当人の意思かどうかも。

 このような貴族のゴシップに関して詳しい人物が、原作にもこの世界にも存在していことを思い出し、彼のことを探ってみようかと名を挙げた。

 

「グリンメルスハウゼン子爵ではないかしら?」

 

 グリンメルスハウゼン子爵は彼女が知っていてもおかしくはないので、そう不審には思われないだろうとの考えだったのだが、

 

「……」

 

 ”なんでうちの姫さま、ピンポイントで当てくるんだ”

 思い切り不審がられる以前に、勘の鋭さに絶句させることになった。

 

「どうしたの? フェルナー」

 

 単に貴族ゴシップと言えば、グリンメルスハウゼン子爵しか知らなかっただけのことで、勘など微塵も働いていないのだが ―― 他者にはそうは思えない。

 

「かれこれ三年もベッドの上で、延命措置をされているだけの子爵閣下が何を?」

「彼が書きためた文書があると思うの」

 

 つい先日、その文書の存在を突き止めたばかりの彼らとしては、どう答えていいものかと悩む。

 

「また突拍子もないことを仰いますね」

「調べてみてくれる?」

「もちろん調べてみます。そう言えば、ジークリンデさま、グリンメルスハウゼン子爵がケスラー総監に遺言を残したって知ってます?」

「知りませんけれど」

「遺言が開示される際には、ジークリンデさまのご同席を希望しているのですが」

「誰がですか?」

「グリンメルスハウゼン子爵の顧問弁護士、ザムエル・デングラーです。どうも、子爵の縁者が文句を言っていて、遺言がねじ曲げられてしまう恐れがあるのでと。いかがでしょう?」

「構いませんよ」

 

 彼女の元を辞したフェルナーは、オーベルシュタインに文書がルビンスキーの手元にあることを伝えた。

 

「やはりそうか」

 

 オーベルシュタインは子爵の親族が、どのようにして銀行の貸金庫に保管されている遺言の数と宛先を知ったのか、調査を行っていた。

 

 その結果、ほぼ明らかになったが、事態そのものは変わりようがなかった。

 まず、ことの始まりは、手癖の悪い召使い。

 召使いはある日主の書斎の机に乗っていた手帳を開いて盗み読み ―― 内容が門閥貴族のゴシップであることを知る。

 これを売れば一儲けできると考え、その相手にフェザーンを選んだ。

 本当かどうか、内容の一部を教えろとフェザーン側から言われ、召使いはある秘密をフェザーンに教えた。

 フェザーン側はその裏を取ることに成功し、その手帳を高値で買うことで契約が成立したのだが、その直後にグリンメルスハウゼン子爵が倒れ、デングラー弁護士が契約通りに、手帳も遺言と共に貸金庫へ預けてしまった。

 フェザーンはグリンメルスハウゼン子爵の遺産には興味は無いが、手帳には興味がある。

 召使いは手帳にも興味はあるが、それ以上に金に興味がある。

 親族は手帳の存在など知らず、遺産にだけ興味がある ―― 状況になった。

 

 フェザーンは当初、顧問弁護士のデングラーを買収しようとしたのだが、彼は金には一切揺るがず。

 そこで彼らは工作員をセキュリティ担当者として銀行へと送り込んだ。

 すぐに行動を起こしては怪しまれるので、三年ほどは大人しく過ごし、帰還時期が来ると貸金庫を開け手帳を手に入れ、遺言の数と宛先を調べ、フェザーンへと戻った。

 手帳を手に入れたフェザーンにとって、手帳の存在を知るデングラー弁護士は厄介者。グリンメルスハウゼン子爵が死亡し、貸金庫が開けられたら全てが露見してしまう。

 ということで、彼を殺害するために、子爵の親族を、手帳を売りに来た召使いを使って焚きつけた。

 だがデングラーは危険を回避し、話を聞いたオーベルシュタインが調査をして、召使いを捕らえ ―― 手帳の内容と、それがフェザーンの手に渡ったことを知る。

 フェザーン側は弁護士を始末できなかったこともそうだが、彼女の側に逃げ込まれたので、弁護士もある程度は情報を開示したのだろうと考え、ルビンスキーが先ほど語り出したのだ。

 語る内容はロイエンタールの母親のことではなくても良かった、たまたまタイミング的に最もそれらしかったから、選ばれた内容である。

 

 フェザーンには利用価値のある手帳。彼らには興味のないことだが、正式な受取人に渡せないのは彼らとしては許せないものであった。

 

「その手帳は、ジークリンデさまに渡すよう言われていたのだな」

 

 手帳は秘密理に彼女に手渡すよう、デングラーは依頼を受けていた。彼女が受け継ぐ筈だったものをフェザーンが奪い取った、ということである。

 

「そうです。表紙を開いてすぐのページに”フライリヒラート伯爵令嬢ジークリンデ殿へ”と書かれたメモが貼り付けられていました」

 

 彼女に「某子爵」と告げたのは、彼らに対して、最早手遅れだと伝える意味であったのだが  ―― グリンメルスハウゼン子爵が本当に彼女に渡そうとしていたのは、フェザーンが手に入れた、貴族のゴシップが書き留められた手帳ではなかった。

 


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