黒絹の皇妃   作:朱緒

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第185話

 ロイエンタールはその他「J.V.D」に関しても、ある程度突き止めていたが、

 

「直前は不明だ」

 

 皇太子の死に至るまでの三日間は、分からず終いであった。

 それを知っていたはずのリヒテンラーデ公も死んだ今となっては、全ては闇の中。

 

―― それは、それで……いいでしょう

 

 話が終わった頃には、外はすっかりと暗くなっていた。さすがにそのまま帰すわけにもいかないと、彼女は一緒に夕食をでもとロイエンタールを誘う。

 誘われるとは思ってもいなかったロイエンタールは、彼の特徴であり、嘲笑されもする金銀妖瞳を見開き、驚きを露わにするも、すぐに”彼らしくない”と言われそうな、柔和な笑みを浮かべた。

 

「では、お招きに与ろう」

「ご案内を」

 

 食後部屋を替え、彼女はコーヒー、ロイエンタールは酒を楽しみながら ――

 

「私を口説いてどうなさるおつもりです」

 

 ひたすら彼女を口説いていた。

 ”だから、こうなるって……ジークリンデさま、そいつは一筋縄ではいきませんよ”

 ずっと控えているフェルナーが、彼女の考えの甘さに内心でため息をついていた。

 執拗なほどに口説いていた相手 ―― その男を自宅に招き、夕食まで一緒に取った。軽率だと取られそうな態度だが、彼女には彼女の考えがあった。

 

「夫を浮気という最悪な手段で裏切る女は、お嫌いでしょう?」

 

 自分はロイエンタールが何よりも嫌う女と、同じ行動を取っているのだから、彼は嫌悪すれども、好意などあり得ない。だから招いても平気、親しい態度を取れば余計に嫌うはず ―― 彼女はそう目論んだのだが、フェルナーが内心で呟いた通り、ロイエンタールは一筋縄ではいかず。

 最終的にはなんとか引き取ってもらったものの、

 

「やはりと言いますか……まったく信じてもらえませんでした」

 

 彼女が浮気をしていると言い張っても、拒否する口実としか取ってもらえなかった。

 言葉を重ねれば重ねるほど、偽りだと思われてしまい、終いにはロイエンタールが笑い出したほど。

 

「ジークリンデさまは、不倫していると公言するような性格だとは、思われていませんから」

 

 ”話し方も悪いです。あれでは、信用されなくても仕方ありません”

 彼女は「浮気している! 不倫している! 男を寝室にいっぱい侍らせている!」と必死に訴えるのだが、控えて聞いていたフェルナーも、ロイエンタールほどではないが、笑いがこみ上げてきていた程に、話し方が悪かった。それを言われたところで、彼女としては ―― 浮気や不倫について信じてもらえる喋り方など分かりません……としか言いようがないのだが。

 

「なんで、信じてくれないのかしら」

 

 彼女は顔を、頬を僅かに膨らませ横を向く。耳朶から首筋のラインが、オレンジ色の明かりに照らし出され、肌のまろやかさが夜の闇を背景に、くっきりと浮かび上がる。

 

「まあ……仕方ないかと」

 

 浮気についてだが、彼女の意図に反して、噂はまったく広がっていなかった。

 もともと「真実ではない」ので、召使いたちが広めるはずもなく、例え真実であっても側室時代の恩を返すためにやって来た侍女たちは口を噤み、彼女の側に仕えている軍人たちは召使い以上に口は硬い。

 実際に関係のあるファーレンハイトの態度も以前と変わらず……それどころか、彼女が皇族になったことで、今まで以上に傅き、家臣として平伏する。馴れ馴れしい態度とは正反対。公衆の面前で、彼女に最も馴れ馴れしい態度を取るのはフェルナーだが、それは「昔からそうだった」と知られているので、噂にはならず。

 

 体の関係を持たず、愛人であると人々に眉を顰めさせ、噂を立てられるようにするには、愛人を贔屓するという方法もある。

 彼女は立場上、贔屓して地位を引き上げることはできるのだが、彼らの仕事に関する評価を不当に貶めるような行動は取りたくはないので、これは彼女にとって絶対に選べない手段。

 

「やっぱり、地道に本当に関係を持って、自然に人々の口の端にのぼるのを待たなくてはならないのですね。ああ、本当にファーレンハイトには迷惑をかけるわ」

 

 火のない所に煙は立たない ―― 煙を立てるのに、彼女は非常に苦労をしていた。

 

「……さ、ジークリンデさま。お疲れでしょうから、お休みください」

 

 フェルナーは無駄な努力と、要らぬ気遣いという、二段構成で空回りしている彼女の背中をそっと押し、寝室へと促した。

 

**********

 

 [不特定多数の男性と寝る、ふしだらな女と噂されるのです]

 これが彼女の目的だったわけだが、ただベッドで一緒に寝るだけの、子供だましでは噂が流れぬので、指を組んで、

 

「こ、今夜、あ、空いて……」

 

 顔を朱に染めて、目蓋を固く閉じて依頼し、努力と言っていいのかどうか、甚だ怪しい行動を取っていた。

 

 浮気相手は今のところファーレンハイトだけ。

 相手が嫌でなければフェルナーやキスリングも……と、考えていた彼女だが、関係を持つと相手に我慢を強いることになるので、踏み出せないでいた。 ―― 踏み出す必要など、まるでないのだが。

 

 彼女は前述の通り、形だけで良かったのだが、そうもいかず。だが彼らを縛るつもりはないので、「私だけでは、退屈でしょうから、外で……」 ―― 娼婦を買ってもいいと語ったわけだが、男尊女卑の帝国であろうとも、女性皇族と帝国騎士や平民では、性別など関係はない。皇族の愛人が娼婦を買うなど、許されるものではなかった。

 

 また、彼女の前の夫フレーゲル男爵が、イゼルローン要塞で「妻が美しすぎて困る騒動」を繰り返していたこともあり「噂を流したいのなら、そちらも控える必要があります」と教えられ ―― 何とも我慢を強いることをしているのだと、心から詫びて同衾の回数を増やすと共に、相手を増やすことも止める。

 

 ラインハルトに嫌われるという目的を捨てれば楽なのだが、それに関しては未だ捨て切れていなかった。

 

**********

 

 フレーゲル男爵の妻が美しすぎて困る騒動 ―― 彼が死ぬまで、彼女の耳には入らなかったこの出来事。

 

「ポンコツ平民(アントン・フェルナー。ただいま寝落ち中)に、愛しいお前を任せるのは甚だ不安だが、行って来るぞ、ジークリンデ!」

「お気をつけて! レオンハルト。ファーレンハイト頼みましたよ。フェルナーのことは、私にお任せください!」

 

 彼女の亡き夫であるフレーゲル男爵が、「イゼルローン要塞に行きたい」という彼女の希望を叶えるために、初めて前線に赴いたのが、この騒動の始まりである。

 

――  ファーレンハイトはオーディンに帰国一ヶ月後には、ミュッケンベルガーを総司令官として行われる大規模な会戦に加わることになっていた ――

 

 大規模な会戦が行われる場所はイゼルローン回廊と決まっており、本拠地はイゼルローン要塞となる。

 他のどの基地よりも居住空間が優れており、貴族用の住居も充実しており、娯楽も各種揃っている。とくに門閥貴族の子弟が心地良く過ごせるように。

 

 フレーゲル男爵に対して、軍事に関することは、最初から期待しておらず、面倒事が起こるだろうと考えていたファーレンハイトだが、私生活まで面倒が起きるとは想定していなかった。

 正確に表現するならば、面倒は起きるだろうとは思っていたが、それらは全てフレーゲル男爵の財力と権力で解決できると ―― だが面倒は、財力でも権力でもどうすることもできないものであった。

 

「私は高級娼婦の中でも、もっとも高級で、とびきり美しい女を用意しろと命じたはずだ」

 

 前線基地であったイゼルローン要塞には、大勢の女性が働いていた。軍務につくのではなく、兵士たちが憂さ晴らしをする、酒場などの店員や、兵士たちに一時の夢を見させる女など。場所が場所であるため、物価は高く、給料も良いので、働きたいと言う女性は多かった。

 

 イゼルローン要塞までやってきたフレーゲル男爵は、女を所望する。妻に不満があったわけでもなければ、飽きたわけでも無く、ただ生理的な欲求から。

 出征した男が、妻ではない誰かと寝るのは、暗黙の了解であり、それを咎めるような者はいない。

 ファーレンハイトもそこは仕方ないだろうと ―― その辺りの手配は、イゼルローン要塞をよく知る、女衒まがいのことをする少佐に一任し、当時部下になったばかりの副官と共に、事務仕事をこなしていた。

 命令を受けた少佐は、こんな簡単な仕事はないと、イゼルローン要塞で一番の娼婦を派遣する。

 その娼婦、一晩、四万帝国マルク。

 いくら物価が高いイゼルローン要塞でも、金額が過ぎるのではと、イゼルローン要塞で合流したばかりのザンデルス少尉は思ったものの、上官が涼しい顔をしていたので、表には出さなかった……が、面白くないという表情は隠しきれず。

 ファーレンハイトはそれを咎めることはなく ―― 高級娼婦もパーティーも無関係に仕事をしていた彼らの元に、将校と娼婦の間を取り持つことを仕事としている少佐が、血相を変えてやってきた。

 

「お怒り? 女が気にくわなかっただけだろう」

 

 少佐はフレーゲル男爵が何故怒り出したのか分からず、すぐに部下に頼みにやってきた。門閥貴族というのは、機嫌を損ねないように、損ねた場合は即座に逃げるように ―― 宥めるなど、到底できる相手ではないということを、この少佐はよく知っていた。

 ”それがお前の仕事だろうが”と、カイゼル髭が特徴の少佐を睨むも、思うところがあったので、ファーレンハイトはザンデルスを連れて、少佐の案内のもとフレーゲル男爵の寝室へと急いだ。

 部屋には「かつてのフレーゲル男爵の噂通り」に殴られ赤くなった頬を押さえて、座り込んでいる娼婦。

 

「調べてこい!」

 

 ファーレンハイトの顔を見るや否や、怒り心頭のフレーゲル男爵が怒鳴りつける。

 

「なにをですか?」

「これがイゼルローンで最も高額で、良い女だとその男が言い張る。そんな筈はない!」

 

 ファーレンハイトの後ろから娼婦を見たザンデルスは、容貌の美しさは当然、艶やかな金髪と白く張りのある肌に、豊かな胸に引き締まった腰に、形の良い尻。細部にいたるまで手入れが行き届いているその体に、四万帝国マルクという金額に納得を覚えた。

 

「少佐が閣下を謀るはずがないでしょう」

「お前も、これが最も良い女だと言うのか!」

 

 ファーレンハイトの”思うところ”はこれ。

 フレーゲル男爵の妻は、天使を捕まえて妻にしたと言っても、納得されるレベルの美貌。それに慣れきった彼が、高級娼婦で我慢できるか? 

 

「その女は四万帝国マルク、それに間違いはないでしょう。ですがそれは仕方のないことです。仕レオンハルトさまは、値など付けられぬ希有な美貌を持つお方を、いつも側に置かれているのですから」

 

 懸念した通り、我慢ができずこの有様。

 

「…………これは、美人なのか?」

 

 ファーレンハイトに諭されたフレーゲル男爵は、第三者の意見を求めることができるくらいには頭が冷えたものの、

 

「私にも美人には見えませんが」

 

 尋ねた相手がファーレンハイトでは、聞くだけ無駄というもの。

 ”ひでえよ、こいつら”と、背後でやり取りを他人事のように聞いていたザンデルスだったが、

 

「おい、その後ろにいる少尉」

「はい!」

 

 突如声をかけられて、急ぎ姿勢を正して返事をする。

 

「この女は美人か?」

 

 ここで美人と答えたら左遷されるのか? と、身構えた彼だが、正直に答えて良いと言われ、正直に答えた。

 

「小官がこれまで出会った女性の中では、最も美しい女性です」

「これが美しく見えるのか。平民とは言え、可哀想な人生を送っているのだな」

 

 フレーゲル男爵から憐れみの眼差しを向けられ、上官のファーレンハイトからは、気色悪いほど優しく見つめられるはめになる。

 

「ファーレンハイト」

「はい」

「この娼婦、欲しいか?」

 

 娼婦というのは、職業柄殴られることもあり、普通に生きている女性よりは立ち直りが早い。この殴られ酷い言われようの娼婦も、徐々に立ち直ったものの、現状が飲み込めないでいた。

 

「いいえ。レオンハルトさまもお人が悪い」

「よし、そこの少尉。ザンデルスとか言ったな。お前にくれてやる」

 

 フレーゲル男爵は椅子から勢いよく立ち上がり入り口近くにいたザンデルスを部屋へと押し込む。

 

「ところでレオンハルトさま、なぜ彼女を殴られたのですか?」

「ああ? 座っていたら、いきなり女がやって来て、腰に跨がって顔を近づけてきたら殴るだろう。美女であれば、娼婦だとは分かったが……分からなかったものは、仕方あるまい」

「ああ、そうですね。ザンデルス、明朝まで休憩に入っていい。それではな」

 

 イゼルローン要塞の門閥貴族が高級娼婦と寝る部屋に、ぽつんと取り残されたザンデルスは、呆然としている四万帝国マルクとしばし向かい合っていた。

 

 その後、殴ったのは悪かったと、娼婦に直接一万帝国マルクを支払い、店の方には二万帝国マルクを追加し ―― フレーゲル男爵はイゼルローン要塞で、非常に不自由な生活を送る。

 

「まさか、この選ばれし門閥貴族である私が、こんなにも女に不自由するはめになるとは!」

「無理に前線に立たないでも、宜しいのですよ、レオンハルトさま。それと、選ばれし門閥貴族だからこその不自由なので、誰も同意はいたしません」

「うるさい! ジークリンデの願いを叶えてみせる!」

 

 この騒動、この一度で終われば良かったのだが、イゼルローン要塞に来る度に「美しい娼婦を用意しろ! ふざけるな! これが美人だと? 病院に行け!」を繰り返し、駐留艦隊の司令官が目前になった頃には、このやり取りは、イゼルローン要塞の娼婦たちの間では有名になっていた。

 当時の要塞司令官や駐留艦隊司令官も、権門の前には、このような軽い奇行は見て見ぬ振り。何より彼らも一度は彼女を見たことはあるので、仕方ないと諦めていた。

 

 そして一度でも彼女を見たことのある兵士たちも、娼婦たちに「夫人はお美しい」と酒の肴で語るのだが ―― 彼らには一つだけ疑問があった。語れば厄介ごとに巻き込まれそうになる話題なので、噂には上ることはなかったが。

 

 

 妻が美しすぎて困る騒動後 ―― フレーゲル男爵の初陣が無事に終わりオーディンに帰国する。

 ここでザンデルスは初めて彼女を間近で見ることになり”あ、これは……”フレーゲル男爵が「美人ではない!」と怒り狂った理由を、はっきりと理解した。

 

 同時に彼は一つだけ不思議に思うことがあった。それは兵士や娼婦たちが思っていたのと同じこと。

 

 なぜ彼女は、皇帝の寵姫に選ばれないのか?

 

 上層部はリヒテンラーデ公の権力がこれ以上増さないようにするためなど、様々な情報があるので、それほど疑問視されてはいないが、平民はそうではない。

 「皇帝の好みではないのでは?」 と、彼女を見たことがない者は言うが、見たことがある者は「好みなどを超越している」と熱弁する。

 好みをも超越するのならば何故 ―― フリードリヒ四世の血を引いているのではないかと、彼らは考えた。

 

 そう考えるとリヒテンラーデ一族の娘なのにもかかわらず、皇太子妃に選ばれなかったのも頷ける。

 

 もちろん皇帝の隠し子など、おいそれと語るわけにもいかず、だが、理由が”これ”であれば、誰もが納得できる。

 ただ彼女は以前も説明したとおり、フライリヒラート伯爵夫妻の娘だと分かる容姿なので「フリードリヒ四世の子」ではなく「フリードリヒ四世の孫」ではないかと。

 彼女の両親の母親のどちらかを召し上げたというもの ―― 以前は熟女を好み、人妻を一年借りて享楽に耽っていたこともあるフリードリヒ四世ゆえに、説得力があった。

 彼女とその親戚のDNAを調べたことのあるファーレンハイトやフェルナーは、彼女の母親アウレーリアがクルーグハルト侯爵夫妻の娘であることは自信を持って言えるが、父親のグントラムに関しては、同じような自信を持って証言することはできない。

 ”可哀想なツィタ”の存在を調べるために、彼らはリヒテンラーデ公側を重点的に調査したが、フライリヒラート側は「彼女は夫妻の子」であること程度しか調べていない。

 悪いことに彼女の皇族たらしめているのは、父方の血筋。フリードリヒ四世との血縁関係を否定するには、入念な調査が必要になるが ―― 追記すると、グントラムとフリードリヒ四世の年齢は十七歳差。フリードリヒ四世が放蕩な生活をし始めた頃で、隠し子と言われても無理がない年齢差でもある。

 

 もっともこれらのことは、リヒテンラーデ公が生きている間は誰も口にはしなかったが、老獪なるリヒテンラーデ公の死、そして彼女が皇位継承者に選ばれたことで、徐々に広がってきていた。

 近々この噂は、すでに動き出しているフェザーン側の策略により、爆発的に広まることになる。

 


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