黒絹の皇妃   作:朱緒

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第183話

「ロイヤルボックス以外で聞くために、一人なの」

 

 彼女はやってきたケスラーに、ロイヤルボックスではなくて良いのかと尋ねられたが、舞台に近いところで聞きたいので、彼女はホールを独り占めするのだ。

 

「それは、お嬢さまならではの悩みですな」

 

 舞台に近い位置に、特別に設えられた椅子に彼女は腰を下ろし、ケスラーは警備のため、立ったまま。彼女の手元には、彼女の為だけに作られたプログラム。 ―― 指揮者が礼をし、静寂のなか、曲が始まった。

 

 

 そのプログラムに書かれた曲、全ての演奏が終わる。

 観客が彼女一人だけということもあるが、ホールには歓声もなければ、拍手もない。開始の時の静寂さとは違う、重苦しい静けさ。

 ケスラーには彼女のほうを向き、礼をした指揮者の表情が、叱責されることを覚悟した者のそれに見えたが、理由は分からなかった。

 

―― 辛いところですが

 

 彼女は無言で立ち上がり、そのままホールを後にし、ケスラーはそれに従う。

 

「どうなさいました、お嬢さま」

 

 普段であれば皇族に声をかけるような、非礼な真似はしないが ―― ケスラーはあえてその禁を犯した。

 

「拍手してやれないというのも、辛いのよ」

 

 片側が庭に面しているアーチ状の高い天井の廊下で、彼女は足を止め、口元を閉じた扇子で隠すようにして、やや上目遣いで質問に答えた。

 

「どういった理由で? 宜しければお教えいただけますでしょうか」

「四箇所間違ってたの。さすがにそれほど間違われると、拍手するわけにはいかないのよね。間違いに気付かない音楽も分からない貴族と思われたら馬鹿にされます。その程度でいいと楽団が考えれば演奏の質が落ちます。彼らが努力しているのは分かりますが、当主となると、努力だけではなく結果込みで判断しなくてはなりません」

 

 数箇所の間違い ―― 彼女個人としては許せるが、音楽に造詣が深い大公妃殿下としては、知らなかったことにするわけにもいかなかった。

 

「なるほど。そうでしたか」

 

 ケスラーは彼女が拍手もしなければ、声もかけずに席を立った理由を聞き、指揮者の表情に得心がいった。

 

「子供の頃でしたら”すごいー”で済むのですけれど。ウルリッヒ、言っておきますけれど、彼らには、最高とまではいいませんけれど、恵まれた練習環境と充分な給与を与えているのよ。それであの演奏では」

「もちろん、分かっております。彼らもプロですので、次は必死になることでしょう」

 

 夜の帷が降りた空と、煌々としたシャンデリアの明かりに照らされる廊下。幾つも映し出される影。透明感のある輝きを放つダイヤモンドのネックレスと、それ以上に輝き澄んでいる彼女の瞳。それに長い睫が憂いの影を落とす。

 

「必死になって貰わないと困りますわ。連続でこんな演奏をされたら、団員を解雇して新しい人を採用しなくては。かなり手間がかかるのよねえ。私は、音楽にだけは明るいので、面接もしなくてはなりませんし」

「大変ですな」

「ええ。でも芸術のパトロンを務め、保護するのも貴族の責務ですから。では、文句を言うなと叱責されそうですが」

「解雇するのが、お嫌なのでしょう。彼らには是非とも努力し、その結果をお嬢さまに披露して欲しいものです。お嬢さまの苦痛を増やさぬためにも」

 

 門閥貴族に気に入られるかどうか? 芸術家の活動はその一点に集約される。その門閥貴族の中でも、音楽に関して評判の高い彼女から解雇を言い渡されると ―― 一流から転落したと見なされる。

 

「……理解してもらえると、やっぱり嬉しいわ。雇うのは良いのですけれど、解雇するのがねえ。特に芸術関係は、私が首を切ると……あまり良いところに再就職はできないようで。かといって……」

 

 なにより”彼らにとっては悪いことに”彼女は気分だけでは、決して解雇したりはしないと、広く知られているため、彼女の楽団から解雇を言い渡されると言うことは、培ってきた信用を全て失うことになる。

 

「芸術の世界が厳しいことは、彼ら自身も承知の上で飛び込んだのですから、気になさることはございません。そうは言っても、お優しいお嬢さまが気にしてしまうのは」

「優しくないわよ」

 

 ふるふると首を小さく振って否定する彼女を、ケスラーは愛おしく目を細めて見つめる。

 そうしていると夜の空気に、靴音が響く。

 その人物を見たケスラーが礼をし、彼女は振り返る。

 

「あら、ファーレンハイト。仕事は終わったの」

「はい」

「そう。ケスラー、急の任務ご苦労でした。付いてきなさい、ファーレンハイト」

「御意」

 

 彼女は両手で扇子を持ち、ケスラーの労をねぎらい歩き出す。

 ケスラーは深々と礼をし、耳を澄ませる。ファーレンハイトともに去って行く、彼女の軽い足音が聞こえなくなるまで、頭を下げたまま。足音が完全に聞こえなくなったところで姿勢を戻し、報告をし邸を去るために、私軍の詰め所へと向かった。

 華美を嫌うラインハルトに倣った執務室に身を置いているケスラーとしては、その豪華さに思わず足が止まるほど貴族趣味の部屋。

 

「待っていた、ケスラー」

「オーベルシュタイン?」

 

 その詰め所には、何故かオーベルシュタインがいた。

 彼に待たれる理由が、思いつかないケスラーは、何用かを尋ねようとしたが、それより先にオーベルシュタインが口を開き、用件を細大漏らさずに伝えた。

 

「本日ザムエル・デングラーと名乗る弁護士が、国務省を訪れた。リヒャルト・フォン・グリンメルスハウゼンの顧問弁護士を務めている人物だ。彼はグリンメルスハウゼン子爵の遺言を管理しているのだが、その遺言の一つが卿宛てであった。それを知った子爵の親族が平民になにを残すつもりだ、今すぐ開示しろと詰め寄り、身の危険を感じたので、司法関係者の伝を頼って故フライリヒラート伯爵グントラム殿のご令嬢にして、大公妃殿下たるジークリンデさまに保護を求めた」

 

 彼女の父親は法曹界にも知り合いが多く、彼女は知らないがこういった事例は何度も持ち込まれたことがあった。

 

「待て、オーベルシュタイン。確かに私はグリンメルスハウゼン子爵閣下に一時期引き抜かれ、子爵閣下の元で仕事をしたことはあるが、遺言を残されるようなことはなにも」

 

 一時期仕えていたことのあるケスラーは、デングラー弁護士のことは覚えていたが、遺言についてなどまさに青天の霹靂。

 

 問題のグリンメルスハウゼン子爵だが原作と同時期、彼女が十八歳の頃に危篤となり ―― 延命措置により、約三年経った今でも”生きてはいる”

 最早回復の見込みはなく、死亡時期を延ばすだけの行為だが、フリードリヒ四世の勅命のため、それは粛々と守られていた。

 

「勅命だったのか……」

「弁護士から書類を見せてもらい、裏付けも取れている」

 

 延命措置は皇帝の勅命だが、医療費は子爵家の財産で賄われており、遺産配分を、今か今かと待つ親族たちにとっては、目減りしてゆく資産を前に手も足も出せず、歯がゆさを感じていた。

 グリンメルスハウゼン子爵が入院しているのは軍病院。

 彼女も一度だけ、リヒテンラーデ公に連れられて、見舞いに行ったことがある。―― 彼女はただの見舞いだと思っていたが、その時にリヒテンラーデ公が自ら皇帝の勅命を伝え、グリンメルスハウゼン子爵の延命措置の手続きを行っていた。

 見舞いに伴われた彼女と、見舞われたグリンメルスハウゼン子爵だが、さほど接点はなかった。同じ門閥貴族だが、それ以外の接点はほとんどない。

 フリードリヒ四世に紹介を頼むわけにもいかなければ、紹介されたところで、何も出来はしない。

 なによりグリンメルスハウゼン子爵は、彼女が危機的状況に陥る二十の頃には、すでにこの世から退場している。

 人の寿命を延ばすような特技を持ち合わせていない彼女は、グリンメルスハウゼン子爵と交流を持ったところで、生き延びる手助けにはならないと判断し、他の門閥貴族と同じように接していた。

 門閥貴族としてパーティーには出席して、偶にグリンメルスハウゼン子爵の思い出話、たとえば、彼女の祖父についてのことなどを聞くに留めた。

 ちなみに子爵邸の警備を何度か担当していたケスラーだが、彼女の訪問がある日は、運が悪いのか「意図的」かは不明だが、全て警備の担当から外れていた。

 

「子爵閣下は、侍従武官長を務めておられたからな……」

 

 グリンメルスハウゼン子爵が意識不明になると、ケスラーは辺境へと飛ばされ、最近になってラインハルトによって中央に呼び戻された。

 恩のあるグリンメルスハウゼン子爵が、未だ入院していることはケスラーも知っており、延命措置に疑問を感じながらも、何度か見舞いに訪れていた ―― ケスラーはてっきり親族が延命措置を行っているものだとばかり思っていたので、それが前の皇帝の命によるものだと聞き驚く。

 

「卿が何度も見舞っていたので、親族が調べたのだそうだ。なにか下心があるのだろうと、最初から疑っているのだから、弁護士の言葉も聞こえはしないだろうな」

「そんなつもりはない」

 

 純粋に部下としての行動だったのだが、子爵の親族にはそう映らなかった。

 

「分かっている。だが人間は自分の尺度でしか物を見ない。要するに親族たちは、下心があるということだ。それに少しは都合が悪かったのだろう。親族は一年以上、見舞いに行っていないらしい」

「ああ。それは職員から聞いた」

「とにかく親族は卿を警戒し、あの手この手で弁護士が持っている遺言の数と、その相手の名を入手した」

「そこに私の名前があったということか?」

「そうだ」

「だが私は、本当になにも知らん」

「弁護士も卿はなにも知らぬと言っていた。そして卿への遺言の内容は、弁護士も知らぬそうだ。ただ渡すよう命じられただけだと。弁護士自身も内容を知りたいくらいだと……こればかりは子爵が死なぬ限りはな。とにかく遺言を所持し延命治療を監視している買収できない弁護士と、突如現れた卿は、遺産狙いの親族のとっては邪魔者だ。弁護士のほうはこちらで保護するが、卿は自分の身は自分で守ってくれ」

 

 名前が知られた以上、ケスラーの身に危険が及ぶ可能性がある。オーベルシュタインも警告する必要はないとは考えているが、念には念を入れてということで伝えた。

 

「分かった」

「あとは、子爵の警備だが、したい場合はそちらで手配を。こちらは関与しない」

「それは、親族が殺そうとしているということか?」

「証拠はない。だが皇帝は代替わりし、手続きをしたリヒテンラーデ公ももういない。目を覚まさぬ老人に無駄に金を使うよりならば、若い世代が有効に使ったほうが良いと考えそうではあるが」

 

 グリンメルスハウゼン子爵の警備をどうするか? ローエングラム邸の門を出てからケスラーは振り返る。

 闇夜に浮かび上がる邸を眺めてから、踵を返し本部へと戻った。

 

**********

 

 一糸まとわぬ姿で、ベッドに俯せになっている彼女の目の前に、上体を起こしているファーレンハイトの手のひらがあった。

 

―― カタリナがファーレンハイトの手は労働者の手だと言っていましたが……たしかに、貴族の手ではありませんが、軍人ならばこんなものでは……

 

 ふわふわとした感覚のまま、ファーレンハイトの手のひらを見ていた彼女は、ふと思い立ち人差し指で生命線とおぼしき箇所をなぞる。

 

「どうなさいました? なにか気になるところでも」

 

 彼女が楽しげに、何度も手のひらを指でなぞるので、なにか気になるのかとファーレンハイトが尋ねると、彼女は夢を見ているかのような、おぼつかない口調で、答えにならない答えを返した。

 

「あなたには、長生き……してほしいわ……」

 

 そう呟き、しばらくすると指も止まり、ファーレンハイトの親指を握るようにして眠りに落ちた。

 天幕で閉じられた小さな空間を、彼女の微かな寝息だけが満たす。

 徐々に力が抜けてゆく彼女の指から、自分の手を抜き、あらためて手を取り、整えられている爪に軽く口づけ、そっと腕をベッドに置く。

 

「ファーレンハイト」

「どうした、フェルナー」

 

 彼女が眠ったので、ベッドから降りようとしていたファーレンハイトのもとに、天幕を手の甲で押し上げるようにして、フェルナーが姿を現した。

 

「イゼルローン攻略、計画通りに終わりました。完勝です。あと、ミュラーも無事だそうです。一応報告しておきますよ」

「そうか。ミュラーが戦死したら、気に病まれるだろうから……」

 

 話していると、ジークリンデが寝返りをうった。二人は会話を止めて、しばらく様子を見て、目を覚まさないことを確認してから、ベッドから離れた。

 

「報告会の通達がきました。ジークリンデさまは、出席しないようにするつもりですが」

 

 明日は休みで、ファーレンハイトは彼女の外出のお供をすることになっていたのだが、イゼルローン要塞壊滅ともなれば、さすがに彼女を優先するわけにもいかなかった。

 

「それで良いだろう。イゼルローンについては、俺が報告する」

「ではそれで」

 

**********

 

 翌朝、目覚めた彼女は、

 

「あら? 私、また寝過ぎましたか?」

 

 目をこすりながら、軍服に着替え挨拶にやってきたファーレンハイトに尋ねる。

 

「いいえ。本日はどうしても外せない会議が入りました」

「そうなの……大変ね。気をつけていってらっしゃい」

 

 何かしらとは思えど、起きたばかりでまだ頭がはっきりとしていない彼女は、それだけ言って送り出した。

 シャワーを浴びガウン姿で椅子に腰掛け、用意されたフルーツサラダをつまみ、本を読みながら髪を整えさせる。

 

「フェルナー」

「はい」

「ファーレンハイト、なんで呼びだされたの?」

 

 彼女は読んでいた本を閉じ、元帥が呼びだされるような会議ならば、自分も出席する必要があるのでは? と、侍女が持っている鏡越しに後ろに立っているフェルナーに声をかけた。

 

「ご報告いたします。イゼルローン要塞攻略、帝国が完全勝利いたしました」

「…………え? 完全勝利って、イゼルローン要塞を取り戻したの?」

 

 あまりの衝撃に、勢いよくフェルナーに振り返る。

 

「いいえ」

「?」

「イゼルローン要塞を破壊いたしました」

 

―― まさかイゼルローン要塞が破壊されるなんて……一部破壊? それとも全壊なの?

 


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