黒絹の皇妃   作:朱緒

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第18話

 この世界は、絶対に切り話すことができない存在がある。

 原作最後まで共に在った、結びつき離れることができない”それ”を、この世界で再現しようとした時、ある種の乖離が起こることもあるのかも知れない。

 

 イゼルローン要塞から黒色槍騎兵艦隊が無事に帰還した。

 

 まだブラウンシュヴァイク公邸の敷地にある家に留まっている彼女は ―― 自宅に帰りたいのだが、夫妻がなかなか手放してくれないのだ ―― 客人に挨拶をするために呼ばれた。

「……どうしたのですか? アンスバッハ」

 いつもは表情に一切の乱れがないアンスバッハの、様々な種類の感情が交ざった表情が気になったものの、客人を待たすわけにはいかない。

「いいえ」

 アンスバッハの運転で、公爵夫妻が住む本邸へと向かう。

 大きな声が豪奢な扉を抜けて、自己主張していた。その声を聞き、相手が誰であるか? 彼女にも容易に想像がついた。

 扉を開けさせると、そこには予想通り、オレンジ色の纏まりの悪い髪と、普通の軍人とは少々色合いの違う軍服を着た黒色槍騎兵艦隊の指揮官がいた。

 彼は彼女を見ると、椅子から立ち上がり、大きく手を開いて、いつも通り挨拶代わりの抱擁した。

「ジークリンデ」

「お久しぶりにございます、フリッツさま」

 軍服を着ている相手だが、彼のことは名で呼ぶ。

 

 この世界にフリッツ・ヨーゼフ・ビッテンフェルトは存在しなかった。いるのはフリッツ・ヨーゼフ・フォン・ビッテンフェルト。

 そうビッテンフェルトは平民ではない。おまけに唯の貴族ではない。

 ブラウンシュヴァイク公爵夫妻の「夫人の従弟」にあたる……即ちフリードリヒ四世の甥である。

 先帝の嫡子は全九名。うち三名が皇子で六名が皇女。皇子三名のうち二名は皇位継承権の関係で死亡し、フリードリヒ四世が即位した。

 皇女は全員が降嫁し、そして全員が既に死亡している。ほとんどの元皇女たちは、出産の際に命を落としており、ビッテンフェルトの母親も”それ”から逃れられなかった。ただ彼女は幸せだな ―― フリードリヒ四世は言う。皇帝の姉や妹の子で、無事に成人を迎えられただけではなく、軍人としても大成できたのはビッテンフェルトただ一人。

 

―― 初めて聞いた時は驚いたけど……黒色槍騎兵艦隊とビッテンフェルトは切り離せないんでしょうね

 

 皇帝の甥とはなんの冗談? と思った彼女だが、実際に会って見ると、完璧なまでにビッテンフェルト。この男以外、ビッテンフェルトは存在しないであろうというほどに。

 皇族でありながらあまりにもビッテンフェルトでありすぎるため、彼女はマールバッハ伯オスカーとロイエンタールを結びつけられなかったくらいだ。

 

 何故こんなことになったのか? 自分の存在が狂わせたのか? と思ったが、説明を聞くと、どうもそれだけが原因ではないらしいと気付いた。

 

 そもそも「黒色槍騎兵艦隊」という名称はなんなのか?

 

 どれ程ラインハルトが栄達しようが、ミッタマイヤーが素晴らしい軍を率いようが、それらしい艦隊名はつかなかない。普通は「ミッタマイヤー艦隊」と呼ばれて終わりである。

 もはや彼女に調べる手立てはないが、黒色槍騎兵と書いてビッテンフェルトと読むこともないであろう ――

 この特殊な呼び名が正式に使用されているのはどうしてか?

 また黒色槍騎兵艦隊を黒色槍騎兵艦隊したらしめる「黒い艦隊」

 帝国軍において黒く塗装された艦隊だけを率いることを許されている。補充も一切の妥協なく黒 ―― わざわざ黒色槍騎兵艦隊のために作らせているということ。それこそ予算を割いて。そこまでする理由は?

 黒色槍騎兵艦隊、それはこの世界において皇帝の親衛艦隊が冠する名。この世界で平民がそれを指揮することはできなかった。だが黒色槍騎兵艦隊はビッテンフェルト以外の指揮を拒み、結果、皇帝の甥ビッテンフェルトが誕生した……と、彼女は結論づけた。

 

 

 公爵夫妻は彼女の挨拶が終わるや否や、ビッテンフェルトに庭を案内するように頼んできた。

 彼女は断る理由もなければ、庭を案内させるために呼ばれたのだろうとも思ったので、ビッテンフェルトの案内を引き受けた。もともと体が弱い夫人は最近は更に弱り、娘と跡を継いでくれる甥を失った公爵もめっきりと老け込んで……いた筈なのだが、

―― 今日はいつになく元気そうだったな。落ち着いたのかなあ。もう私がいなくなっても、あとはシュトライトにご夫妻の周囲に地球教が迫らないよう注意してもらえば。

 

 ビッテンフェルトと腕を組みながら、彼女は百合が咲き乱れる庭を案内し、ひっそりと佇む四阿で腰を降ろした。

 疲れてはいないのだが、いつの間にかアンスバッハが茶器を用意し待機している姿が見えたので、休憩することにしたのだ。

「レオンハルトは本当に残念だった」

「いいえ。良人は陛下をお守りすることができて本望だったはずです」

 あまりにも小さな、ビッテンフェルトらしからぬ声に思わず彼女は笑みをもらしてしまった。フレーゲル男爵が死んだことはまだ悲しいし、振り切ってはいないのだが、ビッテンフェルトの前では泣く気にはなれないし、なりもしなかった。

 アンスバッハが出してくれた紅茶を前に、まどろっこしいことが好きではないビッテンフェルトが、前置きなしに話を持ち出した。

「ジークリンデ。俺と結婚してブラウンシュヴァイク家を継ぐつもりはあるか?」

「…………」

 彼女は紅茶を運んできたアンスバッハのほうを見て ―― 申し訳無さそうだが、それを上回る期待の表情から、これが事実であり、ブラウンシュヴァイク公の目論見であることを確信した。

「先程ブラウンシュヴァイク公に言われてな」

「ブラウンシュヴァイク公も、焦っておいでなのでしょう」

 このビッテンフェルトはブラウンシュヴァイク公の縁者ではない。その彼を養子に迎えて彼女を妻にすると言いだしたのだから、焦っているのなにものでもない。

「レオンハルトという、かけがえのない跡取りを失ったのだから無理もない……ジークリンデ」

「はい、フリッツさま」

 彼女の両手を包み込むようにして握りしめて、

「お前が妻なら、それも悪くない」

「……ご冗談を」

「冗談ではないぞ」

 彼女はこのフォン・ビッテンフェルトのことは、嫌いではない。結婚しても上手くやっていける自信はあるが ―― 死亡フラグという大きな問題がある。

 フォン・ビッテンフェルトはラインハルトのことを嫌ってはいないのだが、部下として馳せ参じているかと言えばそうではない。

 ラインハルトの部下にならない貴族となれば ――

 それともう一つ懸念があった。

 この先のラインハルトの栄達について。ラインハルトは自由惑星同盟軍を打ち破っていくのだが、ラインハルト陣営の中でもっとも同盟軍を血祭りに上げたのは、他の誰でもないビッテンフェルト。

 負けている印象が強いものの、

「ビッテンフェルト提督」

「ファーレンハイトか、久しぶりだな」

 攻撃そのものは無類の破壊力を持つ。その彼がいないで、ラインハルトは勝ち進むことができるのか? 

「お久しぶりです」

「フェルナーも。お前は相変わらずだな」

「お邪魔して申し訳ございません。少々お時間を頂きたいのですが」

「構わんぞ。ファーレンハイト」

「ビッテンフェルト提督。今晩、飲みに連れていってくださいませんか?」

「いいぞ!」

「ファーレンハイト!」

 ファーレンハイトはこの気前がよい提督に「たかって」よく無料で酒を飲む。

「よいよい、気にするなジークリンデ。俺もこいつと久しぶりに酒が飲みたいのでな」

「ありがとうございます」

「小官もご一緒させていただきたいのですが」

「いいぞ」

「ところで、ビッテンフェルト提督。ブラウンシュヴァイク公爵家をお継ぎに?」

「まだだ。ジークリンデが妻になってくれなければ継ぐ意味も理由も甲斐もない」

 

―― ファーレンハイトもフェルナーも知ってたな……

 ファーレンハイトの静かでいつもと変わらぬ口調と、フェルナーの邪気しなさそうな笑顔を前に、彼女はやや冷えた紅茶を口に含み、その苦さに少し唇を尖らせた。

―― 物語のお姫様でもあるまいし、教えられたって逃げたりしないのに

 

「凄いですね、ジークリンデさま。ビッテンフェルト提督の独身主義を返上させてしまうのですから。家臣として感服いたします」

 なにに対して感服したのか? フェルナーに問い質したかった彼女だが、聞くだけ無駄なことも知っているのでやはり黙っていた。

 そして二人は今日の集合場所と時間を決め、

「お騒がせいたしました」

「ではごゆっくり。アンスバッハ准将、ここは若いものだけにしておくのが正解では?」

「フェルナー大佐……」

「いくぞ、フェルナー」

 去っていった。

「考えは決まったか?」

 二人の背中がまだ見えている状態だが、ビッテンフェルトは気にせずに答えを求めてきた。

「私の一存では」

「お前が良いといえば、俺は押し通す」

「国務尚書は既に幾人かに絞っていると聞きます」

「お前はどうなんだ? ジークリンデ」

 ビッテンフェルトが平民出の黒色槍騎兵艦隊であれば喜んで結婚したい彼女だが、フォン・ビッテンフェルトとなると事情は大きくことなる。

 なにせ皇帝の甥。帝国初の女帝かと噂されるサビーネの対抗馬ですらある。うまくことを進めなければ、リップシュタット盟約前に殺されかねない ―― そして彼女にはうまくことを進める自信はなかった。

 ビッテンフェルトを見捨てるような形になるのは心苦しいのだが、

「私は……もう少し、レオンハルトのことを思っていてもいいですか?」

 短期間でまた夫を失うかもしれないという恐怖に、彼女は耐えられそうにない。フレーゲル男爵はたしかにフレーゲル男爵であったが、良い所も多くあった。完璧な人間はいない ―― その通りで、完璧な悪人もいない。フレーゲル男爵は側にいる者にとって、その死を手放しで喜べるような悪人では決してなかった。

「そうか。わかった……では、また。ジークリンデ」

 ビッテンフェルトは立ち上がり、送ろうとするアンスバッハと彼女を制し去っていった。

―― ブラウンシュヴァイク邸を早く出ないと……

 いまのブラウンシュヴァイク公爵夫妻が殺される可能性は極めて低い。だがそこにフォン・ビッテンフェルトを放り込むと危険なことになる。

 世話になった夫妻を救うためにも、彼女はフォン・ビッテンフェルトと結婚するわけにはいかなかった。

 

 必死に逃げているのだが、死は彼女の背後に付きまとう ――

 

 新しい紅茶を淹れたアンスバッハが、

「申し訳ございません、ジークリンデさま」

 突如膝を突いて頭を下げた。

「気にする必要はありません。あなたが決めたわけではないでしょう」

「提案したのは私です」

「……どうして?」

「ブラウンシュヴァイク公爵家とあなた様をお守りするために」

 キルヒアイスを殺害したブラウンシュヴァイク家の忠臣が、公爵家と同列に自分のことを考えているとは、彼女は思いもしなかった。

「私をですか?」

「本日もマールバッハ伯からの手紙が来ております。贈り物も。未亡人のお心に安らぎをあたえるような品ではなく、見るからに求愛目的のものが。ですが、ファーレンハイト中将、フェルナー大佐、そしてこのアンスバッハ、マールバッハ伯に抵抗する術もたず。伯爵夫人の身を守ることができぬ、非才無能と三人で自嘲しておりましたところに降って沸いた良縁。マールバッハ伯もビッテンフェルト侯が相手となれば……」

 迫り来る死の猛攻に彼女は睫を震わせながら、紅茶に映る自分の顔を見て ―― 小さな溜息を漏らした。

「ありがとう……アンスバッハ」

 オスカー・フォン・ロイエンタール、リヒテンラーデ一族を死地へ追いやる男の名。それは巧妙に名を変えて、滑り込むと表現するには生温く、激情と評しても足りぬほどの感情を抱き、リヒテンラーデ一族の全てを ―― ラインハルトという鎖につながれていないそれは、青ざめた死をまとい彼女を奪いにやってくる。彼女が唯一度「オスカー」と名を呼んだがゆえに。もう一度「オスカー」と呼ばせるために。

 


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