黒絹の皇妃   作:朱緒

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第176話

 ラインハルトに嫌われるための努力が、まったく実を結んでいないことに気付かぬまま帰宅した彼女をファーレンハイトと、すでに省へと出向き、彼女の代わりに各省の仕事を回しているオーベルシュタインが出迎えた。

 彼女はホールに置かれている一人がけの椅子に腰を下ろして、どうなったのかを尋ねた。

 

「侍従武官長のままということに」

 

 大将の昇進は取りやめとなったが、侍従武官長は継続するということで話をまとめ、彼女に再び伺いをたてるため、そしてそれ以上の事柄を伝えるため、こうして二人は急ぎ邸へと戻ってきたのだ。

 

「そうですか。……」

 

 片方だけだが希望が通り、彼女としては嬉しく、労いの言葉の一つもかけようかと思ったのだが、あることに思い当たった。

 

「どうさないました?」

 

 彼女が”あっ……”と、少々後悔しているような素振りを見せたので、ファーレンハイトが聞くと、彼女はためらいがちに、数時間前とは逆のことを言い出した。

 

「貴方たちに骨を折ってもらっておきながらですが、それならば大将に昇進すべきだったかなと」

「お望みでしたら、今すぐ手続きをして参ります」

「昇進したいわけではありません。ただ、部下である侍従武官たちを昇進させたいと思ったの」

 

 彼女は侍従武官長の地位を退くつもりだったので、大将昇進を拒否したのだが、結果として続投することに。ならば大人しく大将の地位を授かっていれば、部下たちも一緒に引き上げることができたのではないかと。その考えにいたり、昇進しておけば良かった……と考えたのだ。

 

「そういうことでしたか」

「実際に仕事をしているのは彼らですしね。軍人の部下を持ったことがないので分からないのですけれど、私が昇進させたいと言わない限りは、昇進はないのかしら? ファーレンハイト」

「システム上はそうなっております」

「私にその機会を見極めるのは、無理ではないかしら」

「そうでもありません。まさに今、絶好の機会にこうして昇進させようとしておいでです」

「……やっぱり、昇進したほうがいい?」

 

 部下たちの昇進について、話をしていたのだが、

 

「それは……実はジークリンデさま」

「なにかしら?」

「大将の地位よりも、厄介……と申していいのかどうか、判断に苦しみますが、とある地位にも就いてはくださらないだろうかという話が参っております」

 

 ファーレンハイトがまた別の地位が……と、大将昇進についての話を一旦打ち切った。

 

「聞かない……という選択肢は選べないのかしら?」

「できることならば、すぐに聞いていただきたいのですが」

「分かりました。夕食を取りながらでいいかしら?」

「はい」

 

 夕食の準備が整ったことを伝えに来た召使いに、”行くわ”とばかりに手で合図をして、彼女は立ち上がった。

 

**********

 

「それで、なにかしら?」

 

 夕食が始まってすぐ、食前酒のキールを口にしたところで、彼女は”今度はなんの地位ですか”と、彼らに聞く。

 

―― よほど、他の者たちに聞かせたくないようですね

 

 フェルナーが給仕役を務め、他を遮断しているので、余程のことなのだろうと。空になったグラスを置く。

 

「私から説明させていただきます」

 

 白いテーブルクロスが皺一つなく掛けられた丸いテーブルに一人座る彼女と、給仕代わりのフェルナー、それよりも二歩ほど離れた位置に立っていたファーレンハイトとオーベルシュタイン。

 そのオーベルシュタインが、いかにも軍人らしく一歩前へと出て、説明を開始した。

 

「ジークリンデさま。銀河帝国は安定を求めております」

「それは分かります」

「この度の内乱の原因は幾つもありますが ―― 」

 

 発端はリッテンハイム侯が引き起こした内乱。この内乱にはさまざまな理由があったが、その一つとして挙げられるのは「フリードリヒ四世が後継者をはっきりと指定しなかった」こと。

 もちろん、皇帝に対しての不満ゆえ、口に出すことはできないが、全ての門閥貴族と、多くの臣民たちはそう思っている。

 フリードリヒ四世は帝国が滅ぶのを期待してのことだが、堅実に暮らし小さな幸せを大切にする者たちにとっては、そんなことは関係ない。不満はあれど、彼らはこの五百年揺るがなかった帝国で、生きて死んでいくことだけを望んでいた。

 内戦の記憶生々しい今、帝国の安定を図るためには、次の皇帝は定まっていたほうが良いと、誰でも考えるところである。

 

「次の皇帝をしっかりと定めて欲しいという感情が、帝国を覆っています」

 

 絶対君主制国家にとって、皇帝はもちろんだが、その後継者も重要な存在。

 

「それは私でも、分かります……続けて」

 

 通常、後継者問題がまっさきに持ち込まれるのは、即位している皇帝のカザリンだが、一歳の幼児に「後継者を早くもうけていただきたい」などという馬鹿は、さすがにいない。

 こういった場合、カザリンの妹弟が据えられるのだが、皇帝の血を引いていたカザリンの生母はすでに故人なので兄弟は望めず。

 

「ゴールデンバウム王家の血を引く乳幼児の死亡率の高さは、ジークリンデさまもご存じかと」

 

 カザリンの健やかな成長を願いたいところだが、願ったところで現実は冷酷である。

 

「滅多なことは言わないように……そう言いたいところですが、確かに心配になるのも分かります」

「後継者に相応しいのは誰かとなり、ゴールデンバウム王家の血を引き、どの門閥貴族も認める人物としてジークリンデさまの名が挙がりました」

 

 内乱に疲れた彼らが現帝国を見渡した際、公認されたゴールデンバウムの血を引く門閥貴族で、もっとも権力を持っている人物が相応しいと考えるのは妥当。

 その該当者がを捜した際、彼らは尚書を決める時と同じく彼女に行き着いてしまった。

 

「門閥貴族の中から、後継者を選んだ結果、私になってしまったのですか」

 

 主流から外れた勢力のないものを立てて、その後ろ盾となり実権を握ろうとする ―― 考える貴族はいても、それを実行する能力を持ち合わせている者はいなかった。

 

 空になったスープ皿は下げられ、少しの間をおいて魚料理が並べられる。ナイフとフォークを持ち、白身を切り分け口へと運ぶ。

 

「はい。本来であれば、皇帝の座を欲し、門閥貴族の血を引いているロイエンタール卿にでも渡せばよろしいのでしょうが、卿はオトフリート四世の血を引いてはおりますが、かの伯爵家は没落し、更新料が支払えず認定はすでに失効のため、弾かれました」

 

―― 貧乏のせいで……でも、あの更新料が支払えないほど困窮って……それは仕方ないとして

 

「公認、非公認を問わず、ゴールデンバウム王家の血を引いている門閥貴族の中で、彼がもっとも優秀ではないでしょうか」

「優秀です」

「帝国の現状を考えたら、優秀な方が後継者に……あっ! かえって優秀な野心家は駄目なのですね。陛下のお子ができたら、すぐに後継者の地位を退く人でなければ、ならないのですね?」

 

―― ロイエンタールが後継者の座では……簒奪する未来しか見えない

 

「そうです。その点、ジークリンデさまでしたら、すぐに降りてくださると、誰もが信じて疑っておりません」

 

 彼女の物心ついた時から行っていた「ラインハルトに嫌われないようにする努力」は、ラインハルトだけではなく、貴族方面にも多大な影響を及ぼし、その結果、彼女が想像もしていない方向へと事態が動いてしまった。

 

「不吉なことを申しますが、後継者が定まらぬまま陛下が夭折なさった場合、帝国はまた、混乱することでしょう。その際、ジークリンデさまはいかがなさいますか?」

 

 ナイフとフォークを皿へと置いて、オーベルシュタインをしっかりと見つめ、彼女ははっきりと答える。

 

「被害を最小限に留める努力はするわ」

「門閥貴族たちも、そう考えました」

 

 彼女であれば、カザリンが夭折した場合でも、帝国の混乱を最小限に留めることができる。例え、正式に後継者と定められていようが、いまいが ―― それが門閥貴族たちには珍しい、一致した見解であった。

 

「私が後継者の地位に就けば、全部丸く収まりそうに感じられるわね……」

 

 再びナイフとフォークを持ち直し、残りを口へと運び食べ終え、皿を下げさせる。

 

―― 陛下よりも二十も年上の後継者というのも……カスパー帝の跡を継いだのは叔父のユリウス一世だったことから、年齢だけで後継者にはなれないは通りませんし

 

 彼女は頬杖をついて、誰かに責任を押しつけられないかしばし考えて、小さなため息を吐き出してから、楽しげに笑い出した。

 

「ジークリンデさま?」

「大丈夫よ、ファーレンハイト。おかしくなった訳ではありません。ただ、なんか……ねえ。笑うしかないというのが、正直な気持ち……なんでフリッツさまは、色盲なのかしら」

 

 彼女やロイエンタールより、高位に近いはずのビッテンフェルトの名が出てこないのは、これが原因。

 

―― 艦隊が黒く塗られている理由が、判別しやすくるすためだと聞かされた時は……

 

 劣悪遺伝子排除法は形骸化していると言われているが、完全に廃止されたわけではない。

 男と女ならば、男のほうが皇帝に相応しいとされるが、女は劣悪遺伝子排除法により排除されてはいない。だから特定の薬物に過剰反応する者と、色盲を比較した場合、前者が女であっても皇帝に相応しいとされ、片目の色が違う男と、両目の色が同じ女ならば後者の方が良い ―― 

 

「ジークリンデさま、それは」

「分かってます。話を後継者問題に戻しますけれど、どれか一つに絞れないものなのかしら? オーベルシュタイン。尚書三つに侍従武官長、この上、後継者となれば、地位が過ぎます」

 

 彼女は簒奪の意思ありなどという、身に覚えのない嫌疑を掛けられるのを避けるため、軍から退こうとしていたのだが、簒奪などせずとも、皇帝の地位は、今にも彼女の手に転がり落ちそうな状態になっていた。

 

「銀河帝国の後継者となりますと、過分な地位ではないようです」

「……私に打診をしなかったのは、私が尚書となる前に決めてしまいたかったから?」

「はい。拒絶されることを恐れて」

「そんなところだと思いました。私が尚書になったら、覆すこともできるのに。何をしているのかしらね。オーベルシュタイン、次官たちに急いで決める必要はないと伝えなさい。私は逃げも隠れもしません」

「御意」

「ファーレンハイト」

「はい」

「今回の大将昇進はなかったことに。後継者に定まった際、もう一度話が持ち込まれることでしょう。その時に受けます。手続きなどは任せましたよ」

「畏まりました」

 

 彼らは所用があるのでと食堂を退出し、彼女はフェルナーの給仕で、料理をゆっくりと楽しんだ。

 

「フェルナー。夕食を終えたら、ピアノを弾きます。練習着を選んでおくように」

「はい」

 

**********

 

 フェルナーが選んだ練習着は、彼女が好むタイプ ―― アメリカンスリーブで、首や胸がレースで覆い隠されているサテンオーガンジーのエンパイアドレス。

 生地の色は白みがかったピンク、胸元は薄いオレンジのエンブロイダリー。

 装飾品を全て外し、心ゆくまで曲を奏でる。

 ピアノを弾き終えた彼女は庭へと目をやる。ライトアップされ、闇に浮かぶ白い彫像群を眺めながら、

 

―― 私が皇位継承者ですか。まあ、引き受けたところで、皇帝になる可能性はゼロですから、構いはしませんが……

 

 彼女は自分が皇位継承者に定められるのに関しては、ラインハルトを全面的に信用しているので、自分が皇帝の座につくことなどないと楽観視していた。

 彼女を悩ませるのは、降ってわいたような皇位ではなく、至尊の座に就くであろう人物との離別。

 

―― 離婚さえしてくれれば、陛下に退位署名させて、国璽とともに皇位を引き渡しても……ラインハルトは絶対拒否でしょうけれど

 

 尚書の座に就けるのだから、その地位と権限を使い、速やかにラインハルトに地位を譲り渡す条件として離婚を……ラインハルトがもっとも嫌う方法なのは明らか。

 彼女はそのことを知っているので、

 

―― 無理矢理皇位を押しつけたら、怒りを買えるかも! 陛下が退位書に署名し、私が即位してラインハルトを後継に任命して、即日退位……そうなれば、ラインハルトは不本意であっても皇帝になるしかない。なんか、すごく良い案のような気がする

 

 嫌われることを目的としている彼女としては、妙案に思えてならなかった。

 

「失礼します、ジークリンデさま」

 

 音が途切れてから五分ほど経過したので、彼女が充分曲を弾き満足したことを確信し、フェルナーは背の高いグラスに注いだアイスティーと、マロングラッセをワゴンに、ジョーゼットのボレロと手袋を腕に下げるようにして練習部屋に入ってきた。

 

「フェルナー」

 

 ワゴンを押しつつ彼女に近づき、ボレロを肩に掛け、手袋を渡す。

 身につけ終えたタイミングで、今度はアイスティーを差し出した。彼女はそれを受け取り、一口飲んで、さきほど思いついた妙案をフェルナーに、少し興奮気味に教えた。

 

「確かに妙案ですね」

 

 四角い皿に載せたマロングラッセを、フォークとともに差し出し、同時にグラスを受け取り ―― フェルナーは一応、彼女の案に同意してみせる。

 

「でしょ!」

「ですが、いくつか問題があります」

 

 譲位方法としては、多くの血が流れるわけでもなく、この上なく平和的。

 だがそれが彼女にとって最良か? となると、そうでもない。

 

「なに?」

「絶対君主制国家において、皇帝の権力はあらゆるものをねじ伏せます。例えジークリンデさまが、離婚を条件に皇帝の地位をエッシェンバッハ公に譲ったとしても、公に嫌われていない限り、皇帝の権限で復縁されてしまうのがオチです。条件に復縁不可と盛り込んだとしても、かの公が守るかどうか」

 

 彼女に対する執着。

 それは彼女自身が想像しているよりも、遙かに怖ろしく、絶望的ですらある。

 

「きっと約束を守ってくださると……思うのは、甘い考えでしょうか?」

 

 トリューニヒトとの約束ですら守ったくらいなのだから、この程度のことなら守れるのではないかと彼女は考えたのだが、フェルナーは頭を振る。

 

「甘いと思いますよ。それに、公がその条件を飲まなかったらどうします?」

「どう……とは?」

「離婚を条件に皇位を渡すと事前に密約を交わしたとして、ジークリンデさまが皇位を継いだ後、離婚を拒否したらどうします?」

「女帝の権力で無理矢理離婚を推し進め……ると、皇位を受け取ってはくれなくなりますか」

「ジークリンデさまを女帝に据え置いたまま、公はクーデターを企てるでしょう」

「艦隊戦になるの」

「そうですね。そうなると聞かされたジークリンデ陛下は、ならば……と公の申し出を受け入れ、離婚をせず皇位を譲る。違いますか?」

 

 ラインハルトにキルヒアイス。この両者と武力衝突など、彼女は考えたくもないこと。彼らと事を構えるくらいならば、自己満足と言われようが彼らの条件を飲む ―― なにせ、今話し合っている条件は、彼女から仕掛けたことなのだから、その後始末くらい自分でしなくてはならない。

 

「多分そうすると思います。でも私は再婚ですから、皇后になる資格はないのよ?」

 

 そう彼女は言うものの、ラインハルトがゴールデンバウム王朝の法律に従うかと聞かれたら、はっきりと答えることはできない。

 また彼女以外には、ラインハルトが皇帝の座を奪うこととが、新帝国の誕生に繋がると考える者はほぼいない。

 実際のことろ、彼女もラインハルトが目指していた新帝国の明確な姿は、彼が道半ばで死んでしまったので知りはしない。

 だからフェルナーは現帝国の常識内で答える。

 

「エッシェンバッハ公が”公爵夫人は純潔であった”と証言すれば、容易に覆りますよ」

「……え、あ……」

 

 彼女とラインハルトの結婚は急に決まり、即日式が執り行われてしまい、そのまま一年が経過。ラインハルトと関係を持ってしまったので、いまさら病院で検査をしてもどうにもならない。

 

「レオンハルトさまとの間にお子がいれば、これ以上ない証明になりましたが」

「十年ちかく結婚していて、それは……だって、ほら、皆に証明……」

「純潔の証明はできても、そうではないことの証明は難しいでしょうね。私もジークリンデさまのためならば、法廷で偽証も辞しませんが、それでも主の閨を語るのは、できれば御免被りたいです」

 

 マロングラッセを食べ終えた彼女はアイスティーに手を伸ばす。

 

「……ここは、やはり嫌われる行動を取るべきでしょうね」

 

 証明とは言ったものの、彼女も公衆の面前で、それらを語られるばかりか、語らせるのは人間として避けたい。

 

―― 私が色々手を回さなくたって、ラインハルトならきっとやってのけるでしょう。キルヒアイスもいることですし

 

「本当に、嫌われるといいですね」

 

 ”きっとそれも無理ですよ”と思いつつ、フェルナーはアイスティーが残っているグラスを差し出した。


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