黒絹の皇妃   作:朱緒

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第175話

―― 官房長は原作フェルナーの役職だったような……別に良いわよね!

 

 うっすらと覚えていた役職にオーベルシュタインを配置したあと、思い出さなければいいことを思い出してしまった彼女だったが「記憶が曖昧だから!」そう自分自身に対し言い訳をして、なかったことにした。

 

 それはともかく、尚書就任に際する希望は全て通り、就任式が予定通り執り行われることとなった。

 自ら尚書の座に就くことを決めたので、これからは泣き言などは言ってはいられないと、彼女は任命式に向けて準備に取りかかったが、すぐに頭を抱えるはめになる。

 

「ローブデコルテで良いのかしら」

 

 女性が尚書に就任するのは、帝国五百年の歴史上、初めてのこと。

 式に参列する女性のドレスコードはあっても、就任する女性のドレスコードは存在しない。

 彼女が彼女ではなかった頃の記憶を手繰ってみても、原作において唯一閣僚であったヒルダは、あらゆる式典に男装で臨んでいたことしか覚えていない。

 この世界に門閥貴族の姫として生まれて二十一年、一度もズボンをはいていない彼女は、タイツで隠れるとはいえ膝下がはっきりと現れる男装など、する勇気などないので、記憶はなかったことにして男装案を排除。

 

 次に考えたのは、書類上夫であるラインハルトとは並んで移動する可能性があるので、彼の隣に立った際、調和が取れるような格好はどうだろと ―― ラインハルトに連絡を入れ、衣装について尋ねるとと、貴族服ではなく元帥の正装で参列するとの返事が返ってきた。

 

―― ラインハルトらしい……ラインハルトって皇帝になっても、軍服で通しているイメージが……

 

 それを聞き、彼女は自らも中将の格好をしようとも思ったのだが、いざ軍服を前にしたとき、

 

「尚書になるのですから、軍は退役すべきよね……私設艦隊もけっこう持ってますから。簒奪の気配ありなんて疑われたら嫌よねえ」

 

 自分は尚書就任前に退役するべきであると考え、軍服は却下せざるを得なかった。

 存在しないのは知っているのだが、念のために宮内省と典礼省に、女性が尚書に就任する際の服装について指定はあるのかと問い合わせると、省の方はかなりの混乱し ――

 

「全部、私の裁量に任せるそうよ。適当よね、キスリング」

 

 彼女に丸投げしてきた。

 両省とも伝統としきたりに支配された硬直化した省であり、突発的な事態に対して、対処などできはしない。

 

「適当だとは思いますが、例え他の女性が尚書に初就任したとしても、服装についてはジークリンデさまの、ご意見が求められたのではないでしょうか」

 

 宮中行事やしきたりに詳しく、それでいて門閥貴族の範囲を逸脱しない柔軟性を持っている者は、帝国では数少なく、その中のトップが彼女 ―― だからこそ、彼女が尚書に選ばれたのだが。

 

「そうかしら。まあ、仕方ありません。私が知りうる、帝国門閥貴族子女にとって最上の格好をしましょう」

 

 彼女は白と並べると分かる程度の、黄色がかった最上級の布を使って仕立てていたローブデコルテを選んだ。

 ローブデコルテに関しては、いつでも急な式典に対応できるよう、半年に一度、新しいものを数着仕立てているので、なんら問題はない。

 正装に必要な装飾品は、結婚式やフェザーンの式典で使用したティアラとネックレス、そして揃いのイヤリングを身につけ式に望むことにした。

 

「まさか三度目があるとは、思いませんでした」

 

 衣装合わせのためにローブデコルテに袖を通していた彼女は、父親が贈ってくれたティアラを掲げるように持ち呟き、美容師に手渡して椅子に腰を下ろす。

 ティアラが飾られた姿を姿見で眺め、

 

―― 自分で言うのもなんですけれど、あの頃は可愛かったわー。今は可愛らしさの欠片もないわ

 

 初めてティアラを頭に乗せた時 ―― 結婚式を挙げた当時の自分を、今の自分に重ねて、あの頃は可愛かったわとしみじみ思った。

 

「どうなさったんですか? ジークリンデさま」

 

 目蓋を閉じて悩んでいるような表情を浮かべている彼女に、フェルナーが鏡越しに話し掛けた。

 

「ティアラを被って、しみじみと思ったのよ。あの頃は、まだ可愛らしさがあったわ……って」

「あの頃って?」

「十三歳の頃よ。今ではもう、可愛らしさの欠片もないわ」

 

 ”もしかしたら、フレーゲル男爵は、私が知っているのよりいい人で、私が想像しているよりもずっと優しいから……信用してみようかなあ”と思い始めた十三歳の六月の花嫁だった頃。

 

「同意のしようがないことを言われてしまい、聞かなければよかったと後悔しきりでございます」

 

 着付けの終わった美容師が彼女の側を離れ、大きな姿見にはフェルナーとキスリングと彼女のみが映る。

 

「答えに窮するから?」

「違いますよ。お似合いですし、お美しいですし、可愛らしいですよ、ジークリンデさま」

「嘘でも嬉しいわ、フェルナー」

「私は嘘をつきませんよ」

 

―― それは……もう、その時点で嘘でしょ

 

 その後、アイシャドウの色などを決めて、ローブデコルテから着替える。その間に彼女に呼びだされたファーレンハイトが邸へとやってきた。

 着替えた彼女は紅茶を淹れ、彼らは立ったまま、彼女は座り、それを飲む。

 ある程度味わってから、彼女は本題を切り出した。

 

「ファーレンハイト、私は軍籍を返します。それに関しての手続きを、あなたに任せたいのですけれど、いいかしら?」

 

 尚書の座に就くのだから、軍から身を引くべきだと考えて、侍従武官長を退く旨を伝えた。

 

「私個人としては反対などはございませんが、皇帝陛下がお許しになるかどうか」

 

 カザリンのジークリンデ好きは、誰もが知るところ。

 定期的に訪れなくなるとなれば、機嫌が悪くなるのは想像がつく。

 ”皇帝陛下が~”のあたりは、正式には皇帝ではなく、周囲の侍従や女官たちの意思。彼女が訪れた日とそうではない日のカザリンの機嫌は、まったく違う。彼女はある意味、カザリンの一面しか知らないと、言っても過言ではないほど。

 

「宮内尚書でもお会いできますから、それで許して下さるはずです」

「後任の侍従武官長は誰を?」

「シュトライトを。侍従武官の仕事は、すべてシュトライトがしてくれていたのですから、適任というより当たり前ですわ。あなたが推す人がいるのなら、その人でもいいのよファーレンハイト。侍従武官長の職は統帥本部総長に、最終決定権があるのですから」

 

 聞かれたので答えた彼女だが、よくよく考えなくとも、決定権は目の前で紅茶を味わっている、統帥本部総長にある。そのことを思い出し、無責任に思われても構わないとばかりに。

 

「……」

 

 シュトライトに任せるのには、誰も異論はない。

 だが彼女が退役するとなると ――

 

「なに? どうかしたの、ファーレンハイト」

「ジークリンデさまが尚書の座に就くので、軍籍の返還を申し出ますと、他の軍籍にある尚書たちにも影響が及びます」

 

 彼女の他にも軍籍ある尚書が二名存在する。

 

「エッシェンバッハ公とマールバッハ……ではなくて、ロイエンタール卿ですか」

 

 彼女は返還したのに、他の尚書は返還していないとなると、ロイエンタールやラインハルト、そして彼女などは、誰が返還し、誰が返還しないかなど、まったく気にしないことだが、それが小さければ小さいほど、人間性が小さい者たちが過剰に反応して、ややこしいことになる。たとえば ―― ラングとか。

 

「はい。ロイエンタール卿は将官ですので軍籍は、軍務省のほうで剥奪することもできますが、公は元帥の地位にありその地位が国家により保障されております。自ら返上することはできますが、公がそれをしようとするかどうかは……まあ」

 

 ファーレンハイトの苦笑と、その他の嘲笑、そして無表情。部屋にいる彼らも、ラインハルトが軍人の地位を返すなど、あり得ないと確信している。

 

―― ラインハルトが軍籍を捨てるなんて……ないわよね

 

「他の尚書と、足並みは揃えたほうがいいかしら?」

 

―― ラインハルトと対立するのは、私としても望むところですが……本心としては、消極的に望んでいるといいますか……

 

「私めが、ジークリンデさまの辞表を受け取らせていただき、それから軍務尚書と相談してまいります」

 

 しばらく話し合い、彼女の意思を尊重し、軍務省に辞表を出すことに決まった。

 提出するのは人事局ではなく、軍務尚書に直接。もともと彼女は、当時の複数の尚書たちの思惑により、侍従武官長に仕立て上げられた経緯がある。

 それを考慮すると、軍務省の人事局長には手に負えない”辞表”なのだ。

 

「面倒をかけるわね」

 

 自分が侍従武官長になった経緯は「女帝の側に仕える女性軍人が欲しかっただけ」としか認識していない彼女にとっては、ただの辞表のつもりでしかない。

 

「いいえ」

「ところで、ファーレンハイトの用事はなに?」

 

 呼びだされたファーレンハイトなのだが、彼は彼で彼女に伝えなくてはならないことがあった。

 

「実は私は、ジークリンデさまに大将昇進の内示をお伝えするために、やって参りました」

「……え?」

 

 まさか彼女が軍籍を返すと言い出すなどとは、彼らとしても思ってもいなかった。

 

「門閥貴族の中の門閥貴族、尚書の中の尚書であるジークリンデさまに、中将は相応しくはないと」

「大将? ですか」

「お望みでしたら、上級大将でも用意いたします」

「私が上級大将の地位を望むとでも? ファーレンハイト」

「いいえ」

「それが分かっているのならいいです。それにしても、何もしていないのに大将は……門閥貴族ならあり得ることですけれど、それにしても若すぎでしょう。なにより女性ですし」

 

―― 大体、なぜ元帥にして統帥本部総長たるファーレンハイトが、たかが一将校でしかない私の伝言役などを……

 

 彼女は自らの左手人差し指で、自分自身をさして、

 

「もしかして、退役不可能なのかしら?」

 

 先ほどの辞表、どうするつもりなのとばかりに尋ねた。

 

「いいえ。できる限りのことをいたします。ただ、力及ばなかったときには、このファーレンハイトを叱責なさってください」

 

 彼女に退役の意思があるなど分からなかったので、この話を持ってきたが、彼女が拒否するというのならば別である。

 

「”アーダルベルトのばかー”とでも言えばいいのかしら? 叩いたりはしないわよ」

 

 空になったカップをテーブルに置くために近づいたファーレンハイトを、やや斜めから上目遣いで見つめた。

 

 ”それはただのご褒美ですよ、ジークリンデさま”

 

 キスリングの内心は、その表情から漏れ出していた。

 

 こうしてファーレンハイトとキスリングは彼女のもとを辞し、軍務省へと向かった。

 

**********

 

 彼女はというとフェルナーを連れて、ケスラーが警備を担当するパーティー会場へ。

 

「お待ちしておりました、ローエングラム公爵夫人」

「用意はできていますか? ケスラー」

「はい」

 

 尚書に就任したら、パーティーを開く。これは帝国だけではなく、同盟の政治家も同じこと ―― だが華美を嫌うラインハルトは、これらのパーティーにまったく意義を見いだせず、元帥に昇進した時も、身内であるアンネローゼとキルヒアイスと共に祝っただけ。むろん、今回の尚書就任に際しても、なにもするつもりはなかった。

 

 ラインハルトがこういったことを嫌うのは、彼女も分かっている。以前の彼女ならば、そのままやり過ごしたが、いまは嫌われるために動いているので、この好機を逃がす手はないと、パーティーを開催することにした。

 彼女が受け継いだ邸の一つ、旧リヒテンラーデ公邸を会場とし、ラインハルトのためのパーティーを開く。

 もちろん彼女は彼女単独で、旧ブラウンシュヴァイク公邸で行うことになっている。

 ラインハルトのパーティーにかかる費用は、呆れられる目的があるので、ラインハルト当人に請求する。

 不興を買うために経費削減などせず、正当派門閥貴族が開く絢爛豪華極まりないものを ―― とは思ったのだが、オーベルシュタインに財政状況を調べてもらった結果、彼女が思っていたほどラインハルトの私財は多くなかったので、そこまで派手にしては……ということで、単品でもっとも費用がかかる彼女の衣装は自前で用意することに。その他、これは無理か、あれも無理ね……等と話し合ったその結果、

 

―― 結局、あまり派手にはならなかった。この程度なら、ラインハルトだって気にもしないでしょう。本当はもう少し……でも、これで過剰反応してくれたら嬉しいわ

 

 彼女個人としては、あまりの額にパーティーを開かないと言ってきてくれたら良し。それに自分が腹を立てる素振りをし、関係に亀裂を入れていこうと考えていが、まとめてみると予想していた額よりも、随分と低いものになってしまった。

 

 あくまでもそれは、将来のブラウンシュヴァイク公爵夫人と言われ、他の追随を許さぬパーティーを開き、国家予算で宮中行事の開催に携わっていた彼女の認識においての金額ではあるが。

 

 実際、総額を聞かされたラインハルトは驚愕した。

 彼の懐を直撃するような金額ではないが、自分が必要とは思っていないものに、これほどの額を支払わねばならぬのかと。

 

 彼女は別れを願っている。ラインハルトはそのことを知っている上で、別れたくはない。ラインハルトはしばし考えて、他者の意見を求めることにした。

 もっとも意見が欲しい相手であるキルヒアイスは遠く ―― 通信を入れてもいいのだが、攻略の総指揮官に聞くのは、些か不適切に感じられた。つぎにラインハルトが思いついたのは、彼にとって数少ない門閥貴族の知人である、ヴェストパーレ男爵夫人。

 男爵夫人に門閥貴族が尚書に就任した場合、これほどの額のパーティーを開かねばならぬものなのかを尋ねた。

 艶やかで勝ち気な女当主は、明細をざっと見て、良心的な料金であること、彼女の装飾品が計上されていないことなどを、はっきりと指摘した。

 それは喜んでいいのか、被服費用を出させてもらえなかったことを悲しめば良いのか、ラインハルトには分かりかねたが、妥当どころか低く抑えられていることを教えられ、彼女は自分のことを考えてくれたのだと解釈し ―― 好感度は下がるどころか、ふんわりと上昇する。

 

 そんなことを知らない彼女は、ケスラーとフェルナーを連れて会場の飾り付けを確認し、料理のレイアウトなどを決めていた。

 

「料理の並びはこれでいいでしょう」

「ジークリンデさまは、本当に料理の並べ方にこだわりますよね」

「並べ方だけではなく、味にもこだわっているわよ、フェルナー」

「もちろん、存じております」

 

 実際会場に並べられる料理を、一度に並べる分量の三分の一ほど作らせる。

 

「ケスラー」

「はい、なんでございましょう、ローエングラム公爵夫人」

「料理をとって。味の確認ですから、無作為にね」

 

 少量では味が安定していても、量が増えると味にむらが出たりすることがあるので、試食の段階で、ある程度の量を作らせる必要があり、彼女はそれを一つ一つ試食して判断を下す。

 

「これで最後ね」

 

 採点票を構えているフェルナーに、一口食べては自分基準の点数を告げ、炭酸水を口に含み口内をリセットしてから……を繰り返し、全ての採点を終えた。

 彼女が一口食べただけなので、料理は手つかずに近い状態で残っている。

 これらの料理は、当日警備にあたる兵士たちに、消費を手伝わせることに ――  パーティーを開く度に、こうして料理を片付けていた。料理を奢られる形になる彼らとしては、悪い気などしない。

 職務中だが、グラス一杯程度は黙認されるのが帝国軍。ということで、ウエイターを用意し、全員に酒を配らせる。

 もちろん、これらに掛かる費用は彼女持ちである。

 

「エッシェンバッハ公、このパーティーで私のこと嫌いになってくれるかしら」

 

 帰りの車中、笑顔でそう言う彼女に、フェルナーは彼女以外の者が見たら、身内でも気持ち悪いと断言するほど、彼に似つかわしくない爽やかな笑顔を浮かべ、

 

「ジークリンデさま……。このフェルナー、ジークリンデさまの性格と思考は、それなりに存じておりますが……まあ、無理でしょうね」

「どうして?」

「どうしてでしょうね」

 

 今回の行動の、どこに嫌われる要素があったのだと ―― 彼は彼の姫さまに、優しく返した。

 


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