ファーレンハイトはその後、お怒り気味のベーネミュンデ公爵夫人に呼びだされ、臓腑から深い息を吐き出しつつも向かった。
「大変ですね」
その後ろ姿を見送るキスリングと、
「まあな」
こっちはカタリナさまで苦労したんだから、そっちも苦労してこいよと眼差しが雄弁に語っているフェルナー。
「元帥ともなれば、それなりに偉いものだと思ったのですが」
「門閥貴族出の元帥ならば、それなりに。もっとも、ベーネミュンデ公爵夫人の世界は、陛下とそれ以外だから、ファーレンハイトが帝国騎士でも門閥貴族でも態度は変わらないな」
「そんなもんですか?」
「そんなもんだ。公爵夫人にとっては、リヒテンラーデ公だって、最後まで妾に跪く官吏だったからな。実際そうだったから、考えを変えようもなかっただろうが」
「あー。跪いてたんですか」
「寵姫は刺激しないのが、賢いやり方だ」
「いま寵姫に該当するのは、ジークリンデさまですよね。もちろんご機嫌を損ねるつもりはありませんが」
「そうだな。まあジークリンデさまのように、地位や立場が変わったことを、柔軟に受け入れる門閥貴族のほうが珍しい」
フェルナーはそこまで喋ると時計を確認し、調理室に連絡を入れた。
「ミートパイ、フルーツタルト、オレンジマンゴージュース、ホットココア、ラザニア、アイスバインの用意はできたか? よし」
料理ができあがったことを確認したフェルナーは、彼女が休んでいる部屋へ。
「ジークリンデさま」
声を掛けられ、体を軽く揺すられ目を覚ました彼女は、
―― 一体いつの間に……あれ、ここどこだったかしら?
自分が置かれている状況が思い出せず、見慣れているフェルナーの顔をまじまじと見つめる。いつもと変わらない表情だが、なにかを言いたげでもあった。
聞きたいことでもあるのだろうかと、彼女はフェルナーに問いかけようとした。
「なに? フェルナー……あっ!」
その時、思い出したくないことが、一度に復活する。
彼女は自分がいつ意識を手放したのかは分からないが、机の下で現実逃避している間に意識を失い、それを監視カメラで確認したキスリングが、足音を消して近づき、そっと机の下から連れ出して、クッションが置かれているマホガニーの長椅子に横たえ、薄手のブランケットをそっと掛け部屋を出て、監視カメラで様子をうかがっていたのだ。
揺り起こされた彼女は、フェルナーと共に部屋へ入ったが、気配を消しているキスリングには気付いてはいない。
彼女はフェルナーに部屋から出てと言おうとしたのだが、時間が経ち、やや落ち着きを取り戻してしまったため、追い出したところで何の解決にもならないと気付き、口紅が落ちて彼女本来の、柔らかくくすみ一つない唇は、ひどく困り言葉に詰まった。
フェルナーは彼女の戸惑いを感じるも、知らないふりをして、
「カタリナさまからお手紙を預かって参りました」
カタリナからできるだけ早くに渡すよう命じられた、縁が銀箔で飾られている濃い青色の封筒を差し出す。
彼女は少々怯えたようにそれを受け取り裏返した。
白の蝋で封されている封筒。「K」の飾り文字が影を作っている。
「ペーパーナイフを」
「お待ちください」
シンプルな黒いペーパーナイフを受け取り、彼女は膝の上で丁寧に封を開けた。
手紙の内容は、カタリナは彼女の尚書就任を否定していることを知らせるもので、落ち着いたら会いたいとも書かれていた。
「……私は落ち着くまで、ここに引きこもりますけれど、リュッケは新無憂宮に出仕させるように」
後は追記で、カザリンの三輪車押し要員として、リュッケだけは新無憂宮に通わせてくれるよう記されていた。
「畏まりました」
**********
彼女が休んでから、ファーレンハイトが元帥府へと戻ってきた。
「お疲れさまです、ファーレンハイト」
「……ああ」
彼女が休んでいる仮眠室前の廊下に置かれた椅子。
そこに腰を下ろして、疲れた表情を隠すこともなく、行きと同程度のため息を吐き出す。
「どうでした?」
「なぜジークリンデさまが尚書など、なにを考えているのかと散々説教された。特に”あれを皇后に添えるというのならば分かるが、尚書ごときの地位など相応しくない”と」
ベーネミュンデ公爵夫人が考える、女性最高の地位はやはり皇后である。ベーネミュンデ公爵夫人自身、幻といわれ、結局叶わなかった夢だが ―― その立場にあったからこそ、皇后に相応しい人物を誰よりもよく分かっていた。
「私たちが推薦したわけではないのですがね」
門閥貴族の娘という立場だけで見たとき、ただの子爵家の娘と、権力者の一族に生まれついた彼女とでは、まったく立場が違う。
ベーネミュンデ公爵夫人は皇子を産めば皇后の地位を得られた。だが産まなければ、皇后にはなれない。
そのことはベーネミュンデ公爵夫人自身理解していた。それと同様に、彼女は子を産まずとも皇后の地位に就けることも。だからこそ、彼女を皇后に添えるのではなく、尚書を任せようとしていることに公爵夫人は激怒したのだ。
「ベーネミュンデ公爵夫人には、そんなことは関係ないからな。公爵夫人の説教が済んだら、ランズベルク伯から、諧謔を含んだ詩で注意された」
「よく諧謔がわかりましたね」
「解説してくださったからな。そうでなければ、分かるわけないだろう。伯爵自作の詩だったしな」
「やっぱりそうですか。でもベーネミュンデ公爵夫人ともなると、尚書なんて”ごとき”なんですね。いや、いつもの素振りを見ていたら、そう言うのは分かりますけど」
人臣が到達できる最高の地位だが、公爵夫人にとってはその程度の地位。
「本当に。ところでジークリンデさまは?」
「お休みになられました」
「なにも取らずにか?」
「”太るから嫌だ”と言っていましたけれど、食事を取らせました」
彼女が食べたいと言ったとき、すぐに最良の状態の料理を出せるように作り控えている。彼女の側にいる彼らは、彼女がどの料理を食べたいと言うか? 推測する。
「なにを食された?」
もちろん超能力者ではないので、用意するのは一つだけではなく、幾つかの候補を挙げて全て作らせる。
「ラザニアを」
「量は?」
「ジークリンデさまの一人前、の半分程度です。これ以上食べると、太ると。もう少しふっくらしても良いと思うのですがね」
彼女の一人分は普通の一人分の七割程度の量。彼女としては、男性も女性も同じ量というのは、納得できないのだが、この考えは少数派に属している。
「相変わらず、食が細いな。……そう言えば、料理人も連れてきたのか? それともどこかに注文でも?」
「邸から料理人連れてきました。普通の元帥府は、元帥閣下専属の料理人が働いているので、連れてくる必要はないんですがね」
「雇えと?」
「ジークリンデさまが訪れないとも限らないので、料理人くらいは雇ってもいいのではありませんか? 捜せというのなら、捜しておきますよ。もちろん無料で」
「ジークリンデさまのお口に合う料理人を」
「当然でしょう」
「言う必要などないとは思ったがな。ところで、ジークリンデさまに用意した料理は残ってるか?」
「アイスバインが残ってます。温め直させます」
**********
三尚書就任強要という暴虐から逃走した彼女のために、元帥府が閉鎖され要塞となり、
「自宅待機を命じられました」
ファーレンハイトの従卒ニクラスは、早々に帰宅を命じられ、キャゼルヌ家で夕食を取った。
キャゼルヌ夫人に元帥の自宅をしっかりと守らないと行けませんねと言われ、その気になり、夕食後すぐに邸へと戻る。
「公爵夫人にはなんの実権もないんだろう」
酒をあけながら、キャゼルヌは夫人に、他の人と同じように、お飾りにされるのだろうと語ったのだが、夫人はにっこりと笑って、
「どうかしらね?」
含みのある返事を返した。
その時にはなにも思わなかったキャゼルヌだが、のちのち夫人の意見が正しかったことをすることになる。それも、かなり早い段階で。
彼女が立てこもる元帥府の詳細は分からないキャゼルヌだが、従卒を昼食に誘うことはできる。
翌日、なんの連絡もないが、まじめに邸で勉強をしていた従卒を連れ、フェザーン資本の高級レストランのランチにつれていった。
コースが終わり、コーヒーが運ばれ、少し遅れて仕立てのグレーの良いスーツを着た、やや若めに感じられる支配人が二人の席を訪れた。
キャゼルヌは過去にも何度か訪れたことがあるので、支配人も彼の名や立場や役職を知っているが、今日の同伴者である従卒は初めてなので、非常に知りたがっていた。
名前を出すことも、誰の従卒であるのかも明かさず、キャゼルヌは適当にやり過ごした。
店を出て、二人はしばし歩く。
夏の盛りは過ぎ、秋の入り口が見えるあたりの気温は過ごしやすく、一部では軍が交通制限を行っているが、治安は安定しており、帝国上層部の混乱とは裏腹に、帝国の街中はとても穏やかであった。
「ごちそうさまでした」
従卒がキャゼルヌに昼食のお礼をすると、手を振って必要ないことを伝える。
「俺は無料券を貰っただけだ。強いて言うのなら、無料券の出所である公爵夫人に言うべきだろうな。まあ、公爵夫人としては一々言われていたら、困るだろうが」
「無料券ですか?」
高級レストランに無料券があるとは思ってもいなかった従卒は、不思議そうに尋ねる。
「新しい料理が出来たので、是非とも食べてみてくださいと招待状が届く。帝国の高級店としては、公爵夫人に足を運んでもらえれば、それだけで宣伝になるからな」
彼女の元には定期的に招待状が送られてくる。
あちらこちらの店から送られてきて、とても使い切れないので、それを部下に分配している。ただ招待状には彼女の名前があるので、分配する相手は彼女の名を貶めない程度にテーブルマナーを知っている人物に限られる。
「提督も無料の招待状で?」
「いいや。あいつは、ジークリンデさま宛てに届いたものは、恐れ多いと使わない。そういう所は譲らない、まさに帝国貴族だ。ま、平民のフェルナーも同じだがな」
「支配人が、いつもお世話になっていると言っていましたが」
「ジークリンデさまのお供で訪れるからな。それに、元帥閣下ともなれば、パーティーを開くことも多いから、料理提供の機会も増える。その際に選ばれれば、店の評判が上がるからな」
「そうですね」
「気をつけろ、ニクラス。お前は格好の餌食だ」
彼女に近づける伝ならば、どれほど細くとも頼りなくとも彼らは群がる。
とくに子供であれば、懐柔しやすいと考えることは、容易に想像が出来る。
「気をつけます」
「そんなに緊張しなくていい。お前さんが仕えている元帥は、この種のことには慣れているから、すぐに報告すればいいだけだ」
子供を介して売り込んでくるような輩は、片っ端から拒否するだろうなとキャゼルヌは思ったが、そこは子供扱いされるのが最も嫌な年齢の従卒に言う必要もないだろうと思い、
「早く公爵夫人がもとに戻るといいな」
「はい」
「邸に戻るとするか」
タクシーを拾い二人は邸へと帰った。
**********
―― 泣き言を言っても始まらないという言葉が、これほど似合う状況もありませんね
天蓋のないベッドで目を覚ました彼女は、誰も呼ばずにベッドを降りて、カーテンを開ける。まばゆい朝日に、手でひさしを作り目を細めて、景色を眺める。
女官長だった頃、頻繁に通い見慣れていた庭だが、以前とは少し変わって見えた。
「尚書ですか……尚書か……尚書よね……しょう……」
磨かれた窓に肩を押しつけ、ずるすると床に崩れ落ちる。
―― 嫌だと言っても聞いてもらえませんしね……でも私が尚書とかおかしいでしょ……
「ジークリンデさま! どうなさいました! 起きてすぐ歩かれるから、目眩を起こされるんですよ」
十分おきに様子を見に来ていたフェルナーが、倒れている彼女を見つけて駆け寄った ―― よく見られる光景でもある。
「大丈夫よ、フェルナー」
「体がしっかり目覚めるまでベッドに。昨晩あまり食べていないから、貧血気味になるんですよ」
そんなやり取りのあと、全てにおいて長引かせるわけにはいかないだろうと、一つ一つ事態をこなしてゆくことにした。
まずは彼女を心配してくれたカタリナと会うこと。
同性の友人に会うときは、男性に会うときよりも格好に気合いが入るもの。いつも以上にしっかりとした格好で、カタリナを出迎える。
「カタリナ」
「ジークリンデ」
久しぶりにあったかのように抱擁を交わし、頬に軽くキスをしあい再会を喜ぶ。
「それにしても、酷いわよね。あなたに皇后になれと言うのなら分かるけれど、尚書なんてねえ」
カタリナもベーネミュンデ公爵夫人と同じ考えで、彼女に相応しいのは尚書などではなく皇后であると ―― 皇帝が女性なので、現在は気軽にこの手の話題を語ることが出来る。
「いきなり皇后になれと言われても取り乱しますよ」
「尚書よりはいいでしょう?」
「その二つを比べたら、そうですけれど。もっとも私の持論としては、なりたい人がなるべきだと思うのですが」
―― 尚書と皇后など本来であれば、比べるようなものではありませんしねえ。大体、私が皇后というのは……ラインハルトと離婚しなくては……
自分が皇后になるという可能性を潰し切れていないことにも気付き、彼女はまた気が遠くなりかけた。
「なりたい人に限って、務める器量も才能もないってのが問題なのよねえ」
「そうですね」
「そもそも、戦争や政争、事変なんかで人が死にすぎなのよ。このまま戦争を続けたら、尚書の座が埋まらなくなりそうよね。軍部の輩は気付いているのかしら」
彼女を尚書の座に就けるのは、帝国としては緊急事態以外の何物でもない。
「戦争のし過ぎには、気付いているとは思いますよ。それに新尚書たちに、その咎を問うのはお門違いですよ。戦争を推し進めていたのは、前の三長官たちですから。大伯父上は……興味なかったような気もしますけれど、帝国の維持を考えると、掣肘すべきではなかったかと、私個人としては考えますが、死んでしまった人のことを言っても始まらないのも事実です」
―― 戦争のし過ぎといえば、ラインハルトも……ヤンを正面から打ち破りたがって、結局……
「ところでジークリンデ。あなた、尚書を受けるの?」
「受けたくはありませんが、他の方の正式承認を先延ばしにする訳にもいきませんので。ある程度条件を付けて、就任するつもりです」
「条件ってなに? 教えてもらえるもの?」
「もちろん。第一に他になりたいと仰る方がいるのでしたら、いつでもお譲りする所存だと表明します」
「きっと無駄よ。だって他に人材がいないから、あなたに頼むのだから」
「そうかも知れませんけれど、地方にはそれなりの人材がいると信じたいのですよ。ほら、上官に疎まれて才能あるのに、出世出来ない人とか」
ラインハルトの部下たちを脳裏に描き、地方に見るべき人材が残っていることに期待をしつつ、彼女は地位に就くことにきめた。
「あーそれはありそうね。地位が低いものを正当に評価しないのは、貴族の習性よねえ。他の条件は?」
「オーベルシュタインを官房長に就任させる」
「次官じゃなくて?」
「官房長という役職はないの、オーベルシュタインに実務を任せるために、無理矢理作る役職よ」
「次官はそのまま?」
「そうなりますね。次官がどれほど実務を知っているかどうかを精査して、すげ替えるか据え置くかを決めます。現段階では判断のしようがないので」
彼女が尚書の座に就こうと決めたのには、幾つかの理由がある。
一つはラインハルトが皇帝の座についてから、ヤンを正面から討とうと必死になり大量の戦死者を出すのを知っているので、これを止めるために「ヤン・ウェンリーの暗殺」を企てようと考えたこと。
ヤンは暗殺によって世界は変わらないというが、凡人の人生は大きく変わるもの。例え世界が変わらずとも、帝国同盟あわせて数百万人の命が救われるのであれば、暗殺する価値があるというもの。
ただこれは、尚書とならずとも実行できそうだが、就任したほうが、より一層実行しやすいのではないかと。一度就任しないことには比べようがない。
二つ目には宮内尚書となり、カザリンの教育に本格的に携わろうと考えた。
原作のラインハルトは、権力を握ったあと、新無憂宮には老人だけを残して、エルウィン・ヨーゼフ二世の身の回りの世話をさせた。
新しい仕事につけない老人に、仕事の場を与えたことが、ラインハルトの優しさのように書かれていたが ―― 結果、癇癪持ちの躾されていない怪物が作られただけのこと。
憎いゴールデンバウムの末裔をまともに育ててやるつもりはなかったであろうし、簒奪相手はより愚かなほうが良いと考えたのかもしれないが、エルウィン・ヨーゼフ二世の人生を踏みにじって良いという理由にはならない。
現在、新無憂宮に対するラインハルトの影響力がどれほどかは分からないが、彼女が宮内尚書の座に就くことにより、完全にラインハルトを遮断できるのであれば、就く価値はあると考えた。
他にも理由はあるが、大きなものはこの二つ。
ラインハルトを敵に回す行為だが、嫌われようと努力している最中なのだから、どうということもない。
「自分で聞いておきながらなんだけど、めんどくさいわねえ。ま、辞めたくなったらすぐに辞めるくらいの気持ちでやるといいわ。私も全面的に協力するから。出来ることがあったら、なんでも言ってね」
「ありがとう、カタリナ。話せて、気分も楽になったわ」