黒絹の皇妃   作:朱緒

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第173話

 親兄弟、親族が惨殺されても、夫をテロで失っても、誘拐されたことに気付いても、公衆の面前では決して取り乱すことのなかった彼女だが、三尚書就任打診には驚き、そして叫び逃げ出した。

 

 議場にいた彼女をよく知っている者たちは、まさか彼女がそのような行動に出るとは思っていなかった。

 キスリングはその隙間をすり抜け、ユンゲルスとリュッケと共に議場から素早く立ち去る。

 

 彼女を地上車へと乗せ、フェルナーに状況説明をしながら、議場近くのファーレンハイトの元帥府へ彼女を連れて行った。

 地上車に乗せられた彼女は、まるで凍ったかのように動かず。キスリングは先ほどと同じく、抱きかかえて走り、執務室で彼女を下ろす。

 強ばった表情の彼女に、部屋の主であるファーレンハイトが”大丈夫ですか”と声を掛けると、恐怖が張り付いたような表情が緩んだものの、

 

「みんな出ていって!」

 

 彼女は手に持っていた扇を、床へとたたき付けた。

 公の場で取り乱したこともなければ、物に八つ当たりしたこともなかった彼女らしからぬ行動だが、事情はすでに聞いていたので、ファーレンハイトも驚くことはなく、黙って彼女の命令に従い全員退出し、彼女を一人きりにする。

 

 直後に元帥府を閉鎖し、府内の幾つかにバリケードを設置。

 それと共に、執務室前で執務室内の監視映像を見られるよう細工し、中の様子をうかがう。

 映し出された室内は、床にたたき付けられた扇が転がっているだけで、一瞥だけでは彼女がどこにいるのか? キスリングには分からなかった。

 

「ジークリンデさまは?」

「おそらく机の下だ」

 

 ファーレンハイトの言う通り、机の下の隙間に丸まった彼女が映し出され、まずは安心する。

 その後、フェルナーとオーベルシュタインがやってきて、議場でのやり取りをキスリングから聞き ――

 

「一つなら、引き受けられたのではないかと。あくまでも、個人的な感想ですが」

 

 キスリングはそう締めくくった。

 

「だろうな。キスリング、尚書の警護隊長は大佐が務めることになる。ジークリンデさまが尚書の任を受けた場合、お前も昇級してもらうわけだが、忙しくなるだろうからいまのうちに昇級しておけ。ザンデルス、書類を作ってこい」

「はい」

 

 執務室にいて追い出されたうちの一人、副官のザンデルスは自分に与えられている個室へと戻り、人事局に提出する書類に取りかかる。

 

 その後、ファーレンハイトは幾つか指示を出してから、執務室前に椅子を置いて座り ――

 

「ジークリンデさまは、怖ろしいことに遭遇すると、机に隠れる癖がある。俺がお屋敷に引き抜かれたばかりのころは、雷などが鳴ると、レオンハルトさまの書斎の机の下に潜り込んでいたな」

 

 なぜ彼女が机の下にいるのが分かったのか、キスリングに聞かれて答えた。

 

「実家にいた頃は、旦那さまの机の下に潜り込んでいたそうです。でもジークリンデさま御本人は、怖がっていることを絶対に認めませんけれどね。雷が怖いなんて恥ずかしいとでも思っているのか”狭いところが落ち着くだけです!”と、言い張ります」

「そうなんですか。ジークリンデさま、雷怖いんですか。可愛らしいですよね、パウルさん」

「ああ、とてもお可愛らしいな、キスリング中佐。そう言えば、卿らは二十一歳のとき、何をしていた? 私は工廠の庶務を担当していた」

 

 彼らは互いの履歴書に目を通しているので、二十一歳の時、誰が何処に配属されていたかなど覚えている。

 

「雷が鳴り止まない惑星の軍事基地で、雑用してましたよ。パウルさんが配属されたのは、オーディンの工廠ですか?」

 

 では、何故そんな話をしているのか?

 

「いいや、地方惑星だ。キスリング中佐は?」

「前線にいました。なにがなんだか、分からないまま前線に放り込まれて、気付いたら終わってました。提督は?」

 

 それは単純に彼女が二十一歳で、尚書に就任することになりそうなので、自分たちがその年の頃、尚書になれと言われたらどうするか? と、考えてみるために。

 

「装甲擲弾兵団で、事務を担当していた」

「似合いませんよね」

 

 彼女がおかしな行動を取っていないかを確認しながら、そんな話をしていると、一人の門閥貴族がやってきたとの報告が届いた。

 

『マリーンドルフ伯爵です』

 

 彼女を説得するため派遣された、もっとも無難な人選。

 

「伯爵閣下を門前払いするわけにもいかん。応接室へご案内しろ」

 

 故人となった彼女の父親の知り合いで、彼女自身も面識のある、人柄の良い伯爵を無下に扱うわけにはいかない。ただし、このような状況では、必要以上に敬意を払うつもりもない ――

 

「会うんですか?」

「まさか。俺ごときの身分では、伯爵閣下のお相手はつとまらん。ジークリンデさまが、お相手してくださるまで、待っていただくしかなかろう。ただ俺は、ジークリンデさまのご命令に背くつもりはない」

 

 要はマリーンドルフ伯の訪問を、彼女に伝えないということ。彼女は知らなかったので、会わなくても仕方がない。この場合伝えなかったファーレンハイトが悪いとなるが、その程度の叱責は受ける覚悟はある。

 

「放置というこで、いいんですね? ファーレンハイト」

「伯爵閣下を放置するわけにもいくまい。フェルナー、たしかマリーンドルフ家に縁のある小間使いがいたな?」

「マリーカ・フォン・フォイエルバッハですね。はい、ここに連れてきていますよ」

 

 連絡を受けたとき、本邸にいたフェルナーは、衣類や調度品、そして召使いを連れ元帥府へとやってきて、彼女がしばらくこの元帥府で、不自由なく過ごせるように一室を整えさせていた。

 

「彼女に伯爵閣下のお相手を務めてもらうか」

「分かりました。では伝えてきます。ついでに作業の進行状況も確認してきますね」

「進行状況?」

「あなたの仮眠室を、ジークリンデさまがお休みできるよう、改造させているので」

「そうか」

 

 そうこうしている間に、提出する書類が完成し、キスリングはそれを受け取り、軍用車に乗り込み一人軍務省へ。

 

 人事局にキスリングが書類を提出していると、シュナイダーが血相をかえてやってきて捕まり、そのままメルカッツの元へと連れて行かれることに。

 シュナイダーは連絡を受けたオーベルシュタインが、理由も告げず、仕事もそのまま早退したので、何事かが起こったことは分かっていた。

 メルカッツに現状説明を求められたキスリングは、議場でのやり取りから、彼女が元帥府に立てこもったことなどを伝えた。

 

「……という事情で、ただいまファーレンハイト提督の元帥府、および統帥本部は閉鎖となっております。軍務尚書閣下にはご迷惑をおかけしますが、ご理解の程よろしくお願いいたします」

 

 話を聞き終えたメルカッツは、やや天を仰ぐかのように首を傾け、深いため息をつく。

 側に控えて事情を聞いたシュナイダーは、ため息こそつかなかったが、表情は驚きに満ちていた。

 

「理由は承知した。公爵夫人の尚書就任に関して、儂はなにも協力はできないが、そちらが落ち着くまで、業務のほうはできる限り代行しよう」

 

 性格もあるが、軍務尚書という立場上、政治に深く関与するわけにもいかないので、決まるまでの補佐を申し出るに留めた。

 メルカッツ個人の意見としては、彼女の尚書就任は賛成だが、あまりにも時期尚早ではないかと懸念もしていた。あとメルカッツに出来ることは、軍務省で事務局長代理を務めているオーベルシュタインを解任し彼女の元へ返すことくらい。

 

「ありがとうございます」

 

 メルカッツのもとを辞し、シュナイダーと共に人事局を再び訪れ、昇進手続きを終えた。

 

「尚書の地位を同時三つか……」

 

 キスリングは要らないといったのだが、シュナイダーが閣下からのご指示だから送ると、キスリングが乗ってきた軍用車を部下に運転させ、軍務省のほうで用意した地上車に乗せ彼も付いてきた。

 

「二十一歳の女性……このさい女性は抜きにしても、二十一歳で侍従武官長で中将。その上、なんの経験もなくいきなり三省の尚書となれば、ジークリンデさまでなくとも、取り乱しても当然だ」

「爵位には相応の責任が付いてくるとは言うが……それにしても、尚書は兼任してもいいのか?」

「パウルさんが調べているが、どうも尚書を兼任してはいけないという法律はないらしい。まあ、司法尚書がそこら辺を調べないで、打診してくるとは考え辛いから、おそらく存在しないんだろう。ジークリンデさまが、尚書を受けるかどうかは分からないが」

「私個人としては、事務局長代理が引き抜かれてしまうから、尚書には就任して欲しくはないな。閣下は近々、中将の代理を外して正式に事務局長に就任させたいと考え、打診もしていたのだが、こうなったら返すしかないからな。事務局の溜まった仕事が、見事に片付いて行く様はすごかったぞ」

「あの人、本当に有能だよ。だから、ジークリンデさまが尚書に就任なさった場合は、補佐官にするとのこと」

「オーベルシュタイン中将なら、三省でも回せそうだが」

「可能だろうなあ」

 

 二人が乗った地上車は、出入り口を装甲車で塞がれている元帥府に到着し、シュナイダーは仕事の一部をこちらで請け負うと告げ、モニターに映る机の下からはみ出している、紺色のドレスの裾に”そういうことか”と納得し、帰っていった。

 

「提督。あの入り口に置かれたレーションは?」

 

 帰ってきたキスリングは、執務室にアラバスターのトレイに乗せられたレーションという、相反しているものが置かれているのに気付く。

 

「せめて食事くらいは取っていただきたいと考えて。いつもならば、興味を持って近づいて下さるのだが、今回は目新しさも効力を発揮しなかったようだ」

「そうでしたか」

「俺は尚書連中に呼びだされたので、会って話を聞いてくる。その間の護衛は任せた」

 

**********

 

 ジークリンデ・ツィタ・フェオドラ。

 無数の爵位を持つ彼女が尚書に選ばれた理由は、非常に単純なものである。

 

 宮内尚書に選ばれた理由は、神聖不可侵とはいえ、皇帝の権力や権威が思わしくない現在、帝国筆頭の門閥貴族が尚書となれば、権威を取り戻す切っ掛けにもなるであろうと。

 また本人はすっかりと忘れているが、彼女は二十一歳にして新無憂宮に十年務めたキャリアがある。

 年数でいえば中堅どころだが、女官長に宗主代理、そして侍従武官長と二十年、三十年働いている者たちよりも、はるかに重要な仕事を任され、完璧にこなしていた。

 なにより宮中行事に関しては、細部に至るまで完璧に覚えており、誰もが彼女に仕事を任せることに、疑問を抱かないほど。

 

 典礼尚書に選出された理由は、宮内尚書に選ばれた理由と重複するが、彼女は帝国において、皇帝の覚えがよく、他の門閥貴族を寄せ付けない大貴族である。

 今年の貴族名鑑のトップにその名が記載されることは確実。

 今現在、そんな彼女に文句をつけられるような門閥貴族はいないので、貴族同士の諍いを収拾させるのに、その力を発揮する。

 また、彼女は他の貴族と違い、一族以外の門閥貴族にも非常に好かれていることも大きい。

 

 国務尚書に選ばれた理由も、上の二つと同じようなもの。国務尚書の仕事の一つに、他の尚書たちを調整するというものがある。

 今回の尚書選びは、今までとは大きく一つ違うところがあった。―― 有爵貴族当主の推薦が一定数必要というもの。

 一定数を得るためには、必ず彼女の票が必要。彼女の不評を買えば、その地位から追放される。その就任方法から、彼女の意向を無視することはできず、また、従うのは当たり前のこと。

 彼女以上に各省の諍いが起こったとき、仲裁できる権力を持った門閥貴族は存在しない。

 

 とにかく彼女は血筋からいっても、現在の権勢からいっても門閥貴族の中で抜きん出ている。

 ここまで権力を持った公爵夫人を無視するわけにはいかない。

 通常であれば、公爵夫人の夫にその地位が与えられるのだが、彼女の夫は門閥貴族がもっとも嫌う成り上がり軍人のラインハルト。

 彼女の夫ゆえ、門閥貴族はラインハルトが一尚書の地位に就くことを黙認したが、この他の尚書の地位までくれてやる気にはなれない。

 ラインハルトに尚書の座を兼任されるくらいならば、彼女が就任したほうが貴族たちは納得できる ―― 帝国の政治を円滑にするのに、彼女という神輿はこれ以上なかった。

 

「……というわけだ。わざわざ説明されずとも、分かってはいたが」

 

 議会での彼らの言い分を録画して帰ってきたファーレンハイトは、再生しながら、我関せずといった表情で報告する。

 

「まあ、そうでしょうね」

 

 カタリナに呼びだされ、新無憂宮に出向いていたフェルナーは、やれやれと言った表情で彼らの言い分を聞いていた。

 

「やつらは、やつらなりに、ジークリンデさまのことを高く評価していた」

 

 再生されている映像はまだその部分にさしかかってはいないが、そんなものは、聞かなくても分かった。

 

「三尚書就任を無効にしなければ、彼らの推薦を取り消すとは、決して言わないと踏んでるんでしょう?」

 

 彼女にはそのような交換条件を提示することも出来るのだが、身辺調査をさせ、話し合って、この人になら尚書を任せても大丈夫だと考えて推薦した以上、彼女としては撤回するつもりはない。

 

「ご名答。ただジークリンデさまの場合、単純にそれに気付いていない可能性も極めて高い」

 

 むろん、そんな取引ができるなど、机の下で膝を抱えている彼女には、思いも寄らないこと。

 

「私たちが”こういう条件で逃げられますよ”とお伝えしたところで、絶対に使わないでしょうけれど」

「まあな。あいつらも、それに関しては、確信していた」

「腹立たしいですね」

「まったくだ。ところで、カタリナさまはなんと?」

「カタリナさまは、ジークリンデさまの尚書就任は反対だそうです。それを伝えたかったことと、あとはジークリンデさまの宮内尚書就任を後押しした、フォン・ビッテンフェルトの目の周りの隈は、カタリナさまのパンチによって作られたものだそうです」

「あーあれか……他は?」

 

 議場のビッテンフェルトの顔を見て「なんだ?」とは思ったが、触れずに帰ってきたファーレンハイトは、少しだけ謎が解けてすっきりとした。

 

「あんたらが尚書になればいいじゃない! と、お怒りでした。他の尚書ならまだしも、宮内と典礼なんて、門閥貴族以外では務まりませんがね。まだしもとは言いましたが、他の尚書も御免ですが」

「それ、言ったのか」

「まさか。そんなこと言ったら、私の目の周りにも隈が出来ていたことでしょう」

「そうだな」

「選ばれた理由も分かるんですよ。ジークリンデさまは、リヒテンラーデ公の側で、政治の裏側を肌で感じてきた分、バランス感覚が非常に良いお方ですしね」

 

 彼女自身は賄賂は嫌なものだと理解しているし、奴隷や農奴なんていないほうが良いとは思っているが、政治と絡めて考えると、簡単に解放したり、賄賂を廃止、厳罰化したりなどとは考えない。それはあまりにも現実的ではない ―― そういうことを彼女は理解している。

 

「貴婦人はそんなものに興味を持ってはいけないからな。だが、まったく分からないのも困る」

「ところで、この動画どうするんですか?」

「なにもしないが。ジークリンデさまご自身がお決めになることだ。こんなのは、必要ないだろう」

「まあ、そう言うとは思ってましたが、なんの為にわざわざ”録画させてもらう”と言って、記録してきたんですか?」

「あいつらが勝手に”これ”を使って説得してくれると、勘違いしてくれるのではないかと考えて」

「相変わらず酷いです。私も同じことをしますけれど」

 

 再生されていた映像を止め、消去した。

 


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