黒絹の皇妃   作:朱緒

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第172話

 やっと彼女に呼ばれ、面会することが叶ったケスラー。

 ケスラーに対して、何らかの処分を与えることをすっかりと忘れていた彼女は ―― 忘れていたとは言えなかったので、呼び出しもせず放置していたことを罰だとし、許したのでこうして呼んだのだと、フェルナーに言わせた。

 

―― 私が言うと、きっとどこかにほころびが出てしまいますから

 

 ケスラーは跪き「お嬢さまのご寛恕……」等、難しい言葉で、彼女が許してくれたことに関して感謝を述べてくるのだが、

 

―― 胸が痛みます。ごめんなさい、ケスラー。私は寛大なのではなく、単に忘れやすいだけです。恨みとか辛みとか、継続できない性格なだけです

 

 言われれば言われるほど、彼女は決まり悪く、跪いているケスラーの後ろに立っているフェルナーの人の悪い笑顔が、気になって仕方なかった。

 

「そのくらいで良いわ、ウルリッヒ。ところで、フェルナーから渡したいものがあると聞きましたが、なんですか?」

 

 門閥貴族の当主らしく、少々高い位置に置かれている、玉座を模したかのような背の高い椅子に腰を掛けている彼女は、下段に位置しているケスラーに声を掛ける。

 

「こちらです」

 

 彼が持ってきた一つは、彼女が与えたブラウンダイヤモンドが埋め込まれているフルール・ド・リス型のカフス。

 ケスラーは受け取ったが、自分には過ぎるものだと、後日伯爵邸へと赴き、今は亡き彼女の父親に返却を申し出た。

 

「受け取って下さったと思っていたのですが……」

 

 彼女の父親は、ケスラーの申し出を受けてあっさりと受け取ってくれたと思ったのだが、それは甘い考えであった。

 故伯爵は話しに付き合わせ、そして射撃場へと連れてゆき ―― 故伯爵の意図に気付いていた執事が、射撃場へと向かう途中に庭師に水を掛けさせて、上着を脱がせるように仕向けた。

 掛かった水は僅かであったが、故伯爵の射撃場は火薬を使う銃を使用する。

 濡れた上着は火薬が湿気てしまうので、脱ぎなさいと故伯爵に言われては、ケスラーが拒否できるはずもなく、上着は執事の手に渡り、帰宅する頃には、洗濯されしっかりと糊付けまでされており、少々着心地が悪いなと感じ、ポケットの中の違和感に気付くのが遅れた。

 

―― お父さま、なにをなさって……

 

 故人にはもう何も聞くことができないので、彼女は目の前の人物に尋ねる。

 

「それ、嫌だったの? ウルリッヒ」

「いいえ。ですが、お嬢さま。これは、私には分不相応というものです」

 

 言い含めるかのようなケスラーの口調。

 

「でもお父さまも、持たせて帰したのですから、分不相応ということはないでしょう」

「そう言われてしまいますと」

「ですが困らせるのは、私としても本意ではありません。フェルナー」

 

 ケスラーが差し出したカフスを下げるようフェルナーに命じ、呼ばれたほうは心得たとばかりに、カフスを受け取り彼女の手元へと運ぶ。

 彼女はフェルナーの手にあるカフスを一つ摘まみ、掲げるようにして見つめた。

 

―― そこまで気にしているのでしたら

 

 無理矢理持たせても良いことはないだろうと、フェルナーの手にカフスを乗せ、下げるように命じた。

 

「他にもなにかあるようね、ウルリッヒ」

「はい。実はそのカフスを返しに、お屋敷にあがった際”カフスの代わりに”と、旦那さまからこちらをいただきました」

 

 ケスラーは小脇に抱えて持ってきたそれの布を、丁寧に剥ぐ。

 

―― どう見ても絵ですよね。サイズとしては油絵の十号サイズくらいよね。お父さまの所蔵品に、そのサイズで高名な画家の絵ってあったかしら? 購入していたら、一度くらいは見せて下さったはず

 

 一体なにが出てくるのかしらと、彼女はケスラーの手元をじっと見つめる。

 布がひらりと外れ、軽やかなピンク色が目に飛び込んできた。同時に黒い部分も。

 

―― え、まさか……

 

 彼女はその部分だけでも、覚えがあった。

 

「旦那さまからいただいたものです」

 

 そこに描かれていたのは彼女。

 門閥貴族の子女らしく、彼女は幾つも肖像画を描かせていた。その中の一つがケスラーの手元にあったのだ。

 

―― お父さま! ケスラーになにを渡しているのですか! もっと違うのを渡してくださいよ! それとも、なんですか? お父さま、なにか感じ取られていたのですか!

 

 ケスラーが取り出した肖像画は、彼女の肖像画としては最古のもの ―― 今から十八年前、三歳頃のもので、艶やかな黒髪を飾る白と黄色の花冠に、丈こそ長いが、ピンクのキャミソールドレス姿の誰がどう見ても美しい幼児。

 

「お屋敷があのようなことになり、この辺りの年頃の肖像画が失われたとお聞きしたので、返上しに参りました」

 

―― 赤の他人の子供の肖像画なんて、迷惑以外のなにものでもないでしょうに、お父さま!

 

「えーと……ウルリッヒ。それ、嫌ではないのかしら?」

 

 自分がそんなの貰ったら困るわー……と彼女は思うが、ケスラーはそうではなかった。

 

「お嬢さまが描かれたこの絵は、先ほどのカフス以上に、私ごときには分不相応だと自覚しております」

 

 彼女の肖像画(ただし三歳)を飾り、皇帝の絵画にするように敬意を払い、皇帝以上に篤い忠誠心を向けていた。

 

「私の肖像画に、そんな価値も分不相応もありませんよ。だから、厄介でないのでしたら、そのまま持っていてくれると嬉しいわ」

「厄介など!」

「そ、そう。では、それは、改めて私から差し上げます」

 

 子供の肖像画だから気に入ったのか? 自分を気に入ってくれているのか? 聞いてみたかったが、返答次第では彼女自身、困惑してしまいそうなので、そこには触れなかった。ケスラー以外の人ならば、気軽に尋ねられるが ―― 記憶を至上のものと思わず、捕らわれぬように過ごすべきだとは思っていても、これに関しては引きずってしまっても仕方ないと言えよう。

 

「ウルリッヒ。まだ、時間はありますか?」

「はい」

 

 彼女は居心地の悪い椅子から立ち上がり、昔のようにケスラーの手を引き庭へと出た。彼女が越してくるまでは、手入れはされていても、なにかが足りなく色褪せていた芝や植木、彫刻に噴水、花々が息を吹き返している。

 迷路を思わせる丈の低い植木の通路を歩く。

 少し離れた位置には、肩から小銃を提げた兵士たちが、列をなして警備に当たっていた。

 美しい庭には似合わないが、現状ではそれもやむを得ない。

 

「お嬢さま」

「なにかしら? ウルリッヒ」

「先達て、お嬢さまのお屋敷に賊が侵入したと聞きました」

 

―― それには触れないでケスラー……無理でしょうけれど

 

「よく知っているわね、ウルリッヒ」

 

 軍人会館にいたころは、交通制限に検問まで敷いたのだから、憲兵を率いているケスラーが知っているのは当然のこと。

 それは彼女も分かっているが、犯人が犯人なので、彼女としては話題にしたくはない ―― 犯人がミュラーでなかったとしても、あの状況について触れられると、精神的にキツいものがあるので、話題にはしたくはないが、周囲には賊は彼女の元にたどり着いていないことになっているので、ここで過剰反応するわけにもいかない。

 

「警備兵が増員されたので、調べさせていただきました。それで、お嬢さま」

「なに?」

「私にも、賊の調査をさせてください」

 

―― ミュ……ミュラーが! ミュラー!

 

 彼女の警備と賊の調査は、全て私軍が行っているので、キスリングが上手く立ち回ってなんとか誤魔化せている ―― そう彼女は思っている。

 実際は彼女の周囲の者たちは、全員犯人がミュラーであることは知っている。

 厳重な警備はミュラーを捕らえるよりも、賊の侵入があったことを公表し、兵士たちの綱紀を引き締め、さらなる賊の侵入を許さぬようにするためのもの。

 そんな事情を知らない彼女にとって、正規軍を指揮するケスラーまで混ざると、どうなるか?

 彼女どころか、キスリングにもコントロールできない状況となり、犯人が見つかってしまう恐れがあると考えるのが普通である。

 とくにケスラーが、それらに関して有能であることは、彼女はよく知っている。

 

「ウルリッヒ」

「駄目でしょうか?」

「あなたが有能なのは知っていますが、あなたは、あなたの本分である帝都の治安維持に全力を尽くしてちょうだい。私の身辺はキスリングとフェルナーで充分ですし、なによりもあなたにまで賊を調査することを許可したら、彼らの能力を軽んじていると取られてしまうでしょう」

 

 もしも犯人がミュラーでなく、犯人が見つかっていないとしても、彼女は彼らが調査している以上、ケスラーに別口で調査を依頼することはしない。

 彼らが外部に調査協力を依頼するのは良いが、彼女が口を挟みはしない。そういった部分は、全て彼らに委ねている。責任逃れなどではなく、彼女はそれらのノウハウを持たないのだから、口だししてはいけないのだ。

 

 

「そうですね、お嬢さま」

 

 

 彼女はケスラーが、侵入者の調査をすることを認めなかった。だが、彼らのほうが彼女より能力が勝っているので、

 

「オーベルシュタイン。お嬢さまのお屋敷に侵入した賊は、エッシェンバッハ公の麾下の将校か?」

「それを聞いてどうするつもりだ、ケスラー」

 

 ケスラーにはあっさりと気付かれた。

 もともとケスラーは、軍人会館に侵入したのは、ミュラーかキルヒアイスだろうと推測しており、その確証を得るために彼女に調査許可を願い出たのだ。

 鎌を掛けるというほどではないが、彼女の些細な言動からケスラーは確信を得た。

 彼女の元を辞したケスラーは、その足で軍務省へ出向して、事務局長代理を務めているオーベルシュタインの元へと向かった。

 オーベルシュタインは軍務省の一室で、ケスラーにより憲兵隊から追放された元憲兵たちを集めて安全保障局として再編し、さまざまな指示を与えていた。

 それに関してはケスラーも知るところであるが、権限の及ばぬことゆえに、口を挟むことはなかった。

 

「どうするわけでもないが」

 

 ところでケスラーが彼女と対面できたのは、フェルナーが「放置楽しんでます?」と彼女に聞いたのが発端だが、フェルナーが進んでラインハルトの部下と彼女の橋渡しをするなど、あり得ないこと。それはケスラーが彼女の初恋の人であろうが、変わりはない。

 

 ケスラーとフェルナーの間には人がおり、それがオーベルシュタインであった。

 その関係で、こうして彼女に会ったあと、オーベルシュタインに礼を言うと共に、話した内容を開示していた。

 無論この内容は、そのままフェルナーへと流れてゆくことになる。

 

「では質問を変えよう。卿は誰が怪しいと考えているのだ」

「候補は二名。キルヒアイス提督かミュラー提督だ」

 

 彼女が聞けば「キルヒアイスはあり得ないでしょう」と思うところだが、キルヒアイスがアンネローゼに惹かれていることを、確信している人は、そう多くはない。

 なにより彼女はラインハルトの好感度を上げるため、キルヒアイスにも同じようとまではいかないが優しく接していた。

 寵姫であったアンネローゼよりもキルヒアイスに近づき、話をしやすい立場にあった彼女は、傍から見ると ―― キルヒアイスが好意をいだいても、おかしくはないほど。ゆえにケスラーがミュラーと共に候補にあげても、不思議ではなかった。

 

「その根拠は」

 

 ミュラーが侵入した旨を聞いているオーベルシュタインは、候補にキルヒアイスが挙げられてもなんら反応を示すことはない。

 

「卿らが賊を捕らえていないからだ」

 

 彼女相手ならば、嘘をついていることを見抜けるケスラーだが、表情が一切動かないオーベルシュタインの感情を読むことは、出来ないに等しかった。

 

「犯人が分からないだけだとは、考えぬのか?」

「オーベルシュタイン。卿は私よりも余程有能で、犯人を見つけられないということは考えられない。お嬢さまの周囲の将校も同じ。なにより私など比べものにならぬほどの大部隊を所有し、帝国の端まで追いかけることが可能な艦隊を幾つも所持している。そんな卿らが手をこまねいているとなれば、手を出せない役職についている者だとは、私でなくとも予想はつく」

「なるほど」

「賊の正体を一時は、尚書の地位にあるものではないかと考えたが、今日のお嬢さまの言動から、やはり私に近い所属だとはっきり分かった。賊が侵入した後、オーディンを発ったのはイゼルローン攻略の二艦隊。どちらの司令官も、お嬢さまの顔見知りで、庇われても不思議ではない」

「ふむ」

「卿らは、お嬢さまが犯人をご存じなのを知っているのだろう」

「理由を聞いておこうか、ケスラー閣下」

「からかわないで欲しい、オーベルシュタイン。私がそう考えたのは、簡単だ。卿らが誰も逮捕しないからだ」

「犯人が分からぬのだから、仕方あるまい」

 

 無表情であったオーベルシュタインの表情が、気配だけだが僅かに緩んだ。

 

「冤罪を掛けるわけにはいかぬから、事情聴取にも及び腰なのだろう」

 

 犯人が分からないのならば、事情聴取もあるが、犯人が分かっている以上、取り調べをしていると聞けば、彼女はミュラーに詫びつつ、自らの身に起こったことを告白し、疑われている者の潔白を証明しようとしてしまうことは分かっている。

 

 取り調べ=逮捕ではないが、彼女の記憶では、軍の取り調べは、苛烈であるという記憶と、それを裏付けるかのような、裁判前に逮捕された者が大勢死んでいるという資料にも目を通したことがあるので「捕まったら、すぐに助けなければ」と考えてしまう。

 

 人権云々言っている国家でも、取調中に殺してしまうことがあるのだ。人権意識などないに等しい国家では、むしろ裁判まで生きている人がいることに、感心するべきなのかもしれない。

 

「そうか。そこまで分かっているのならば、後は分かるだろう」

「罰するつもりはないのか?」

「騒ぎを大きくするのは、ジークリンデさまの本意ではなかろう。有望な若手将校の未来を潰すことにも、なりかねぬからな」

 

 オーベルシュタインはあえて賊とされているミュラーの名は語らず、ケスラーが候補にあげたどちらとも取れるような言い回しをする。

 

「そちらとしては、逮捕せずなし崩しで終わらせるつもりか?」

「そうなるであろうな。こちらとしては、二度とそのようなことが起こらぬよう、今まで以上に注意をする」

「そうか」

 

 ケスラーはそれ以上は聞かず、仕事へと戻った。

 

**********

 

 それから数日が過ぎ、時間の取れたファーレンハイトとフェルナーからフレーゲル男爵が考えていた、帝国の未来図について彼女はやっと聞くことができた。

 丸一日掛かった内容を、彼女はベッドの中で一人反芻し、

 

「お酒の量が増えていたのは、そのせいでしたか」

 

 一つだけ疑問が解けたことを喜び、横になった。

 

 フレーゲル男爵が自ら考えていたことを、どこまで成し遂げられたかは不明だが、言ってくれたら「えー、そういうことはラインハルトに任せましょうよ」と内心では思えど、きっと協力したと ―― そうしたら、自分の二十歳までの生き方も、もっと別のものになったのではないかとも。

 

 翌日彼女は数種類のチュールを幾重にも重ねた、白みがかったグリーン色のロングスリーブエンパイヤドレスに、ブリーシングの首飾りを身につけ、ショートのオープンフィンガーグローブをはめ、中心が白で縁が紫色のユーストマの花束を持ち、フレーゲル男爵の墓参りへと向かった。

 墓守により毎日しっかりと手入れされている墓石、そして敷地内の芝。

 

「墓参りには似合わない格好ですけれど、レオンハルト好きだったでしょう」

 

 彼女は膝をつき花を添えて、目を閉じてしばらく祈った。祈るうちに自分が空虚になり、体勢が崩れて俯せになってしまった。

 

「ジークリンデさま?」

 

 当たり前だが、心配げに声をかけてくるキスリングに、

 

「大丈夫よ。ちょっとだけ、このままでいさせて」

 

 そう言い、彼女は墓の冷たさを指と頬に感じながら、墓に刻まれている文字を指でなぞりつつ、目を閉じた。

 

―― このまま眠って、目が覚めなければ幸せなんですけれどね……

 

 彼女のしたいようにさせていたキスリングだが、思わぬ人物から彼女を早急に連れてくるよう連絡を受け取ったため、墓に寄り添い眠っているかのような彼女に声を掛けた。

 

「ジークリンデさま」

「……なに、キスリング」

「ロイエンタール卿から。尚書を任命したいので、ジークリンデさまに会議場まで足を運んで欲しいそうです」

 

 キスリングが差し出した手を握り、彼女は身を起こす。

 

「すぐにですか?」

「出来ればすぐに来て欲しいそうです」

「では、着替えてから行きましょう」

 

 いくら急いで来て欲しいと言われても、着ていって良い格好と悪い格好がある。いまの彼女の格好は、墓参りにも相応しくはないが、周囲には誰もおらず、墓の下に眠っている故人が好んでいたこともあり許されるであろうが、尚書を決めるような正式な場所に着ていって良い格好ではない。

 そこで彼女は急いで帰宅し、濃紺に白がアクセントになっているバッスルスタイルのドレスに着替え、ドレスと共に仕立てた同色のつばの小さい帽子に、大きめのルビーがはめ込まれているハットピンを差して被った。

 手袋は光沢のある白い糸で刺繍が施されている、厚手の白いもの。

 靴は当然見えないが、ドレスよりもやや色が明るいもので、ブラックダイヤモンドを散らしたバックルで、ドレスとの色合いを合わせている。

 アイシャドウや口紅など彩度をやや落ち着かせ、

 

「では参りましょうか、キスリング」

「かしこまりました」

 

 呼び出されてから二時間半ほど過ぎてから、会議場へと向かった。

 焦っていないようにも思われそうだが、いきなり呼びだして二、三時間以内に到着するのならば、充分早いといって良い範囲内。

 到着しキスリングとユンゲルス、そしてリュッケを連れて、ドレスの裾を引きずりながら彼女は議場へと向かった。

 入り口の衛兵が敬礼し、彼女は許可が下りているキスリングだけを連れて議場へと入った。

 

―― ビッテンフェルト……どうしたの

 

 到着した彼女に、議場にいた尚書や高官、門閥貴族の当主たちなどが一斉に視線を向ける。その中の一人がフォン・ビッテンフェルト。彼がこの場にいることは、おかしくはないのだが、彼の右目が描かれたかのように青い縁で囲まれていた。

 

―― 殴られた痕よね……あとで聞いてみましょう

 

 どうしたのかな? と思いつつ、彼女は促されるままに席に着いた。

 

「ジークリンデ……いや、ローエングラム公爵夫人」

「なんでございましょう、ロイエンタール卿」

「尚書についてだが、色々と話し合い、あなたに尚書を担ってもらうのが最良であると結論が出た」

 

 彼女は何度か瞬きをして、辺りを見回す。

 彼女のいまだ夫であるラインハルトと視線が合うと、彼は心苦しそうに眉間に皺をよせつつも頷いた。

 

―― 冗談を言っているわけ……ないわよね。ここで冗談なんて……でも、なんで私が尚書に。他にもなりたい人は大勢いるでしょうに

 

「私が尚書ですか」

「そうだ」

 

 ”後見人を”と言いかけた彼女だが、後見人以上に彼女に対してさまざまな決定権を持つ夫・ラインハルトがこの場にいることに気付き、これは確定したことだと分かった。

 

―― 大丈夫、逃げないで頑張るわ、レオンハルト。私は一人ではありませんから

 

 女性の権限を拡大しようとしていたフレーゲル男爵の意思に、少しでも添える好機だと、そこで彼女は覚悟を決めた。

 

「そうですか。私は何省の尚書を、お受けすれば宜しいのですか?」

 

 彼女の質問に、ロイエンタールは先ほどのラインハルトと似たような表情となるも、しっかりと告げた。

 

「宮内省、典礼省、国務省」

 

 三つの省の名を挙げられた彼女は、

 

「好きな省を選べとでもおっしゃるのですか?」

 

 ”そのくらいは、決めて下さいよ”と少々呆れてしまったのだが、彼女の考えるところとは、まったく違っていた。

 

「いいや。選ぶのではない」

「どういうことですか?」

「三つだ。三省の尚書を務めてもらいたい」

「……」

 

 彼女は決して頭が悪いわけでもなければ、飲み込みが悪いわけでもないが、このロイエンタールの言葉の意味するところを理解するのに、五分以上の時間を要した。そして理解すると同時に、椅子から立ち上がり、

 

「いやー! いやああああ! キスリング! 私を連れて逃げてー! 尚書三つなんていやあああ!」

 

 側に控えていたキスリングに抱きつく。

 彼女の言葉を受けたキスリングは、表情を一切変えず命令通り彼女を抱きかかえ、椅子を蹴り上げ議場から走り去った。

 


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