彼女としては故フレーゲル男爵が何を考えていたのか、非常に気になるものの、事情を知っている面々が、国政に深く関与しており、人事異動からこちら、忙しく動き回っているので、一段落するまで聞くのを待つことにした。
―― そう言えば、ロイエンタールが大伯父上の……首を持っていたことについても、まだ聞いていませんでしたね……といっても、ロイエンタールは非常に忙しそうですから、尚書が全員決定してから聞かせてもらいましょう
死者を偲ぶのはいつでも良いだろうと、彼女は軍服を着てカザリンの元を訪れる。
「じく! りゅ!」
行幸以来、寝室にまで持ってゆくほどキャゼルヌ家の三輪車が気に入ったカザリンは、今日も三輪車で散歩をするのだと、”じく”ことジークリンデと”りゅ”ことリュッケを呼ぶ。
リュッケのことは未だに逆臣扱いのカザリンだが、彼がもっとも三輪車を押すのが上手かった。
カザリンは彼女と並んで進むのが大のお気に入り。
日傘を差した彼女と、フードをかぶせた三輪車が並び、話をしたり、歌ったり、詩を朗読したりと、まさに王侯貴族の散歩。
彼女の前後にはキスリングやユンゲルスが警護として付き従っていた。”リュッケ、また怒鳴られるぞ” ―― 前を歩いていたキスリングが、徐々に押し出され自分の隣に来てしまったカザリンに視線を落とす。
斜め後ろから微笑み話し掛けている彼女を見ていると、リュッケはついつい彼女に近づきたくなってしまい、いつの間にかカザリンを前へとやって、自分が隣に立っているいることが多々あった。
そしてカザリンが上機嫌に「じくー!」と横を向くと、立っているのは、トパーズ色の瞳の無口な警護。
先ほどまで満面の笑みだったカザリンが”なんだ、貴様”と言わんばかりの表情に。
”軍服のデザインが若干似ているから、気付くのが遅れるんだろうな”
帝国軍でも珍しい丈の長い上衣を着用しているキスリングは、毎回そう思い、片耳に人差し指を突っ込んで、カザリンの子供特有の超音波にも似た高音の声をやり過ごす。
「りゅー! ぐあああ!」
「陛下、陛下。歩くのが遅くて済みません」
黒い日傘を差している彼女は、カザリンの隣へと行き、膝を折って顔を近づけて話し掛け、途端にカザリンの機嫌は好転する ―― これが、南苑のわりとよくある日常であった。
**********
「儂が話を聞いたのは、パーティーに呼ばれてだ」
ファーレンハイトはメルカッツに「いつフレーゲル男爵から、彼の考える帝国政策について話を聞いたのか」を尋ねた。
からくりと言うほどではないが、門閥貴族が主催するパーティーに招待されるには貴族か、もしくは中将以上の軍人。
フレーゲル男爵は、メルカッツを中将に昇進させ、彼女が参加できない男性だけのパーティーに招待し、話をしていた。
もちろんフレーゲル男爵が主催するパーティーには呼ばず、あくまでも他のパーティーで偶然会ったといった形をとり続けた。
運が良かったと言うべきか、その頃フレーゲル男爵はイゼルローン駐留艦隊の司令官を目指しており、その理由が「彼女のため」だと他の門閥貴族たちにも広く知られていたので、メルカッツと小部屋で話ていても、誰の目にも奇異には映らなかった。
それがフェルナーやファーレンハイトに伝わらなかったのは、単純に彼らとそのパーティーに参加している人々の社会的地位や階級が違ったために、耳に入らなかっただけのこと。
なによりフレーゲル男爵は、政治的なことは彼ら二人にはさせなかった。
彼らの能力を疑っているのではなく、むしろあり過ぎるので、下手に関わらせてリヒテンラーデ公に目を付けられては困ると ――
ファーレンハイトとフェルナーがリヒテンラーデ公にある程度信頼され、よく使われていた理由は、有能であることはもちろんだが、一切政治に関わろうとしなかったことも大きな要因であった。
公にとって政治は門閥貴族出の政治家が行うものであって、平民や下級貴族出の職業軍人などは口を挟むものではないと考えていた。それは彼にとって当たり前のことであり、差別しているという意識などまったくなかった。
軍人よりは政治家向きであったフレーゲル男爵は、リヒテンラーデ公の思考を理解し、公が引退なり死亡なりするまでは、ファーレンハイトやフェルナーを只の軍人にしておかねば、排除されると考えて行動していた。
あとは唯一情報が漏れてしまいそうな、ランズベルク伯には「アルフレット。メルカッツから軍事を習って、あいつらを驚かせたい。だから、私がメルカッツと話をしていることを、あいつらには秘密にしてくれ」と。我が友レオンハルトにそう言われたら、ランズベルク伯が彼らに漏らす筈などなかった。
事情を聞いたファーレンハイトは、礼を言い職務へと戻った。
「ファーレンハイトはどうしたのだ」
彼が帰ったあと、メルカッツはやや呆れたように呟いた。
「閣下が、ファーレンハイト提督の表情について仰っているのでしたら、お答えできます」
あまり表情のない男が、渋面作って現れれば、まして当人が自分の表情にまったく気付いていないとなれば、メルカッツも少しは気になる。
「ほお、知っておるのか」
「はい。ファーレンハイト提督の副官から、事情を聞きました。なんでも公爵夫人が統帥本部総長は自分の上官だからと”閣下”と呼びだしたのが堪えているのだとか」
「ファーレンハイトならば、それは堪えるであろうな」
「閣下。一つお聞きしても宜しいでしょうか?」
シュナイダーはいつも疑問に思っていたことを、ついでとばかりにメルカッツに尋ねた。
彼の疑問は、ファーレンハイトはメルカッツの元にいた時も、あんなに攻撃専門だったのかと。メルカッツに習ったような部分がほとんど感じられず、いつも不思議に感じていたのだ。
「儂のところにいた時は、あれほど攻撃に特化してはいなかった」
「そうですか」
「フレーゲル男爵閣下が、前線に出るようになってからだな。男爵閣下は戦場で待つことが嫌いで、派手な砲撃戦を好み、ファーレンハイトがそれに応え、当人の才能が開花したようだ。門閥貴族の子弟は、大体派手な撃ちあいを好む。それが戦闘になるかどうかは別としてな」
フレーゲル男爵は政治や改革には、我慢強さを発揮したが、会戦では敵を見つけると「撃て、撃て、撃て」しか言わない、かなり短気な性格であった。
「質問にお答えいただき、ありがとうございます、閣下」
攻撃の代名詞とも言うべき、フォン・ビッテンフェルトを思い出したシュナイダーは、疑問が晴れるだけではなく、これ以上ないほどに納得した。
**********
書斎に寝室、バスルームに居間。そして食堂、キッチンと従卒用の個室、これが高級士官の官舎の間取である。
「卿の部屋だ」
官舎以外に居を構えた場合でも、従卒の部屋は用意しなくてはならなず、従卒はそこに住まねばならない。
ファーレンハイトの従卒となったニクラス・フォン・ベッケラートも、元帥の家に住み込むために、彼の副官であるザンデルスに連れられ、ローエングラム公爵邸敷地内にある、別邸へと連れて来られた。
この敷地内に住むにあたって必要なことは、待機していたフェルナーに聞くようザンデルスに言われ ―― ザンデルスは本邸の方へ。
フェルナーの案内で通されたニクラスの部屋は広く、そして必要なものは全て揃っていた。邸内での過ごし方や、緊急事態が起こった場合の連絡先などが登録されている端末を手渡され、部屋で荷物検査を受け、余計なものは持ち込まないよう厳命される。
「ローエングラム公爵夫人の所へ、ご挨拶に向かう。粗相のないようにな」
そして最後に彼女に顔を見せることに。
本来であれば、ファーレンハイトの従卒程度では、彼女にお目通りなど叶わないのだが、敷地内に住むということで、特別に許可が出た。
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ファーレンハイトの従卒をフェルナーに預け、一足先に本邸へとやってきたザンデルス。
「恩に着る、キスリング」
彼は彼女に「提督のことを閣下と呼ぶのをお止めください」と頼むため、同期の伝を頼ってこうして面会する機会を得た。
「着なくていい。俺もあれは……笑ったら、まずいから笑っていないだけだが、見てて面白すぎて」
彼女に閣下と呼ばれるのが面はゆいが、彼女が喜んでいるので辞めてくださいとファーレンハイトは言えず、いままで通りに接しているが、彼女がいない場所では、周囲が威圧感に誰もが目をそらすほど。
決して態度が悪いわけではなく、口調も今まで通り穏やかなものだが、とにかく空気が悪い。
「誰もがお前みたいに、剛胆だったらいいよ。でもな、世の中の人は、そんな剛胆だらけじゃないんだよ。新任の従卒が、着任早々泣きそうで、憐れで憐れで」
先ほどザンデルスが連れてきた従卒は、明らかに「どうしよう」といった表情で ―― 怒っているわけではないので、彼らとしてもなんと言っていいのか分からず。それどころか、大半の者は理由すら分からない。
ザンデルスは幸いと言うべきか、不幸と言うべきか、キスリングから彼女がファーレンハイトのことを、閣下と呼びだしたことを知らされて、それが原因だと分かったので、周囲の空気を落ち着かせるためにも、彼女に今まで通りファーレンハイト、もしくはアーダルベルトと呼んでいただきたいと、頼みにきたのだ。
「俺が剛胆かどうかは分からないが、上手にジークリンデさまに説明しろよ」
「ああ」
準備を整えてやってきた彼女は「間違ってファーレンハイトの副官にしてしまった」と思い込んでいるザンデルスに、特に優しく労いの言葉を掛ける。
「それで、頼みとはなにかしら?」
ザンデルスの頼み事を聞き、彼女の耳を飾っている金地にダイヤモンドを散らし、大きめな真珠がぶら下がるようなデザインのイヤリングを指先で触り、
「そんなに嫌がっていましたか」
嫌がることはしないように、気をつけていたのに……と、内心でショックを受けながら、ザンデルスに尋ねた。
「嫌というわけではなく、上手い表現かは分かりませんが、決まりが悪いようで。小官は、提督は今まで通り公爵夫人に、家臣として扱っていただきたいと思っているように感じました」
ファーレンハイトは彼女にとってただの家臣かと問われれば、誰もが答えに窮するところだが、そこを深く追求しても仕方がない。
「分かりました。ところでザンデルス」
「はい」
「ファーレンハイトのところに、文官から個人的な面会要求はありますか?」
「あります」
「増えてきましたか?」
「増えております」
各省の尚書を決めるのも、そろそろ佳境。さまざまな工作が、彼女の夫や後見人に雪崩のように仕掛けられてきていた。
「賄賂はどう?」
ファーレンハイトは清貧を尊ぶような性格ではないが、賄賂にぐらつくような男でもない。
―― 無駄な努力どころか、積極的に嫌われにいっているのが……かといって、今までこれで尚書が決まっていたようなものですから……
「小官はそこまでは分かりません。フェルナー少将が対応しているようです」
尚書をどうするべきか、後で話し合わなければと彼女が考えていると、フェルナーが従卒を連れて彼女の元へとやってきた。
従卒は初めて見る、彼女の美しさに息をのみ ―― 何を聞かれ、どう答えたのか分からないまま、初の面会が終わってしまった。
その後従卒は、キャゼルヌ家へ。
敷地内での生活に慣れるまで、夕食はキャゼルヌ家で取らせてもらうことになっていた。
そもそもファーレンハイトは帰宅時間も遅く、十四歳になったばかりの従卒を彼の仕事終了まで付き合わせるのは酷である。かといって、従卒に合わせて仕事を切り上げるわけにもいかない。となると、夕食を元帥府で済ませ、一人で帰宅させ、翌朝、今度は敷地内の軍詰め所で朝食を取って、また一人で元帥府へという生活になる。
その上、従卒が住むことになった邸は、住人であるファーレンハイトやフェルナー、そして遅れて越してきて家賃ゼロにされてしまったキスリングにいたるまで、ほぼ彼女が住む本邸に詰めており、誰もほとんど帰宅しない只の荷物置き場。
邸の防犯上、帰宅後に外部と連絡を取ることは禁止されているので ――
「というわけで、なにか困ったことがあったら、俺に言ってくれ。できる限り対処する」
それはあんまりだと、キャゼルヌが慣れるまででいいから、自宅に招待させるよう掛け合ったのだ。
従卒の生活など、そんなものだと思っている彼らは、キャゼルヌの申し出に首を傾げたが、従卒に兵站を教えてやるという名目まで付けてきたので、彼の顔を立てることにした。
「ありがとうございます」
従卒は熱々のクリームシチューが入っているポットパイを頬張りながら、キャゼルヌにお礼を言った。
そこから幾つか会話をし、話題は彼女のことに。
「ローエングラム公爵夫人が僕くらいの歳の時は、どのような感じだったのでしょう」
「お前さん、十四だったか?」
「はい」
「十四の頃は知らんが、十五の時はフェザーン自治百周年記念に、宗主代理妃としてお出でになってた」
キャゼルヌは脳裏にある当時の彼女と、いまこうして食卓を一緒に囲んでいる少年と、一歳違いには、とても見えなかった。
「すごい……ですね」
従卒のニクラスも充分大人びているのだが、宗主こと皇帝の代理を務めた彼女と比べられては分が悪いというもの。
「まあ、すごいお方だな。たしか十五の時には、新無憂宮の女官長にも就任して、先代陛下が亡くなられるまで勤め上げられた。今日拝見したから分かるだろう、二十そこそことは思えぬ迫力と威厳のあるお方だと」
「あら、あなた。公爵夫人は迫力や威厳だけではなく、可愛らしいところも、たくさんおありよ。ニクラス君、お代わりは?」
「いただきます」
従卒は空になった皿を差し出し、新しい皿を受け取った。
**********
彼女は一人で夕食を取りながら、各省の尚書はどうなっているのか? フェルナーに尋ねた。
司法尚書はロイエンタールが継続、ラインハルトは財務尚書の就任が確定している。
この二人は好き嫌いなど関係なく、彼女も早々に同意した。
「宮内省と典礼省と国務省の尚書が、いまだ決まっていないというわけね」
他の決定した尚書に関しては、ロイエンタールとラインハルトから「こいつを推してくれないか」と連絡があり、オーベルシュタインに身辺調査をさせて、ファーレンハイトたちと話し合い、自ら決めていた。
「はい」
―― 国務尚書はマリーンドルフ伯に任せてもいいような……でも、あの人は尚書に興味なさそうですし、娘の七光りもないから無理ですか。七光りなんてなくても、実力は充分なのですが……
「早く決まって欲しいものね」
彼女は水を飲み、口元をナプキンで拭うと同時に、メインが乗っていた皿が片付けられ、続いてチーズとワインが運ばれてくる。
「今まで通り、パーティーを開きますか?」
帝国では毎夜開かれるパーティーで、国の重要な政策が決められていた。
「やめておきましょう。ロイエンタール卿はともかく、エッシェンバッハ公は出席者全員に尚書の適性なしと見なしかねませんから」
だが彼女の支持をすんなりと受けることができる二人は、パーティーで物事を決めるのを好まないタイプであり、彼女もそのことを分かっているので、あえてパーティーは開かず、ひたすら彼らが選ぶ候補を待っていた。
「そうですね。尚書関連は、あの二人が候補を選ばないことには、こっちも動きようはありません。ところでジークリンデさま」
彼女が最後のフロマージュを口へと運んだところで、フェルナーが妙に、にやにやとして、楽しそうに声をかけてきた。
「なにかしら?」
「ケスラー提督放置してますけれど、わざとですか?」
「……」
欺していたのが判明した日に、少しばかりつれない態度を取ったきり ―― 忙しさに紛れ、許すも責めるもしていなかった。
「分かってます、分かってます。色々あって、忘れてしまったこと、このフェルナー分かっておりますとも」
「明日会いに行こうかしら」
「呼びますよ」
「そう? じゃあ、呼んでちょうだい」