黒絹の皇妃   作:朱緒

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第170話

 キスリングからメルカッツが面会を求めた理由を聞いた日、彼女は一人ベッドに潜り込み現実逃避を試みるも、失敗してしまうほどに衝撃であった。

 

―― 大事になって、もう……ごめんなさい!

 

 これはもう、ファーレンハイトに「統帥本部総長になりなさい」と言って済むような問題ではなく、軍務省へと出向いて、人事を混乱させたことを詫びなくてはならないと ―― 彼女は覚悟を持ってメルカッツが待つ軍務省へと赴いた。

 

―― こういうの、出頭って言うのよね

 

 扇のように広がるフリルカラーが特徴的な八分袖の、シンプルなやや紫がかったプリンセスラインのドレス。

 レースは控え目なものの、黒っぽい軍服の中にあって、シンプルとは言えドレス姿は格好は目立っていたが、彼女はそれどころではなかった。

 同行したのはキスリングとフェルナー、そしてオーベルシュタイン。

 彼らは彼女に「嫌ならば断っていいのですよ」と、何事もなかったかのように言ってきたが、彼女としては、まったく関係のない部署の人事に口だしをするなど、考えただけで具合が悪くなるというもの。

 

「お待ちしておりました」

 

 応接室に通された彼女は、ドレスの端をつまんで貴婦人そのものと表現するに相応しい、優雅な挨拶をする。

 促されて椅子に腰を下ろすと、シュナイダーがお茶と菓子を運んできた。

 

―― ガレットにフィナンシェだ。どっちも好き。紅茶はアッサム、私の好みをよく知ってました……調べられた? きっと調べたんでしょうね

 

 気を使わせたなと思いながら、彼女は紅茶を口へと運ぶ。

 

―― 紅茶を飲む度に思うのですが、ブランデーは適量ならば美味しいですが、ヤンのように大量に注ぐと美味しくないですよね。あの人、本当に紅茶好きなのかしら……

 

 透き通る琥珀色に視線を落とし、この場でヤンのことを考えたところで、なんの解決にもならないのだが、重苦しい空気に思わず現実逃避をしてしまったが、とにかく話さなければ始まらない。

 

―― メルカッツって、喋るタイプじゃなさそうですし。どう切り出しましょうか?

 

 紅茶をソーサーに戻し、扇子を握り直して、メルカッツを見る。

 彼女はあの、眠たそうと言われるメルカッツの目元から、表情を読み取ることはできず。

 

「公爵夫人」

「はい」

「少しばかり込み入ったお話をしたいのですが、宜しいでしょうか」

 

 だが彼女の心配を余所に、メルカッツ側から話し掛けてきた。

 

「ええ」

 

 人事を混乱させた責任を取るように言われるのだろうと ―― 軍籍の返還と罰金かな? などと彼女は思索していたのだが、

 

「フレーゲル男爵閣下のことですが、宜しいですかな」

「え?」

 

 ファーレンハイトの統帥本部総長就任に関することだとばかり思っていた彼女は、突然のことに目を見開く。

 

「ファーレンハイトの、統帥本部総長就任については最後に」

「分かりました」

 

 メルカッツがフレーゲル男爵の何を語ろうとしているのか? 彼女は手元の扇子を握りしめ、一言も聞き漏らすまいと全神経をメルカッツに向けた。

 

「小官は今でこそ元帥という地位をいただいておりますが……」

 

 メルカッツは自らの軍の首脳部や門閥貴族に自分を売り込むようなことはしていなかったので、武功を挙げてもなかなか昇進しない人生を送っていた。

 メルカッツ自身は、それに思うことはあっても、やはり彼らに近づこうとはせず、生きて退役するとしたら、中将あたりで終わるのだろうと ―― 妻子もメルカッツの生来の不器用さを知っているので、なにも言うことはなかった。

 そんなメルカッツだが、この二三年、挙げた武功に相応しい昇進をする。

 

「小官の昇進は、フレーゲル男爵閣下のお力添えがあってのこと」

「良人……レオンハルトですか?」

 

 それにフレーゲル男爵が関わっていると聞き、彼女はますます分からなくなり、右後方に控えているフェルナーの方を向き、美しく透き通った翡翠色の瞳で”知っている?”と、視線で尋ねる。

 フェルナーは軽く首を横に振って、知らないと意思表示を見せた。

 彼女は再びメルカッツへと視線を移す。

 メルカッツは紅茶を飲んでおり、静かにカップを置くと、彼女がまったく知らないフレーゲル男爵の一面を語り出した。

 

「フレーゲル男爵閣下は、大望をお持ちでいらっしゃいました」

 

 その内容はフレーゲル男爵が、かつてフェザーンでフェルナーやファーレンハイトに語ったもの ―― 休戦と帝国再建について、メルカッツにも協力を得るために、胸の内を明かしていたのだ。

 驚きで声を完全に失っている彼女に、メルカッツは頭を下げる。

 

「道半ばで亡くなられたこと、このメルカッツも残念でなりませんでした」

「そ、それは」

 

 再び彼女は振り返りフェルナーに視線を向けると、今度は頷き、メルカッツが言っていることを肯定した。

 亡き良人の意外すぎる一面に、彼女は呆然とするしかなかった。

 

「もう少ししてから、公爵夫人に事情を説明し、協力を求めたいと仰っていました」

「あ……協力ですか? 私に出来ることなど、あったのでしょうか」

 

 彼女の当然とも言える問いだが、ここからがフレーゲル男爵がメルカッツを協力者に選んだ理由。

 

 メルカッツの語るには、フレーゲル男爵は、奴隷や農奴を解放するよりならば、平民女性をもっと有効に使ったほうが効率が良いと判断し、その方向で帝国の舵を切るつもりであった。

 

「フレーゲル男爵閣下は、帝国再建の一つの柱として、女性の権利の拡大を考えておられ、それを達成するには、どうしても公爵夫人の協力が必要だとも」

 

―― レオンハルト、あなた何を言っていたの……ちょっ!

 

 扇子を握っていた手からはいつのまにか力が抜け、ソファーに落ちる。

 

「小官は社会政策などには明るくないので、折角のご説明も頭には入って参りませんでしたが、この言葉だけは、はっきりと覚えております。これらの政策を決める際、公爵夫人の意見がもっとも役に立ったと」

 

 何のことだろうか? と、彼女は記憶を手繰るが、微妙に間抜けさが漂う笑いを浮かべているフレーゲル男爵しか思い浮かばず、しっかりと纏められている黒髪を乱すかのように、文字通り頭を抱えた。

 

「良人とそんな難しい話をした覚えはないのですが……」

 

―― 私はお菓子とピアノが大好きな、少し我が儘な権力者の一族のポジションに収まるよう努力していましたし……なにより私、頭悪いから難しい話なんて、出来る筈ない

 

 国家の方針を決めるような会話など、結婚していた九年間でした覚えなど一切なかった。

 

「同盟の仕組みと女性の権利がどうだとか」

「……ああ、そう言えば……」

 

―― あー、同盟の話をしていた時に話したような気がします

 

 同盟は専制君主国家を打倒し、民主主義国家にすると息巻いているが、帝国に住んでいる者にすると、民主主義とはなんだ? というのが正直なところ。現在の帝国に生きている者たちは、民主主義の存在など一切知らない。

 それは門閥貴族も同じで「あいつらは、一体なにをしようとしているのだ」と、フレーゲル男爵が独り言にちかい疑問をこぼした時、それらについて、少しだけ知っている彼女は、語りすぎぬよう注意しながら教えた。

 そういったことは幾つか語っていたので、どれがフレーゲル男爵に影響を与えたのかは分からないが、真面目に話を聞いてくれていたことが分かり、乗り越えたとばかり思っていた彼の死に、少しばかり胸が締めつけられた。

 

―― でも、メルカッツがどう関係してくるのかしら……

 

 女性の権利拡大とメルカッツ。

 まったく関係なさそうな二者を繋いだのは、彼の娘のベルタであった。メルカッツは娘の人生を娘の好きなようにさせ、ベルタは大学を出て仕事をする道を選んだ。

 帝国内で協力者になりそうな人物を捜していたフレーゲル男爵は、娘の生き方を尊重したメルカッツならば、女性の権利拡大政策を理解するだろうと考えて。

 

 実際、フレーゲル男爵がメルカッツに接触してきたのは、娘が就職してからのこと。その時まで、メルカッツの出方をうかがっていたのだ。

 

「フレーゲル男爵閣下が真に軍部を掌握させたかったのは、ファーレンハイトと公爵夫人の背後に控えているフェルナー少将の二人。小官もその意見には賛同しておりました」

 

 フレーゲル男爵は良くも悪くも門閥貴族ゆえ、性急な変化は彼自身好まないので、段階を踏んでと考えており、ワンクッション置く意味でも、メルカッツをそれなりの地位の添えてからと考えていた。

 

「公爵夫人には、公爵夫人のお考えもありますでしょうが、ファーレンハイトの統帥本部総長就任を認めていただけないでしょうか」

 

―― ここで故人の為にと言わない辺り、メルカッツらしいですね

 

 自分の不用意な一言で、思わぬ事実を知ることとなった彼女だが、聞き終えた時には随分と冷静になり、言うことだけは言っておこうと口を開いた。

 

「メルカッツ元帥、お話ありがとうございます。言い訳がましいのですが、私は就任に反対などはしておりません。見苦しい自己弁護になりますが……」

 

 帝国軍の三長官は格が存在する。

 もっとも格が高いのは軍務尚書、続いて統帥本部総長、そして宇宙艦隊司令長官となっている。

 軍歴自体は、ラインハルトよりファーレンハイトのほうが十年以上長いものの、元帥歴はラインハルトのほうが僅かに長い。

 その序列を知っていた彼女は、ラインハルトよりも後に元帥となったファーレンハイトが、序列が上の地位について良いのだろうか? その気持ちが「え?」の発言へと繋がった。

 

「普段でしたら、そんなに表情などには出さないのですが、気が緩んでいたようです。メルカッツ元帥のように、軍歴が長い方でしたら、就任後すぐに最上格の地位に就いても疑問を感じませんが」

 

 積極的に反対したのではなく、ただの疑問。

 その疑問も、すぐに自分で解決を導き出した。

 私軍艦隊を預かっているファーレンハイトに、正規軍の艦隊まで配下においたら、さすがに危険なので、正規軍艦隊を自由に動かす権限のない地位に就くのだろうと。彼女がたどり着いた理由は、完璧なまでに正しかったのだが、理由にたどり着けず、誰かに尋ねていたら、話はここまで拗れなかったであろう。

 

「そうでしたな。小官は粗忽者ゆえ、すっかりと忘れておりました。公爵夫人が怪訝に思われるのも仕方のないことですな」

 

 彼女の生粋の門閥貴族らしい思考と疑問に、彼らは納得した。

 

「リヒテンラーデ公は、そういうの、すごく気にする人でしたもんね」

 

 それを後押しするように、フェルナーが声をかける。

 

「ええ。大伯父上が存命でしたら、きっと許さなかったでしょう」

 

 その後、メルカッツに統帥本部総長に就任するよう説得していただきたいと頼まれる。

 彼女は自分が原因なので「任せてください! ご迷惑をおかけしました!」と引き受けて、そのままファーレンハイトの元帥府へと向かった。

 フェルナーから「今から行きます」と告げられていたファーレンハイトは、いつものように正面玄関で出迎える。

 

 フレーゲル男爵が考えていた帝国の構想には大いに興味はあったが、今はとにかく混乱を収めるため、正直にその時考えたことと、就任を喜んでいることを必死に伝えた。

 

「……という理由で”え?”と言っただけなの」

 

 脇で聞いていた副官や分艦隊司令官や参謀も、等しく彼女らしい疑問だと。それは、ファーレンハイトも同じであった。

 

「そうでしたか。勘違いをしたうえに、ご迷惑をおかけしてしまい、まことに申し訳ございません」

 

 彼女ならばそのように考えるであろうことを失念していたことを恥じ入るが、謝られたほうは「それは違う」と、さきほど抱えたせいで少し髪が乱れた頭を大きく振って否定する。

 

「どう考えても、私が悪いでしょう」

「いいえ」

 

 どちらが悪いかを言い合っても仕方がないので、事態の収拾を図るのを優先した。

 

「統帥本部総長の座に就くわよね」

「はい。仰せのままに」

 

―― 仰せのままって……これで良いのかしら……実力としては、問題ないから良いわよね!

 

「そう、良かった。手続きして、すぐに帰ってらっしゃい。小規模ですが、お祝いをしますから。そうそう、貴方たちも来なさい」

 

 室内の副官や参謀や分艦隊司令官にも迷惑を掛けたので、そのお詫びにと、身内だけのパーティーを開くことにした。

 

―― ところで、シュタインホフには謝ったほうが良いのかしら。でも下手に謝ったりすると……退任後にパーティー開くでしょうから、そこで軽く挨拶しておきましょう

 

 キスリングに連絡を取ってもらい、帰宅して料理や花を手配し、カトラリーを選びながら、収拾がついたようで、ついていないところもあるなと、ため息を漏らしそうになったが、

 

―― ないとは思いますけれど、ここでため息をついて、また問題が起こったら……我慢しておきましょう。ため息つかなくても、生きていけますし

 

 混乱を避けるためには、余計なことを言わないだけではなく、勘違いされる言動は控えるべきだと。

 

「フェルナー。お土産用のワインの用意は?」

「整っております」

「菓子は届いた?」

「届きました。いま分けているところです」

「そう。ピアノの調律は終わった?」

「もうじき終わります」

「では私は着替えてきますから。レオンハルトのことは、日を改めて教えてちょうだい」

「かしこまりました」

 

 一度髪の毛を下ろして結い直し、メイクも落として一から直して、着替えを済ませた。

 ピアノを弾くので手袋を脱ぐため、胸元を銀糸の刺繍とパールで飾った、S字ラインの光沢あるペールオレンジのドレスに合う色に塗り直すことに。

 

「めくって」

「はい、ジークリンデお姉さま」

 

 マニキュアを塗らせながら、彼女は楽譜を小間使いに採用したマリーカにめくらせ、パーティーの間、どの曲をどの順番で弾いて、客をもてなそうかを頭の中で考える。

 

―― なるべく静かな曲で、会話の邪魔にならないように。でも静かであって、暗い曲は論外、タイトルも考慮しなくては。個人的には葬送行進曲、好きですけれど、相応しくないですし

 

 思い立ってすぐに実行に移したパーティーだったが、規模は小さく、資金と人手は潤沢で、主催者(混乱の元凶)は経験豊富であったため、非常に雰囲気よく、招待客たちは料理に舌鼓をうち、酒を楽しむことができた。

 招待客の中には、キャゼルヌ一家もおり、夫妻がファーレンハイトにお祝いを述べた後、娘が「ファーレンハイトおじさん、統帥本部総長おめでとうございます」と……言われた方は、過剰反応を起こすこともなく、普通に返した。

 

―― キャゼルヌ家のお嬢さんたちにとっては、三十を過ぎた男は全部「おじさん」なので仕方ないのでしょうけれど……まあ、ヤンと違って気にしていないようですから、いいですけれど

 

 彼女はピアノを弾きながら、純粋な娘たちの悪意の欠片もない会話に、一人苦笑を浮かべるしかできなかった。

 

 少々豪勢なホームパーティーも終わり、僅かに残った者たちに彼女は声をかけて歩き、最後にファーレンハイトに声を掛けた。

 

「ファーレンハイト」

「はい」

「統帥本部総長就任、おめでとう」

「ありがとうございます」

「これからは、私の直属の上官になるのよね」

 

 侍従武官は統帥本部属で、その長の直属の上司は総長。

 この場にいる誰もが知っていることなのだが、彼女が改めて言うと”そうだったな”と ――

 

「今度から、私も閣下って呼ばせてもらうわ。失礼します、ファーレンハイト閣下」

 

 ドレスの裾をひるがえし、彼女は部屋へと戻っていった。

 後片付けに精を出している召使い以外の、会場に残っていた軍人の面々は、誰彼となく視線を逸らす。

 

「俺はなにか、ジークリンデさまを怒らせるようなことをしたか?」

「はっきりと言いましょう。ジークリンデさまに、悪意なんてありません」

 

 唯一質問に答えたのはフェルナー。

 

「……」

 

 腕を組み眉間に皺を寄せて考えている姿は、後悔しか感じられないものであった。

 

「統帥本部総長、辞めます?」

「ジークリンデさまに、迷惑かけるわけにはいかんだろう。だが閣下なあ……理屈倒れの気持ちが、分かるような分からんような」

 

 少女におじさんと呼ばれても何も感じることはないが、彼女に閣下と呼ばれるのはかなり堪えたようであった。

 


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