黒絹の皇妃   作:朱緒

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第17話

 麓へと降りたところでジークリンデが体調不良を訴えたため、二人は昨晩フェルナーが宿泊したホテルに泊まることにした。

 体調不良の原因は、昨晩の飲酒。

 軽い食事を済ませてベッドに入った彼女は、昨晩の分も取り戻すかのように、すぐに寝息を立てた。

 二人は全室に繋がる入り口と繋がっている、応接間のソファーに長い手足を投げ出すようにして両者とも座り、やや冷めた珈琲を口に運ぶ。

「はあ……」

 二人とも護衛なので、飲酒は厳禁。もう少しすると、交代で休憩に入る ―― 五年も”そう”しているので、わざわざ確認することもない。

「ジークリンデさまはお許しくださっただろう」

「許してくれるとは思っていさ……だが、私の気持ちというものが」

「お前の気持ちなど、俺の知ったことか……アントン」

「なに?」

 ファーレンハイトは乱暴にカップを置き、視線を床へと落とす。

「国務尚書に言われたのだが、ジークリンデさまは年内には再婚なさるそうだ。無論、ご自身の意志ではないが」

 固有の武力を持っていないリヒテンラーデ侯だが、武力を手にしていないとこの先の政局は越えられないだろうことを感じ、頼りにしている彼女に付き従っているファーレンハイトに声をかけた。

 ただリヒテンラーデ侯にとって、ファーレンハイトはあくまでも使用人であって、彼女の夫にして取り込もうという存在ではない。

「誰ですかねえ、その栄誉に預かる幸せな貴族さまは。間違いなく爵位を所持している、前途洋々たる三十代前後の男性。年齢だけならアーダルベルトも該当するけど……」

 フェルナーはふと、ある貴族男性を思い出した。ファーレンハイトも同じ男を思い浮かべ、表情を曇らせる。

「…………」

 次のブラウンシュヴァイク公爵夫人と言われていた彼女を口説く、命知らずの男がいた。彼女がフレーゲル男爵の隣にいる時ですら口説いてくる、フェルナーと同い年の伯爵。

「…………」

 怒り狂うフレーゲル男爵に”靡かないのが面白いのでしょう。レオンハルトさまがお許しくださるのでしたら、口説かれたふりをして興味を削ぎます”と、ジークリンデが宥めようとしたこともある。もちろんフレーゲル男爵は許さなかった。

 あのラインハルトのことを金髪の孺子と蔑むことのないランズベルク伯をして”ジークリンデ。私と約束して。一人きりのとき、彼に近付いてはいけないよ。彼は漁色家だからね”と言われた美丈夫。

「マールバッハ伯か」

 普段は低めながらも、涼しげで聞き心地のよいファーレンハイトの声だが、この名を呼ぶ時は一変する。

「女帝の皇配になって、ジークリンデさまを愛人にするつもりだったりして」

「あの金銀妖瞳……」

 青と黒の瞳を持つマールバッハ伯オスカー。

 マールバッハ伯は母方から継いだもので、父方の姓はロイエンタール。

 彼女が捜しているオスカー・フォン・ロイエンタールその人である。最初に部下捜しをシュトライトに以来したときはロイエンタールであったが、その後、マールバッハ伯を継いで ―― そして彼女と出会うことになる。

 残念ながら彼女の記憶にはマールバッハ伯などなかったこともあるが、このオスカーは非常に彼女に執着を見せる。

 その為、女性に執着しない漁色家という記憶から「よく似ているが別人」と彼女は判断を下した。

 彼女以外に対しては、おおよそ彼女の記憶通りの男なのだが、そんなことは彼女には分からない。

 

 あともう一つ原因があった。それは怖ろしく身分が変わっているのにも関わらず、それ以外はほとんど変わらない人物がいたため ―― 彼女は変異に気付かなかった。

 

「そんな顔しないでくださいよ……でも、なきにしもあらずでしょう。あの男の執着心は並じゃない。あ! 良いこと考えた。二人でジークリンデさまを連れて逃げないか?」

「亡命は可能……かどうか。マールバッハ伯の商売はフェザーンまで広がっている。下手したら叛徒どもの所まででも追ってくるぞ」

「あの伯爵野郎さまならやりそう。あの執着心はなんなの? ジークリンデさまもお可愛そうに。極貧血色最悪家臣と大金持ち漁色家伯爵に、こんなにも執着されて。本当にお可愛そうで、涙が出てくる。二人とも格好だけが救いだけど……あ、救いにならないな。ああ、ジークリンデさまがお可愛そう」

「執着に関して、お前がいえたことか、アントン……そんなことより、任せていた護衛の選出だが、どうなった?」

「見つけてきたよ。ギュンター・キスリング准佐、二十六歳」

「ふむ」

「このキスリング、ミュラーと同期なんだ」

 ミュラーと言われファーレンハイトは一瞬誰のことかわからなかった。ミュラーという姓は多く、一艦隊に五人はいるようなごくごく有り触れたものであった。

「……あの、ミュラーか」

 同期というからには年齢が近いのだろうと考えたとき、一人の若い男を思い出した。五年前、二十一歳だった頃のミュラー。正確には五年前、彼女がフェザーンでやり過ぎたことを――。

「そう、あのミュラー。ミュラーと言えば、昇進して中将になったよ」

「中尉から五年で中将か。ラインハルト・フォン・ミューゼルに勝るとも劣らない昇進速度だな」

「お前と同階級になったな、アーダルベルト」

「そうだな」

「それで、この前途有望な若い中将さまについて、面白いことを耳に挟んだ」

「なんだ? アントン」

「ナイトハルト・ミュラー中将は、五年ほど前、駐在武官としてフェザーンに赴任していた中尉の頃、手痛い失恋をした。いまだその相手を忘れられず新しい恋に臆病……その相手に関しては一切の情報はない」

「……」

「中尉だったミュラーの最も近くにいた女性は……ですよね、アーダルベルト」

 五年前、フェザーンに行けることになった彼女は、フェルナーを部下に、あとはフェザーンに知り合いを作り、情報を流してもらおうと考えて滞在期間中、必死にミュラーを口説いた。

「だな……俺はジークリンデさまのことを悪く言うことはしないが、あれは……ちょっとジークリンデさまが悪い。いくらフェザーンに協力者が欲しいからと言っても……なあ」

 ”どうしたら可愛いと思ってもらえるかしらね”

 仕草や微笑みを研究し、二人に聞いてくる彼女に、二人は顔を見合わせて、眉間に皺を寄せて溜息を吐きながら首を小さく振るの繰り返し。

「凶悪でしたね。ジークリンデさまご本人は、自分が既婚者なので、若い軍人が興味を持つはずがないと思い込んでの行動ですしね。斯く言う俺も、ジークリンデさまがそう考えていることを知っていながら……ですがね」

 事情を知っている、当時二十四歳のフェルナーですら、気を抜けば”お慕い申し上げております”と、何度も呟いたほど。事情を知らない二十一歳の若い中尉には残酷な仕打ちだった。

 彼女本人には自覚なく、オーディン帰還後、彼が駐在武官ではなく前線へと向かったと聞き ―― 仕方ないですね ―― と。それでも将来、自分のことを覚えていてくれたなら、少しは融通してもらえるのではないかという期待があった。

 表面的な事情しか知らないファーレンハイトは、フェザーンに居ないのならば必要ないだろうと、あとは連絡を取ることはしなかった。

「十人中の二人のほうだったわけか」

「たまたま生き延びちゃったみたいですね」

 よく美しいひとを「十人中何人が振り返る」と表現する。彼女の場合、十人中十人、確実に振り返るのは当然。

 それをより一層悪くした表現をフェルナーが思いついた「十人中、八人はストーカーになって、二人は自殺する」ひどい表現だが、これは実に適確であった。

「まあ、いいのではないか。戦死しないのは良いことだろう。おそらく」

「相変わらず適当ですね。前もマイナスのマイナスでプラスとか、訳わかんないことザンデルスに言って困らせてたし」

「そんなこと、言ったか? 言ったとしても、どうでもいいことだろう」

「ひでぇ。言ったことすら忘れてるよ。さすが年寄り」

 

―― いつ、どこで、そんな話をした。ザンデルスに聞いてみるか?

 

 フェルナーも仮眠を取り、一人きりになったファーレンハイトは記憶を探ってみたものの、まったく思い出すことができなかった。

 

**********

 

 休暇後、出仕前に国務尚書の執務室を訪れた彼女は、

「休暇はどうであった?」

「特に何も」

「そうか。ところでジークリンデ」

「なんですか? 大伯父上」

「そろそろ喪服を脱がぬか?」

 喪から明けるよう告げられた。

「黒から灰色に変えたのですが、似合いませんか?」

 リヒテンラーデ侯としては、彼女にはまだ喪に服していてもらいたいのだが、

「似合う、似合わないの問題ではない」

「どのような問題ですか?」

「お前の衣が沈んでいると、新無憂宮の色も沈むと陛下がな」

 皇帝が命じたからには、早々に明けてもらわねばならなかった。

―― 頭が痛いわい

 リヒテンラーデ侯としては彼女の再婚相手が決まるまでは、喪に服させておくつもりであった。皇帝の覚え良く、国事を一手に握る一族出。そしてなにより若く、美しい。喪中の今ですらリヒテンラーデ侯に「時期が来たら考えて欲しい」と再婚話が持ち込まれているような状態。

 これで公式に喪が明けてしまったら……考えるだけで、リヒテンラーデ侯は憂鬱であった。

「……大伯父上」

「なんだ?」

 そんなリヒテンラーデ侯の苦悩に気付いていない彼女は、

「陛下が明るい服を着るよう命じたこと、噂として流してくださいますか?」

 ならばそれを大大的に使おうと考えた。

「それは構わぬが。どうした?」

「地球教徒が私に接触を始めました。夫を失った女は格好の獲物のようです」

「……」

「哀しみが長引けば長引くほど、地球教に引き込みやすいと考えているようです」

 顔だけは知っている召使いが二名ほど、右手に教典を持ち優しい顔で近付いて来た。それは本当に優しい顔で、召使いたちはまったく悪いことをしているなどとは思っていない。

 彼女は二人の身辺調査をフェルナーに命じ、監視したまま泳がせることにした。 

「それで喪服を着ていたのか?」

「いいえ、喪服そのものは、レオンハルトのために着ておりましたが」

「吹っ切れたか?」

―― あれだけ泣かれたら、ファーレンハイトも鬱陶しかったでしょうに……

「はあ、まあ……」

 見慣れた彼女の表情に、僅かな狼狽を見てとったリヒテンラーデ侯は”これであの、痩せた犬は離れないであろう”と確信した。彼女の狼狽とリヒテンラーデ侯の認識には大きな隔たりはあるが、

「ファーレンハイト中将だが」

 導き出された結果は正しいので、それらが訂正されることはない。

「あれがどうかしましたか?」

「元帥となったミューゼルに推薦してやろうかと問うたが、拒否された」

 リヒテンラーデ侯から軍務尚書エーレンベルクを通せば、その程度の人事は軽く通る。

「そうですか」

「いましばらく、お前の側に置いてやれ」

「私としては心強いのですが……」

 彼女としては自分に忠誠を誓ってくれているので、ラインハルトの元で力を蓄え、かの事象の際に助けてもらえたら ―― だが、未来を知らないファーレンハイトにそのように説明をしても致し方なく、また、出撃回数が多いラインハルトの部下になり戦死などしてしまっても困るので、側にいるのならそれでも良いかと。

「出世を棒に振っても、お前の側がいいそうだ。せいぜい、可愛がってやるがいい」

「奇妙なこと言わないでください、大伯父上」

 

 そして喪が明けた彼女は、未来の死亡フラグ回避をする暇がない程、パーティー誘われ口説かれ辟易することになる。

 


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