黒絹の皇妃   作:朱緒

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第169話

―― 遠足は家に帰るまでが遠足。行幸は新無憂宮に無事帰還するまでが行幸!

 

 そう気を張っていた彼女は、ファーレンハイトからカザリンが無事に新無憂宮に到着したという報告を受けた、やっと終わったと安堵した。

 背もたれに頭を預けて、彼女は体の力を抜く。

 

 このご時世、飾り物の皇帝であるカザリンの命を狙う者がいるとは考え辛いが、思いも寄らぬことが起きるのが世の中というもの。

 カザリンは守られたとしても、警備についている兵士たちに死傷者が出る可能性もある。

 

「何もしていないのに、疲れました」

 

 もちろん彼女は何もしていないわけではない。

 カザリンに行幸していただくために……と、する必要もないのだが、慣例に従い宮内省に正規の届け出や、非正規の贈り物をするなどし、他の門閥貴族にも手紙などを出して、軋轢を生まぬよう気配りをした。

 

―― でも尚書には推薦しませんから

 

 宮内省に届け物をした際に会った、数名が次の尚書におさまるのは……言いたげであったが、彼女はそれらは気付かぬふりをした。

 彼らがラインハルトの怒りを買ったというのもあるが、それを抜きにしても尚書が務まるような者には見えなかったためだ。

 

「ジークリンデさま、キャゼルヌ一家を連れて参りました」

 

 彼女は今回の行幸において、最大の功労者である姉妹に、宝石箱を開き、褒美に一つずつ与えた。

 

「好きなのを選んでいいのよ」

 

 これらは人に与えるために購入したものなのだが、支払いなどは全てキャゼルヌが行っているので、表情が引きつっていたが、こちらも宮内庁の高級官吏の進退同様、素知らぬふりをする。

 姉妹と妻には宝石を、キャゼルヌには宝石の鑑定書と貸金庫とその鍵を与える。

 そして部下たちにも労いの言葉をかけた。

 カザリンの三輪車を押して走ったリュッケには、とくに篤く。

 

「リュッケ、どうしました?」

 

 彼女から労いの言葉をかけられたリュッケは”難しい表情”の見本のような表情を作り、

 

「申し訳ございません!」

 

 謝罪を述べると同時に、椅子に腰掛けている彼女の足下に平伏した。

 

「……?」

 

 顔が見えない上に、話も見えない彼女は首を傾げるばかり。

 

―― なにか謝られるようなことしたかしら?

 

 小銃を肩から掛け彼女の側に控えているキスリングが、何をしでかしたのか、はっきり言えと強い口調で命令する。

 

 平伏を続けていたリュッケはその声に促され、彼女へ謝罪しなくてはならない、一連の出来事を語り出した。

 

 リュッケは彼女から、前夫の愛馬バビエカを譲渡された。掛かる費用は全て彼女持ちで、繁殖を望むのならば、それらの費用も持つと。

 全てを渡されたリュッケは、彼生来の真面目さから、バビエカの体調から馬場の状態、そして経費の調査などを行い、

 

「不正ですか」

「はい」

 

 飼育員が不正を行っていることに気付いた。

 掛かる経費が、ある時期から倍近くなっていたのだ。

 

「でもそれは、あなたには関係のないことですよね、リュッケ」

 

 飼育員が水増しを行っていたのは、リュッケにバビエカを任せる前のこと。

 それに責任を感じる必要などないのだが ――

 

「はい……ですが、こうしてジークリンデさまに、直接話すことで多大なご迷惑をおかけすることになると」

 

―― 飼育員の横領で、私、文無しにでもなったのかしら。それはそれで困りますけど……

 

 リュッケが謝る理由が見えてこない彼女。そして控えているキスリングも、リュッケが何を言いたいのか、分からないまま。

 

「いいから、話を進めろ」

「はい、中佐」

 

 不正に気付いたリュッケは、飼育員を問い詰めて、口を割らせる。

 飼育員は馬の餌や薬などを多めに購入し、知り合いの飼育員に渡していた。

 その相手は元リッテンハイム侯の牧場で働いている飼育員。

 売れるような名馬はすでに人手に渡っていたが、それ以外は牧場に残されたまま。

 飼育員は自腹で飼育していたが、それも尽きて、事情を知った知り合いが、悪いことだと知りながら、経費を水増しし飼育費用を捻出し、なんとか馬たちの命を繋いでいた。

 飼育員は馬が好きでこの仕事に就いていたこともあり、食肉業者に売る気にはなれず、飼育員同士の伝を頼って ――

 

「そういうこと。横領した飼育員をまったく罰しないわけにはいきませんが、リッテンハイム侯が飼育していた動物には罪はありませんから、それらは私が引き取りましょう」

 

 門閥貴族たちが飼っていた動物たちが逃げだし、酷いことになっていたことを思い出した彼女は、早急に引き取り貴族として、責任を持って最後まで飼育しようと考えた。

 

「申し訳ございません!」

 

 その彼女の考えを打ち破るような大きな声。

 

「あなたが謝ることではないでしょう、リュッケ」

 

 リュッケは顔を上げずに、彼女に謝罪する。

 彼が謝る理由がまだ分からない彼女は、顔を上げなさいと言うも、彼は表を下げたまま。

 

「いいえ!」

 

 彼女とは違い、側で聞いていたキスリングは、リュッケの言わんとしていることを理解する。

 飼育員の横領など、わざわざ彼女に直接伝える必要はないということ。オーベルシュタインにでも報告すれば、法律に従って彼らを処罰し、リッテンハイム侯が所有していた、値が付かぬ馬たちは全て殺処分にされる。

 

「こうして直接ご報告させていただけば、あの馬たちも助けていただけると浅ましい考えを持ってのことでございます」

 

 リュッケにとって、とくに思い入れがある馬ではないが、乗馬が好きな彼は馬もかなり好きで、見捨てることができなかった。

 そこで彼女に訴えたのだ。

 彼女の資産ならば、残された馬たちの寿命が尽きるまで飼ったとしても、微々たるものにしか過ぎないこと。

 

「そんなに気にする必要はないのよ」

 

 彼女の性格ならば、きっと保護してくれる筈だと ―― だからこそ、伝えるのをためらった。優しさに甘え過ぎていると自問自答し、だが諦めきれず。

 

「……」

「顔を上げなさい、リュッケ」

 

 彼女の命に従って顔を上げたリュッケは、彼が予想し思い描いていたのよりも、遙かに慈悲深く美しい彼女の表情に息をのむ。

 

「よく知らせてくれました。あなたにバビエカを任せて正解だったわね。キスリング、オーベルシュタインにヴィジフォンを」

 

 彼女はオーベルシュタインに、不正をした飼育員は解雇せず、だがなにがしかの罰を与えることと、リッテンハイム侯が飼っていた全ての動物を引き取るよう命じた。

 

『仰せのままに』

 

 表情が乏しいと言われるオーベルシュタインには珍しく、血の気がほとんど感じられない唇を緩めてから一礼し、報告した者をこちらへ寄こしてくれるよう依頼した。

 すぐさまオーベルシュタインの元へと向かおうとしたリュッケの背に、彼女は声をかけた。

 

「リュッケ。オーベルシュタインの処断が気に入らなかったら、すぐに私に言いなさい」

 

 オーベルシュタインの決定は、今まで横領した分を分割で、それに幾ばくかの追徴金を支払わせる程度に留め、あとは今まで通り、動物の世話に携わらせた。

 

**********

 

 リッテンハイムが残した動物問題や、カザリンの教育、いまだ消えない侵入者変態説をどのように軌道修正し噂を消すべきか? ―― 彼女は自らの周囲のことを、一つ一つ片付けていた。

 そんな中、

 

「え?」

 

 そう彼女が呟いたことで、軍部が混乱することになる。

 

 上記の呟きは、非常に疑問を含んでおり、納得できないという感情を、誰もが感じ取ることができた。

 この呟きは、ファーレンハイトが統帥本部総長に就任すると聞いた時に、彼女が漏らしたもの。

 その時の表情も喜色などはなく、困惑しか見られなかった。

 そうなれば彼らが取る行動は一貫している。

 統帥本部総長に就任するはずだったファーレンハイトは、彼女が望まないのならばと、一転して就任を拒否をする。

 ここに来ての拒否にシュタインホフ側は慌てた。

 普通ならばただの貴族の我が儘だが、彼女は帝国軍の幾つかを私財で養い、工廠を持ち新兵器の開発に費用を提供し、正規軍ではカバーしきれない、地方の警備も担っている立場。

 彼女自身にはそんなつもりはなくとも、軍に対して大きな発言力を持つ公爵夫人。

 その彼女が、子飼いの中でも古参の部下の就任に難色を示せばどうなるか?

 

「シュタインホフ元帥は、ローエングラム公爵夫人には事前に何も話していなかったようだ」

 

 シュナイダーはザンデルスの元へとやって来て、どうしたものかと表情を曇らせる。ザンデルスの表情は対照的で、いつも通りに近かった。

 ザンデルスは”まあ、座れよ”と椅子を勧め、コーヒーを淹れ、ミルクと砂糖を持ち、やや乱暴にシュナイダーの前に置く。

 

「なんでジークリンデさまに、根回ししなかったんだよ。最重要人物だろうが」

 

 最後にスプーンを渡して、ザンデルスも席に着き、彼らにはどうすることもできない案件について、愚痴をこぼす。

 

「いままで部下の栄達を拒むようなことを言われなかったから……らしい」

 

 シュナイダーはミルクを少量入れて、スプーンでかき混ぜ口へと運ぶ。

 

「門閥貴族は根回しや賄賂や、宮廷工作で地位を得るもんだろうが。自分がそうやって、統帥本部総長の地位に就いたの忘れたのかよ」

「まあ、忘れてしまったのだろうな。なにせ統帥本部総長になってから、長いからな」

 

 シュナイダーが軍に籍を置いた頃には、すでにシュタインホフは元帥で統帥本部総長。それから今日までその地位に就いていたのだから、忘れてしまっていたとしても、不思議ではない。

 

「ジークリンデさまは陛下の行幸の際に、わざわざしなくてもいい根回しやら、挨拶回りをして、他の門閥貴族たちの同意を取って歩いてたってのに。たしかシュタインホフのところにも、挨拶に行ったはずだぞ」

 

 警備の関係上、軍上層部にも当然のように足を運び、挨拶をしていたが、その時シュタインホフは彼女に何も告げなかった。

 

「その際に話していると思っていたそうだ」

「なにを言おうが、どう弁明しようが、提督の意思を変えるには、ジークリンデさまの同意が必要だ」

「誰か説得できそうな人物に、心当たりはあるか? ザンデルス」

「いない」

「やはりそうか……」

「どうした?」

「いや、メルカッツ閣下が説得なさるおつもりらしい」

 

 シュタインホフに懇願されたメルカッツは、説得することを約束した。

 こういった説得を得意としないメルカッツの行動に、シュナイダーは驚いたが、副官としては驚いてばかりもいられない。全力でサポートするためにこうして、自分の知人で彼女にもっとも近い位置にいるザンデルスの元を訪れたのだ。

 

「ほんと、迷惑かけるな。でも悪いのは、シュタインホフだから。しかしシュタインホフもよく頼めたな。功績あるメルカッツ提督を、ろくに昇進もさせずに、低い地位に置いたままにしていたのは、あいつらだろう」

 

 メルカッツが正当に評価されないことに、真っ当な軍人である彼らは非常に不満を感じていた。

 その評価していなかった輩のトップにいた一人がシュタインホフ。

 

「閣下はそのようなことを、気にするようなお方ではないからな」

「それは、そうだが」

「私は腹立たしいが、言ったところで仕方がない」

「分かる、分かる、歯痒いよな。だがこの二三年は、順調に出世されていたな。もっとも、今までの武功に相応しい地位にやっと就いたってだけだが」

「まあな。閣下のことはともかく、公爵夫人の説得の際に、なにか役立ちそうな情報を集めておこうと思ってな」

「お好みの菓子とか、茶葉とかくらいしか教えられないが」

「そういうことでいいんだ」

 

 ザンデルスは席を外し、毎日仕入れている焼き菓子を幾つか手に入れ、シュナイダーに渡した。

 

「ありがたい。あとでこの分は支払う」

「このくらいは、俺が払っておく。だから上手く説得して、提督を統帥本部総長にしてやってくれ」

「ああ。閣下もファーレンハイト提督には、是非とも統帥本部総長になって欲しいと仰っていたからな」

「そうか。菓子以外だが、気管支が若干弱いから、掃除はしっかり、空気清浄機は必須。強い香りも苦手。室温は俺たちが、少し暑いかなと感じるくらいがジークリンデさまにとっては適温。俺が分かるのはこのくらいだな。提督やフェルナーさんなら、もっと分かるんだろうが。キスリングは日が浅いから、まだそこまでは分からないだろう」

「なるほど……それにしても、一体なにが理由なのだろうな? 私個人としては、あの公爵夫人が、シュタインホフが事前に教えなかったことに腹を立てるとは、到底思えないのだが」

 

 シュナイダーは空になったカップの縁を指で軽く叩き、個人の感想を述べる。

 

「俺もそれには同意だ。だから余計に、見当が付かなくて、困ってるというところもあるんだが。正直、提督やフェルナーさんが分からないものは、俺たちがどれほど考えたところで分かりはしないだろうな。女王さまなら、なにかご存じかもしれないが」

「そういえば、なぜシュタインホフは、ノイエ=シュタウフェン公爵夫人に説得を頼まなかったのだろう。閣下より上手く説得してくださりそうだが」

 

 シュナイダーの問いに、

 

「怖かったんじゃないか」

 

 ザンデルスは間髪入れずに答えて”しまった”。

 

「……」

 

 ”お前、そこまで言ってしまうのか”と、シュナイダー。

 

「……」

 

 ”言うつもりはなかったんだ”と、ザンデルス。

 しばしの沈黙のあと、

 

「……そういうことも、あるだろうな」

 

 シュナイダーは声を絞り出して、強引に纏めた。

 

 シュナイダーとザンデルスの二人は知らないが、シュタインホフは当初、カタリナに彼女の説得を依頼していた。

 カタリナはその依頼をつまらなそうに聞き、一つの条件を出す。

 

「トリスタン・フォン・ベンドリング大佐って覚えてる? 覚えているはずないわよね。ベンドリング男爵家の三男で、統帥本部勤めだったのに、ある日突然前線行きで生死不明。なぜ前線送りになったのか、真実を詳細に教えてくれたら、ジークリンデの説得もやぶさかではないわよ」

 

 シュタインホフの預かり知らぬ男の名が飛び出し、部下に調査させたところ、リッテンハイム侯の圧力で前線に出したことが判明し ―― 現在の帝国でリッテンハイム侯と関係していたと知れるのは、非常に厄介なことなので、証拠を全部消し、分からなかったと伝え、協力を得ることはできなかった。

 

「それにしても、よくジークリンデさまとメルカッツ閣下の面会予約取り付けられたな」

「キスリングに頼んだ。かなり渋られたが、なんとか押し切った」

「片付いたら、奢ってやれよ。間違いなく、提督とフェルナーさんに、これでもかという程に、責められただろうから」

「分かってる。あの二人は、とりつく島もなかったからな」

「それは仕方ないさ。女王さまの発言なので、話半分くらいに聞いて欲しいが、フリードリヒ四世ですら”あれたちは、本当にジークリンデの言うことしか聞かぬな”と漏らしたとか」

「フリードリヒ四世の冗談なのか、それともノイエ=シュタウフェン公爵夫人の嘘なのか。だが、嘘とも冗談とも言い切れないのが怖い」

「そうだな。キスリングもそうだろうし、パウルさんも似たようなものだろうし」

 

**********

 

 この状況、なにが一番の問題かといえば「え?」と呟いてしまった彼女自身は、ファーレンハイトの統帥本部総長就任が白紙になりかかっていることに、気付いていなかったこと。

 なにせ彼女はファーレンハイトの統帥本部総長就任を、いつものように心から喜んでいたのだから、まさかそんなことになっているとは、思ってもいなかった。

 

「そんなことに、なっていたのですか……」

 

 メルカッツが彼女と面会したいと申し出たこと、その理由をキスリングから聞き ―― 事態がそれほど大きくなっているのならば、メルカッツに是非とも会い、理由を説明しなければならないないと。

 


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