黒絹の皇妃   作:朱緒

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第167話

 帰宅し夕食を終え、ゆっくりと晩酌していたキャゼルヌは、唐突に妻から仕事をしたいと告げられる。

 

「仕事をしようと思ってるの」

 

 酒が入っているグラスを置き、向かい側に座った妻と向き合う。

 

「唐突だな」

 

 正直な気持ちを言ったところ、妻は呆れたような表情を作りつつも、置かれたキャゼルヌのグラスに氷を足す。

 

「唐突じゃないでしょう。下の子に手が掛からなくなったら、仕事をすると言っていたはずよ」

 

 忘れたの? とばかりに、語気強めで、まっすぐ見つ、グラスを差し出しながら言われたキャゼルヌは、覚えてはいないが「聞いていない」や「忘れていた」と言えば、酷い目に遭うのは経験済みなので、思い出したような態度を取って、話の先を促した。

 

「そう言えば、そうだったな。で、どんな仕事をするつもりだ?」

「メイドよ」

 

 家事全般が大得意な妻には、もってこいの仕事だが、仕える主が悪いと、最悪身の危険がある。

 

「どこのお屋敷で?」

「ローエングラム公爵夫人のお屋敷で。実はもう、紹介状もいただいているのよ」

 

 彼女がブラウンシュヴァイク邸に移ること、召使いを新たに集めていることは、キャゼルヌも聞き及んでいた。

 彼女の邸ならば、安全だろうとは思ったが、

 

「誰から紹介状を?」

 

 邸で働く者たちは、彼女に近い者の紹介が必要であった。

 キャゼルヌは妻が、自分を通さず、紹介状を書いてもらえるような知人が居たか? ―― だが、妻はキャゼルヌが想像もしていなかった人物の名を挙げた。

 

「ノイエ=シュタウフェン公爵夫人から」

 

 カタリナから渡された紹介状を、妻はキャゼルヌに差し出す。

 

「いつの間に?」

 

 封がされているので、内容を見ることはできないが、封筒の表裏を隈無く見る。

 

「あなたがノイエ=シュタウフェン公爵夫人に、頼み事をしに行ってから」

 

 カタリナの方から妻に接触を図ってきたのだ。

 

「ほー……まあ、そういうことなら」

 

 思慮深いキャゼルヌだが、貴族というのは気まぐれで、カタリナはその中でも飛び切りだと聞かされているので、カタリナがなんらかの思惑を持ち接触してきたとは考えなかった。

 夫はカタリナの意図には気付いていないが、妻は呼びだされ紹介状を前に、幾つかの質問と、考えていることの説明を受けたので、当然知っている。

 

「ノイエ=シュタウフェン公爵夫人から聞いたんですけれど、メイドは元西苑の側室たちがメインになるそうよ。きっと華やかになるんでしょうね」

「そうか。それはすごいな」

 

 彼女の邸には、身元がしっかりし、彼女に害をなさない、若くて美しい女性たちが大量に、メイドとして雇い入れられることになった。

 

**********

 

 邸の清掃や、新しい使用人の選定などが行われている最中、彼女は軍務省へとやってきた。

 当然一人ではなく、元帥や中将などを引き連れて、省のトップであるメルカッツに出迎えられる。

 会議室へと通され着席して、軽い説明を聞いてから、さまざまな書類に自分の名を書いてゆく。

 事情はここに来る前に聞いていたので、疑問はないのだが、

 

―― 仰々しすぎない? 事務員二、三人くらいでよくない?

 

 軍務尚書を前にして、役職付きの事務官十名、十五名ほどの将官が直立不動で控えている状況に、もう少しこぢんまりとしていても良いのではと。

 もっとも思ったところで、彼女は言いはしないのだが。

 

 彼女がここへとやって来たのは「ブラウンシュヴァイク公爵家の軍を引き継ぐ」ための手続き。

 内乱で立場が危うくなり、オーディン追放となったブラウンシュヴァイク公爵。

 以前とは置かれている状況が”がらり”と変わってしまった公爵家は、滅亡を避けるために、さまざまな手を打たなければならなかった。

 その一つが、所持している私軍の処理。

 軍隊を所持している門閥貴族を追い詰めると、暴発する恐れがある。あるいは反乱の兆しを見せている ―― そういった名目で、攻撃されることが考えられる。

 最悪なことにブラウンシュヴァイク公は予備役とはいえ元帥で、私軍はそれに相応しい数が揃っていた。

 だが接収されていない。

 これを回避するには、軍を手放すしかなかった。

 アンスバッハがブラウンシュヴァイク公を説得するが、軍を手放し丸裸になってしまえば、襲われる可能性があるのではと。

 それでもじっくりと話し合い、不安に対する対処方法を一つ一つ提示し、ブラウンシュヴァイク公は忠臣の意見に従い軍を手放すことに同意して、帝国にその旨を伝えた。

 

 譲渡されることになった帝国の正規軍側だが、ブラウンシュヴァイク公が所持していた軍を維持する余裕はなく、身の安全を陛下の名によって確約するので、引き続き維持して欲しいと頼んだ。

 だが公は領地の幾つかを帝室へ寄付し、公爵家の命数を繋ぐつもりなので、費用の捻出が難しく、返されても今まで通り軍隊を維持することはできない状態。

 

 公が領地返上を聞き、慌てたのはまたも帝国側。

 彼女の実家であるオーディンの伯爵家跡地ですら、返上されると厄介な状況に陥っている行政側としては、軍を維持できるほどの領地を返上されては困るのだ。

 

 もともと帝国は地方行政の多くを、門閥貴族に任せている。これが原因で、皇帝の権力が低下し、門閥貴族を押さえ込むのが難しくなったが、とにかく地方は貴族に治めさせ、この広大な帝国を統治してきていた。

 そのため「領地を返却します、管理任せます」と返されても、すぐに対応できない。

 

 なによりブラウンシュヴァイク家の中で上手く回っていても、行政側がその両方を手に入れて、上手く回せるとは限らない。

 簡単なところで言えば税率。

 門閥貴族はほぼ無税といっても過言ではなく、収益を好きなように使えるが、行政側が統治すると、門閥貴族特権は使えず、また税の割り振りも自由ではないので、軍費に使える割合は減る。

 

 では、返却された領地を特区に指定し、政治と軍事の両方を兼任できる人物を送り込めば……となったが、先にも述べたとおり、予備役ながら元帥だったブラウンシュヴァイク公が所持している艦隊は数が多すぎて、一人の人間にこれを預け、もしも謀反の心を抱いたら、帝国に大損害が出る。

 戦争の天才ことラインハルトが帝国側にいるので、勝ちは揺るぎないが、手も足もでないで負けるような無能は、最初からこの役職に就くことはないので被害が出ることは確実。

 

 また領地と軍を細かく分けるという案もあったが、その幾つかがラインハルトに付くようなことがあっては困る ―― このどうしようもないほど、各人我が儘な状況を打破するために、ブラウンシュヴァイク家の領地を受け継いでも、今まで通りにに領地の支配経営することができ、大軍を所持していても反乱など起こす心配がなく、内乱に関わっておらず他に恨みをほとんど買っていない、任せても安全だと誰もが納得できる門閥貴族を捜した結果、彼女以外の該当者が見つからなかった。

 

 話しを聞いていた彼女は、当初は「嫌です。そんなたくさんの艦隊なんて、嫌ぁー」と内心叫んでいたが「特区」の辺りの説明を聞き、その場合責任者に与えられる役職が「総督」と知らされると、新領土の総督に就任して、限りなく自殺に近い戦死をしたロイエンタールのことを思い出し、俄然考えが変わった。

 

 そして彼女が継がなければ、その候補にロイエンタールが挙がっていると聞いた時、全身が粟立った。

 

 マールバッハ≠ロイエンタールと認識してた頃ならば、”まだ”彼が選ばれても良いでしょうと思えたが、マールバッハ=ロイエンタールと知った以上、元ブラウンシュヴァイク公爵家の権勢を支えていた軍隊を、彼一人掌握するような状況を作ってはいけないと考えて、彼女はその仕事を引き受けることにした。

 

 彼女の次の候補がロイエンタールという辺りに、帝国門閥貴族の人材不足もうかがえる。

 

―― 伯父さまから割譲される領地を調査していたとは……大変だったでしょうに

 

 公爵邸で散歩しましょうと彼女に誘われたが、忙しいのでとオーベルシュタインが断ったのは、これらの事務処理を行っていたため。

 彼女はこの場に付き従っているオーベルシュタインを、ちらりと盗み見る。

 彼の表情はいつも通り変わらず、疲労もさほど見えない。

 

 彼女は書類にサインをして、

 

「帝国の藩屏として、謹んでお受けいたしますわ」

 

 メルカッツへと差し出す。

 

「これからも、よろしくお願いいたします」

 

 こうして彼女は帝国最大の私設武力を所持する貴族となった。

 サインが終わった彼女は、メルカッツと軽く会話をし、会議室を後にする。

 

「小官はこれで」

「またお会いしましょう」

 

―― 軍人の階級としては、メルカッツのほうが遙かに上なんですけれど……まあ、私のこと誰も軍人だなんて思っていないでしょうし、私も思ってませんけれど

 

 メルカッツと共に数名の者は下がったが、室内には依然大勢の軍人が残っていた。

 

―― 何人かは、見覚えがあるから、もともと伯父さまの軍にいた将官なんでしょうね。名前は覚えてませんけれど

 

「軍を引き継ぐ他にも、なにかあるの? フェルナー」

「あります。すぐに済むので、我慢していただけますか?」

「我慢なんてしていませんよ。むしろ楽しみなくらい」

 

 ここで彼らは前もって説明できなかったことに関して、書類を差し出しながら説明を始める。

 まず全軍を手放したブラウンシュヴァイク公爵家だが、その守りは彼女が依頼されて請け負う形となる。

 

「当然でしょうね。それで、ブラウンシュヴァイク公爵家の守りは誰が?」

 

 中枢から外れてしまっても、公爵家が大金持ちなのは変わりなく、ここで軍を手放してしまえば、強盗団に襲われる可能性すらある。

 

「公はアイゼナッハ提督が守っております」

 

 彼女の質問に今までブラウンシュヴァイク公爵家の軍を指揮・管理し、ローエングラム公爵軍と名を変えた軍の指揮と管理も委ねられているファーレンハイトが答える。

 

―― アイゼナッハなら大丈夫でしょう。むしろ、彼の能力からしたら、退屈かもしれませんけれど……伯父さまのこと、守ってあげて

 

「それは安心ね」

「はい。ジークリンデさまの領地はシュタインメッツ提督が警備に当たっておりましたが、ローエングラム公爵領が巨大になったため、彼一人では警備が行き届かないので、是非とも増援を送って欲しいと」

 

―― シュタインメッツで管理できないって、私の領地はどれほどの範囲に広がってるのかしら……

 

 宇宙地図を見て「広いわねー」と軽く言っていた彼女だが、シュタインメッツの増援要請を聞き、自分の領地の広大さに、思わず身を震わせた。

 

「そこで警備隊を増やすことにいたしました」

「シュタインメッツ艦隊の補佐的なものですか?」

 

 彼女は准将艦隊を一つくらい増やして、シュタインメッツが回りきれない細部を監視してくれるのだろうくらいに思っていたのだが、

 

「いいえ。ビューロー、前へ」

 

 そう声をかけられると、室内にいたビューローが一歩前へと出て、敬礼をする。

 

「フォルカー・アクセル・フォン・ビューロー大将、ここに」

 

―― もともと伯父さまの軍にいた人ねー。名前は聞いたことはないけれど、ファーレンハイトたちが選んだのですから、有能なのでしょう……大将? 大将!

 

 彼女のあやふやな記憶の片隅にも残っていないが、このビューローも、あの彼らから、彼女の領地を任されるほどなのだから、有能であることは疑いはない。

 

「ジークリンデさま」

「なにかしら? オーベルシュタイン」

 

 タイミングよく無言のまま、書類を彼女の前に置いていたオーベルシュタインが、今回は書類を置くと同時に、話し掛けてきた。

 

「ビューロー提督には、行政に干渉する権限を与えたいのですが」

「反対はしませんけれど、一応理由を説明して」

 

 彼女としては理由は聞かずとも、信頼しているので任せても良いのだが、公爵家の当主としては、理由を聞かずに与えるわけにもいかない。

 

「御意。門閥貴族の統治は、その貴族により方法が違います。例え血縁であろうが、領地に関しては差異が存在します。今回ジークリンデさまが継がれた領地も、細かい部分で違いがありますので、それらをローエングラム公爵家の統治方法に統一したく。その任をビューロー提督に担っていただくためにも、治安維持と行政干渉の権限を持つ、総督代理の地位に就けたく」

 

 彼女の質問にオーベルシュタインは、彼らしく簡潔に答える。

 理由は彼女も理解した。だが「総督代理」はひっかかった。

 

「総督代理ですか? 総督ではなく」

 

 彼女は自分の領地に総督を置いた覚えはない。その覚えのない役職の代理と言われたら、誰でも気になる。

 

「はい」

「では、総督は誰?」

 

―― 私が知らないうちに、総督が決まってたのかしら

 

 領地の経営や安全管理を完全に彼らに任せている自覚のある彼女は、そんなことを考えたのだが、

 

「総督はおりません。その地位はジークリンデさまが、ご自由に指名を」

 

 彼女が知らないだけではなく、総督は存在しなかった。

 

「好きに決めていいのよ」

「総督代理という地位を、事前に説明せず勝手に決めただけでも、越権行為に等しい行為にございます」

「ビューローに課す任は、総督代理の地位で充分なの?」

「充分過ぎるほどです」

 

 彼女は自分の側にいる彼らを一人一人見て、

 

「ファーレンハイト。総督はオーベルシュタインでいいかしら」

 

 後見人に尋ねる。

 

「なんの異論もございません」

 

 オーベルシュタインをローエングラム公爵領の総括に決めた。

 

「絶対、そう言うと思ってました」

 

 この流れになったら、彼女は間違いなくオーベルシュタインを総督に選ぶと確信していたフェルナーは、作製してきたオーベルシュタインの総督就任に必要な書類を彼女に差し出す。

 

「きっとフェルナーは、そう言うと私も思ってましたわ」

 

 彼女はくすくすと笑いながら、総督と総督代理就任に関する書類にサインをする。

 書き終えた時、間違わず当たり前のようにローエングラムの名を書いている自分に、かなりの違和感を覚えたが、この違和感もそのうち消えていくのだろうと。

 

「あとサインする書類は?」

「今のところはございません」

「お手数をおかけいたしました」

「そう」

 

 彼女は立ち上がり、一歩前に出たまま、直立不動の姿勢を取っているビューローへと近づき、

 

「ジークリンデ・フォン・ローエングラムの代理、たしかに任せましたよ、フォルカー・アクセル・フォン・ビューロー」

 

 ”さあ、口づけなさい”と、手袋に覆われたほっそりとした手を前へと出す。

 ビューローが平民ならば、彼女もこんなことはしなかったが、フォンの称号を持っているので、騎士扱いをすべきだろうと考えてのこと。

 

「御意」

 

 ビューローはかなりの動揺を見せたが、ここで手を取らなければ彼女に恥をかかせることになると、膝をつき白いレースの手袋をはめている彼女の手を取り口づけた。

 

 

 こうして帝国最大の武力を持った女公爵が誕生した。のちのち彼女は禅譲で帝位に就いたわけだが、その際にこの武力が、まったく必要とされなかったのが、いかにも彼女らしいと言えよう。

 


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