黒絹の皇妃   作:朱緒

166 / 258
第166話

 場所は元帥府の執務室。

 だが机には仕事関係の書類は一切乗っていない。

 

「今日という今日は、絶対に決めてもらいます」

 

 ファーレンハイトの副官ザンデルスが、片方の眉をつり上げて、彼が用意した資料を並べ人差し指で叩く。

 

「俺は一回で十帝国マルク以上使うと、動悸が速くなり目眩がして、まともな判断ができなくなる」

「分かってます、存じております。先日ジークリンデさまが買った絵画の支払い書類見て、顔が引きつっていたのを、間近で見ていましたから」

 

 彼女が大量の絵画を買いこみ”どうしよう”と、内心どきどきていた頃、支払い書類は後見人であるファーレンハイトへと送られて、その支払いのサインをするために、領収書に書かれている金額を確認し、もともと良くない顔色が更に悪くなっていた。

 自分の懐に直接関係のない、軍備などは軽くサインできるのだが、個人資産を使用する嗜好品の類いとなると、途端にペンの動きが鈍くなる。

 

「……」

 

 ザンデルスが勧めているのは、嗜好品ではないが、欲しいと思わない品。だが絶対に購入せねばならず、その購入金額もかなりかかる。

 

「提督、いい加減、家を買って下さい。いつまでフェルナー少将の官舎に間借りしているつもりですか」

 

 元帥となったので、相応の家を買ってくれと ―― 彼女が購入した絵画に比べれば、ずっと安い買い物だが、ファーレンハイト個人の買い物としては生涯最高額と”なるはずだった”。

 

「別に良いだろう。あいつも出ていけとは言わんし」

 

 家を買ったところで、帰るつもりなどないので無駄だと、ファーレンハイトは言い張るが、

 

「よくありません」

 

 ”常駐警備し辛いので、官舎間借りではなく、どこか邸に”と、警備側から言われている副官としては、帰らなくてもいいので、元帥らしい家を買ってもわらなくてはならない。

 

 上官と副官が「買え」「もっと安いの」「これ以上安いのはだめ」「ならば買わん」という会話を繰り返していると、ドアがノックされフェルナーがやってきた。

 

「ファーレンハイト、家決まりました?」

 

 普通であれば面会予約が必要。

 ない場合は、受付から副官に連絡がくるのだが、フェルナーに関しては、出入り自由。

 

「フェルナー、その一つは、俺の荷物ではないか?」

 

 フェルナーは軍支給のスーツケースを、二つほど引きずっていた。

 

「ええ。官舎追い出されたんで、貴重品をスーツケースに纏めてきました。私服などは倉庫に預けています。ですから、一時的にあなたの家に住まわせてください」

 

 フェルナーはそれを壁側に置き、作業を終えた人がよくやるように手を叩き向き直る。

 

「違反でもしでかしたのか?」

「はい」

 

 フェルナーが言う「違反」は、佐官階級の官舎に居座っていたこと。

 通常であれば昇級後、すぐに引っ越すよう通達が出されるのだが、フェルナーは帝国軍ではなく、ブラウンシュヴァイク公私軍に属していたことや、リヒテンラーデ公が「あれにやらせる、急ぎの仕事がある。引っ越しをさせている時間はない」と言っていたこともあり、誰も触れられないでいた。

 では、なぜいま、唐突に引っ越すことになったのか?

 リヒテンラーデ公が死亡し、ブラウンシュヴァイク公がオーディンから追放されたから ―― ではない。

 上記の両者の力を受け継いだ彼女の側近たるフェルナーを、門閥貴族がいまだ権勢を握っている帝国において、追い出そうなどとは誰も考えない。

 では、なぜ引っ越すことになったのか?

 大規模な軍の人事異動により、地方の佐官がオーディンに増え、官舎が足りなくなったので「引っ越してはいただけないでしょうか?」と打診されたのだ。

 言われたフェルナーは、そういうことならと、私物をまとめ、官舎を引き払い、ファーレンハイトの所へとやってきたのだ。

 

「忙しくて、手続きするの、すっかり忘れてたんですよ」

 

 将官用の官舎に越してもよかったのだが、佐官が増えたということは、オーディンに慣れぬ地方出身者の将官も増えるのだろうと考え、元帥が買うであろう自宅に転がり込むことにした。

 

 持参した水筒を取り出し、ファーレンハイトの机の前へと行き、広げられている住宅の資料をのぞき込む。

 

 ザンデルスが捜してきたのは、比較的裕福な平民が建て、すぐに手放した築浅の安い物件。帝国の高級住宅は新築よりも、年代が経ったものの方が高額であることが多いので、築浅の物件を捜したのだ。

 

「好みの邸、ありました?」

 

 水筒で喉を潤し、フェルナーはザンデルスが揃えた資料に目を通す。

 

「ないが」

 

 この元帥府は茶器も茶葉も揃っており、毎日茶菓子が届けられているが、客に茶が振る舞われることは、ほぼない。

 ごく一部の例外は、彼女とカタリナである。

 ファーレンハイトがカタリナを招くようなことはないのだが、気まぐれで立ち寄られたら誠心誠意、おもてなしをする。

 彼女に関しては、語る必要はない。

 彼女のカタリナも、訪れることは稀。用意されたが手つかずとなる茶菓子は、ファーレンハイトの翌日の昼食となる ――

 

「私のところに、数名の没落しかかってる貴族の方から、あなたに邸を勧めてくれないかと頼まれたんですが」

 

 水筒の口を閉めて机に置き”見ます?”とばかりに端末を取り出した。

 

「女とその家族がぶら下がっているような家は要らん。見る気はない」

 

 貴族は没落が始まると、娘を売ることがままある。今回の内乱で、没落した貴族が多く出た。彼らは金目の物を売り、金づるになる相手を捜すのに必死となり、抵当に入った邸を取り戻すために、娘を付けて売り込む。

 

「だろうと思って、全部断りましたよ。向こうも、駄目で元々……くらいの気持ちだったようです。まあ、本命はロイエンタール卿でしょう」

 

 フェルナーに”毎日、ジークリンデさまのご尊顔を拝し、触れることも許されている男に、ご息女で無聊をお慰めくださいと?”そう言われてしまえば、どれほどの親ばか貴族でも、自分の娘の器量を脳裏に描き、彼女に比肩するとは思えず、なぜこのような提案を持ちかけてしまったのかと、己の浅慮さと身の程知らずに羞恥を覚えて引き下がった。

 

「婚約者が行方不明になったからな」

 

 だが娘を売らなければ生活できないと、漁色家で婚約者が行方不明となった大金持ちの青年貴族であるロイエンタールの元に、つぎつぎと娘付きの物件が持ち込まれていた。

 ロイエンタールが娘付きの家を買って、それにぶら下がる家族たちを養おうが、彼らにはまったく関係のないこと。彼の出自と生い立ちを考えれば、それはあり得ないであろうが。

 

 サビーネが生きているかどうかに関しては「彼女が」興味を持っているので、時間があるときに調べているが、あまり良い情報はなかった。

 リッテンハイム侯はサビーネを巻き添えにするつもりはなかったので、領地に召使いと兵をつけておいていたのだが、侯の旗色が悪くなると、徐々に人は逃げ、最後には邸内の貴重品を略奪し ―― 略奪品を巡っての争いか、守ろうとしての争いかは不明だが、邸内にはいくつもの兵士の死体が転がっていたものの、サビーネの死体は見つからなかった。

 

「お話中済みません。提督、シューマッハ大佐が急ぎで会いたいと。もう受付にいるようです」

「通せ」

 

 サビーネのことからすぐに話題は切り替わり、邸の資料に再び目を通す。

 購入する意識がまるでなかったファーレンハイトだが、フェルナーが官舎を出てしまったので、諦めて購入する決意を固めた。

 

”きっと、一番安いやつだな”

 

 いくつかの住宅を見繕ってきたザンデルスは、手続き方法を反芻しながら、早く決まらないかと。

 誰もが予想した通り、もっとも安い邸で決まりかけた頃、小脇に書類をかかえたシューマッハが訪れた。

 

「失礼する」

「どうした?」

「家は決まったか?」

「いいや。まだだ」

「そうか、良かった。まあ、もしも購入を決めていたとしても、諦めてもらうがな」

「なんだ?」

「実は訳ありの物件に越してもらいたい」

「まさか、女付きというわけではあるまいな?」

「その”まさか”だ。ただし、付いているのは、ただの女ではなく女神だが」

 

”シューマッハ大佐が女神って言ったら、ジークリンデさま以外ないよな”

 

 シューマッハとシュトライトは、主不在のブラウンシュヴァイク邸の管理をしているのだが、どうしても手入れが行き届かず、日々邸から生気が失われ、徐々に廃墟じみてきた。

 二人とも退廃の空気には気づけるのだが、出来うることは全て行っているのに、どうしても寂れを払拭できない。

 

「二人で話し合い、やはり邸には、その邸に相応しい主が必要だという結論が出た。そこでブラウンシュヴァイク公に、ジークリンデさまに邸の管理をしていただいても宜しいかとうかがったところ、幾つかの条件付きで許可がおりた。そして先ほどシューマッハが依頼したところ、邸の管理をしてくださると。それで、条件の一つに卿らを敷地内に住まわせ、警護にあたらせるという条項があってな」

 

 公爵邸に住んで欲しいと頼まれた彼女は、いつまでも軍人会館にいるわけにもいかないと、その申し出を受けた。

 

「ジークリンデさまが、宜しいと仰っているのなら」

 

 フェルナーは机に広げられていた資料を纏めて、脇に置く。

 

「ジークリンデさまは、四六時中仕事をさせることになるのを気にしておいでだが、卿らは構わんだろう?」

「こっちは問題ありませんよ」

「そうか。では、この書類にサインをしてくれ」

 

 シューマッハは持参した書類を取り出し、彼らの前へ置く。

 

「なんだ、これは?」

 

 ざっと目を通したファーレンハイトは、金額が書き込まれている部分を指さす。

 

「実際は本邸に詰めることになるが、名目上は敷地内にある別邸の一つが、卿らの住まいになる。その住まいを、月五百帝国マルクで貸し出すという書類だ」

「……」

「好きな邸を選んでいいそうだ。本邸でも構わぬそうだが、さすがにそれはな」

 

 衣食住を無料にしても良いのだが、それをするとプライドをひどく傷つけることになるのを、身を以て経験しているので、彼女は家賃を設定した。

 

「ファーレンハイト、どこにします?」

「赤孔雀以外なら、どこでも」

 

 通称・赤孔雀邸は、かつて彼女が住んでいた、あの赤煉瓦と大理石の邸のこと。

 

「当たり前のこと言われても、困ります。そうですね、本邸と赤孔雀の両方に近い、獅子にしましょう」

「それでいいだろう。それにしても、シューマッハ。月額五百帝国マルクはどうかと思うのだが。あの邸ならば、月五千帝国マルクでも、借りられんだろう」

「邸の価値については分からないが、本来であれば、卿らから一帝国マルクも取る必要はないが、それでは卿らのプライドを傷つけてしまうとジークリンデさまが、考えられた結果だからな」

「そう言えばファーレンハイト以前”一ヶ月、五百帝国マルクもあれば過ごせます”って、ジークリンデさまに言ってましたね」

「ああ、言ったな。よく覚えていらっしゃる。あの時は、あれでも見栄を張ったんだがな」

「一応聞いておきますけど、あの当時、一ヶ月幾らで過ごしてたんですか?」

「三百二十帝国マルク」

「衣服と住居が無料だとは言え、あんた、正直言ってすごい。はい、サイン終了。家賃はキャゼルヌに直接払えばいいんでしょうか? それとも引き落とし手続きを?」

 

 届け出用の書類を探し始めたザンデルスだが、シューマッハの言葉で思わず手が止まった。

 

「各自二百五十帝国マルクになるな」

「一人五百帝国マルクではなくて?」

「全員で五百帝国マルクだそうだ。住む人間が増えると、その分頭割りできる」

「……」

「……」

「そんな顔をされても困る。おそらくジークリンデさまにとっては、五百帝国マルクも五百万帝国マルクも違いがないのだから、仕方なかろう」

 

 そんなことはないのだが、あくまでも彼女は優雅に、どれほど高額であろうが、慌てることなく ―― 内心は「うわ、なにこの金額。やめてー」だが。

 

「…………フェルナー。ここは元帥である俺が全額支払おう」

「なに理由が分からないことを言ってるんですか。元帥は家賃補助ないんですから、ここは家賃補助の出る少将の私が全額支払いますよ」

「いいから、黙って五百帝国マルク支払わせろ」

「あんた一人に支払わせたら、ジークリンデさまが泣いてしまいますよ。ファーレンハイトが他人の分の家賃を払うなんて、死んでしまうの? って。ええ? 自覚あるでしょう」

「ある! 家賃を月五千帝国マルクに変更してもらい、俺が三千、お前が二千でどうだ?」

「そうなった場合、私の二千帝国マルクは譲りませんよ。それで、キスリングも邸に移動させたらどうでしょう。その際家賃は、あなたの三千を割ってください」

「二千五百と五百」

 

”提督が進んで金を払おうとするなんて、すげえ……”

 

 大邸宅の家賃が五百帝国マルクはないだろうと ―― だが、彼女は決めた金額しか受け取ってくれないだろうということで、各自二百五十帝国マルクで落ち着き、

 

「じゃあ、引っ越し済ませておきますので。あ、邸内に危険物がないかどうかを調査するために、連隊借りていきます」

 

 フェルナーはスーツケースを引きずり、シューマッハと共に元帥府を後にする。

 

「提督。次はビューロー艦隊ですが……」

 

**********

 

 彼女にとって嫌ではないが、進んでやりたいというわけでもなく、先延ばしにしないほうが楽だが、別にしなくてもよい。

 

―― 仲直りという言葉が、適切かどうかは分からないけれど……

 

 ラインハルトが帰還したことを教えなかったことについて、オーベルシュタインに直接会って、話しを聞いてこの出来事を終わらせようと彼女は考えていた。

 

―― 許すは語弊があるのですが、かといってこれ以外の言葉も……それにしても久しぶりに見る、公爵邸は……シュトライトが言っていた通り、なんとなく寂れてますね。最後にここに立ち寄ったのは、退院した直後だったかしら

 

 オーベルシュタインを軍人会館に来るよう伝えていたのだが、急遽場所をブラウンシュヴァイク邸に変え、庭を歩き邸の荒廃具合を確認しつつ、話しを聞くことにした。

 急な場所変更のため、彼女のほうが早く到着してしまい、キスリングがシートをかけたソファーに腰を下ろして、オーベルシュタインがやってくるのを待つ。

 主の目を楽しませる必要のない庭は、止まったままの噴水、丁寧に磨かれていな彫刻が並び、邸を見ればカーテンが閉められた窓ばかり。僅かながらカーテンが開いている窓から、室内を見れば、かつてはステンドグラスのランプや、花が飾られていた場所には、軒並み白い布がかけられて、豪奢な邸だからこそ、余計にもの悲しさを感じさせた。

 

―― この分ですと、プールに水は張られていないでしょうし、温室の手入れはされているでしょうけれど……もう公爵家とは縁が切れたと、遠ざかっていましたが、お世話になった分は返さねばなりませんね。まずは召使い集めから

 

 するべきことを考えていると、軍服姿のオーベルシュタインがやって来た。

 表情は彼らしくなんら変わりなく、

 

「お呼びと」

「突然場所を変えてしまって、悪かったわね」

「いいえ」

 

 相変わらず、口調もかわりない。

 

「散歩につきあって」

「畏まりました」

 

 腕を組むほど近くはなく、だが離れすぎぬよう。ある程度の距離を歩いてから ――

 

「オーベルシュタイン」

「はい」

「今回のことですけれど、本気を出したあなたは、本当にすごいわ。あなたなら、一生私を欺し続けることも簡単でしょう」

 

 足を止めて、斜め後ろにいたオーベルシュタインのほうを向く。

 

「申し訳ございません」

 

 オーベルシュタインは深々と頭を下げる。

 

「私はあなたが、とてもあなたらしくて……安心したの。謝罪はそれで終わり。でも、少し残念。誰にも狙われていなかったのなら、あなたの邸で犬と戯れてすごしたかったわ」

「それは」

「今度、遊びに行ってもいいかしら?」

「光栄でございます」

 

 もう少しオーベルシュタインと話しをしていたかったのだが、彼はどうしても抜けられない用事があると言うことで、後日穴埋めをさせていただきますと、先ほどと同じほど頭を下げて、彼女の前を辞した。

 残念ではあったが、仕方ないと、彼女はキスリングを連れて散歩を続けることに。少しばかり歩くと、ヘルメットに物々しいなにかを持った十人ほどの兵士が目にとまった。

 

「なにかしら?」

 

 なにかを必死に捜しているように見える彼らが気になり、キスリングに部下たちが何をしているのか分かると尋ねたのだが、

 

「小官が連れてきた部下でありませんね。ああ、フェルナー少将から、邸内に連隊を入れたとのことです」

「連隊って……何を捜しているの?」

「聞きます」

 

 キスリングは大声で彼らに呼びかける。隊を指揮していた軍曹が駆け寄り、敬礼をして、不審物や変質者がいないかどうかを確認しているところですと、かなり大きな声で答えた。

 

―― 不審物は分かるんですけど、変質者って……

 

 軍曹を返してから、彼女は変質者についてキスリングに聞いてみた。

 

「先日の賊の足取りを追ったところ、ジークリンデさまのクローゼット近辺に長くいた痕跡が発見されました。その結果、兵士たちの間で下着泥棒なのではないかという噂が立ちました。それがいつしか、変質者ということに。……まあ、仕方ないことかなと」

 

―― ミュラー! 大変なことになってる。今更、ミュラーだったなんて言えない! 絶対に言えない

 


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告