黒絹の皇妃   作:朱緒

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第165話

 彼女が視界に入ったラインハルトは、怒りの表情から困惑へと変わったものの、またすぐに怒りの感情をみなぎらせる。

 

 彼女はとりあえず、ラインハルトの腕に、華やかな五段のバゴダスリーブで飾られている腕を通して、テラスを指さし、そちらへ行こうと促す。

 ラインハルトも抵抗しなかったので、彼女はそのまま腕を引き、パーティー会場から見える、テラスの長椅子まで連れて行き、腰を下ろした。

 

「怒っていらっしゃるようですが、どうなさいました?」

 

 出方をうかがうより、単刀直入に聞いたほうが良いだろうと、彼女は座るとすぐに理由を尋ねた。

 言われたラインハルトは”なぜ気付かれた”といった表情を隠せなかったが、

 

―― 気付かれてないと思ってたんですか……鈍い私でも気付くくらいでしたよ……

 

 これに気付かない人がいたら、お目に掛かりたいと彼女は思ったが、そこには触れず、話してもらえるよう微笑みかけた。

 

―― これが一人百面相というものですか……類い希なる美形って、どんな表情でも見られるものですね

 

 彼女に語るべきか? 語らないべきか? 葛藤しているラインハルトの表情は、ころころと変わるのだが、その表情のどれもが整っており”さすが美形”と ―― 話してくれるまで、少々時間を要したものの、彼女はその表情を見ていて、まったく退屈しなかった。

 

―― 肩と胸が出ているのがちょっと辛いけれど、まだ秋になるか、ならないかの時期ですから、大丈夫……な、はず

 

 慈愛を感じさせる微笑みと、急かすことなく待ってくれていた彼女に、ラインハルトは自分の金髪を指でいじりながら話し始めた。

 

「陞爵の知らせを聞いたとき、裏があるとは思っていたが――」

 

 彼女が陞爵したのは、三十を超える爵位と領地を継いだのが理由。

 その領地たるや、大公を名乗っても恥ずかしくはないほど広大なもの故、誰もが当然のことだと考えた。

 では、ラインハルトの陞爵理由はなにか?

 ラインハルトは彼女とは違い、門閥貴族に係累がいないため、今回の内乱後に爵位が増えることもなければ、領地が増えることもなかった。

 内乱の功績も低く見積もられており、部下の昇進もままならない。

 そんなラインハルトが、なぜ公爵となったのか?

 

「あいつら、俺に皇帝の夫になれと言い出した。この陞爵は、夫となるために必要なものだと!」

「……」

 

―― ラインハルトにそれ……ああ……典礼省と宮内省のばかー。なにを考えているのか分かりますけれど……分かりますけれど……

 

 宮内省としては「女帝」に、十五、六歳で結婚して欲しいと考えていた。

 皇族の女性の結婚適齢期でもあるので、そこは帝国の常識としてはおかしくない。

 十歳前に婚約が決まっても、誰も驚くことなどなく、むしろ早く決まったことを、大体の人は喜ぶであろう。

 また、皇帝の結婚は婚約発表から一年半ほど間をあけるのが慣わし。当然、内定はそれよりも、もっと前になる。

 様々な慣習や決まりを考えると、この五、六年の間に決めるのが、もっとも無難であった。

 

 ペクニッツ父子と同じような、無害で年の頃の近い男児を婿にするという案もあったものの、カザリンの父親ペクニッツ公爵が、あらゆる意味でもう少し性格が悪ければ、まだカザリンの婚約者の幅は広がったが、公爵は娘の夫の地位で駆け引きし、周囲を味方に引き込む能力はない。そんな彼と似たような無力同士を組み合わせては、只でさえ皇帝の権力が低下している帝国においては、危機的状況に陥ってしまうことは宮内省でも理解していた。

 

 そこで帝室の権力低下を防ぎ、門閥貴族とも不仲であり、現在権力を所持している、もっとも若い男を選んだ結果、ラインハルトが選ばれた。

 

 その内定の意を込めて公爵として ―― それが、陞爵の理由であった。

 

「あいつら、これで俺に恩を売っているつもりなのが、余計腹立たしい!」

 

 尚書の座か、あるいは次官の座かは不明だが、ラインハルトに皇帝の夫の座をちらつかせ、自身の地位を得ようとしている彼らに対して、

 

―― 皇帝の夫の地位を喜ぶようなラインハルトではないということを、分からないの……分からないのよねえ……こんなことしたら、ラインハルトが財務尚書に就任したら、即座に今の地位から追われるでしょうに……

 

 死刑執行書にサインとまでは言わないが、彼らがそれに近いことをしでかしたのは明らかであった。

 

「だからその時期がきたら、あなたと離婚しろとまで!」

 

 彼女ならば、夫が皇帝と結婚するので離縁するよう求められたら、黙って従うだろうと。

 

―― え、あ……もう!

 

 彼女はラインハルトと離婚はしたいが「勅命」だけは使うつもりはない。

 フリードリヒ四世はアンネローゼを手元に置くという、直接的な理由があるので怒りの対象となっても、仕方ないという側面はあるが、カザリンに怒りが向かうのは、彼女としては絶対に避けたかった。

 カタリナに「勅命で結婚したのだから、勅命で離婚してもいいんじゃない?」と言われたこともあったが、ラインハルトは皇帝に自分の全てを奪われたという怒りが原動力となっている。この上、現皇帝(カザリン)の命で彼女と離縁させられたとなれば、好き嫌いなどの問題以前に、皇帝に対して怒りを覚えかねないので、常々離婚したいと思っている彼女でも、さすがにこの場で同調することはできなかった。

 

―― 宮内と典礼の役人の思惑、ことごとく外してます。ラインハルトは他人からもらって、喜ぶような性格ではないことを、そろそろ理解しましょうよ……

 

 髪を触っていた指は、いつのまにか握り拳に変わり、怒りにより小刻みに震えている。彼女はその握り拳を両手で包み込み、

 

―― キルヒアイスっぽい台詞を言ってみましょう。あくまでも”っぽい”ですけど

 

「ラインハルトさまが、この世界を変えられるのでしょう」

 

 世界を変えるのはあなたです。この怒りもそちらへと向けましょうと。

 

「ジークリンデ」

 

 彼女の言葉にラインハルトは目を見開き、かなりの驚きを見せた。

 そのアイスブルーの瞳は「なぜ、知っているのだ」と言いたげであったが、まさか「知っています」とも言えないので、彼女は気付かぬふりをして、拳に重ねた手に少しばかり力を込めて、小首を傾げるような仕草をする。

 

「……そのドレス、とても似合っている」

 

 驚きにより怒りが中和されたラインハルトは、彼女のドレスを褒めた。

 唐突な話題転換だが、怒りから離れたのならば幸いと、

 

「ありがとうございます」

 

 彼女はそう言い、震えが収まった拳から、そっと手を離そうとした ―― だが、ラインハルトの手が重ねられ、離れることができなくなってしまった。

 無理矢理離れようとしたら、気分を害することになるだろうと、彼女はそのままにし、ラインハルトと話を続けた。

 

「ネックレスも見事なものだ」

 

 彼女が身につけているのはブリーシングの首飾りと名付けられた、細かい細工が施された、北欧風デザインの高価なネックレス。

 フェルナーから値段を聞いた時、彼女はちょっとどころではなく目眩を覚えたほど。

 

―― ええ、とっても見事です。それは私も思いますが……名前がねえ

 

 ”ブリーシングの首飾り”

 北欧神話に登場する女神フレイヤが、そのネックレスに一目惚れし、譲ってほしいと、作っているドワーフたちに頼み ―― ドワーフ一人につき一晩床を共にしたら譲るという条件を提示され、どうしてもネックレスが欲しかったフレイヤは、その条件を飲んだ。

 そうして手に入れたブリーシングの首飾りだが、一部始終見ていたらしいロキがオーディンにこのことを報告し、フレイヤはブリーシングの首飾りを取り上げられてしまう。

 フレイヤは当然「返せ」と言うが、オーディンはただでは返さない条件があると ―― 争いを起こすよう命じ、命じられたフレイヤはその条件を即座に飲んでブリーシングの首飾りを取り戻した。

 

―― 綺麗だという以外、あまり良い噂を聞かないネックレスですよね。かといって、夫からアルテミスの首飾りという名のついたネックレスをプレゼントされるのも、困るといいますか……兵器としては、絶対に防げるという信頼につながりますけれど、でもブリーシングの首飾りは……

 

「ブリーシングの首飾りと名付けられております。フレイヤが持っているであろう本物は、もっと美しいでしょうけれど」

 

 ブリーシングの首飾りという名前があまり好きではなかった彼女は、このネックレスを好んで身につけることは、ほとんどなかったのだが、ラインハルトに愛想を尽かされるべく、性に奔放に生きる覚悟を表すために、このネックレスを頻繁に身につけることにした。

 

「そうかも知れないな。だがあなたはフレイヤよりも美しいから、首飾りが劣っても仕方ないのでは」

 

―― えっと……ラインハルトさん、フレイヤみたことあるの? そんな分けない……ま、まあ、私たちもラインハルトのことを”アポロンのよう”と言ってるくらいですから……

 

 北欧神話でもっとも美しい女神とされるフレイア以上と言われ ―― 美貌を賞賛されることには慣れ、またフレイア以上と言われたことは、過去に何度もあったが、ラインハルトに言われると、あまりにも彼らしくないので、彼女は思わず動揺してしまった。

 

「そうだ。陞爵式のあと、言いたかったのだが。式で着用していたあのドレスも、とても素敵で似合っていた。本当は式が終わってすぐに、あなたに似合うと言うつもりだったのだが、皇帝の供として式場を去ってしまったので」

「わざわざありがとうございます」

「獅子の刺繍がとくに目を引いた」

 

―― うん、目を引きますよねー。あの獅子。ローエングラム家は武門でしたものね、勇ましい家紋にもなりますわー

 

 彼女が式の際に着用したローブデコルテのドレス部分には、大きくローエングラム家の紋章が刺繍されていた。それがラインハルトの言うところの獅子。

 彼女は「ラインハルト=黄金の獅子」の紋章だとばかり思っていたのだが、正しくは「ローエングラム=黄金の獅子」で、ローエングラムの名を継いでいないラインハルトは、当然獅子を使うことはなく、彼の元帥府に掲げている元帥旗はエッシェンバッハの家紋である、白い馬が縫い取られていた。

 

―― 馬も悪くはありませんが、この獅子はラインハルトのものよー……

 

「そうだ。パーティーが終わったら、あなたの……」

 

 ラインハルトがかなり恥ずかしそうに、彼女にパーティー後の予定を言いかけたのだが、彼の胃袋がけたたましく空腹を訴えて、会話が途切れてしまった。

 恥ずかしそうに言いかけていたラインハルトは、自分の腹の音に、それ以上に顔を赤らめ、

 

―― ラインハルト照れてます

 

 彼らしからぬと言いたくなるほど、しどろもどろになってしまった。

 

「もしかして、ラインハルトさま、昼食を取っていなかったのですか?」

「あ、ああ。陞爵式後、腹が立って空腹など、まったく感じなかったから」

 

―― ずっと怒り続けてたのですか……怒りっぽいのがラインハルトですけれど……怒りすぎて鉄分とカルシウムが不足して病気になったと言われたら納得してしまいそう……そんなことより、陞爵式後のことを思い出さないように……

 

「では、会場に戻って、食事をとりましょう。まず何を食べます?」

 

 彼女はラインハルトの手から、するりと自分の手を引き抜き、手首を掴んで立って下さいと、軽く引っ張る。

 

「そうだな」

 

 来た時と同じようにラインハルトと腕を組み、会場へと戻る。

 

 挨拶を終えたら早々に帰宅するつもりだった彼女だが、ここで「思う存分食べてください、では、私は帰ります」などといって放置するわけにもいかない。

 彼女はラインハルトが満腹になるまでは付き合おうと、二人で料理が並べられているテーブルへと近づく。

 

―― 食事するつもりなはかったから、バゴダスリーブのドレスで来てしまいましたけれど……これ、料理取るの面倒なのよね

 

 料理を取るなら、ノースリーブやパフスリーブのほうが断然良い。

 

「どうぞ、ジークリンデさま」

 

 ラインハルトが料理を取っている脇で、彼女は好きなものではなく、取りやすい位置にある料理を、少し皿に載せようとしていたのだが、

 

「あら、ファーレンハイト」

 

 取りづらい位置に置かれていた、彼女の好物を盛った皿をファーレンハイトが差し出す。

 差し出したほうも、受け取るほうも慣れた手つき。

 彼女が受け取ると、ファーレンハイトは離れて行き、料理を取り終えたラインハルトと場所を移動して、料理を食べる。

 

―― 元帥に給仕の真似させちゃ、駄目よね……でもパーティーの参加資格が中将からですし。フェルナー、中将になってくれないかしら……でも、中将に給仕させるのもおかしいわよね

 

「ジークリンデ」

「はい、なんでしょう? ラインハルトさま」

「次は私があなたの分を取ろう。何を食べる?」

 

―― ラインハルト、もう食べ終えたの? 肉山盛りだったのに! よほど空腹だったんでしょうね

 

「そうですね。まずは、改めて乾杯しましょうか」

 

 今度は本職の給仕からシャンパングラスを二つ受け取り、片方をラインハルトに差し出す。

 この後、ラインハルトの健啖ぶりに感動し、デザートまで付き合ったところ、パーティーが終わる時間までいるはめになり ―― 彼女はフレデリカの手紙を読むのは諦め、帰宅後、さっさと眠ることにした。

 

―― 明日が楽しみ……そういえば、ラインハルトはパーティーが終わったら……なにを? …………知らなかったことにしておきましょう

 

**********

 

―― 仕事終わり。手紙読もうかしら

 

 翌日、彼女は侍従武官長としての仕事を終え、フレデリカの手紙を読もうかと鞄に手を伸ばした。

 

「ジークリンデさま」

「なに? シュトライト」

「少々お時間をいただきたいのですが、よろしいでしょうか?」

 

 彼女は鞄に延ばした手を引っ込めて、シュトライトに話しなさいとばかりに手で合図を送る。

 フォークがユリアンと一緒にフライングボールをしているとかいう下りが、非常に気になっているいるものの、シュトライトは本当に重要なこと以外で、わざわざ彼女に時間を取って欲しいということはないのを、長い付き合いで知っている。

 

「実は折り入ってお願いがございます」

 

 シュトライトから話を聞いた彼女は、ちょうど良い機会だと、その申し出を受け入れた。

 

「実はもう一つ、条件がございまして」

「条件? どんな?」

 

 条件を聞いた彼女は、少々悩んだものの、いまだ厳重な警備を敷いている彼らのことを考えて、

 

「警備させてやったほうが、安心するかしら?」

「それはもちろん。私どもも、安心いたします」

 

 きっと彼らも条件を飲んでくれるだろうと、そして条件を飲みやすくするために「五百帝国マルク」という金額を提示するよう指示した。

 

「そして、午後の予定を少し変えます。オーベルシュタインに連絡を入れて」

「御意」

 

―― 手紙、なかなか読めないわー。まあ、仕方ありませんけれど

 


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