黒絹の皇妃   作:朱緒

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第164話

 陞爵式の控え室 ――

 彼女は準備を整え、背もたれのない椅子に、背筋を伸ばして座っていた。

 その座っている姿は凜としつつも艶麗であった。

 そんな彼女の内心は、

 

―― 大変なことになってますよ、ミュラー……

 

 日々オーディンから遠ざかっているミュラーに、語りかけていた。

 昨日から彼女が思うのはミュラーのことばかり。

 ただ、徒な感情からではなく、敷かれた警備のあまりの厳重さに、原因となった存在に、助けを求めるような気持ちでのこと。

 

―― まさか庭に対空砲まで。侵入や逃走経路が分からないからって、やり過ぎのように思うのですが……

 

 検問所が設置され、敷地内の至る所に対空砲。

 ”私たちが無能ゆえ、このような無粋なものをジークリンデさまのお目にかけることになり、恥じ入るばかりです”

 そう言われてしまった彼女が返せるのは「貴方たちは無能ではないわよ」くらいのもの。

 

―― 鉄壁のおかげで、私の周囲が鉄壁になってしまいました……ミュラーが鉄壁と呼ばれるのはまだまだ先ですが……ありがたいのやら……

 

 彼女が悩む筋合いではないのだが、犯人を知っていながら報告していないのが気に掛かり、どうしても悩まずにはいられなかった。

 

「ローエングラム公爵夫人、会場へ移動のほど、お願いします」

「分かったわ」

 

 宮内庁の職員から告げられ、彼女は椅子から立ち上がり、会場へと向かった。

 

 警備が厳重になった理由に悩んでいる彼女。

 彼らは彼女がミュラーを庇っていることを知っているのに、なぜここまで派手な警備を行っているのか?

 それは彼女に、二度とあのような手段を使って、顔見知りの侵入者を、逃がそうなどと考えないようにするため。

 

 陞爵式に参列するため、正装でやってきたファーレンハイトは、会場入り口でフェルナー、キスリングと、どの程度でこの警備を終わらせるかを話し合う。

 

「でも、あまりやり過ぎると、ジークリンデさまが疲弊するからな」

 

 だが彼女の性格上、気にすることは分かっていた。

 

「今でもかなり気に病んでますけれどね」

 

 陞爵式会場には立ち入れないるフェルナーは、彼女の心が折れかかっていることには気付いていた。

 ただ彼女の心は折れかかってから、驚異的な強さを発揮することも知っている。

 

「あー済みません。元凶の同期として謝罪します」

 

 ”おれ、ミュラーがイゼルローンから帰還したら、肋骨折るんだ” ―― ザンデルスにどの方向に対してか不明な、死亡フラグじみたものを立てたキスリングが、二人に謝った。

 

「そろそろ、会場入りしたほうがいいのでは」

 

 衛兵が近づいてきたので、会話を打ち切り ―― どのタイミングで警備を解除しようか? 考えつつ、ファーレンハイトは彼女の陞爵式を見守った。

 

 

 式が終わり会場から出てきたファーレンハイトの表情が、笑いをかみ殺していることに気付いたフェルナーが「ジークリンデさまに、なにかあったのなら、教えてください」とばかりに、言い寄る。

 

「どうしました? すごい楽しそうな表情ですけど」

「……」

 

”小官には、機嫌悪そうにしか見えませんけど。フェルナーさんがそう言うんだから、そうなんだろうな。あれ? ジークリンデさまは”

 

 式を終えた彼女は、参列者共々会場を後にし、ファーレンハイトと共にキスリングの元へとやってきて着替えてから、社会秩序維持局にフレデリカからの手紙を受け取りに向かう予定であった。

 

「待て。その前に、キスリング。南苑に行け」

「ジークリンデさまは?」

「陛下に連れて行かれた」

「陛下、ジークリンデさまのこと、本当にお気に召していらっしゃいますな。では失礼します」

 

 キスリングがきびすを返して南苑へと向かう。

 

「なにがあったんですか?」

「陛下が連れて帰られただけだ」

 

 式は恙なく終わった。

 終了すると、まずは皇帝であるカザリンが会場を後にするのだが「ジークリンデと一緒でなくては帰らない」と、だだをこねて泣き出した。

 一歳のカザリンがはっきりと言ったわけではないが「じくーじくーくるー」の単語で、大体誰でも想像はつく。

 侍従の一人が力尽くで運ぼうとしたのだが ―― 会場に響き渡る幼女皇帝の大絶叫に彼らは諦め、彼女に南苑まで付いてきてくれるよう頼む。

 カザリンはといえば、抱き上げている侍従の腕に全力で全身をばたつかせ”下ろせー下ろせー。余は皇帝なりー”と、応戦している状態。

 

「ジークリンデさまの小指と薬指を掴まれ、機嫌良く南苑へと戻られた」

 

 彼女が近づくと暴れるのを止め、床に下ろされ(侍従が下ろさなかったのは、下ろすのが危険なほど暴れていたため)彼女の指を握り、さきほどまでの不機嫌さはどこへ? といった風情で歩き出した、

 

「ラングに遅れるかもしれないと、連絡しておきます」

 

**********

 

―― 約束の時間から三十分遅れですか……門閥貴族ですから、許される誤差ですけれど

 

 カザリンの元をなんとか辞し、着替えて地上車に乗り込んだ彼女は、三十分ほど遅れて内務省に到着した。

 身分上、彼女が時間ぴったりに訪問することはないのだが、それでも気になるものは気になる。

 正面玄関前で地上車を停めると、ラングが小走りにやってきて恭しく頭を下げる。そして彼に案内され、やっとフレデリカからの手紙を手に入れた。

 

―― フレデリカからの手紙……すごい、検閲印だらけ

 

 白い無地の封筒は社会秩序維持局の検閲はもちろん、同盟の諸機関の検閲を受けたことを表す印が幾つも押されていた。

 封筒だけで呆然としている彼女に、ラングが一つ一つ印の説明をする。

 

―― 同盟の国家安全保障局に、同盟の国家憲兵隊の検閲ですか

 

 さすがにラングはこれらに関しては詳しく、彼女は説明に耳を傾けじっくりと聞く。

 

「ジークリンデさま、そろそろお時間です」

 

 これから彼女は陞爵を祝うためのパーティーに参加するため、帰宅して着替えなくてはらない。

 

「お引き留めしてしまい、済みませぬ。公爵夫人とお話していると、時間を忘れてしまうのが私めの悪いところです。公爵夫人、こちらをお持ち下さい。手紙を読む際に、必ずや必要となることでしょう」

 

 オーバーリアクションでラングが彼女に詫び、そして記録媒体を差し出した。

 

―― なんでしょうね?

 

 キスリングがそれを手紙と共に持ち、彼女は来た時と同じくラングに案内されて、内務省を後にする。

 

「どうぞ」

 

 車中でキスリングはあらかじめ用意していたペーパーナイフを差し出す。

 彼女は丁寧に封を開けて、便箋を取り出し、折り目をゆっくりと開く。

 手紙は一通に五枚の便箋で、その中の四枚にびっしりと近況が書かれていた。

 その中でも特に彼女が驚いたのは、

 

―― さすがフレデリカ! 社会秩序維持局の検閲を受けているのに、単語の一つすら塗りつぶされてない!

 

 便箋に無粋な黒塗りがないこと。

 検閲済みの印が押されているのだが文面は無傷。同盟軍官僚の娘からの手紙ということを考えれば、これは快挙と言っても過言ではない。

 

―― すごい! 三通とも全文読める! 才媛の誉れ高いだけのことはあります! 

 

 彼女は手紙を読む前に、心からの感動を覚えた。

 

 フレデリカからの手紙の内容は非常に興味深いものであった。

 それ以外にも、フレデリカは自身の近況も、事細かに記してくれていた。

 フレデリカは帰国後、軍関連の病院に就職し、再会した父親と、新しい弟・ユリアンと共に、充実した毎日を過ごしていると書かれていた。

 そしてユリアンについても、触れられているのだが、

 

―― ユリアンの恋人って、シェーンコップの娘のカリンよね。省略形でカリンで、正式な名は……えっと……カリン・フォン・ローザラインだったかしら? ローザラインは名前っぽい気もしますけど、ウルリッヒやアントンという姓もあるから、ローザラインという姓があっても……でも、ジークリンデはどう省略しても、カリンにはならないわよねー。ジークリンデ・ブラックって、どんな子なのかしら

 

 ユリアンに「ジークリンデ・ブラック」なるフェザーン人の年上の恋人がいると書かれていた。

 その名が書かれた経緯は、フレデリカが帰国前に彼女に会ったことを教えたところ「ジークリンデ・ブラック」も六年前フェザーンで彼女を見たという話になり ―― フレデリカは思春期の少年である弟ユリアンよりも、その恋人のほうと先に打ち解けたと。

 

 ユリアンの恋人も気になったが、

 

「この記号はなにかしら? 分かる? キスリング」

 

 文面に彼女には読めない文字と数字で作られた、一瞥すると暗号にしか見えない単語が突如現れる。

 

 ”義弟が兄のように慕っている【W'(296)F-F A・F”m-a-106,f”】と、フライングボールをしている姿を……”

 

 といった文面からそれが人名を指しているのは明らかであったが、彼女の能力を持ってしても理解できない。

 

「これは、名士録で名を捜してくださいということでしょう。W'が叛徒の名士録の略だそうです」

 

 前線での白兵戦が専門だったキスリングは、同盟に名士録があるというのを、彼女の元に来て初めて聞き ―― その存在について、深く考えることはしなかった。

 

「名士録?」

 

 そして彼女も初めて聞くものであった。

 帝国には貴族名鑑が存在するが、それに該当するようなものが、まさか同盟にもあるなど彼女は考えもしなかった。

 

「私も詳しくはないのですが、フェルナーさんから聞いたところによると、叛徒はアーレ・ハイネセンと共に逃走した者たちは、叛徒内では名士とされていて、ダゴン会戦後に亡命した者たちとは、一線を画しており、それを記した録があるのだそうです」

 

 主義のため、フロンティアを求めて旅立ち、それを成し遂げ国を発展させた者たちと、それら苦心をせぬまま、逃げ込んできた者たちとでは立場が違って当然 ―― そのような考えを持っている者たちがいるほうが普通である。

 

―― ユリアンの祖母もそういう人だったと、回想で言ってましたね

 

「この番号で、名士録を引けば、該当名が出てくるはずです。おそらく、さきほど局長が寄こしたデータは、叛徒の名士録でしょう」

 

 フェルナーの手元にもあるのだが、ここはラングから渡されたデータで照会してみようと、キスリングは端末に情報を移して開く。

 画面には同盟語で「名士録」と書かれた表紙が映し出されていた。

 

「(296)はページで、F-Fは”ファミリーネーム-F某”を指すと聞きました」

「A・Fは名前ですか。……アントン・フェルナーが真っ先に思い浮かんでしまいましたわ」

 

 ”この世界に来てからF姓と、縁がありますね”フライリヒラート家に生まれてフレーゲル姓となり、護衛がファーレンハイト、フェルナーときた彼女は、楽しげに画面を眺める。

 

「確かにA・Fですと、フェルナーさんが思い浮かびますね。ファミリーネームFは……フォークのようです」

 

 彼らから「アンドリュー・フォーク」について聞いているキスリングは”フォーク”姓に良いイメージはない。

 

「フォークですか」

 

 むろん彼女も銀河英雄伝説で”フォーク”と聞けば、良いイメージはまったく浮かんでこない。

 

―― 姓がフォークで、名前の始まりがA? A……アンドリューのスペルはたしかAndrew……もしかして”m-a-106,f”のm-aは士官学校で106は百六期生を示して、fは主席という意味だとしたら……フォークが百六期生かどうかは知りませんけれど

 

 まさかと思っていた彼女だが、その”まさか”は的中する。

 

「この【W'(296)F-F A・F”m-a-106,f”】は、一年ほど前に帝国大侵攻を立案した、叛徒の軍人アンドリュー・フォーク准将なる人物のようです」

 

 ”なんでこんなところで、こいつの名前出てくるんだ”と内心で悪態をつくも、誤魔化しようがないので、キスリングは正直に告げた。

 

―― ユリアン、アンドリュー・フォークと仲良いの! 全然ベクトル違いますけど、優等生同士だから……出会い方が違えば、仲良くなれないわけでも……ユリアンは周りに感化されやすい性格ですし……あの若さでは仕方ないですけれど。もしかして、フォークってラングと同じで、仕事を離れるといい人なのかしら?

 

 フレデリカからの手紙で、ユリアンがアンドリュー・フォークと非常に友好な関係を築いて居ることを知り、彼女は”もしかして、フォークはいい人なのでは?”とすら思い始める。

 ちなみに彼女が読んでいる手紙はまだ一通目で、大侵攻前のため、フォークは入院はしておらず、グリーンヒルも左遷されてはいない。

 二通目、三通目も早く読みたい彼女だが、パーティーに出席するために着替え、メイクをし直す必要があるので、後ろ髪を引かれるとはこういうことか! と、一人噛みしめながら、準備に取りかかった。

 

―― 早く続きを読みたいわー

 

 気持ちが違うところなるなどはおくびにも出さず、にこやかに彼女はレモンイエローのアンシンメトリーなラインのAラインドレスに着替え、会場入りする。

 

「手紙はいかがでしたか?」

「すごいのよ、全部読めるの。検閲を完璧にクリアしてるの」

 

 パーティー会場の安全を確保するために、先に会場入りしていたファーレンハイトに話し掛けられた彼女は、やや興奮気味に答える。

 

「それはすごいですね」

 

 話をしていると、フェルナーとファーレンハイトが「あの賊がパーティーを襲うかも知れませんので」と、警備を更に厳重にしたことを思い出し、

 

―― 御免なさい、ファーレンハイト。そしてフェルナー……。ミュラー安心して、ラインハルトの身の安全は確実よ

 

 これも気取られぬよう微笑み、キスリングを伴い会場へ。

 

 手紙を読みたいので、早々に切り上げて帰ろうかと考えていた彼女だが、

 

―― ラインハルトが怒ってるといいますか……覇王のオーラってやつでしょうか。目を合わせるどころか、同じ会場にいるだけで威圧されまくって、なに? なにがあったの?

 

 午前の陞爵式中は、普通だったはずのラインハルトが、夜のパーティー会場で怒りを露わにし、周囲が怯えている姿を見て、放置しておくわけにも行かないだろうと、彼女は攻撃的な輝きを放つアイスブルーの瞳の持ち主へと近づいた。


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