人の気配を感じ、彼女は重い目蓋を開くと、天蓋に覆われたベッドに一人きりなのに気付いた。
手で口元を隠して欠伸をしてから起き上がり、シーツを被って天蓋に手を伸ばし、隙間からそっと外を覗く。
するとそこには、軍服を着用したフェルナーとファーレンハイトが、なにやら声をひそめて話をしていた。
「あら? なにかあったの?」
彼女が起きたことに気付いた二人は、起こしてしまったことを詫びる。
「起こしてしまいましたか」
二人がなにを話していたのかというと、眠っている彼女を起こし挨拶をしてから登庁するべきだと主張するフェルナーと、眠らせたままにしておくべきだろうというファーレンハイトが、小声で話し合っていたのだ。
「なにか起こったの?」
登庁すると聞いた彼女は、なにか問題が起こったのかと、ベッドから少しばかり身を乗り出す。
「いいえ」
「でも休みは五日取れたと」
もともと彼女の我が儘から出た五日間の休暇。
それを切り上げて職務に復帰するのは、なんら問題はないのだが、呼びだされる程のことがあったとなると ――
「もう終わりましたが」
などと考えていた彼女だが、そもそも前提が間違っていた。
「……え?」
彼女は三日しか経っていないと思っていたが、実際はすでに五日経過しており、休暇が終わったので登庁するだけのこと。
「ジークリンデさま、日付の感覚が狂ったのでしょう。たしかにお食事は、約三日分しか摂ってませんし」
「え……あ……」
フェルナーにそう指摘された彼女は、日付の感覚が麻痺するほどの日々を思い出し、天蓋を閉じて、努めて冷静な声を掛けた。
「気をつけて、行きなさい」
「はい」
―― 三日しか経っていないと思ったのに、もう五日が経過していたなんて。残りの二日間、私は一体なにを……
恥ずかしさと驚きで呆然としている間に、ファーレンハイトは彼女の目にはとまらないが、深々と礼をして寝室を後にする。
寝室に残った形になったフェルナーは、彼女の希望を尋ねる。
「ジークリンデさま、もう少しお休みになられますか?」
「起きたいような、起きたくないような……起きます」
意識を手放してしまいたい気持ちもあったが、手放したところで、日付のズレが大きくなるだけのこと。
「分かりました。ではお茶をお持ちしますので」
フェルナーも下がり人の気配がなくなった寝室で、彼女は更にシーツにくるまり、好きにしてと言ったことを一人、後悔していた。
―― 私は本当に子供でした。まさか、あれが普通だとか、あんなことまで……私のようなゲルマン系の皮を被った、中身古代東洋人には、想像も付かない……生粋のゲルマン系で未来の人って……で、でも。あんなことまで、本当に……ああ! 思い出してはだめ……
日付の感覚がなくなるくらい、そう過ごしていたと知った彼女は、普通とは違う居たたまれなさに苛まれ、シーツとベッドマットの間へと潜り込む。
彼女の記憶では、休む前のシーツは緑色だったのだが、いま彼女が体を丸めているシーツは薄紫色。泣きながら掴んだシーツはロイヤルブルーだったことまで思い出してしまい、どんどん顔が熱くなってゆく。
―― 言われてみると、シーツの色がまったく違う……ああ! どんな状態で、シーツ替えられてたんでしょう
いつの間にか取り替えられているシーツや枕カバーなどに気付き、身の置き場がないとばかりに、ベッドかはら這い出す。
「ジークリンデさま」
天蓋のカーテンを開けて、フェルナーが顔を出す。
「お、おはようフェルナー」
「どうぞ」
紅茶と大量のベリー類が乗ったパンケーキをベッドに置く。
―― このいつもと変わらない態度が……
フェルナーはなにも変わらぬ態度で、ベッドの足下の天板に掛けておいた、シルクのシャンパン色のガウンを手に取り、上半身を起こしてシーツで前を隠している彼女へと近づき、ベッドに膝を乗せ身を乗り出して、
「少々失礼して」
彼女の肩にガウンを掛ける。彼女は自分の手で前を合わせ、差し出された揃いの紐を手に取り胸の下あたりに回して結ぶ。
彼女の動揺など知らぬといった態度で、ポットからカップへ紅茶を注ぎ手渡す。
「ジークリンデさまの足下にも及びませんが、どうぞ」
渡されたカップに口を付けた彼女は、フェルナーの様子をうかがうが、
「どうなさいました?」
―― 分かるわけないですよね
フェルナーの態度から、何かを読み取ることはできなかった。
―― 周りの精神年齢が実年齢プラス二十くらいなのが……自分で誘っておきながら、恥ずかしいもなにもないんですけれど。私もそろそろ年相応の態度を……
二十代、三十代で宇宙を統一してしまうような集団の一員になれる者たちなのだから、精神年齢が実年齢を遙かに上回っていても、おかしいことではない ―― 公人としては。
「なんでもないわ。紅茶美味しいわよ」
恥ずかしがると余計恥ずかしくなるので、自分の心の平穏を保つためにも、彼女は平静を装い、紅茶を味わう。
「それは良かった」
せっかくフェルナーが淹れてくれた紅茶なので、じっくりと味わいたいと思っていると、味や香りに集中していると、徐々に羞恥も収まった。
落ち着きを取り戻したところで、パウダーシュガーで装飾されたパンケーキを切り分け、口へと運ぶ。
ほんのりとした甘さと、クランベリーの甘酸っぱさが口内に広がり、空腹が刺激され次々口へと運ぶ。
「美味しい」
「それは良かった」
少し離れた位置から見ていたキスリングは、そのやり取りを微笑ましく見守っていた。
彼は以前「なぜ、目を覚ましてすぐに、菓子をお持ちするのですか?」尋ねたことがあった。
返ってきた答えは「貴族のお姫さまは、コルセットを締める。空腹時のウエストに合わせてコルセットを締めさせ”これですと、あまり食べられないから太らなくていいわねー”と笑顔で言われた私の身にもなれ」であった。
彼女が少しでも多く食べられるよう、心を砕いているフェルナーも、彼女の食欲に笑顔となる。
そんなこととは知らない彼女は、パンケーキに舌鼓をうち、気付けば皿は空になり、新しく注がれた紅茶を飲み、一息ついた。
「ところで、今日の予定は?」
―― 甘い物が美味しい。デザートにも希望しようかしら
朝食のデザートに、パンケーキを追加しようかどうか考えつつ。
「午前中はメルカッツ元帥の副官シュナイダーとの面会。その後、メックリンガー提督と五名の画商の訪問を受けます。午後は明日の式に着るローブ・デコルテとアクセサリー類の衣装合わせ、お疲れでなければ冬靴の試し履きを」
シュナイダーとの面会は、メルカッツからのお礼だろうとすぐに見当はつき、メックリンガーと画商に関しては自らの希望なので何とも思わなかったが、午後の「明日の式」については、まったく心当たりがなかった。
「明日の式とは、なんですか?」
「陞爵式です。ジークリンデさま、ローエングラム公爵夫人となられたでしょう」
「……」
―― そう言えば、公爵夫人と呼ばれていましたね……
公爵夫人になったことは聞き、納得してそう呼ばれたいた彼女は、改めて陞爵式をすることを伝えられ、純粋に驚いた。
「すでに公爵夫人として過ごされていらっしゃるので、式など要らないとは思ったのですが、エッシェンバッハ侯たっての希望で」
「どうして?」
「エッシェンバッハ侯も公爵に陞爵され、明日がその式なのですよ。ご自身だけ正式な式を経て陞爵するわけには行かないとのことです」
―― 陞爵のお式なら、陛下が関係するから私も知っているはず……あ! フェルナーたち、私にラインハルトの帰還を教えるつもりなかったから、隠してたんですね! ……まあ、今更責めても仕方ありません
彼女の予想通り、もともと彼女にラインハルトの帰還をばらすつもりがなかった彼らは、これに関しても隠していた。
隠しているのだから、彼女は式に臨む予定ではなかったのだが、「知られるのだから」その後に執り行われる陞爵の式に参列していただくべきだと、方々の意見が一致し、式用のドレスを仕立て ―― 彼女が出たくないと言えば、それまでではあるが、用意だけは整えていた。
「もっと前に言ってちょうだい。心の準備というものがあるのですよ」
そうは言ったものの、
―― 陞爵式くらいでしたら
陞爵式には「彼女的には”さくら”」として何度か臨席し、順番などは覚えているので、気負いもなければ焦りもなく、緊張もほとんどない。
「ジークリンデさま、慣れてるでしょう」
彼女が陞爵式に列席していたのは、もちろん”さくら”としてではなく、是非ともと望まれてのことだが、そういったやり取りは彼女には届いていないので、場を彩る一人くらいの気持ちしか持っていなかった。
「まったく。……私が腹を立てて、式に出ない言い出すのではと考えて、ぎりぎりまで教えなかったのかしら?」
「それもあります。もともと、ジークリンデさまは除外していたので。もっとも、本当の理由は、おわかりでしょうが」
「まあ、いいわ。では、着替えます。それで、先ほど食べたパンケーキが気に入ったから、朝食のデザートにも同じものを、用意して」
「畏まりました」
彼女は思い切り背伸びをして、ベッドから降りたのだが、足に力が入らず床に崩れ落ちてしまった。
「ジークリンデさま!」
「ジークリンデさま、大丈夫ですか!」
フェルナーとキスリングが足音を立てて、彼女に駆け寄る。
―― 恥ずかしいから、そうできないのは分かってますけれど、ほっといて欲しいわ……貴方たち、そんな心配そうな声あげなくていいから
どうしていいか分からない彼女だったが、キスリングに足と腰のマッサージを施してもらい、なんとかヒールのある靴を履いて歩けるくらいには落ち着いた。
そんなアクシデントらしきものを乗り越え、シュナイダーと面会し、メックリンガーが連れてきた画商たちと会い、絵画を選び終えた彼女は、
「時間取れる? メックリンガー」
「無論にございます」
聞きたいことがあるので、メックリンガーだけ残るよう依頼した。
「司令官はキルヒアイス提督で、副司令官はミュラー提督です」
まず彼女が聞いたのは、イゼルローン要塞攻略について。
詳しい作戦などは聞けないが、彼女としても作戦概要を聞いても理解できない自信があるので、それは必要なかった。
―― ケンプが死んで、キルヒアイスが生きているから、そうではないかと思いましたけれど……え、じゃあ、ここでキルヒアイス死ぬの? ……もしかして、ミュラー……
「そうでしたの」
次に彼女が尋ねたのは、ケンプ夫人と息子たちについて。
充分な遺族年金をもらって、生活に不自由はしていないと彼女は考えており、
「金銭面での不自由はないと」
「はい」
話を聞けば、やはり予想通りであった。
「ただ……」
「なにか問題でも?」
「あるようです」
「聞かせてもらえる?」
「お教えしたいのはやまやまですが、詳細は小官も存じません。ただ相談があるので、時間をもらえないかと」
「いつ、会う予定なの」
「本日、ジークリンデさまの元を辞してから、訪問する予定となっております」
「……」
彼女は左隣に立っているフェルナーを、少しばかり見つめる。
「衣装合わせは夜でも可能ですよ」
次に正面に立っているメックリンガーに微笑みかけ ――
「小官としては、ジークリンデさまにご同行していただけるのは、とても助かります」
男性が単身で、未亡人の自宅を訪問するのは、気を使うもの。些細なことで噂が立つことも、ままある。
なので彼女の申し出は、メックリンガーとしても幸いであった。
メックリンガーは所用があるので、一度戻らなくてはならず、外で合流してからケンプ夫人のところに訪問することに。
「それでは後ほど」
彼女としてはリッテンハイム侯やサビーネ、内乱についてなど、他にも聞きたいことはあったのだが、それらは諦めた。
昼食には少々早めではあったが、外出する用事ができたので、彼女は食堂へ。
一人、大きなテーブルに座り、テーブルに飾られている花を見ているような素振りで、
―― あわわわ。たくさん絵画買っちゃった……画商たちの、あの表情からすると、結構な額よね、きっと。本当は私も一枚一枚、値段聞きたかったわよ! でも、貴族たるもの金額を聞いては駄目ですから……一体、幾ら使ったのかしらー。あーもう、怖いわ……まあ、金額聞いたら、絶対買えませんけどね
今日、どれほど金を使ったのか? 内心びくびくしていた。
**********
「……」
「賊を捕らえられなかったので、警備をより一層厳重にすることになりました」
昼食を取り着替え、キスリングと共に地上車に乗り込んだ彼女は、会館に通じる道路が装甲車両で封鎖されているのを見て、その物々しさに何かあったのか? キスリングに尋ねた。
「迷惑を掛けてしまったわね」
―― ミュラーを逃がしたことは後悔などしていませんけれど……賊が捕らえられなかったら、当然こうなるわよね……
「いいえ。悪いのはあいつですから」
装甲車両が二重になり、道路一つにつき二箇所封鎖している状態。
「あの日は、私が連絡を取り次がないよう命じていたのも……」
「本当にお気になさる必要はございません」
半年前に大規模なテロの標的となった彼女の住む館に侵入者ともなれば、この行き過ぎたような警備も致し方ないというもの。
「そうね。ところで、この厳重な警備はいつまで?」
「賊が捕まるまで、とのことですので、しばらくは」
―― 犯人を仕立てるわけにも行きませんし、賊など居なかったなど、私が言ってもどうしようもありませんし……嘘を突き通すのって、本当に苦手だわ……
兵士たちに敬礼で見送られた彼女は、扇子を持つ手に力を込めて、窓越しに空を見る。
―― どうしたものかしらね、ミュラー
誰がどう責任をとれば、この事態が収拾するのか? 彼女はなにも思いつかなかった。
メックリンガーと合流した彼女は、ケンプの一家が住んでいる官舎へ。
本来であれば、軍人であった夫が戦死したのだから、官舎を出なくてはならないのだが、特別な計らいにより、住み続けることが許可されていた。
彼女の訪問はメックリンガーが事前に連絡していたので、ケンプ夫人は驚きを見せることはなかった。
彼女がケンプ夫人と会うのは二度目。
以前会った時よりも、随分と疲弊しているのが、一目で分かった。
応接室に通された彼女とメックリンガー、そしてキスリングは、ケンプ夫人からオーディンを離れようと考えていることを告げられた。
ケンプ夫人の母親の体調が思わしくないようで、郷里へと帰り、面倒を見ながら子供たちを育ててゆくと ―― わざわざ官舎に住み続けることができるようにしてくれた、ラインハルトの温情を断ることになるのが心苦しいが……ケンプ夫人はそのように告げてきた。
メックリンガーは「気になさることはありません」と、引き留める理由もないので、ケンプ夫人の申し出を聞き入れた。
彼女も「なにかあったら、連絡を」と言い ―― ケンプ夫人と、父を殺した同盟に対して復讐心に燃える息子たちに見送られ帰途につく。
―― この子たちが、直接復讐することはできないんですよね。気持ちは収まらないでしょうが、自分で仇を討ったところで……
彼らの気持ちが分かっていた彼女だが、何も言いはしなかった。
彼女自身、直接指揮したわけではないが、軍隊を率いてフレーゲル男爵の仇を討ったこともあれば、全てを失って自暴自棄となっていた時、周りの者たちが彼女の代わりに仇を討ってくれたこともあった。
どちらも心は軽くはなったが、その心は昔のものとはまるで違うことにも気付き ―― 元に戻ることはないのだと。
―― もうじき戦争は終わりますから……ケンプの息子たちが戦死しないことだけは夫人にとっては救いでしょう……でも平和が始まるかどうかは分からないのが