「相変わらず、予想も付かないことをしでかしてくださる」
彼女が使用している三室の一角に、彼らが待機する部屋が設けられており、その部屋で各自、好きな酒を開けて飲んでいた。
「かなりの確率で、とんでもないことして下さいますよね」
キスリングより、ずっと付き合いの長い二人が、こう言っているのだから、どうしようもなかったのだろうなと、キスリングは一人黒ビールを飲みながら、会話に耳を傾け ―― しばらくすると、ラインハルトのことに話題が移った。
おおよそジークリンデのことに関しては、対する姿勢の変わらない二人だが、ラインハルトと彼女の関係に際しては、かなりの相違があった。
フェルナーに比べるとファーレンハイトのほうが、若干ラインハルトに対しての評価が甘かった。
意外に感じたキスリングが尋ねると、ファーレンハイトはグラスを手に持ったまま、十年ほど前、ラインハルトのことを楽しげに語っていた彼女のことを思い出し、幾つか独白に近いような口調で教えた。
「初めて侯と会う日、とても楽しみにしていらっしゃったな」
”そう。ローエングラム公に会うの。この黒い布で包んでちょうだい! え? ローエングラムって誰……ああ! ミューゼルでした”
「……どうしたんですか?」
「記憶違いか、なにかと勘違いしているのか分からないが……侯に会うための算段を話し合っていた時、ジークリンデさまが”ローエングラム公”と言ったような」
グラスをテーブルに置き、額に手を当てて悩み始めたファーレンハイトに、
「きっと疲れてるんですよ。さっさと休むといいですよ」
そんなこと、有るはずないでしょうとばかりにフェルナーは返したが、実際は本当にそう言っていた。
「飲み始めたばかりなのにか」
「”わく”が一人減ると、私にまわってくる分が増えるので」
ファーレンハイトも思い違いだろうと、それについてはすぐに考えるのを止めた。
「ああ、そうだ。あなたの元帥府のロビーに、絵画の一つも飾られていないこと、ジークリンデさまは気になったそうで、お祝いとして幾つか買って下さるそうですよ」
華美である必要はないが、ある程度の装飾は必要だろうと、彼女は帰宅後すぐにメックリンガーへ連絡をして、人払い休暇後、画商を連れてくるよう依頼した。
「幾つか?」
「そう、幾つか。ロビーと会議室、あとは階段の踊り場にとか仰ってました。本当に殺風景でしたもんね」
「ありがたいが……」
彼女が購入する絵画ともなれば、一般人は目眩を覚えるほどの額となる。そんな高価なものを飾られると、落ち着かないというのがファーレンハイトとしては正直な気持ちだった。
だが断るという選択肢はなく ――
「警備を付けるべきだろうか」
盗まれでもしたら困るので、人員を割くべきかと。
「気持ちは分かりますが、どこの元帥府でも絵画に警備を付けているのは、見たことありません。なあ、キスリング」
二人以上に有名画家の手による芸術作品について、造詣などないキスリングは、ファーレンハイトの副官ザンデルスとメールのやり取りをしていた。
彼女が眠ってすぐ、会館の警備をより厳重にしようと、それらの手配をザンデルスに指示した。
その命令を受けたザンデルスは、詳細は説明されなかったが、なんとなくミュラーが原因だろうと推測ができ、それが正しいかどうかを、確かめるためにキスリングにメールを送ってきたのだ。
上司に聞かなかったのは、彼女が関係していると、上司の沸点が異様に低いのを、身を以て知っているためである。
新しい警備体勢の指揮管理する、フェルナーも同様。
キスリングとザンデルスが、やり取りしていると、その間に、シュナイダーからのメールも入った。
「はい、絵画の警備は見たことないですね。ところで、フェルナー少将」
「なんだ?」
シュナイダーが、メルカッツからのお礼状を届けたいので、時間を取ってもらえないかと伝え、
「それはちょうど良かった。ジークリンデさま、メルカッツ閣下にも元帥就任のお祝いとして、幾つか絵画を贈るつもりだったから。一つくらい、副官に選ばせよう」
この休暇が終わったらすぐに会えることが決まった。
その他、陞爵に関する式に着用するローブデコルテの仕上がりや、冬靴が仕立て上がったので微調整の為に履いてもらう数など、酒を片手に話していると、端末に彼宛の通信が入ったという連絡が届いた。
『フェルナー少将』
フェルナーは、自分のグラスに注ぐために持っていたボトルを置いて応える。
「なんだ?」
彼女の希望で五日間は、外部との通信ができないようにしているため、通信室側からこの部屋のモニターに勝手に繋ぐわけにはいかず、こうしてワンクッション入れる必要があった。
『社会秩序維持局局長から通信が入っております』
「わかった。こちらから繋ぐ」
端末を切り、ファーレンハイトを指さす。
指されたほうは”要らん、要らん”と手を振り、立ち上がり画面に映らない位置へと移動し、ワインを口に運ぶ。
フェルナーはそれを確認して通信を繋ぎ、ラングからの話を聞いた。
内容はフレデリカからの手紙の検閲が終わったこと
実はフレデリカからの手紙は、これで三通目なのだが、彼女は事件に巻き込まれ、その後情報を遮断されていたこともあり、まだ一通も目を通していなかった。
重要だが、急ぎでもないことを、いつ帰宅したのかはフェルナーも分からないが、こんな夜更けにわざわざ自宅から報告することでもない。
フレデリカからの手紙は話すための取っ掛かりで、本当に話したい内容は違うことは、フェルナーにも分かっていた。
ラングがこの時間、ここに通信を入れた理由。
―― あわよくば、ジークリンデさまと話したい……が、外部との連絡を絶っていますから、次は当然ファーレンハイトですよね
『公爵夫人は、しばらくは誰ともお話をなさらないと聞きましたが』
「ええ。あ、もしかしてジークリンデさまになにか? よろしければ、私がお伝えしますが」
ラングは粗雑には扱わないようにと、彼女から言われていることもあり、フェルナーは彼にしては珍しいくらい低姿勢を保つ。
『一目お会いしたかっただけです』
―― 先日のパーティーに招待しただろうが
元帥就任を祝うパーティーに、ラングはもちろん招待されていた。ただ彼女と挨拶はできたが、話す機会はなかった。
「そうですか。ですがジークリンデさまは、皇帝陛下からの連絡以外は取り次がないようにと、仰ったので。局長どのであっても、お取り次ぎすることは出来ません」
彼女はこの辺りのことを、明言はしていない。
休暇中に皇帝から呼びだしが来るなど、想定する人のほうが稀。
だが皇帝の名を使えば、権威に傅く者たちは容易に引き下がる
『分かっておりますとも。公爵夫人のご気分を害することなど、このラングがするはずもありません。そうそう、ファーレンハイト提督はそちらに?』
「居ますよ」
『お話できますでしょうか?』
「ただいまジークリンデさまの、寝所に侍っているので、取り次ぎはできません」
『そうでしたか。それは失礼を』
通信が切れ、いつの間にか彼女の寝室へと行き、脈を取り、薬による異変はないかを確認してきたファーレンハイトが戻ってきた。
「予想通りです」
「予想通りなのは構わんが、寝室に侍っているは言い過ぎではないか」
「ジークリンデさまのご希望通りに、説明してみたのですが……あの局長、吹聴して回るでしょうかね?」
「しないだろう。身に危険が及ぶ類いの噂かどうかを見極めるのは、ラングが得意とするところだ」
彼女は噂が流れればいいと期待しているが、ここは帝国。
よからぬ噂を囁いたと密告されると、憲兵が捕らえて拷問し、拷問を耐え抜くと、流刑地に飛ばし栄養失調から衰弱死させるのが常道。
「エッシェンバッハ侯は、憲兵も掌中に収めましたからね」
”言っていたと噂されただけで”身の破滅。とくに、社会秩序維持局局長という恨みを買う地位にいるラングが、そんな分かりやすい危険に近づくはずもなく。
「下手なこと呟いたら、軍人生命終わりですか」
ラインハルトならば憲兵をそのような私事に使わないと ―― 彼は身内に対して、極度に甘いところがあるので、ないとは言い切れない。
以前のように彼女に対して、あまり好意を見せていなければまだしも、最近はかなり表に出しているので、人々がどう取るか?
「侯はともかく、憲兵を束ねることになった、ケスラーが黙っていないだろう」
「いや、あの人は意外と、そこら辺はしっかりしていそうですよ」
「どうだかな」
「ところで、ラングどうします」
さきほどラングが連絡をしてきた最大の理由は、自分の地位の安定を図るために、彼女という帝国最大の支援者が欲しかったため。
各省庁のトップである尚書がほとんど代わり、ラングの上司である内務尚書も別の者になった。
ラングも自力で新尚書に売り込んではいるが、より確実を期するためには、彼女の支持がどうしても欲しいところであった。
彼女は帝国で、押しも押されぬ第一の門閥貴族の当主となった。
彼女が聞いたら、そんなことはないと全力で否定するが、思慮分別があり、出しゃばらず、控え目で、伝統を重んじ、賢く優しい ―― 衆目の一致するところであった。
そんな彼女だからこそ、政治関係に口を挟んでくるとは、誰も考えていなかった。
リヒテンラーデ公が、政治の実権を握っていた時も、彼女は一切希望を口にしなかったのが特に大きい。
だが彼女には決定を覆す力もあれば、支持してその地位を守るってやれる権力もある。
それらの決定を下す際に、彼女が頼りにするのは、夫であり後見人の意見であり、指示であると想像されていた。
「最終的な決断は、ジークリンデさまがなさるのだがな」
人となりだとか、経歴だとかは彼らが調べるが、決めるのはあくまでも彼女。
むろん、書類は彼女の前に並べられる前に精査されるが。
「婦女暴行の経歴を塗り潰してるヤツは、駄目ですよね」
「そんな薄汚い経歴書を、ジークリンデさまの前に出すようなお前ではないだろう。フェルナー」
「ええ。でも、ラングは経歴はさほど汚れていないんですよね」
ラングは社会秩序維持局局長という地位に就任していること以外、借金もなく、家族仲もよく、私生活の乱れもなし。
「局長はラングに続投させてもいいのでは……と、意見させてもらうか」
「それで良いのではありませんか。でもロイエンタール卿が、色々と言って来そうですね。あの人、社会秩序維持局の権限を削ごうとしていますので」
「あいつらが、いがみ合うのは構わんが、こちらに火の粉が飛んでこないようにせねばな」
彼女は裁定者的な立場でもあるので、諍いが起きた際、問題が持ち込まれる可能性もあった。
「そこはパウルさんが、色々と策を講じているようです」
「両方失脚させるつもりか?」
「かも知れませんね。まあ、あの二人が居なくなっても、ジークリンデさまは困りませんし」
**********
翌朝、目を覚ました彼女は、天蓋を開けて、カーテンの隙間から差し込む朝日に照らし出される、ネグリジェのエンブロイダリーレースの柄を眺めた。
「……フェルナーですよね」
彼女のドレスなどを選ぶ際、彼らの好みが如実に表れ、明確な違いがある。いま彼女が着用しているのは、フェルナーが好んで彼女に着せるデザインのものであった。
しばらくベッドの上で、昨晩の出来事を思い出す。
「おはようございます、ジークリンデさま」
白い皿にには、クリームチーズを塗りオレンジを乗せたライ麦パン、背の低いグラスに注がれた白ブドウジュース、銀の厚みがあるトレイで運んできたフェルナーが彼女に声をかける。
「フェルナー」
「どうぞ」
技巧を凝らしている取っ手が目を引くトレイを、彼女の枕元近くに置いて、四方の天蓋を纏め、専用の紐で枠に結わえ付ける。
「体調が優れませんか?」
ライ麦パンはともかく、ジュースにも手をつけないのは珍しく、薬の副作用で胃が荒れるかしたのかと、天蓋を留めて彼女に近づく。
シーツの端を握って、なにかに耐えているような彼女の姿に、これはいよいよ体調不良だろうと、医者を呼ぶために端末を取り出す。
「医師を呼びますね」
そう言うと彼女は違うとばかりに頭を振る。
一度端末は戻して、トレイをサイドテーブルに移動させて、
「どうなさいました?」
再度彼女に、尋ねる。すると彼女はフェルナーにネグリジェを着せたかどうか? 聞いてきた。
「はい」
それを聞き、彼女は俯く。
黒く滑らかな髪がさらりと広がり、朝日に煌めき、ラインハルトの金髪にも負けないほどの輝きを放つ。
「ねえ、フェルナー。昨晩の私ですが……」
「ああ、お疲れだったようで、途中で眠られたようです。あまりご無理をなさらないように」
フェルナーの言葉を聞いた彼女は、手で顔を隠す。
「ジークリンデさま?」
「ファーレンハイト、怒ってない?」
「は? いえ、私は特になにも感じませんが」
”わりといつものことですが、ジークリンデさまの意図が分かりません”と、フェルナーは端末で建物内にいるファーレンハイトを呼びだし、到着するまでの間、情報を得るべく話を続ける。
「怒りすぎて、冷静になったとか」
「はあ……なんで怒っていると?」
心当たりのないフェルナーは、昨晩の出来事を時系列順に並べて考えてみるも、精々思い当たるのは、彼女がミュラーを逃がそうとしたことくらい。
だがそれも、怒りを感じるようなことはなく、いかにも彼女らしいなと ―― ミュラーに対しては、怒りはあるが、それが彼女に向かうようなことはない。
「……」
無言の彼女を前に、薬を飲ませたことを、彼女に気付かれたのだろうかなど、考えを巡らせる。
「失礼します」
呼ばれたファーレンハイトがやってくると、彼女は彼らに背を向け、倒れるように横になった。
端末の画面に”激怒していると思われてますよ”と打ち込んで見せる。
読んだ方は、心当たりがないとゼスチャーで返した。
二人が怒っていると勘違いしている彼女は、このままでは行けないと、起き上がり、けぶるような長い睫を震わせて、泣きそうな声で、謝罪をしてきた。
「ごめんなさい」
理由も分からず謝罪された方は、どうしたものかと顔を見合わせてから、彼女になぜ怒っていると思うのかを尋ねた。
彼女は自分が悪く、謝罪したいと本心から考えていたので、その問いかけに口ごもるようなことはなかった。
内容が内容なので、恥ずかしげではあったが。
「最中に眠ってしまうなんて」
”それですか”
薬を盛られたのだから眠って当然です ―― 明かそうか? と、考えるも、薬を盛った理由を説明する際に、間違うと傷つけかねない。
普通であれば、彼女が恥ずかしがるような所だが、そんな表情は浮かばず。
むしろかなり思い詰めているのが、一目で分かるほど。
「気になさる必要はございません」
浮気しなくて済んだのだから、そこは喜んでも良いようなところだが、自分から誘ったのに、途中で居眠りなど、失礼極まりない行為。
怒っていないと言われても、嫌われてしまったかもと思っても仕方がない。
「……」
どれほど気にする必要はないと言っても、気にするのは明白。
両者とも昨晩ミュラーが会館にいたという事実を、相手に隠さなくてはならないのも、上手く説得できない理由であった。
互いに互いを欺し、欺され、欺されたふりをし続ける ―― そんな、この状況をどうやって収めるか?
「ジークリンデさま。朝食をお持ちしますね」
「フェルナー?」
「昨晩は疲労で、今度は空腹で中断になったら、ジークリンデさまも嫌でしょう」
フェルナーは全部ファーレンハイトに任せることにした。
「それは、そうですけれど……」
「……」
「もう、怒ってない? やっぱり、まだ怒ってる? 許してくれる?」そんな縋るような眼差しを彼女はファーレンハイトに向ける。
潤んだ翡翠色の瞳を前に、願いを叶えないという選択肢はない。
二人とも一度寝室を出て、どうしたものかと、眩しい朝の日差しの中、深いため息を吐き出した。
「なんで俺が」
「昨晩、私にミュラーを殺させなかったからでしょう」
「それはそうだが……せっかく、侯との関係が上手くいきそうなのだ。このまま、勘違いされても止めるべきでは」
ファーレンハイトとしては、彼女とラインハルトの仲が好転の兆しがあるので、避けたほうがいいのではと考えた。
「ジークリンデさま、エッシェンバッハ侯と別れたいと言ってますよ」
「そうだな。俺の意思など、必要などなかったな」
淡々とジークリンデが納得してくれるよう、尽力しようと ――
その時、ジークリンデは両手でグラスを持ち、白ブドウジュースを飲み、謝罪の気持ちをどのように表そうかと、思いを巡らせてた。
―― ”好きにして”と言ったら、許してくれるかしら。でも私、そんなキャラじゃない……言うだけは、言ってみましょう。謝罪の気持ちが伝わればいいわ
彼女が今日を含めて五日間、裸で過ごすことになったとしても、きっと、おそらく誰も悪くはない。
もしも悪人を定めるとしたら、それはミュラーとされることだろう。