黒絹の皇妃   作:朱緒

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第161話

 ファーレンハイトの声を聞き、震えは収まったが、目の前の砂色の髪と瞳の(強姦未遂)好青年がいる。

 

「ええ。いるわ」

 

 この状況でファーレンハイトが浴室へと入ってきたら? 過去、彼女の浴室に許可なく侵入しようとしたり、覗こうとした者たちの末路を思い出し ―― 彼女は今度は別の意味で震えた。

 

「浴室を確認したいのですが、宜しいでしょうか?」

「どうしたの、ファーレンハイト。なにかあったの?」

「侵入者があったようなので、一部屋ずつ確認しているところです」

 

 彼女は振り返り、まだ床に座っている、言い訳のしようがないほどに着衣が乱れたミュラーを見て、ドアに視線を戻す。磨りガラスの向こう側にはファーレンハイト……と、大きめの銃らしきものの影が確認できた。

 

―― ファーレンハイトのことですから、このミュラーを見つけたら、問答無用で射殺してしまいます!

 

 自分を襲っていた相手を心配してどうする? といった所だが、

 

「誰もいないわよ」

 

 元帥が余所の元帥直参の将校を射殺したとなると ―― 彼女は考えただけで、目眩がしてきた。

 

―― ミュラーもブラスター持ってますし。浴室で銃撃戦は止めてー! 白兵戦はもっといやー!

 

 彼女が両者の間にいる限り、銃撃戦になることはなく、自ずと武器を持っての斬り合い、殴り合いになるのだが、皮膚が裂けて血が飛び散るさまなど、進んで見たいものではない。

 

「念のために確認させてください」

 

 恐怖からの震えはすでに収まり、とにかくこの事態を上手く切り抜けるか? 彼女は必死に考える。

 

「本当に誰もいないわよ……ちょっと待っていなさい、ファーレンハイト」

「はい」

 

 彼女はドアに鍵をかけ、大判の白いバスタオルを掛けて、浴室内をうかがえないようにして、急ぎミュラーの元へ行き手を掴み、浴槽へと連れてゆく。

 

「ここに身を横たえて、隠れて。タイミングを見て帰りなさい……キスリングを寄こしますから」

 

 ただあまり深くない浴槽なので、ファーレンハイトが近づいたらミュラーは見つかってしまう。

 

―― 蓋があったら良かったのに!

 

 浴槽に蓋などかけない文化なので、そのようなことを思っても無意味なのだが、この時ほど彼女は蓋がないことを悔やんだことはなかった。そして、階層が高いことも。

 

―― なんでここは一階じゃないの。一階なら、すぐ逃げられたのに……高いところが好きな、私のばかー。……じゃなくて、ファーレンハイトを近づけないように、どうにかしなくては

 

 彼女はシャワーを浴びて、涙の跡を急いで流し、濡れたままドアへと駆け寄りドアを開けた。

 

「ジークリンデさま」

「物々しい装備ね」

 

 ドアを開けると、そこには小銃を持ったファーレンハイト。

 

―― やっぱり、小銃持ってました! ……安全装置が解除されてます。本気ですよ、このファーレンハイト

 

「相手の武装がどれほどのものか、分かりませんので」

 

 彼女はドアの所から動かず、ファーレンハイトが奥へと向かうのを阻止するが、それにも限度がある。

 

「賊は何名?」

「一名のようです」

「他の人たちも捜しているのですよね」

「はい」

 

―― ここから脱出できたら、あとは大丈夫よね。ここさえ上手くやり過ごせ……上手くいかなかったら……もう、どうにでもなって!

 

「手を貸して。どちらでも良いわ」

「はい」

 

 突如命じられたファーレンハイトは、銃から手を離し、彼女に差し出す。

 ファーレンハイトの従順さは、賊が何者なのか? どこに居るか分かっているからこそのもの。

 彼女はその手を掴み、自分の口元まで持ってきて、中指を子供のようなあどけなさが残る口に含む。

 ねだるような上目遣いで、ファーレンハイトを見つめ、口に含んだ中指の腹を舐めて吸い、名残惜しそうにして、指から口を離す。

 

「前言撤回してもいいかしら?」

「撤回とは?」

「眠るだけで、なにもしなくて良いと言ったのを、撤回するの」

 

 まだ持ったままのファーレンハイトの指をもう一度舐めて、弾力のある胸を潰すかのように、濡れている艶めかしい体を押しつける。

 

「しなくて良いと言ってしまったから、どうやって誘ったら……と考えていたところに、物々しい格好で現れるから。驚いてしまったわ」

「失礼いたしました」

「ベッドまで、運んで。片手では無理かしら?」

「まさか」

「では今すぐ」

 

―― ファーレンハイトを浴室から遠ざけつつ、ミュラーにふしだらな女であることを印象づけられたはず! 

 

 彼女としては、そういう”つもり”だが、彼が彼女の考え通り受け取るとかどうかは、また別のこと ―― 昨晩、失敗したものと似たような策で、成功すると思っている辺りが、彼女らしいとも言える。

 

 各自の心境はさておき、小銃を片手に持ち、もう片手に彼女を腕に座らせるようにして抱き上げる。

 彼女は浴槽の方に視線が行かないようにと、ファーレンハイトの頭に抱きつく。

 

「安定が悪いのでしたら、両手で」

 

 この場に銃を置き、彼女を運んでから、取りに来た場合、下手をすればミュラーとかち合ってしまう可能性がある。

 それを避けるためにも、彼女と銃の両方を同時に運んでもらう必要があった。

 

「この体勢がいいの」

 

 侵入者に銃を奪われることを考慮すれば、放置はありえず、なによりミュラーが銃を取って何らかの行動に出ることも考えられるので、ファーレンハイトが銃を置き去りにすることはない。

 この辺りは、この場から早急に遠ざかることで頭がいっぱいの彼女には、考えが回らなかった。普段であれば、考えも及ぶのだが、この状況では無理というもの。

 

「畏まりました」

 

―― 重いでしょうけれど、頑張ってファーレンハイト

 

 両手が塞がっているので、ドアは開いたまま。

 ミュラーが無事に帰れることを願い、彼女は浴槽のほうを振り返りはしなかった。

 

―― 場の勢いで、裸で抱きついてしまいましたけれど……恥ずかしくなってきましたー。今更恥ずかしがっても、どうしようもありませんが

 

 そんな葛藤をしている彼女を、ファーレンハイトはシルクのシーツが掛けられているベッドに下ろした。

 

「……キスリングに用を頼みたいの。すぐに呼んで」

「畏まりました」

 

 キスリングを呼び、彼女の肩にナイトガウンを掛けて、寝室に異変がないかどうかを確認してから、小銃の安全装置を作動させ、ベッドサイドに立てかける。

 

「お呼びと」

 

 寝室へとやって来たキスリングに、ナイトガウンで足下が隠れているとはいえ、彼女らしくなく裸足で駆け寄った。

 

「炭酸水を持ってきて……あのね、浴室にミュラーがいるから、逃がしてあげて……お願いね」

 

 ミュラーを逃がして欲しいと、キスリングの耳元で小声で告げ、彼女は再びベッドへと戻る。

 

「では少々お待ちください」

 

―― 食堂は一階ですから、ミュラーを連れていけるはず。調理場には食料搬入口がありますから、そこから出ていけば……服も着直したでしょうから、なにが起こっていたのかは、きっと分からないはず……後で聞かれても、私がそうではないと言えば、納得できなくても、納得せざるを得ないでしょう

 

 ベッドに戻った彼女は一安心……とは行かない。

 

「どうなさいました? ジークリンデさま」

「炭酸水を飲んでからでいいかしら? ファーレンハイト」

 

―― 今すぐと誘っておきながら、待たせるとか……違和感を覚えられたら……

 

「それは構いませんが、無理をなさらないで下さい」

「無理なんて、していませんよ」

 

 無理をしていないとは言っているが、内心は無理し過ぎで、さきほどミュラーに押し倒されていた時と、ほとんど変わらないほど彼女は焦っていた。

 唯一の救いというべきか、彼女の心が決まっていないことをファーレンハイトが、誘いに乗り軍服を脱ぎ出したりしないこと。

 

―― 誘っておいて、ここで嫌とは言えません。きっと気分が乗らなくなったといえば、無理強いはしないでしょうけれど……

 

 目的は果たされたのだから、気分が変わったと言ってもいいのだが、ここまでしてしまうと、引っ込みもつかない。

 キスリングが炭酸水とグラスを乗せたトレイを、サイドテーブルに置き、彼女に笑顔を向け頷いて去っていった。

 

―― 無事に帰ったのですね! あとは、キスリングが警備を上手く誤魔化してくれるでしょう

 

「どうぞ」

 

 ファーレンハイトがグラスに注いだ炭酸水を彼女に差し出す。それを一口飲み、炭酸の刺激が口内に広がり、彼女の緊張が少しだけ解けた。

 

―― なんだか、とっても大きな仕事終えた気分!

 

 実際はなんの仕事も終わっておらず、事態はさほど変わっていないのだが、彼女は落ち着いた。それは、現実逃避気味とも言えなくはない。

 幸せそうな笑顔を浮かべて炭酸水を飲んでいる彼女の意思に従うべく、ファーレンハイトは軍服を脱ぐ。

 

「ジークリンデさま」

「なに?」

 

―― うわ! 上着脱いでます。当たり前ですけれど……え、あ、覚悟決めましょう。決め……

 

 声を掛けられて、そちらを向いた彼女は、白いシャツ姿になっているファーレンハイトを見て、自分で誘っておきながら「もう、逃げられない」と、グラスに残っていた炭酸水を一気に飲み干す。

 

「おや、もう飲み終えられましたか。もう少し、飲まれますか?」

「もう要らないわ」

 

 服を脱ぐよりも先に、彼女の手にある空になったグラスを受け取り、サイドテーブルに置く。

 

「それで、何かしら? ファーレンハイト」

「ジークリンデさまのお体、随分と冷えているようです」

「え、あ……そうかも知れないわね」

 

 背中が大きく開いていたドレスを着ていたことや、シャワーを浴び、裸で床に押しつけられていたので、彼女の体はかなり冷えている。だが彼女は様々なことに遭遇し、精神が興奮状態にあるため、それに気づけないでいた。

 

「冷えた炭酸水もよろしいのですが、温かいものも飲まれたほうが」

「そうね」

 

 体を冷やしたままにしておくと、体調を崩すのは身を以て知っているので、彼女はその提案を素直に受け入れたが、

 

―― 何を飲もうかしら。行為の前にホットミルクはないわよね。ポタージュはもっと違うでしょうし

 

 彼女にとって眠る前に飲む、温かい飲み物と言えばこの二つなのだが、どちらもこの状況にそぐわないような気がし、この雰囲気に合いそうな飲み物を捜すも、思いつかない。

 

「ホットビールなどはいかがでしょうか?」

「良いわね」

「では少々お待ち下さい」

 

 彼女はベッドの上で、ファーレンハイトに背を向けてつま先を触る。

 

―― 冷え切ってる! 混乱してて、気付かなかった

 

 つま先の冷たさを確認して自覚し、自分が随分と混乱していたのだと苦笑し ―― ホットビールが運ばれてくるまで、彼女は少しでも体を温めようと、足をマッサージしていた。

 

「ジークリンデさま。お持ちいたしました」

「フェルナー」

 

 彼女は足を隠して、体の向きを変えて、フェルナーが差し出したトレイから、ホットビールが注がれている器を両手で受け取る。

 

「素人の手なので、ジークリンデさまのお口に合うかどうかが心配ですが」

「もしかして、フェルナーが作ったの?」

 

 耐熱ガラスの器に注がれている、シナモンと砂糖が混ぜられた黒ビール。その上を覆う、ホイップされた生クリーム。

 

「はい」

「味わうのが楽しみだわ。あら? 私の分だけ?」

「はい。ファーレンハイトからは、ジークリンデさまの分をお持ちするように、だけでしたので」

 少し口を付け、フェルナーに笑顔を向けて、彼女はホットビールを味わう。

 

―― 余程体を冷やしたでもないかぎり、この時期に、ホットビールは飲まないわよね。あ、美味しい

 

 その姿を確認し二人は視線で会話をし、フェルナーは寝室を出ていった。

 ホットビールを飲み終えた彼女は、器をベッドの上に置かれたままのトレイに乗せ、ファーレンハイトに対して、控え目に両手を広げた。

 その誘いに乗り、ファーレンハイトが彼女の上に覆い被さる。そして背中に手を回し、くすぐったいような、軽い愛撫に目を閉じる。

 酔いにも似た高揚感につつまれ ―― 彼女はそのまま眠りに落ちた。

 

「ジークリンデさま」

 

 背中に回していた腕が、力なくベッドに落ちる。

 その手を取り、綺麗に揃えられている爪にキスをするが、彼女からは何の反応もない。

 

「……」

 

 声を掛け、微かな寝息を確認し、ファーレンハイトはベッドから降りた。

 

「フェルナー」

 

 ミュラーの為に体を張らせるなど、以ての外なので、彼女が口にしたホットビールには、アルコールと一緒に摂っても大丈夫な眠剤が混ぜ、責任感と混乱から解放する手段を取った。

 

「眠られましたか。早かったですね」

 

 昨日から今日にかけての疲労と安堵感と薬が相まって、彼女はすぐに意識を手放したのだ。

 

「あとは任せた。俺は頭を冷やしてくる」

「存分に水シャワー浴びてください」

 

 寝室を出て行くファーレンハイトと入れ違いで、腕に彼女のネグリジェを持ったフェルナーが寝室へ。

 昔と変わらずあどけない寝顔を浮かべている彼女へ近づき、ベッドに前開きのネグリジェを広げて、その上に彼女を移動させる。

 上手く彼女を丁度良い位置に置くことができたフェルナーだが、置かれた彼女が身を捩った。

 すると昨晩、ラインハルトに跡を付けられた辺りが見え ―― 誰かがその跡を噛んだ歯形が残っていた。

 

「……」

 

 彼女にシーツを掛け、浴室へと行き、水を頭から浴びているファーレンハイトに「あんたの仕業か?」と詰問する。

 

「ジークリンデさまのお体に、噛んで跡を残すような真似しました?」

 

 片頬が引きつり、痙攣しているフェルナーの怒りに満ちた笑顔に、シャワーを止めた濡れた髪をかき上げたファーレンハイトが、睨み殺さんばかりの視線を向ける。

 

「噛むわけないだろう」

「そうですか。……七対三にしておくべきでした」

 

 フェルナーはそう言い、彼女の腰に付いた跡を早く治すための薬を取りに向かい、ファーレンハイトは彼女の問題の箇所を確認するため、フェルナーに続いて浴室を出た。

 安心しきっている彼女の頬にキスをしてから、ファーレンハイトはシーツをめくる。象牙色の肌に、フェルナーが言った通りの跡が残っていた。

 内出血の治りをよくする薬を持ってきたフェルナーが、優しく薬を塗り、ネグリジェを着せて二人とも部屋を出た。

 

「ところで七対三とは、なんのことだ?」

 

 彼女は逃げないようにと努力していたが、体は逃げようと腰を捻っており、その時、昨晩付けられた跡をミュラーが見つけ、それを打ち消すかのように、さらに跡を付けた。

 

「ミュラーに掛けた氷水の分量比です。六対四でしたが、七対三にするべきでした」

「一応聞くが、六が氷で四が水か?」

「もちろん」

「八対二でも良かったな」

「十零」

 

 呼吸に集中していた彼女は、その辺りを噛まれたことにも気付いていなかった。むろん、気付く必要などない。

 

**********

 

 ”炭酸水を持ってきて……あのね、浴室にミュラーがいるから、逃がしてあげて……お願いね”

 

 彼女にそう命じられたキスリングは、全力でその任に当たった。

 彼の特徴とも言える、足音を完全に消し、ミュラーのいる浴室へと向かい、連れて部屋を出る。

 部屋を出る際に聞こえる足音は一つだけ ――

 そのまま無言で廊下を早足で進み、一階の調理室にある冷蔵庫から、彼女が飲む炭酸水を取り出し、銀のトレイにグラスと、アイスペールを用意し、無言で食料搬入口を指さす。

 そしてミュラーがそちらを見た一瞬の隙をつき、キスリングは腹部に拳を入れた。

 先ほどのフェルナー同様、床に崩れ落ちるミュラー。

 

「ジークリンデさまが逃がしてやれと仰るから、逃がしてやる。イゼルローン攻略に向かうから、無傷で逃がしてやる。だが帰ってきたら、肋骨を折ってやる。憶えておけ」

 

 端末を取り出し、警備システムに上位権限でアクセスし、ミュラーが敷地から出られるよう手配して、殴られうずくまっているミュラーを無視し、彼女が希望した炭酸水を乗せたトレイを持ち、キスリングは駆け出した。

 

 殴られて痛む腹部に手を添え、痛みで乱れていた呼吸を直し、ミュラーは立ち上がり、出口のドアに手を掛けて開いた。

 ドアの外側には氷水が入ったバケツを持ったフェルナーが立っており、ドアが開くと同時に、ミュラーの胴体めがけて氷水を勢いよく掛けた。

 全身に痛みが走ったが、ミュラーは悲鳴を上げることもなく、フェルナーは無言で、空になったバケツを肩に担ぐようにしてすれ違い室内へ。

 

『ジークリンデさまに、ホットビールをお持ちしろ。興奮していらっしゃるから、落ち着かれるようなスパイスを』

 

 調理室を抜ける辺りで、この指示が届いたので、フェルナーは急ぎホットビールを造り部屋へと向かった。

 


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