黒絹の皇妃   作:朱緒

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第160話

 落として割った皿などを処分するため、ファーレンハイトは一階の食堂へと降りた。

 少し遅れて、料理を下げにきたフェルナーが、カウンターに乗せられている、大きく二つに割れた皿を見て、口角が上がっているのに、爽やかさの欠片もない ―― 人を食ったような、ほとんどの人の癇に障る、笑顔と言うのには憚られる表情で、皿を取り落としたファーレンハイトに話し掛けてきた。

 

「そんなに派手に驚くこと、ないのでは?」

「落とそうと思った訳ではない。話の流れも分かっていた」

 

 彼女がシャワーを浴びながら、昨晩の行為で……と、不安を感じていたが、その心配は無用のもの。

 ただ彼女がその事実を知らないだけ。

 

「何を言い出すのかと思いましたが、これを上手く使えば、お体のことに関しては、隠し通せそうです」

 

 危篤状態の際、彼女の治療を優先したことで、妊娠はほぼ望めない体となっている。そのことを彼女は、誰からも教えられていないので、当然知らないまま。

 いつか、誰かが言わなくてはならないことだが、誰も告げたがりはしない。

 

「そうだな。ところで、お一人にしたのか?」

「ええ。今頃、ソファーでじたばたするか、昨日の行為で妊娠してしまったかも! と、焦ってるか……前者なら良いのですが、後者ですと、欺している分際で言えることではありませんが、見ているのが辛いので」

 

 言葉をそのまま受け止めて、素直に欺されている姿を見るのは ―― 内容によっては、責められるより辛いもの。

 

「奇跡的に……ということもあるが」

「奇跡的に妊娠なさって、エッシェンバッハ侯と添い遂げる……ですか?」

 

 彼女の性格からすると、身ごもったら好き嫌いなど関係なく諦観し、最後まで付き従うのは、誰にも容易に想像できる。

 

「御本人が嫌われたいと言っているのだから、それは確実に阻止しなくては。注意は怠らんようにしておかねば」

 

 フェルナーとファーレンハイト、両者の端末が同時に同じ音を立てて”知らせる”

 二人とも画面を見て、話し続ける。

 

「欺してばかりだな」

「そうですね……正直に言います?」

 

 フェルナーは下げた料理をワゴンごと、洗い場近くに置く。

 彼の仕事はここまで、後片付けは、明日担当の者が行う。

 

「お前が言え、フェルナー」

「嫌ですよ。それにしてもジークリンデさま、どうして、そんなにも湯温を高くなされるんですか」

 

 温度の高い風呂を好む彼女は、シャワーの湯温も高い。

浴槽に湯を張る場合は、彼らに命じるが、シャワーは彼女自身が湯温を調節するので ―― 念のために、湯温の監視を行っていた。

 ちなみにシャワーは据え付けタイプで、浴槽からかなり離れているので、シャワーで湯を張ることはできない。

 

「お好きなのだから仕方がない。近くで待機するか」

「ですね」

 

 二人はいつも通り、シャワーを浴び終え、バスローブに袖を通し、脱衣所のドレッサーに座り、スキンケアの途中に、用事はないかどうかを聞くために再訪するために、彼女の部屋前へと引き返す。

 

 彼女の部屋前で警備に当たっていたキスリングは、まずは彼女が今居る部屋の入り口に施錠し、辺りをうかがい周囲に危険がないことを確認しつつ、ミュラーを通した部屋へと入り、足早に室内を確認し、ベランダに渡した梯子が「キスリングが居る側」に乱暴に置かれているのを確認し、帰宅したのだろうと ―― すぐに彼女が居る部屋へと戻り、鍵を開け警備に戻った。

 彼の端末にも、フェルナーたちと同じく、彼女がシャワーを使ったことを知らせる通知が届き、彼らと共にお休み前に用がないかを聞き、警備に付けば良いと。

 ”念のために、司令室に確認しておくか”

 端末を取り出したついでにと、会館の警備管理システム室に異常はないかどうかを尋ね、ミュラーが捕まっていないことを確認して通信を切った。

 

「アントンおいたんが帰ってこないと、甥や姪が悲しむのでは?」

「黙ってください。あなただって、いつかはアーダルベルトのおっさんって呼ばれるのですよ。避けられないんですよ。というか、おいたん言うな」

「俺は実家には帰られないからな。それに、呼ばれても構わん」

 

 しばらくすると、二人がとりとめのない話をしながら戻ってきた。

 

 ”おいたんとおっさんて……元帥と少将の会話じゃねえよ。いいけど”

 

「異常は」

「ありません」

 

 むろん中佐たるもの、少将にそのような感情を気取られてはならず、

 

「そうか。ミュラーは?」

「帰ったもようです。渡しに使った梯子は外れていました」

 

 元帥となれば尚のこと。

 シャワー終了から二十分ほど経過し、再度使用する気配がないので、彼女がシャワーを終えたと判断し、

 

「終わったようだな」

「そうですね。様子をうかがってみますか」

 

 脱衣所に置かれているドレッサーに取り付けているカメラを起動させる。

 

「いない?」

 

 脱衣所を網羅できるカメラなのだが、そこに彼女は映っておらず ―― 

 

「もう部屋へ戻ったのでしょうか?」

「フェルナー。音も拾え」

「了解」

 

 彼女は浴室から出ると貧血で倒れることがしばしばあり、そのための監視カメラなので、基本的に音は拾わない。

 

「……」

 

 くぐもったような声が聞こえ、フェルナーはマイクの精度を上げる。

 彼女は助けも呼べず、呼吸をして、知らず知らずのうちに泣いていただけ ―― だと思っていたが、口を押さえられていた時は、嬌声と悲鳴が混じったような声を上げていた。

 

「完全に誰かがいるな」

 

 三名ともブラスターを握り、相手が何名かを探るべく、注意深く音に耳を傾ける。

 

『 この状況でも、私のことを心配してくださるのですか?』

 

 聞き覚えのある声に、全員表情が険しくなり、フェルナーはIDを差し込み、ロックを解除し小銃を手に取る。

 

「ミュラーか」

 

 ミュラーならば相手は一人。彼女を傷つけず、三人で制圧できる。

 だが ――

 

『見つからないうちに帰りなさい。そして勝って会いに来なさい』

 

 震えつつも答えている台詞に、彼女がそれを望んでいないことを察知した。

 

「キスリング」

 

 ファーレンハイトが早口で彼の名を呼ぶと、了解とばかりに、体を少し沈めて小銃を持っていたフェルナーの鳩尾に、斜めから肘を入れ、鈍い音と共にフェルナーが崩れ落ちる。

 ファーレンハイトは乱暴にマントを取り外し、フェルナーの手にある小銃を持って、浴室へと急いだ。

 

 キスリングはマントとフェルナーを引きずり、隣の部屋へと入れて、彼女の部屋の前に立ち警備に戻った。

 

**********

 

 このまま瞳を閉じて、助けがくるか、相手が満足して離れてくれるか、どちらでもいいから、この恐怖から逃れたいと ―― 早鐘のように心臓が高鳴り、自分の心音しか聞こえなくなる。それでいて体は冷えてゆく。

 その体の冷たさが、彼女に考える力を取り戻させた。

 

―― このままでは、駄目……説明も受けたし、それらしい訓練だってしたじゃない。まずは落ち着くこと……落ち着いて、落ち着いて

 

 万が一、このような状況に陥った際、どのようにするべきかを、教えられていたことを思い出した彼女は、焦りの中、必死に記憶を手繰った。

 

―― 相手を怒らせないようにするのが大事。刺激しないように……

 

 自分に落ち着くよう言い聞かせ、恐怖で硬く閉じてしまっていた瞳を、覚悟を決めて開く。

 視界が涙で滲んで、思うように周囲が見えず、焦点を合わせようと必死に、辺りを注視する。

 浴室の白い天井が、だんだんとはっきりとしてきて、視界が戻ったことに気付いた彼女は、相手の情報を求めて、瞳を動かしてみた。

 だが彼女を押し倒している相手は、胸あたりに頭があり、彼女の顔は腕で押さえつけられているので、ほとんど何も見えない。

 

―― 軍服っぽい……感じ

 

 口をふさいでいる腕からうかがえる着衣の色は、軍服を思わせたが、頭が一ミリも上げられないほど強い力で押さえつけられているので、それ以上は分からなかった。

 

―― 落ち着いて、落ち着いて……心臓の音、静まって!

 

 視界で情報を得られないのであれば、後は音が頼りだが、驚きと恐怖により、心臓が耳にあるのかというほど、鼓動が回りの音を聞くのを邪魔していた。

 

―― 深呼吸……口がほとんど開かないから、難しい。と、とにかく息を吸って……! あ、あ……吸われている! 止めて!

 

 とにかく呼吸をして落ち着こうと、彼女は必死に空気を求め、必死に息を吸い、ゆっくりと吐き出すを繰り返した。

 

「怖がらせてしまい、申し訳ございませんでした」

 

 そうしてどれほど経ったか? 彼女には分からないが、口元を押さえている手はそのままだが、彼女にのし掛かっていた体が離れた。

 

―― この声、聞き覚えが……あれ? 視界が、またぼやけてる……

 

 呼吸を整えるのに必死で、声がする方を見ようと意識したとき、自分が恐ろしさから泣き出していたことを知った。

 瞬きをして、涙を止めようとするが、自分の意思ではどうにもならず。

 

「イゼルローン攻略に赴く前に、一度お会いしたくて、忍び込みました」

 

―― イゼルローン攻略? いま、イゼルローン攻略って……この声と、ぼやけているけれど……髪は砂色……ミュラー?

 

 相手の正体が明確ではないがある程度分かったことで、彼女は全身の緊張が少しは解けたものの、然りとて、どうして良いかは分からない。できることは、落ち着きを取り戻しつつある相手を、刺激せずにやり過ごすことだけ。

 

―― 大声を上げて、相手を刺激してはいけないのよね

 

 彼女は口を塞いでいる手が離れても、大声を上げないように注意していたが、恐怖で声など上げられない状態なので、無用の心配であった。

 

「本当はお姿を拝見しただけで、帰るつもりでしたが……」

 

 彼女は口を塞いでいる手を、もう一度掴み、避けて欲しいと力を込める。それに気付いたミュラーが、彼女に顔を近づけてきた。

 

「助けを呼びますか?」

 

 口を押さえられている彼女は、そんなことはしないと首を振ろうとしたが、彼女の口を塞いでいる手は、その僅かな動きもできないほど、力が込められていた。

 もはや意思を伝えられるのは瞳だけ。

 

「……」

 

 近づいてきたミュラーに視線を合わせる。

 彼女の意思が通じ、ミュラーも正気を取り戻し、彼女の口を覆っていた手が外される。顔を圧迫していたものがなくなり、彼女は声を出さないように、震えている唇に力を込め、強ばった声帯が、小さな悲鳴を奏でる。

 

―― どうしよう、どうすれば……

 

 自分の口から漏れた悲鳴だが、彼女には他人の悲鳴にしか聞こえなかった。

 

「泣き止んで下さい」

 

―― 私、まだ泣いているの? ミュラー落ち着いているような、でも、拒否したらどうなるか分からないから……

 

 こういった状況では、相手を拒否すると、先ほど以上に激高する可能性もあるので、言われたことに極力従ったほうがよい。

 だが涙は彼女の意思ではどうにもならず ―― 

 むろん逃げられるのならば、逃げた方が良いのだが、仰向けで上体を起こすことすらできない彼女は、すぐ近くの浴室の扉に手を掛ける自信もなかった。

 震えている腕を伸ばし、ミュラーの首に回して、拒絶していないと態度で表し、

 

「起こして」

 

 叫ぶどころか、自分の耳にも届かないほど小さな声だが依頼をする。

 思わぬ行動にミュラーは驚くも、言われた通りに、彼女の体を引き起こす。

 

―― 腕、外さないと駄目なのに、震えて上手く外せない

 

 彼女は強ばった腕を解くため、なにより自分を落ち着かせるために、ミュラーに話し掛けた。

 

「ミュラー」

「はい」

「イゼルローンへ、行くの?」

 

 体同様、声の震えも酷いが、短い会話は何とか成立した。

 

「はい。イゼルローンの叛徒を、殲滅して参ります」

 

 通常の状態でこの時期に「イゼルローン攻略に赴く」と言われたら、記憶があやふやな彼女だが、このイゼルローン要塞攻略に関しては、珍しくしっかりと憶えているので「ヤン・ウェンリーはイゼルローンには居ないわ」とアドバイスも出来たのだが、現在彼女の頭は、何故こんな状況になっているのか? どうしたら良いのかで一杯で、なんの役にも立てることができなかった。

 

「そ、そうなの。気をつけ、なさい……」

 

 彼女がこの時に言えたのは、震える声で有り触れた激励のみ。ミュラーは彼女の震える手を解き、床に落ちたバスタオルを裸の彼女に掛ける。

 

「この状況でも、私のことを心配してくださるのですか?」

 

 まだあふれ出している彼女の涙を指で拭い、困惑したような表情に、嬉しさを滲ませる。彼女は、掛けられたバスタオルを握り締めて頷いた。

 

「あまりそのように優しくなさると、私のような男は、勘違いしますよ」

 

 ミュラーが顔を近づけてきたが、彼女は震える手で制する。彼がその気になれば、彼女の手など簡単に押しのけられてしまう。

 そして彼は彼女の制止を簡単に押しのけ、唇が触れるほど近くまで顔を寄せた。

 

「見つからないうちに帰りなさい。そして勝って会いに来なさい」

 

 ミュラーを落ち着かせる言葉が思い浮かばなかった彼女は、

 

―― これですと、帰ってきたら、良いわよって……誘ってるような……

 

 帰国後、誘うような言葉を投げかけてしまった。

 大勢の者と浮気していると噂を立てるつもりの彼女だが、ラインハルトの直属の部下とは、さすがに噂になるつもりはなかった。

 

「それは、帰ってくるなということでしょうか?」

「本当に、あなたの帰還を……」

 

 やっと涙が止まった瞳で、ミュラーを見つめ、違うと ――

 

「ジークリンデさま」

「ファ……ファーレンハイト?」

 

 後一歩で”未遂”という文字が外れてしまいそうな状態のところで、彼女の護衛が戻ってきた。

 

「ジークリンデさま。浴室にいらっしゃるのですか?」

 


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