”軍服を着ていないときは、名前で呼びかけてやれ。その方があいつらも喜ぶだろう”
「……」
硬すぎる枕に気付き、彼女は最初”またレオンハルトが無理して腕枕しているのだ”と思ったのだが、彼の腕にしては少々硬く、そして――
―― レオンハルトは死んで……。じゃあこの腕……この肌の感触と香に覚えが……
彼女の夫はすでに死んでおり、その死を添い寝して慰めてくれるような情夫など、彼女は持っていない。
だが腕そのものには、覚えがあった。
なんども彼女を抱きかかえてくれた腕。新無憂宮で歩き回り疲れた際、抱き上げて移動を補佐してくれるのも、クロプシュトック侯による爆破事件の際、彼女を抱きかかえて現場から連れ出してくれたのも、この腕の持ち主。
彼は身だしなみはさっぱりとしているが、コロンの類は使用していなかった。香が嫌いなのではなく、食うにも困るような生活が長く、そのような物に金をかける余裕がなかったので ―― 五年ほど前、彼女がフェザーンで買ってやった。以来、彼女自身の香水と共に届けさせ、付けるように指示し、彼はそれに従っていた。
彼女の周囲にこのコロンの香を身にまとう男は、彼しかいない。
アーダルベルト・フォン・ファーレンハイト
脳裏に現れた人物なのかどうか? 確認すべく恐る恐る目を開くと、
―― やっぱり、ファーレンハイトだ
彼女の方を向いているファーレンハイトの寝顔が、見間違えようないほど近くにあった。
ファーレンハイトが起きないよう、頭を少しだけ動かして確認すると……
―― ファーレンハイト! なんで私の隣に
そして氷細工を思わせる、透き通るような寝顔を前に、彼女は必死にあの言葉を思い出す。
―― えっと。たしかラインハルトはヒルダに、余は淫蕩なゴールデンバウム王朝の輩と同じになりとうない! みたいなことを……だから……
昨晩彼女は、ファーレンハイトと共にフレーゲル男爵が「お前が二十歳になったら飲もう」と言っていた酒と、他にも用意されていた銘酒を次々と開け、したたかに酔ってしまった。
―― 余は変だから、私は淫蕩なゴールデンバウム王朝の輩……責任とってファーレンハイトと結婚? いやいや! ラインハルトの志は尊いしヒルダも好きだったからいいけれど、この場合ファーレンハイトが選ぶべき。二十歳の未亡人なんて事故物件以外のなにものでもない! もっと若くて可愛いい女の子と結婚したいでしょう。金で解決するのは下品かもしれないけれど、でも……きっとそっちのほうが喜ばれ……起きた!
彼女が困惑していると、長い下睫が震えゆっくりと目蓋が開き、涼しげな容貌を際立たせる水色の瞳が彼女を捉えた。
「おはようございます、ジークリンデさま」
「アーダルベルト」
「はい」
落ち着きはらっているファーレンハイトを前に”ごめんなさい”と連呼して走り逃げ出したかった彼女だが、
「昨晩、私はあなたに対して酷いことをしてしまったようですね」
そんなことをしても、ファーレンハイトから逃げ切ることができないので諦めて、昨晩の自分と向き合うことにした。
「気にすることはございません。やましいことは何も……といっても、信用していただけないでしょうが」
「あなたのことは信用します、アーダルベルト」
どうしてこのような状況になったのか? 彼女は徐々に思い出してきた。死んだフレーゲル男爵に対しての怒りが酒で爆発し、ファーレンハイトをハンカチ代わりにするよう、抱きついて声を上げて泣き、そして疲れて眠ってしまった。
「ジークリンデさま。昨晩は」
昨晩の彼女は怒り狂っていた――フレーゲル男爵が残した祝いの残骸を前に、彼女はこれ以上ないほどに怒っていた。
「聞きなさい」
―― レオン死んじゃった。レオンのばか! レオンハルトの…… ――
山荘と誕生日祝いについてランズベルク伯から聞いたとき、彼女は休暇を取るつもりなどなかったのだが、珍しくリヒテンラーデ侯が勧めたのだ。
”裏があるようにしか思えない”と言った彼女の言葉に、ファーレンハイトは曖昧に笑って誤魔化した。ファーレンハイトはリヒテンラーデ侯に呼び出され、はっきりとではないが ―― 主人を慰めろ ―― という意味あいの言葉をかけられた。
―― お前なら立場も弁えておるであろうし、口も固かろう。そうそう、ジークリンデは一年以内に再婚させるか ―― とも。
そして元帥となったラインハルトの部下になれるよう手配してやるとも ―― ラインハルトの部下になることは断り、だがリヒテンラーデ侯の命に従い彼女を山荘へと連れてきた。山荘近くまで、もう一人の同行者がいたのだが「一応」リヒテンラーデ侯の命令を聞く素振りを見せるために、同行者を麓のペンションで待たせ、山荘に二人きりになった。
まったく警戒していない彼女の涙と、夜空にのぼる冴え冴えたる半月に照らし出された稜線。そんなもので慰められるのであれば、もっと前に彼女が言いだしただろうと ―― 泣き疲れた彼女を腕に ―― 一人きりにしてしまったら危険ではないかと考えて側にいた。
「はい」
「責任は取ります。私と結婚するか、賠償金を貰うか。どちらでも好きな方を選びなさい」
だが結果、まさかそのようなことを言われるなどとは思っていなかったファーレンハイトは、彼女の名を呼ぶのが精一杯であった。
「ジークリンデさま」
「あなたに性的な悪戯をしてしまった責任です。お金なら幾らでも差し上げます。全財産差し上げますから。本当に……」
ファーレンハイトとは種類の違う困惑から、必死に脱出しようとしている彼女は、迎えに来るもう一人の同行者の、腹に一物ありそうな笑みが浮かぶ口元を思い出しては、混乱を続ける。
―― ところで私の全財産って幾らくらいあったかしら……二十六の時には、たしか一晩三万帝国マルクと提示されていたから……年齢が上がると金額が下がるのか、それとも地位が上がったから金額が
三十一歳の男性中将の貞操の適切な相場を、過去の事例から必死に考えていた。
ファーレンハイトは五年ほど前、彼女と共にフェザーン領へと行った際、やたらと未亡人に言い寄られた過去があった。
ファーレンハイトに金を提示した女性も多く、その金額の平均が三万帝国マルクであった。その時同行したアントン・フェルナーに「未亡人好きする顔なんですね」と言われていたことを、彼女も覚えている。
ちなみに平均額を算出したのもフェルナーだ。
「ジークリンデさま」
「考えなさい。私は使用人の部屋で待ってますから」
召使い用の部屋に鍵をかけて篭もった彼女を追うべく、ファーレンハイトは服を着て、本来であれば自分が泊まるはずであった部屋の前に立ち、軽くノックする。
「決まりましたか」
「はい。どちらも必要ありません」
「それは困ります。どちらか選びなさい」
「なにもしていないのに、選べと言われましても。開けてください、ジークリンデさま。ここは使用人の部屋です。あなたのようなご身分の御方が居て良い部屋ではありません」
「選びなさ……」
「出てこないのでしたら、トマホークでたたき割りますよ。三数えるうちに鍵を開けてください」
ファーレンハイトは見た目のせいで勘違いされやすいのだが、性格は過激な部類にはいる。原作において扱いはビッテンフェルトと同系統で、烈将と呼ばれる男。
感情は制御できるというが「ここぞ」と言うときの動きは速い。
「ま、まちなさ」
「三、二、一」
彼女に鍵を開けさせるつもりなどないと、早口でカウントし、
「失礼します」
「……」
「マスターキーです。本当にトマホークで扉をかち割るとお思いでしたか?」
「……思いました」
なんなく扉を開けて、出るように彼女を促す。
「私はそんな暴力的な男ではありませんよ」
「そう、ですね」
彼女はエンパイア・ドレスの長い裾をつまみながら、使用人の部屋をあとにした。
ソファーに腰を降ろし、窓の外の険しい銀峰と青空の境をひたすら眺めた。キッチンからは陶器が触れあう音が響き、
「どうぞ」
ファーレンハイトが淹れた紅茶が差し出された。彼女はそれを一口飲み、
「本当になにも要らないのですか?」
ファーレンハイトに重ねて尋ねた。
「なにもなかったのに、なにか貰うわけにはいきません」
「お金好きでしょう」
「金は好きですが、時と場合といいますか。……ジークリンデさま。もしも、ですが。私と関係していたら、本当に結婚してくださいましたか」
「アーダルベルトさえよければ」
彼女の答えに、ファーレンハイトは自分の紅茶を飲みながら、
「ならば嘘をついておくべきでしたな」
聞こえないような小さな声で呟いた。それはファーレンハイト本人の意図通り、彼女に届くことはなかった。
こうしてジークリンデにとっては散々な、ファーレンハイトにとっては複雑な一時が終わり、
「お迎えに上がりました」
麓で待機していたアントン・フェルナーが二人を迎えにやってきた。
「片付けが済むまで、ジークリンデさまは邪魔なので、そこら辺で一人、遊んでいてください」
フェルナーはやはりあの性格。オーベルシュタインがいない分、手に負えない ―― 彼女はそう思っている ――
「はい、分かりました」
本当はしっかりと手伝えるのだが、手伝うなと言われたのだからと、彼らに背を向ける形で草に覆われた斜面に腰を降ろして、山々を見つめて時間を潰すことにした。
―― このフロイデン山岳地帯に、アンネローゼの山荘は建てさせない
そんな決意を固めた彼女だが、夫が死んで山荘に来ている時点で、アンネローゼが辿る道を自分が通過していることに気付いていない。
「結局なにもなかったんですか? アーダルベルト」
「なにも」
「絶対なにかした顔ですが」
「なにもする筈ないだろう。ずっと我慢していた感情が溢れ出して……大変だったぞ」
「でも抱きついてもらえたんでしょう?」
「それはな」
「いいですね。どうして私ではなく、アーダルベルトなんでしょうね。私のほうが若いのに」
「二歳だけだろう」
「二歳は大きいですよ。私はまだ二十代ですし」
「若いから自制がきかぬと判断されたのではないか?」
「アーダルベルトは見かけ、自制心が強そうですが、中身はまったく別ですし……」
喋り続ける、名目上は部下であるフェルナーの脛を蹴り黙らせて、
「否定はしない。……アントン、行ってこい」
純白の雪を頂く山頂を眺めている彼女の元へ行けと促した。わざとらしく蹴られた脛をさすりっていたフェルナーは、その手を止めて、彼らしからぬ表情と自信の欠片も感じられない声で、
「……ジークリンデさま、怒っていらっしゃいません?」
”助けてください”とファーレンハイトに懇願する。
「さあな」
五年前「オーベルシュタインの部下」となるはずのフェルナーを部下にする機会に恵まれた。もともとフェルナーはブラウンシュヴァイク公の部下だったので、シューマッハ同様、遭遇しやすかったのだ。上司がいない状況 ―― 彼女以外の人間には理解できない状況だが ―― だが、この機会を逃したくはなかったため、ファーレンハイトに依頼して、名目上部下ということにした。
彼女はフェルナーに戦争させる気などなく、ファーレンハイトも、この頃には彼女がサイオキシン麻薬と地球教を追っていることを知っていたので、フェルナーを自由にした結果 ―― 二人は上官と部下ではなく、友人になっていた。
「ジークリンデさま」
蹴られたフェルナーは、謝罪のために彼女へと近づく。
「片付け終わりましたか、アントン」
風景を見飽きていた彼女は、用意が整ったのかと立ち上がる。
「いいえ……あの……」
「どうしました?」
言いたいことは包み隠さず、ずけずけと言うのが持ち味の男らしくない口ぶりに、彼女はそっと手を伸ばして右頬に軽く触れて微笑む。その手に触れてからフェルナーは膝を折り、頭を下げて今まで逃げていたことに決着を付けるべく謝罪した。
「クロプシュトック侯による爆破事件に関し、事前に情報を入手できず……申し訳ございません。私がもっとしっかりとしていれば……」
フェルナーは諜報部に属しており ――
「気にしていたのですか」
「……」
爆破事件に気付ける可能性が最も高い所にいた……はずだった。
「六ヶ月も顔を見せなかったのは、それを気にして?」
フェルナーに全く過失はないのだが、
「はい。諜報を専門にしておりながら」
爆破後の調査に関わり、その結果、事前に情報を掴むことができたことを知り、会わせる顔がないと、彼女の元へ足を運ぶことができず。
報告を聞いた当初は仕方ないと許可したファーレンハイトだったが、さすがに六ヶ月ともなると苛つき、文字通り髪を鷲掴みにして無理矢理連れてきた。
「クロプシュトック侯が起こした爆破事件に、地球教は関係していなかったのでしょう」
「はい」
「それなら仕方のないことです」
「申し訳ございません……本当に……」
「お帰りなさい、アントン」