黒絹の皇妃   作:朱緒

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第159話

―― そんなにも、今日の私は奇行三昧でしたか

 

 料理と酒を用意させ、召使いたちを下がらせて、彼女があまり好まない、背中が限界まで大きく開いたホルターネックのドレスを着て、髪は右耳の下辺りに一本にまとめ、やってきたファーレンハイトに抱きついた。

 いつも使っているラベンダーの香水ではなく、イランイランの甘い香りが、ふんわりと香る。

 三人は視線を交わして、互いに「分からん」とばかりに小さく首を振り、抱きつかれているファーレンハイトが、肌が露わになっている彼女の肩に手を乗せて、やんわりと引き離した。

 フェルナーが彼女の象牙色の背中を押して、ソファーの前へと連れて行き、座らせる。

 そして三人は横一列に並び、膝をついて深々と頭を下げて、彼女を謀っていたことを詫びた。

 

―― そう言えば、私。欺されていたんですよねー

 

「何でもいたしますので、お怒りを収めてはいただけませんでしょうか?」

「いままでも、ファーレンハイトはなんでもしてくれましたが」

 

 深々と頭を下げ、怒りを収めて欲しいと言う彼らを前にして、三ヶ月近く帰還を知らされていなかったことを思い出し ―― 聞いた当日は沸々と怒りも沸いたが、昨日の体を張って無駄に終わった話し合いを経た今となっては、彼女の中ではどうでも良くなっていた。

 

「どうしたら、お許しいただけますでしょうか」

「許す……ですか、フェルナー。そうですね、これから頼むことが、罰に該当するでしょう。とにかく、全員頭を上げなさい。それに、立ってちょうだい」

 

 膝をつき頭を下げている三人を立たせる。

 

「その前に、宜しいでしょうか」

「なに、フェルナー」

「とりあえず、ショールを羽織っていただけませんか?」

 

 午後五時頃に着替えてから、ずっと肩も背中も大きく出ているドレスを着て、なにも羽織らず過ごしていたので、フェルナーは気が気ではなかった。

 

「ジークリンデさま、背中をそんなに出すと、体冷えるでしょう」

 

 美しいのは語る必要もないのだが、彼女は肌を露出していると、季節を問わず体調を崩しやすい。

 

「そうですけれど」

「熱が出ると困りますから。ショール取ってきます」

 

 フェルナーが持ってきた、オーガンジーのゴールドのショールを彼女は羽織ったのだが、非常に不本意そうな表情を浮かべ空気を纏う。

 

「不服そうですね、ジークリンデさま」

 

 普段であれば自宅では絶対に着用せず、どうしても着用しなくてはならない場合は、休憩の合間に露出した肌を隠して暖を取る彼女らしからぬ行動に、どうしたのですかとファーレンハイトが尋ねた。

 

「不服ではありませんけれど……」

 

 リップグロスを塗ったせいで、ただでさえ艶めかしい唇が、更に妖艶さを増し、ショールの端からのぞく背中の悩ましいラインと相まって、彼女の色気にある程度は免疫のある彼らですら、落ち着かなくなるほど。

 

「なにか言いたいことがあるのでしたら、なんでも仰ってください」

 

 むろん、そんなことはおくびにも出さず、いつも通りに。

 

「なんでもありません」

「本当ですか?」

「……背中を出したら、少しは色気が出て、あなた達が浮ついたり、褒めたりするかなと思ったのですが、そんなことあり得ませんでしたね」

 

 重ねて聞かれたので、彼女は妖艶さと清楚さの両方を感じさせる、魅惑的な唇をすっと引き、彼らの葛藤を知らず不満を口にした。

 

「……はあ、それは失礼いたしました。ですが、私なぞが褒めたり、浮かれても宜しいのですか?」

 

 褒めろと言われたらいくらでも褒められる ―― 思う反面、自分は賞賛する語彙に乏しいなとファーレンハイトは、吸い込まれるような彼女の翡翠色の瞳を見つめる。

 

「ジークリンデさま、人に褒められるの、あまりお好きじゃないでしょう」

 

 パーティー会場で賞賛され続け、終わるとぐったりとしている彼女の様子を知っているので、褒めて欲しいとは意外だと、平素は意図せずとも鋭く、裏をのぞき込むような視線を持つフェルナーは、彼らしからぬ優しい眼差しを向けて。

 

「そうですけれど、あなた達に褒められるのは別ですよ、フェルナー」

「分かりました。今度から、出来る範囲で賞賛させていただきます。ちなみにキスリングは、浮ついてますよ。気付きませんでした?」

 

 彼女に背を向け、メールを読んでいたキスリングは、突然のことに驚き、振り返る。

 

「え? そうなのキスリング」

「あの、その……はい。美しいお背中だなと」

「本当?」

 

 彼女はキスリングに背中を向け”ちらり”とばかりに、ショールをずらして見せる。

 

「ジークリンデさま、そのくらいにして。それで、本日の行動の真意を教えていただきたいのですが」

 

 彼女の戯れのようであり、本気のようでもある態度に付き合うフェルナーと、メールの画面をファーレンハイトに見せるキスリング。

 差出人はミュラーで、文面はオーディンを発つ前に、一目彼女に会いたいというもの。

 彼女はしばらく、自分が呼んだ者以外は、例えラインハルトであろうとも会うつもりはないと明言しており、キスリングには人払いするよう命じていた。

 普段であれば、何事もなかったかのように即消去だが、ミュラーは明日、攻略戦に向けてオーディンを発つ。

 相手が同盟なのはいつものことだが、攻略先がイゼルローン要塞。帝国軍にとって初めてであり、手探り状態の要塞攻略ということで ―― キスリングとしても少し思うところがあった。

 メールを読んだファーレンハイトは、六年前のミュラーの態度は悪くはなく、なにより彼女も嫌っていないので、遠目で見せるくらいならばと、タイミングを見計らい連れてくることを許可した。

 会って話すなどは、彼女が望んでいないので、させるつもりは当然ない。

 

「食事しながらで良いかしら?」

「もちろん」

「あなた達も食べなさい」

「私たちもですか?」

「この量、私が一人で食べるとでも思ったの?」

「当然」

「私がこんなにお酒を飲むと?」

「それはまあ……」

「私たちは立食でお許しいただけるのでしたら」

「そこは譲歩してあげるわ。それにしても、身分とは厄介なものね」

「さほど身分のない私などが申し上げるのもおこがましいですが、ジークリンデさまほどのご身分ですと、たしかに厄介なことのほうが多いですね」

「分かっているのなら……まあ良いわ」

 

 ファーレンハイトが彼女の前に取り皿を置き、どの料理を食べますかと尋ねる。

 先ほどまで彼女と話しをしていたフェルナーが、今度は後ろへと下がり、メールを読んで、ファーレンハイトと同じく、見せるだけならと許可を出す。

 

「ちょっと失礼します」

 

 キスリングは部屋を出て、西側を見上げていたミュラーと合流し、人目に付かないように会館内へと誘導する。

 警備の配置も、その変更も行える立場にいるキスリングなので、非常に簡単に会館内の、彼女の部屋の一つへと連れてきた

 そこからバルコニーへと出て、彼女がいる隣のバルコニーへ、常備している脱出用の梯子を渡し、

 

「カーテンは開けておく。気付かれないよう注意しろ。お姿を拝見したら帰れ」

 

 ミュラーの返事も聞かず、キスリングは彼女がいる部屋へと戻った。

 

「待っていたわ、キスリング」

「お待たせして、申し訳ございません」

 

 彼女は白ワインが注がれたグラスを手に、キスリングに微笑みかける。

 フェルナーが窓に近づき、引かれていたレースのカーテンを開ける。その際、こちらのバルコニーへ、ミュラーが移動したのを確認し ―― 酒と料理を前にして、本日の彼女の奇行に関する説明が始まった。

 

「そうね。まずは、昨日の私がなにを考えて、どのように行動したのかを説明しますね」

 

 そこで彼女は「拒否しているから好かれるのだ。一度抱いたら、きっと幻滅するわよね」と考えて行動したことを、やや頬を赤らめて語った。

 

 そんなことを考えていたと知っていたら、昨日の訪問は止めたのにと、クヌーデルが残った白い皿を持っていたフェルナーは、深々とため息を吐き出す。

 

「でも、私の予想通りにはならなかったの」

 

 オランデーズソースが掛かった、茹でジャガイモが乗っている皿を手にしているキスリングが”それは、そうでしょう”と ―― 視界の端にミュラーの影を認め、もう少し下がれと心中で呟く。

 

「そして愛していると言われてしまったの」

「え、あー。それはとても、驚かれたことでしょう」

 

 彼女は自分に対してラインハルトが、そのような感情を持っているとは想像もしていない ―― ことを、よく理解しているフェルナーは、当然そうなるだろうなと。

 ファーレンハイトは一切相槌を打たず、ヴルストを食べ続ける。もちろん話はしっかりと聞いている。

 

「ええ。私のどこを好いているのか、分かりませんが、私はエッシェンバッハ侯に嫌われたいのです」

「なるほど」

「私にやり直す機会を与えて下さっているエッシェンバッハ侯のご期待に添えないのは、私の我が儘で、あなた達に分かって欲しいとは思いませんが、どうしても、エッシェンバッハ侯の元を離れて、別の道を歩みたいのです」

 

 ラインハルトの後ろを付いて歩いたら、行き着く先は皇妃の座。

 キルヒアイスが生きているので、多少ラインハルトの寿命は変わるかもしれないが、記憶通りであれば、二十五歳で病死。

 今から治療方法を研究させるという手もあるが ―― このまま離婚できず、ラインハルトが皇帝になった時点で、早死にされようが、長生きされようが、彼女は歴史の表舞台に立たなくてはならなくなる。

 彼女としては、そんな人生は望んでおらず、オーディンの慈悲か、それともロキの悪戯かは分からないが、運良く生き延びたのだから、あとはひっそりと、人里離れたところで、全てに忘れ去られるように余生を過ごしたいと、切に願っていた。

 

 ”これからの余生を、辺境で過ごしたい”と言われた彼らは、二十一歳で余生とは……思えど、ラインハルトと共に生きるよりは良いかと、彼ら自身を無理矢理納得させる。

 

「そこで、色々と考えたの」

「なにをでしょう?」

「エッシェンバッハ侯に嫌われる人間になるためには、どうしたらいいかと。侯が愛想を尽かすような人間になればいいと考えました」

「それで」

「呆れられるような人間になるには……」

 

 彼女は人間として常識を疑われるような行動を取って、呆れられるのはどうだろうかと考えた。

 まず彼女が思い浮かべたのが、動物虐待。

 だがラインハルトに嫌われるために、動物を虐待するなど、到底できないので即座に却下。

 次に考えついたのが、幼児虐待。

 間違いなく人間の屑と言われるべき行為だが、そんなことをするくらいならば、ラインハルトと添い遂げるか、途中でテロに巻き込まれて死んだほうがましだと、彼女は即座に結論づけた。

 続いて華美を嫌うラインハルトの性格から、散財をして莫大な借金を抱えることを考えたのだが、破産するより前の段階で、金を作るために女農奴は娼館にたたき売られ、領民は男女問わず農奴に落とされた上に、他の領地に転売されてしまうことを考えると、出来はしない。

 

「それで、最後に不倫かなと。これも相手に迷惑を掛けることになるけれど、動物や幼児を虐待や、領民を売るような真似をするよりかは、幾分は良いかと。かつて大伯父上に、あれだけ浮気はしないと言い張ったのに……きっと地獄で私の決断を嗤っていることでしょう」

 

 できる限り他人を傷つけず、あまり大人数に迷惑もかけずに、呆れられるようと考えた結果、彼女はあれほど避けていた人倫に背く行為で、ラインハルトから軽蔑されようと考えた。

 

「ファーレンハイトの元帥府に足を運んで、ロビーまで来るよう命じたのは、噂を立てるためなんですね」

「そういうこと」

 

 通常の不倫であれば秘め事として、他人に隠して行うのだが、彼女としては、複数の男性と ―― という噂が立って、それがラインハルトの耳に入れなければならない。

 そこで、人目につく場所で、不必要に体を近づけるような行動を取った。

 

「……まあ、上手くいくといいですね」

「え?」

「いえ、独り言です」

 

 彼女の意図するところは分かったが、彼女の思い通りになるか? フェルナーは、そのようにはならないと感じたが、下手に色々と意見を述べ、彼女がラインハルトから別れようとしなくなるよりは、好きなようにさせていた方が、彼らとしても好都合なので、あえて突っ込まなかった。

 

「そう。それでね、浮気相手が一人ですと、先ほど話したように、エッシェンバッハ侯は許容できるようなので、浮気相手の人数を増やそうとも思ったの」

 

 目的のためには手段を選ばず ―― だが相手は選ぶ必要がある。

 

「まずはあなた達三人と、噂になりたいの。もちろん噂だけだから、行為とかしなくて良いから」

 

 空になったグラスを、白いテーブルクロスが掛けられているテーブルに置き、両手を軽く合わせて、はにかんで希望を述べる。

 

「ジークリンデさまは、侯に嫌われたいのですね」

「ええ。行為はしなくていいの。一緒にベッドで眠ってくれるだけで。きっと、それで噂がどこかから流れると思うの」

「分かりました」

 

 フェルナーは彼女の基本方針を確認し、それが望みならばと、同意した。

 

「噂で苦労をかけるとは思いますが、付き合って欲しいの」

「浮気相手と言われるのは、慣れてますから」

 

 ファーレンハイトとキスリングも、彼女の望みに沿うこと約束する。

 

「では、ジークリンデさまのご希望通り、噂が立つように薬を用意してきますね」

「何の薬? フェルナー」

「浮気している人がよく使う薬です」

「……?」

「妊娠しないようにするための薬ですよ。飲んでると知られたら、それなりに噂になりますからね」

「ああ、そ……」

 

 彼女が話している最中に、何かが割れる音がし、その音に驚き彼女の言葉が途切れた。

 音の正体はファーレンハイトが持っていた取り皿とフォーク。

 白い皿は大きく二つに割れ、皿に乗っていたヴルストが硬い床に転がる。噂を広げるために、あえて召使いたちを下がらせているので、人手がなく、落としたファーレンハイトが自ら拾い集めた。

 

「申し訳ございません」

 

 ファーレンハイトはそう言い、落としたものを拾い、破片を残さず片づけてから、ゴミを捨てるために一度部屋を出た。

 

「……」

 

 ファーレンハイトの態度に、漠然としたものを感じたが、今の彼女には気付く術もなく、

 

「じゃあ、ジークリンデさま、今日から浮気していることにするんですね」

「え、ええ」

「では、それらしくご用意してください。私は料理を下げます。キスリングは廊下で待機を」

 

 遅れて二人も部屋から下がり、一人きりになった彼女は、

 

―― うん、馬鹿なこと言ってるのは分かる。でもこのくらい馬鹿だと、きっと呆れることでしょう

 

 そう決めたは良いが、恥ずかしさを感じ、熱くなった顔を両手で隠し、しばし俯いていたが、

 

「それらしい用意って……シャワー浴びて、寝化粧してベッドに入ればいいのかしら?」

 

 初日なのだから実行しないわけにはいかないと、まずは化粧を落とし、一本にまとめていた髪を解き、くるりとねじり纏め直して、着衣を脱いで、白くて柔らかな大判のバスタオルを持って浴室へと入りシャワーを浴びる。

 シャワーが降り注ぐ音が、広い浴室に響く。

 

―― 妊娠を逆手にとって……昨日のあれ……いや、あの、きっと大丈夫……なはず

 

 フェルナーの言葉と、昨晩の軽率な行動から起こりえる出来事に、彼女は温かな湯に撫でられる自分の腹部に視線を落とし、そっと触れる。

 湯を止めて、静かになった浴室で触れている手に、手のひらを重ね、

 

―― きっと、大丈夫。うん……きっと……

 

 自分に何度か言い聞かせ、バスタオルを体に巻いて、纏めていた髪を解き、浴室を出ようとした。

 

「あら? ……」

 

 視界が暗くなったので、彼女は一瞬照明が落ちかけたのかと思ったが、辺りは明るいまま。暗くなったのは、彼女の目の前だけ。

 

―― ……え? あれ、……え? なに?

 

 気付けば手で口をふさがれ、浴室の床に仰向けにされる。

 そしてこの状態では、味わいたくはない舌と唇の感覚をが、肌の上に感じる。

 

―― 胸が、はだけ……バスタオルが落ちて、やだ、なに、え……

 

 口を押さえている手を避けようと、両手で手首を掴んで引き離そうと力を込めるも、微動だにせず。足をばたつかせようとしたが、すでにのし掛かっている相手の体で完全に押さえつけられており、動きもしない。

 

―― やだ、やだ! 誰なの! 離して!

 

 彼女は身に降りかかっている恐怖に目蓋を固く閉じた。

 


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