黒絹の皇妃   作:朱緒

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第158話

 彼女はラインハルトと二人きりで話をしていたが、扉の外で待機していたフェルナーとキスリングは、なにもせず黙って待機していたわけではない。

 いつものように、彼女のイヤリングに盗聴器を忍ばせ、少しの異変にも対応できるようにネックレスに隠しカメラを取り付けて、二人きりになった所から、ずっと様子をうかがっていた。

 彼女がラインハルトに、撓垂れかかったところで、映像は一度切断し、フェルナーとキスリングはイヤホンで伺い ―― 偶に、状況確認のために映像を繋ぎ、テーブルに置かれた隠しカメラからやや傾いだ映像を受け取り、少し確認しては遮断するを繰り返していた。

 

『帰ります』

 

 彼女が着替え始めたことを確認し、

 

「話の流れと、ジークリンデさまの行動がよく分からない」

「そうですね、フェルナー少将」

 

 彼女がなにをしたかったのか? 二人で首を傾げた。

 解れてしまった髪をそのままに、外したネックレスと、落ちてしまったイヤリングを手に、彼女は部屋を後にする。

 上着を羽織っただけのラインハルトが、ドアのころまで付いてきたが、控えていた二人を見て、そこで別れた。

 フェルナーは無言でイヤリングとネックレスを受け取り、彼女は重い足取りで地上車へと乗り込む。

 

―― ラインハルトなら、きっと嫌がると思ったのに……

 

 革のシートに身を預け、徒労に終わってしまった行為の数々を思い出し、羞恥に頬を染める。

 そのうち全身が情交後特有の気怠さに支配され、そのまま目を閉じて眠りに落ちた。

 隣に座っていたフェルナーは、寄りかかってきた彼女の肩に手を回す。

 軍人会館に到着したが、彼女が目を覚ます気配はなく、フェルナーも起こすつもりなどなく、慣れた手つきで彼女を抱き上げて、寝室へと連れていった。

 ベッドに俯せに寝かせファスナーを下げ、手際よくドレスを脱がせる。

 象牙色の滑らかな肌が現れ、その背中と腰の中間に、彼女が知らぬ間に、ラインハルトが残した跡があらわになった。

 フェルナーは肩をすくめ、彼女の体の下になっているドレスを引き抜き、にシーツを掛け、天板にナイトガウンを置き、天蓋を引いてベッドに目隠しをして部屋を出た。

 

***********

 

 翌日彼女は目覚め、なぜ自分が下着姿で眠っていたのか? ぼうっと考えて ―― 気付いて頭を抱えた。

 

―― 起こしてくれてもいいじゃないフェルナー。いや、見慣れてるんでしょうけれど……こう……

 

 天蓋に覆われたベッドで、恥ずかしさに顔を枕に埋め、一人で心ゆくまでじたばたしてから、天板のナイトガウンを引っ張り袖を通して、ベッドから降りる。

 シャワーを浴びようと浴室に直行すると、すでに浴槽には彼女好みの熱い湯が張られていた。

 シャワーだけで済ませようか? 悩んだ彼女だが、彼女が入らねば湯は捨てられるだけなので、勿体ないと ――

 

「折角ですから」

 

 体を洗い浴槽に浸かり、手足を伸ばした。

 楕円形で内側に段差がある、小さめなプールといっても良いほどの、大きめな浴槽。湯は彼女が好むプルメリアのバスオイル入り。

 

「暖かくて気持ちいい」

 

 全面は薄いグリーンで、二列ほど絵の描かれた飾りタイルが埋め込まれた浴室に、彼女の声が響く。

 

「ジークリンデさま、おはようございます」

 

 浴室入り口の磨りガラスにの影が映り、ノックをして声をかけてきた。

 

「おはよう、フェルナー」

「お飲み物をお持ちしました。入っても宜しいでしょうか?」

「いいわよ」

 

 浴槽の縁に頭を預けて、彼女は入ってきたフェルナーに、改めて「おはよう」と告げた。

 

「おはようございます。こちらをどうぞ」

 

 フェルナーは濡れないように、ぎりぎりの高さを維持し、膝をついたような体勢を取り、その膝の上にトレイを乗せてから、彼女にグラスを差し出す。

 

「ありがとう」

 

 グラスの縁にオレンジを飾った、砕いた氷入りのオレンジジュースを受け取り、彼女は喉を潤わせた。

 

「それを飲み終えたら、浴槽から出てくださいよ」

「飲み終えるまでは、出なくても良いということですね。一時間くらい、時間をかけて飲もうかしら」

「お止め下さい」

「分かってるわ。飲んだら上がりますから。信用がないのでしたら、そこで待ってるといいわ。ただし膝をつくような体勢ではなく、立ってね。大変でしょう、その体勢」

「一時間くらいなら、平気ですよ。これでも一応軍人なので、鍛えておりますから」

「そう。では、好きになさい」

 

 彼女はそう言い、白いストローを少し噛むようにしてオレンジジュースを飲と、濡れ汗が少し滲んだ顎から首のラインが、微かに上下する。その姿は艶めかしく、それでいて可憐だった。

 

「エッシェンバッハ侯と何をしていたのか、聞かないの?」

「お話してくださるのを待っております。そうは言いましても、なにがあったのか程度なら、分かりますよ」

「そうよねー」

 

 彼女は半分ほど飲んだグラスを、フェルナーの膝の上のトレイに乗せる。

 

「上がりますから、召使いたちを用意して」

 

 浴槽の縁に腕を乗せ、そこに顎を乗せて、やや上目遣いにして、そう命じた。

 

「もう、控えさせております」

「いつでも用意万全ね。じゃあ上がるわ」

「それでは」

 

 フェルナーは彼女の飲みかけのグラスが載ったトレイを持ち、浴室を出ていった。

 

「……なにをしたか、言うべきなのかしら……言っても……出ましょう」

 

 昨晩の二人だけの秘め事めいたものを、フェルナーたちに言うべきかどうか? ―― 盗聴、盗撮で知られているなど、考えもしない彼女は、浴室を出て召し使いたちに身を委ねて、支度をしている最中、色々と考えた。

 

―― 多少失敗しても、今回は酷いことにならないはず。かなりファーレンハイトには迷惑をかけることになりますが、それはそれで……許してもらいましょう。フェルナーたちにも、本当のことを言って……

 

「奥さま。本日はどのようなドレスをお召しになりますか?」

 

 ある程度考えが纏まったところで、声を掛けられた彼女は、赤のベルベット生地、ロングスリーブのプリンセスラインドレスを用意するよう命じた。

 胸元と二の腕のあたり、そして膝下から、かなり長い裾まで、派手なゴールドのモチーフで飾られているドレス。 裾の長さはおおよそ一メートルほど。

 髪は高めの位置にまとめて、ルビーとダイヤモンドで飾られた、プラチナのサークレットで頭部を飾る。

 オープンフィンガーの黒のレースグローブを身につけて、出かけることにした。

 

「フェルナー」

「はい」

「ファーレンハイトの元帥府に行きます」

「畏まりました」

「事前に連絡は入れないで」

「……畏まりました。では地上車を玄関に回しますので、どうぞ」

 

 当然専任護衛のキスリングも付いて行くのだが「本当に連絡を入れなくてもいいのですか?」と、メールでフェルナーに尋ねた。

 画面を見たフェルナーからの返信は「ジークリンデさまのご命令は、何を差し置いても守らなくては。それにファーレンハイトには入院中に、同じような目に遭わされたからな」との返事が返ってきて、そう言えばそんなことがあったなと思い ―― 無論キスリングも連絡を入れるつもりはなかった。

 同期が副官を務め、連絡できるのだが。

 

 車中で彼女は、今夜は召使いを全員下がらせるように命じる。

 彼女が何をしようとしているのか、見当が付かないフェルナーたちだが、ラインハルトの帰還を隠していたことに対する意趣返しか、なにかかと思えば、詳しく聞くわけにもいかず。それに、彼女の生命に関わるような命令でもないので、それをすぐに実行した。

 

―― そう言えば、ファーレンハイトの元帥府ってどこなんでしょう

 

「ファーレンハイトの元帥府は、何処なのかしら?」

 

 帝国はトップに立つ人により、省庁そのものが変わる。

 ラインハルトのように元帥府を開き、その後、宇宙艦隊司令長官に就任すると、元はミュッケンベルガーの元帥府に設置されていた、宇宙艦隊司指令本部がラインハルトの元帥府内に移動してくる形となる。

 これは軍部だけではなく、行政も同じで、故リヒテンラーデ公が君臨していた国務省は、公が内務尚書であった頃は、内務省として機能していた。

 

「ジークリンデさまに、なじみ深い庁舎ですよ」

「私になじみ深い……ですか?」

「はい。この道をもう少しすると、左折します」

 

 彼女は車窓からの景色を眺める。

 

―― この辺りは、どこでも見覚えが……

 

 国務省を頻繁に訪問していた彼女は、官庁が立ち並ぶ区画は、どこもかしこも見覚えがある。

 

「もしかして、元国務省ですか?」

 

 貴族の子女はあまり覚えることがない、その景色を記憶する原因となった建物。元国務省が、今度は元帥府となった。

 

「はい」

「では現在の国務省は?」

「国務尚書が不在ですので、内務省に間借りしています」

「まだ国務省書の地位、空いているの?」

 

 尚書の地位に就きたいと願う者は大勢いるのに、どうして半年も ―― そう彼女は考えるが「なりたい者」と「相応しい者」はまったく違う。

 

「これがなかなか決まらないのです。国務尚書は各省庁の間を取り持ち、政策を円滑に進めるのが任務。尚書の中でも、特に個人の技量と人脈が物を言う地位。長年その地位をリヒテンラーデ公が独占していたこともあり、上手い調停役が居ないので、大変なようです」

 

 以前は、相応しくはないがその地位を望む者が、リヒテンラーデ公に取り入り、便宜を払ってもらい尚書の座を射止めることができたが、そのような調整を行える者はいないのも大きい。

 

「そうでしたの」

 

 皇帝という後ろ盾を持ち、国璽を壟断していた老政治家が消え、神聖不可侵という権力はあれど、なにも分からぬ幼帝 ―― これでは、簡単に物事が決まるなどあり得なかった。

 

―― 早く各尚書が決まって、内政が落ち着くといいのですが……ラインハルト、尚書も務めるのかしら。……当人の最終目的はどうであれ、才能は充分ですから、早く国家の舵取りをして欲しいものです

 

 そのような話しをしている間にも地上車は目的地に向けて、最短距離で移動し、無事に到着する。キスリングは元帥府の正面玄関に地上車を止め、フェルナーが降りて手を差し出す。

 彼女はその手を取って車から降り、見慣れたルートヴィヒスブルク宮殿によく似た建物へと歩みを進める。

 元帥昇進内定から、引っ越し作業が行われていたが、まだ日も浅く、人の出入りが多く雑多な正面入り口が、水を打ったように静まりかえる。

 彼女はそれを”気にしているが”気にしていない素振り。

 出入りを管理している衛兵が、フェルナーの姿を確認し、ドアを開き、彼女はそこをすり抜けて受付まで行き、顔を赤らめている若い少尉に声を掛けた。

 

「ファーレンハイトを呼びなさい」

 

 この元帥府のトップに会いに来たと告げた彼女に対し、若い少尉はマニュアル通りに、アポイントメントを確認する。

 

「面会の予約はおありでしょうか?」

「ないわ。でもファーレンハイトを呼んで。ジークリンデ・フォン・ローエングラムがロビーで待っていると、そう伝えなさい」

 

 彼女はそれだけ言い、ロビーに設えられている椅子に腰を下ろし、あたりを見回す。

 

「殺風景ね、フェルナー」

 

 彼女の隣に立っているフェルナーも、周囲を見回し、そうですねとばかりに答えた。

 

「それはまあ、ファーレンハイトの元帥府ですから、それを望んでも仕方ないかと」

 

―― 金枠のソファーや大理石のテーブルはかなり良いものですけれど、壁に絵の一枚もないのが

 

 二人がそんな会話をしている最中、受付の少尉は、副官のザンデルスに彼女が訪れていることを伝えた。

 連絡を受け取ったザンデルスは、ロビーを映している監視カメラにアクセスし、深紅の赤いドレスを纏い、たおやかに座っている彼女と、辺りに警戒を払いながら、彼女の話し相手を務めているフェルナーを確認し、『すぐにお通ししろ』と伝える。

 

「閣下が会われるそうです。どうぞ、こちらへ」

 

 少尉は彼女を案内しようとしたのだが、彼女は微笑みそれを拒否した。

 

「ここに来るように伝えなさい」

 

 フェルナーが剣呑さを含んだ眼差しを少尉に向け、無言で彼を動かす。

 

「は、はい」

 

 監視映像をみながら再度、少尉からの連絡を受けたザンデルスは『最初から呼びなさいと言われたのか? そうなんだな? 謝罪はいい。今すぐ向かうから、お待ち下さいと伝えろ』緊張と興奮で、しどろもどろな受付少尉に指示を出して、ファーレンハイトを呼びに向かった。

 

 連絡を受けたファーレンハイトは、ロビーの映像を観て「フェルナー……」と、呟く。その声を一番近くで聞いていたザンデルスは「フェルナー少将が入院中に、同じことしましたからねえ」と ――

 

「ジークリンデさま」

 

 マントをたなびかせ、全力疾走でロビーまでやってきたファーレンハイトは、一度フェルナーを睨んで ―― 睨まれた方は、笑うだけだが ―― それから、

 

「遅かったわね、ファーレンハイト」

「申し訳ございません」

 

 彼女に近い者以外は見たこともない、優しくゆったりとした口調に柔らかい表情で、ファーレンハイトは彼女に話し掛けた。

 彼女は座ったまま、口づけなさいとばかりに、手の甲を差し出す。

 ファーレンハイトは膝をつき、隠れていない指先を手に取り、レースの手袋ごしにキスをする。

 

「明日から五日間休みを取って」

 

 彼女は頭を下げている状態のファーレンハイトにそのように告げ、

 

「畏まりました」

 

 ファーレンハイトは、予定を確認することなく、彼女の命に従う。

 

「言いたいのはそれだけ。帰ります」

 

 触れている手をそのまま取り、彼女は椅子から立ち上がる。そして手を離し、ファーレンハイトの胸に両手を添えて触れないぎりぎりまで身を寄せて、明らかな上目遣いで、重ねて頼む。

 

「今日も早めに来てちょうだい。約束よ」

 

 リヒテンラーデ公が逆らえる男はいないと言った、その眼差しと仕草で。

 

「違えたりはいたしません」

「では、待っています。見送りは要りません」

 

 彼女はふわりとファーレンハイトから離れ、ドレスの両サイドを持ち歩き出す。

 

「ここまで来たのですから、お見送りさせてください」

 

 そして彼女はファーレンハイトに見送られ ―― 見送りを終えたファーレンハイトは、先ほどまでの表情とはうって変わり、彼ら部下たちが見慣れた、凍ったような表情に戻り、何事もなかったかのように、執務室へと戻っていった。

 その場に居合わせた者たちは、何が起こったのか理解できず。だが状況を理解できないのは、ファーレンハイトも同じこと。

 むしろ彼のほうが、混乱しているのだが、それを気取らせるわけにもいかず、何事もなかったかのような表情を作る。

 

「明日から五日間、休むが、調整できるか? ザンデルス」

 

 執務室に戻り、仕事が山積みになっている机を前にして、ファーレンハイトは副官に、改めて休暇を取ることを伝えた。

 

「します。しっかりと休養を取ってきてください」

 

 彼女は色々な頼み事をするが、今回のように職場までやってきて、公衆の面前に呼びだし、あのようなことをすることは、いままで一度もなかった。

 そのため、なにか思い悩んでいるのではないかと、ファーレンハイトだけではなく、事情も分からず従っていたフェルナーも、そのように考えていた。

 

『思い悩む事情といっても、昨晩、侯と肌を重ねたことくらいかと。それ以外ですと、私たちに対する制裁という線が濃厚でしょう』

 

 フェルナーは事情を知って付いてきたのではないかと、メールを送るも「むしろ、こっちが知りたいくらいですよ」との答え。

 これは彼女から事情説明があるまでは、分からず悶々と過ごすことになるなと ―― 彼女の元へ早めに訪れるために、ファーレンハイトは早急に決裁の必要な書類に目を通し、ペンを走らせサインをしてゆく。

 

 ファーレンハイトは仕事を切り上げ、午後七時には退庁。

 

「ザンデルス」

「はい、提督。なんでしょう」

 

 元帥の登庁、退庁には副官も同行するのが規則なので、ザンデルスが地上車に同乗していた。

 

「今日のジークリンデさまの行動。お前はどう考える?」

「分かりません。提督が分からないもの、小官ごときに分かるはずもありません」

 

 下手に答えたら、即刻銃殺刑が待っているレベルの質問に、ザンデルスは慎重に言葉を選び答えた。

 

「正答を求めているわけではない。お前はどう思ったかを聞きたいだけだ」

「では小官の意見ですが、提督を休ませるのが目的ではないのかと。あの状況ですと、提督は必ず休暇を取ると考えられたのではありませんか」

 

 ファーレンハイトは、フレーゲル男爵が死亡する少し前から今日まで、休暇を取ったこともなければ、公休日も返上で彼女の元に詰めていた。

 男爵夫人だった頃の彼女は、ファーレンハイトやフェルナーによく休暇を取るように言っていた。夫を亡くして以来は、心細いこともあり、あまり休みを勧めることはなかった。

 彼らとしても、休むよりは彼女の側に控えていた方が安心できることもあり、特段休みが欲しいと、考えもしなかった。

 

「それもあるか……だが、応接室で同じように言われても、俺は休みを取ったが」

「それはジークリンデさまにお聞き下さい」

 

 ファーレンハイトを彼女が待つ軍人会館へと送るり、仕事が残っているザンデルスは元帥府に引き返す。

 

「ミュラーのやつ、なんで、こんな所歩いてるんだ? この先、軍人会館しかないよな……呼ばれたのか? そんなはずないよな。あいつ、明朝にはイゼルローン攻略……」

 

 その途中、ミュラーとすれ違ったザンデルスは、念のためにとキスリングに連絡を入れ、後は彼らに任せた。

 


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