黒絹の皇妃   作:朱緒

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第157話

―― 私のことを考えてくれた結果、こうなったのでしょうけれど……少しは怒ってもいいわよねー

 

 化粧直しのために、一旦会場を離れた彼女は、沸々と怒りらしきものがこみ上げ、そんなことを考えていた。

 パウダールームには、待機させていた小間使いがおり、彼女の肩にオーガンジー生地の白のショールを掛け、鏡台の前へと案内し、パウダーをはたき、口紅を塗り直させる。

 

「終わりました奥さま。いかがでしょう?」

 

 鏡の前でやや斜めを向き、左右の顎のラインを確認してから、ショールを脱ぎ、会場へと戻る。

 その途中、廊下にラインハルトが立っており、

 

「所用があるので、少々早いが帰らせてもらう」

 

 帰る旨を伝えてきた。

 

「お忙しいなか、わざわざ足を運んでくださり、ありがとうございました」

 

―― この居心地の悪さといいますか、この受け答えといいますか……素知らぬふりして、お見送りしましょう

 

 彼女はラインハルトに並んで歩き、地上車に乗り込むラインハルトに約束の再確認をして、

 

「では明日」

「分かった」

 

 地上車が見えなくなるまで、しっかりと見送ってから、会場へと引き返した。

 会場にはまだ多くの人がおり、その中の一人が彼女を見つけて声をかけてきた。

 

「ジークリンデ」

「アルフレット」

「今宵もジークリンデは美しいな。あなたの存在は、ニュクスを彷彿とさせる」

 

―― なんでニュクスなんでしょう?

 

 不思議には思ったが、シャンパンを片手に機嫌のよいランズベルク伯に、深く尋ねることはせず、パーティーを楽しんでくださいと告げ、幾つか話をして別れた。

 

「ジークリンデ」

「カタリナ」

 

 それを待っていたかのように、派手目な赤のベルラインドレスを着たカタリナが近づき、ロンググローブを嵌めた彼女の手に、持ってきたシャンパングラスを渡す。

 受け取った彼女は、目線の高さに持ってきて会釈をし、グラスを口へと運ぶ。

 

「あなたがいない時、それは楽しかったわよ」

「なにがですか?」

「あなたの夫と、ファーレンハイトが強ばった笑みを浮かべながら、和やかにお話してたわ」

 

―― いなくて、良かった……

 

 その場面を想像した彼女は、遭遇しなかった幸運を喜んだが、実は幸運でもなんでもなく、両者とも彼女が化粧直しに戻るタイミングを待って、失礼にならない程度の会話をかわしただけのこと。

 

「なにも、ありませんでしたか?」

「特になにもなかったわよ。明日あなたが、夫の元を訪れる際の護衛についてや、元帥府の警備がどいうとか。なんでその内容で、あんなに殺伐とするのか、まあ怖いったらありはしなかったわ」

「ファーレンハイトには注意しておきますね」

「ベーネミュンデ公爵夫人に注意されてたから、大丈夫じゃないかしら。あ、でも、あなたから注意されたら、もっと効くかしら」

 

 ベーネミュンデ公爵夫人は、リヒテンラーデ公が国務尚書まで出世しても「妾に傅いていた者」としか見なさなかった。その公爵夫人からすると、ファーレンハイトがどれほど出世しようが、彼女の護衛であり公爵夫人よりも格下。生涯その順列が変わることはない ――

 

「お手数をおかけしてしまったようね」

「いいんじゃないかしら。それでね、ジークリンデ……」

 

 パーティーはほぼ完璧な形で終わった。

 唯一の問題は、彼女がファーレンハイトに話し掛けなかったこと。

 招待客が全員帰宅し、軍人会館に住んでいる彼女とその護衛。そして、

「ファーレンハイト」

「はい」

 彼女を怒らせたファーレンハイト。

「……」

「申し訳ございません」

「今回のパーティーに掛かった諸経費は、一切受け取りません」

「ジークリンデさま、それは……」

 

 彼女を欺した罰として、ファーレンハイトには、金を支払わせないことにした。

 怒りを表すのに、金を支払わないのが一般的だが、彼女とファーレンハイトの場合、支払わせない方が「怒り」を現す。

 もともと彼女が金を払い過ぎて、喧嘩になった過去がある。

 プライドというものを理解して以来、彼女は出来るだけ控え目にしていたが、今回は欺されたので、全額彼女が支払うことにした。

 

―― そのくらいは、しても良いと思うの!

 

 完全に硬直したファーレンハイトを残し、彼女は殊更優雅に、いつもと変わらぬ姿勢で歩き部屋へと戻った。。

 すでに日付が変わって二時間近く過ぎており、まとめていた髪を解き、化粧を落としてベッドに転がる。

 

―― 明日の策を考えて……眠い……

 

 明日ラインハルトと会った際の、やり取りを考えようとしたが、心地良いスプリングに身を埋めると、すぐに睡魔に全てを持っていかれてしまい、自ら天蓋を閉めることも忘れ眠りに落ち、結局目覚めてから考えることになった。

 

**********

 

―― 完璧とは言えませんが、きっと大丈夫!

 

 目覚めてから色々な策を考えた彼女は、約束の時間を少し過ぎてからラインハルトの元を訪れた。

 

「待っていた、公爵夫人」

「お時間、ありがとうございます」

 

 ラインハルトが待って居た部屋は広く、無駄な物は何一つなかった。

 部屋の真ん中には応接セットとも言える、テーブルとソファー。花が飾られているわけでもなければ、名画や彫刻などの美術品が飾られているわけでもなく。

 

―― 華やかさはラインハルトがいるから必要なく、芸術品もラインハルトというところなのでしょうね

 

 彼女は念のために辺りを見回したが、人が隠れられるような場所もなく、また彼女の護衛も入り口で待機しているので、本当に二人きり。

 勧められるがままに、ベージュの革張りのソファーに腰を下ろす。

 給仕がアイスティーを二人の前に置き、部屋を退出する。

 彼女はストローをさして、アイスティーを口に含む。彼女と同じように、ラインハルトもアイスティーを一口含み、ストローを口から離す。

 

「元帥……ではなくて、ラインハルトさま」

「なんだろう? 公爵夫人」

「もうお耳に届いていることでしょうし、改めて聞くのは不快かと存じますが、わたくしめは、不義をはたらきました。取り返しのつかぬ事をしたと自覚しておりますので、謝罪はいたしません」

 

 彼女の計画は、まず最初に夫以外の男性と関係を持ったことを、正直に告げて、かつ謝罪をしないこと。

 許すのはラインハルトの自由であり、謝られても許したくなければ、許さなくても良いことだが、彼女は謝り許してもらうことは、望んではいない。

 

「むろん、不義ゆえ相手もおりますが、相手の名前はお許し願います。それ以外のことでしたら、どのような罰でも謹んでお受けいたします」

 

 彼女としては、これでラインハルトがあっさりと離婚してくれたら、最良だったのだが、そう上手くことは運ばなかった。

 

 ラインハルトは彼女の言葉に、表情を強ばらせ、聞きたくもないとばかりに頭を振る。

 室内灯に照らされ光をはらんだ金髪が大きく揺れ、その王冠に例えられる金髪をかきむしるようにして、ラインハルトからの謝罪が始まった。

 内容はあの日、彼女の実家に兵を送らなかったこと。

 余剰兵が手元になかったという内情があったが、そういった弁明は一切せず。

 そして彼女と一緒に、前日から伯爵邸に滞在していれば、もっとなにかできたのではないかとも。

 

「ラインハルトさま」

 

 ラインハルトからの言葉は予測していなかったので、彼女は戸惑う。

 それを純粋な優しさと取るべきなのか、別の考えがあってのことなのか?

 なにより彼女の心の奥底に「分かっていて手配しなかったのではないか」という、考えが少しばかりあった。

 そんなことを考えてはいけないとは理解していても、彼女が知っているラインハルトは決断を後悔することがままあった。特に顕著なのは、ヴェスターラントに対して何もしなかったことに関する後悔。

 もっともアレは、人道的云々よりも、あの出来事により、キルヒアイスと決別し、彼を失ったことが大きく ―― キルヒアイスが生存していれば、あれほど気に病むことはなかったかもしれないが。

 

「公爵夫人」

「お言葉は嬉しく、光栄ですが、あの日、邸にラインハルトさまがいなくて、本当に良かったと私は心中より思っております。私の親族のことはお気になさらずに」

 

 彼女は邸でなにが起こったのか、事細かには知らないが、自分が知る範囲の惨状から考えて、ラインハルトが居たとしてなにかできたか? 出来たとして、ラインハルトが無傷で済んだか? どちらかと言えば最悪なことばかり思い浮かぶ。

 

「だが」

「このような言葉は、ラインハルトさまはお嫌いでしょうが、私の一族は、そこまでの運命だったのです」

 

 話が途切れ、二人とも氷が随分と溶けて小さくなったアイスティーに手を伸ばす。彼女はストローを掴み、かき混ぜてから飲んだ。

 

「ラインハルトさま」

「なんだろう?」

「内乱で出征した主だった将校に、戦死者はでましたか?」

 

 昨日彼女は、あまりの驚きとラインハルトの落ち着きぶりに、キルヒアイスがいないことを不安に思わなかった。

 今朝、目を覚まし「内乱が終わったということは、キルヒアイスが死亡している可能性もある」ことに気付き ―― さすがにあの衝撃の昨日から今日では、フェルナーたちに聞く気になれず、ラインハルトに直接その生死を尋ねようと考えてやってきた。

 

―― 会話をしている雰囲気では、キルヒアイスは生きているような気がします。落ち着いているといいますか、余裕があるというか……でも私、洞察力ゼロですから

 

「内乱では誰も戦死しなかったが、それに呼応するように叛徒が攻めてきたことで、一人の将校を失った」

 

―― キルヒアイスのことは、将校とは言わないでしょうから、生きているんですね。良かったー。ということは、ヴェスターラントもなしですか。伯父さま、領地にいましたしね。でも、誰でしょう? ……聞きたくはあませんが、知っておかないと、後々困ることになるかも

 

「そう……でしたの。亡くなられたのは、誰ですの?」

「ケンプだ。カール・グスタフ・ケンプ」

 

―― ケンプはイゼルローン攻略で……あれ、それ以前に、なぜリップシュタットの際に、同盟が攻め込んできたの?

 

「惜しい方をなくされましたね」

 

 彼女の脳裏に悲しみに暮れる妻と、それを励ます息子たちの姿が思い浮かぶ。

 

「ああ」

「ラインハルトさま。少々お聞きしたいのですが、宜しいでしょうか?」

「なんでも聞いてくれ。答えられるものなら、何でも答える」

「リップシュタット……あの……」

 

―― そもそも、この内乱ってリップシュタット連合とは言わないわよね。リップシュタットは伯父さまの領地ですから。えっと貴族連合?

 

「公爵夫人?」

「あの……名称は存じませんが今回の内乱、ラインハルトさまは事態の発生を予見していたのではありませんか?」

 

 ラインハルトがそちら側に無警戒であったとは、彼女には到底思えなかったので、その点について尋ねる。そんな彼女の質問は、ラインハルトにとっては意外だった。 

 

「ある程度は。帰還兵がテロリストとなり、国務尚書の一族を襲うことは、予測していなかった」

「やはりそうでしたか。では、ラインハルトさまは、内乱の最中に叛徒が便乗して攻めてこないよう、策を講じることもできたのではありませんか?」

「実は講じていたのだが、作動しなかった」

「どのような策か、うかがっても宜しいでしょうか?」

「……」

 

 ラインハルトは彼女から視線を離す。

 成功した策ならば躊躇なく語れるが、失敗した策を語るのには勇気がいる。

 

「語れないのでしたら、結構ですよ。ちょっとした興味から出た質問ですので」

「あ、いや。教えるのは構わないのだ。その策というのは」

 

―― 記憶通り、リンチに内乱を教唆させようとしたのですね。でも失敗……と

 

 ラインハルトが語った内容は、彼女が知っているものと、ほぼ変わらなかった。

 

「策に溺れたとは、このことだな」

 

 逆に同じなのに、なぜ失敗したのか? 彼女はそこが気に掛かった。

 

「策について、私が言えることはありませんが、アーサー・リンチは帰国の途中で殺害された……ということは?」

「フェザーンに入ったことまでは分かっているが……殺されたか。そういう可能性もあったな」

 

 そこで会話が途切れ、彼女は空白を逃さず、唐突に語った。

 

「不貞は不貞。そのような相手とは、即刻離婚するべきかと。ラインハルトさまの将来のためにも、そのような私とは別れるべきです」

「……あなたは、私と別れたいのか?」

 

 好きか嫌いかと問われたら「嫌い」と答える。別れたいかと聞かれたら「別れたい」と答える ―― 言葉を濁していい人の皮を被って、逃げおおせるつもりなどない彼女は、はっきりと答えた。

 

「はい。別れたいです」

「私はあなたと、別れたくはない」

「なぜ、でしょうか?」

「私にはあなたが必要だ」

 

 彼女は自分のなにがラインハルトに必要とされているのか? 想像もつかず、彼の美しい顔を凝視する。

 

「離婚後、私などよりも、ずっと必要な方と巡り会えるでしょう。それにラインハルトさまには、キルヒアイスがいるではありませんか」

「……」

 

―― あっさりと離婚とは行きませんでしたね。この執着はどこから……やっぱり、執着を断ち切るためには、関係を持つしかありませんか

 

 人は逃げられれば、逃げられるほどに追いかけたくなり、手放したくなるもの。なので、ラインハルトを全て受け入れて、更に「引かれるほど、自らも行動に移そう」と ―― 彼女が考えたプランの最後にして、できれば避けたかった行動に出た。

 

 ソファーから立ち上がると、行儀悪くテーブルに膝立ちをする。

 グラスが倒れ、僅かに残っていた氷がテーブルの上を滑り、床に落ちる。

 ”なにを?”言いかけたラインハルトの唇に、己の唇を寄せて言葉をふさぐ。首に腕を回し黄金の髪に指を通し、やや強めに力を込める。

 そして唇を離して、首筋へと移し、脱がせ辛い軍服に手をかけた。

 

―― きっと、積極的な女は嫌いだと思うから……できるかぎり頑張る! 

 

 不倫した妻に押し倒されたら、愛想を尽かすだろう……それが彼女の考えであり、作戦であった。

 

―― 思いっきり拒否されたら、されたで良し。……できることなら、拒否して欲しいんですけれど

 

 ドレスの裾をたくし上げ、ラインハルトに跨がり ――

 

 

 ラインハルトは宇宙征服に対しては積極的で、自らの手で成し遂げたがるが、私生活は姉のアンネローゼの影響が強く、女性にそれらを委ねるのに抵抗のない性格であった。

 

 

「ジークリンデ」

 

 ソファーの上で全てを脱ぎ捨て、ラインハルトの黒いマントに包まった彼女を抱きしめて、情事後の睦言として、避けるべき告白を、彼女の耳元で囁いた。

 

「なんでしょう、ラインハルトさま」

「あなたが好きだ、ジークリンデ」

 

 それを聞き、彼女は体を強ばらせる。

 ラインハルトの言動は、彼女が予想もしていなかったこと。

 彼女はラインハルトが決して許さないだろうと思い、そして軽蔑されるであろうと考えて行動した結果が、まさかの愛の告白。

 

「あの、ラインハルトさま。きっと雰囲気にながされているのですよ。行為直後は、そう錯覚される方も多いそうです」

 

 つい先刻まで女を知らなかった青年が、極上の快楽と数多な愉悦を教えてくれた相手を、手放したくないと考えるのは、ある種の本能とも言える。

 

―― えー。私の考えでは、これで呆れて離婚になると……

 

「そうだな。まだ夢を見ているかのようだ」

「そ、そうですよ、ラインハルトさま。後日冷静に今夜のことを考えれば、自ずと離婚という答えが出てくるはずです」

「あなたは、嫌いか?」

「……嫌いです」

「そうか。では、好きになってもらえるよう、努力しよう」

 

―― 前向きですね、ラインハルト。それはそうか、帝国を打倒しようと考え……感心してる場合じゃない

 

「いえ、あの……わたしめに対して時間を割くより、もっと色々とすべきことが、ラインハルトさまにはおありでしょう」

 

 ラインハルトの黒いマントに包まったまま、彼女を身を起こして体を離そうとするが、しっかりと抱きしめられて、逃れることができない。

 

「申し訳ありません、ラインハルトさま。私はラインハルトさまだけでは、物足りないのです!」

 

―― これが致命傷になって、女嫌いになったらどうしようかな……と、思ったけど、ラインハルトは一纏めに女を嫌いになることはないでしょう……たぶん

 

「私だけでは、物足りないと?」

「そうです。それに、私はラインハルトさまが、帝国のために戦っている時にも、寂しさと心細さを誤魔化すために、近場にいる男性の肌に安らぎを求めてしまう、心の弱い愚かな女です。あなたが私のことを好いてくださっても、私はあなたを裏切り、他の男と寝ます。だから!」

 

 ここまで言ったら、きっと別れてくれるだろうと、彼女は考えたのだが、

 

「分かった」

「分かってくださいましたか」

「私はあなたが不安なのを知りながら、戦いを選んでしまう不実な男だ。だから、あなたは思うままに、心安らかに過ごしてくれ。それに関してはなにも言わない。そして、これからも私の側に居て欲しい」

 

 彼女の策はことごとく失敗し ―― 彼女は、まだ夜の明けぬ中、帰宅することになった。


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