黒絹の皇妃   作:朱緒

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第156話

 授与式を無事に乗り越えて、彼女はパーティーの最終準備に取りかかる。

 無言で地上車に乗り込み、頬杖をつき無言のまま、車窓から流れる景色を眺める。護衛の為、同乗しているフェルナー、運転席のキスリングも、もちろん無言のまま。

 

―― 何があったのかは分かるような、分からないような……あー、メルカッツ提督と合同にしててよかった。そうでなかったら、全部投げ出してた所よ

 

 状況からパニック寸前で現実逃避したい彼女だが、パーティーを無事に終えるまでは平常心を保たねばと、自分に言い聞かせている。

 

―― ラインハルトに会いたいって言わなかったから、会わせないようにしたんでしょうね。……もしかして私、ラインハルトに会いたくないって言ったのかしら? 言ったような、言ってないような。自分の発言を全て覚えてないから、言ってないとも言い切れないし……

 

 

 パーティーの会場ともなっている軍人会館へと戻る。

 出迎えたオーベルシュタインが、深々と礼をしているのを見て、当たり前ながら彼も関わっていたのがはっきりと分かった。

 だがそれに関し、オーベルシュタインに対して怒りを覚えるかというと、そうでもない。

 

―― 出席に関してはオーベルシュタインが担当でしたね……

 

 だが怒ってはいないが、かける言葉もないので、無言のまま部屋へと直行する。

 

「シャワーを浴びます」

 

 待機していた召使いたちにそう告げ、彼女は自らの準備に取りかかると共に、最終確認や細々とした指示を出す。

 マ二キュアを塗り替え、髪を結い直し、化粧を施す。

 上半身のラインははっきりと、膝辺りからは白と銀のフリルとレースを大量に使い、裾をかなり引きずる、ボリュームのあるマーメイドラインのドレスを着て、裏表全てに刺繍が施されている、ロンググローブに腕を通す。

 

―― 見えなくなると分かっていても、手を抜くわけにはいかないのが辛いところですが……まあ何かあって、また緊急で病院に運ばれた時、実は見えないところが適当だったと思われるのは嫌ですし……緊急搬送されるのは、もう二度と経験したくはありませんが

 

 見えないし、見せる予定もないのだが、綺麗に形を整えた手と足の爪にマニキュアを、靴も薔薇をモチーフにしたプラチナのバックル、7cmのヒールには銀で模様が描かれてすらいる。

 

 用意していた宝飾品を身につけ、召使いの「終わりました」と報告を受けて立ち上がり、用意していた扇子を手に取って大きな姿見の前に立ち、髪飾りの位置を少し変えさせて、扇子を閉じ、召使いたちを下がらせる。

 

 そして一人になり、椅子に腰掛けて深いため息を吐き出した。

 

―― さて、ラインハルトのこと、どうしましょう。今夜はパーティーに全力を尽くすとして……明日会う約束を取り付けて……きっと正直に言えば、離婚してくれるはず。まさか、激高して暴力を振るってくるようなことはないでしょう。そうなったとしても、あまんずるべきよね。それだけのことをしてしまったのですから。私が恨むのは筋違いですし……。まさか自裁とか……意外と良い結末かもしれません

 

 彼女は卓上に置かれている、呼び出し用の銀色のベルを鳴らし、パーティーの出席名簿を持ってくるよう命じた。

 もう彼女に隠す必要はないので、速やかに、だが異様に重い空気の中、それは彼女の前へと運ばた。

 白いテーブルクロスがかけられているテーブルに乗せられた、しっかりとした作りの名簿。

 その表紙を開くとすぐに、ラインハルト・フォン・エッシェンバッハの名。謝ることを決めた彼女だが、ラインハルトの名を見ると、いままで何ともなかった胃が痛むような気がして、無意識のうちに手を乗せた。

 

「…………あら? キルヒアイスは一緒に来ないの」

 

 ラインハルトの随行員の欄に名がなかったので、単独招待かと彼女は考え、大将のリストに目を通したが、そこにもなかった。

 帝国の名簿は平民階級ならば、ほとんどが姓のアルファベット順で並べられるが、貴族階級は貴族名鑑に載っている順で掲載される。

 ライバルの家柄よりも下に名が載るなど、彼らには耐えられないこと。

 軍の場合はまず階級で分け、そこから貴族を名鑑に則って載せ、その後にアルファベット順に掲載する。

 彼女は最初、名簿が名簿の体をなしていないように感じられたが、貴族の順列を覚えるのに役立ち、覚えてからは慣れで簡単に探せるようになったので、不便を感じることはなくなった。

 もちろん、アルファベット順に並んでくれた方が、よほど見やすいが、それを言っても始まらないので、慣れるしかない。

 

―― 招待しなかったのかしら? いや、そんなことはないわよね。忙しいのかしら……いや、キルヒアイスはいなくてもいい! 自分でラインハルトに約束を取り付ける! きっといたら、頼りそうだから、いなくていい……でも、なんでかしらー。でも、こういったラインハルトが苦手とする物には、参加出来る範囲では参加していた筈なのに。忙しいのかしらね

 

 キルヒアイスがパーティーに参加しなかった理由は、彼女も挙げたように、ラインハルトと彼女の間を取り持つことをしないよう ―― 直接会話をしてもらうためだが、他にも理由が一つあった。

 彼女はまったく知らないのだが、三日後にはイゼルローン要塞攻略のため、彼らは出撃する。

 キルヒアイスはその準備に追われていた。

 イゼルローン攻略の部隊から誰も出席しないのも礼を失するということで、ラインハルトの随行員に、ミュラーが組み込まれることに。

 

―― 随行員がミュラーとケスラーですか。……私、ウルリッヒにも欺されたのよね……でも、仕方ないわよ。だって内乱終わったら、ウルリッヒ出世して大将になってる筈なのに、中将のままだったわよ。……あら? ミュラーは大将になってる、あれ? どうして

 

 ”内乱が終わると、ラインハルトの部下は出世する”と彼女は記憶していたこともあり、彼女の元に出入りしていた、ラインハルト側の将校であるケスラーが、ずっと中将のままであったので、終わっていないのだということを疑わなかった ―― それがなくとも、疑いはしなかったであろうが。

 

「ミュラーが大将に昇進したのなら、なにかお祝いを。でも、どうしてウルリッヒは出世しなかったのかしら? 遅れているのかしらね。ウルリッヒに聞いても……分からないでしょうね」

 

 名簿の名前を、手袋をはめた指で追いながら独り言を呟く。

 

―― ベルタさんのエスコートは、シュナイダーですか

 

 パーティーは色々な招待形式があり、今回は既婚者の場合は夫婦で、高官の子女で独身の場合は、相応しい人物を見繕う必要があった。

 メルカッツは夫人と共に、独身のベルタはメルカッツの副官のシュナイダーにエスコートされる。

 妥当で無難な人選で、さらりと流し、中将の名簿に目を通し、半分まで読み進めたところで、

 

「既婚者は……妻と……」

 

 彼女は招待客に”自分の夫”がいることを思い出し、マスカラを乗せた目蓋を強く閉じ、もう一度ラインハルトのページに戻る。

 

―― アンネローゼと一緒に来る……なんてことは、ないようですね……ラインハルト単身で来て、書類上の妻が先に会場入り……

 

 彼女は大きな柱時計に目をやり、あまり考えている時間はないことを確認して、急ぎラインハルトに連絡を取ってもらった。

 連絡を受けたラインハルトは、何を言われるのかと悩んだが、急ぎ連絡が欲しいとも言われたので、それに従った。ただ、ヴィジフォンがメインの帝国だが、ラインハルトは彼女と顔を合わせる勇気が出なかったため、音声のみの通話で。

 それは彼女も同じことで、顔を合わせなくて済んだことに、安心したものの、話の内容は顔を合わせて、腕を組んで会場入りしましょうという相談。

 

「お忙しいところ済みません、元帥」

『いや。話とはなんだろう』

「本日元帥が参加なさるパーティーについてですが……」

 

 名簿に名の載っていない女性を用意していることを、僅かに期待した彼女だが、むろんそんなことはなく、

 

「私でも宜しいでしょうか?」

 

 彼女は”出来ることなら避けたい”とは思ったが、形式は必要だろうと、自らエスコートされることを希望した。

 

『……』

 

―― 顔が見えないから、ラインハルトがどんな表情しているのか分からなくて……沈黙が苦しい!

 

 彼女は自分が姦婦であり、その事実は少年の潔癖さを持ち合わせているラインハルトには、到底耐えがたいことであることも理解しているので、強く頼むことはできなかった。

 

「お嫌でしたら、言ってください」

 

 ”嫌なら、断ってくれていいのですよ”と心底から思っているが、反面、ここで会って、明日にでも面会の予約を取り付けたいとの考えもあり、彼女としても悩ましいところであった。

 

『いいや、嫌ではない。だが……あなたは嫌ではないのか?』

「いいえ、私はそのようなことは……」

 

 互いに顔が見えないので、言葉でしっかりと伝えなくてはならないのだが、両者共々言葉が途切れ途切れに。

 もともと有った距離の他に、濃い霧のようなものが立ちこめ「一緒に会場入りしましょう」という簡単なことですら、届かぬ場所で手探りするだけで、歩こうともしないような状態。

 だが声は聞こえるので ――

 

「では、途中でお会いしましょう。元帥」

『分かった』

 

 彼女は会場の最終確認を終えると地上車に乗り、会場へ向かう途中のラインハルトの地上車と合流し、乗り換えて「改めて」会場入りすることに。

 警護としてラインハルトが乗車している地上車の、前方車両に乗っていたケスラーも降りて彼女を出迎える。

 彼女はケスラーのほうを少し見て、後は「知らない!」とばかりに顔を背けて、ラインハルトが乗っている地上車へ、キスリングと共に乗り込んだ。

 車中には運転手以外に、ラインハルト、ミュラー、その向かい側に彼女とキスリングの四人となり、張り詰めてはいないが、車中は暖かさの欠片もない空気が漂う。

 そのあまりの空気の重さに耐えかねた ―― 訳ではなく、会場に到着する前に、約束を取り付けねばと、彼女は口を開いた。

 

「元帥に頼みがあるのですが」

「なんだろう? 公爵夫人」

「どうしてもお話したいことがあります。明日、時間を作ってはいただけませんか?」

 

 先に延ばすと、言い出せなくなると、彼女は扇子を持っていた手に力を込め、ラインハルトをまっすぐ見つめて頼んだ。

 

「ああ。何時頃が良いだろうか?」

「元帥の都合の良いお時間で。あと、出来ることなら、二人きりでお話したいのですが」

「分かった。では、明日の十九時に……どこで会おうか?」

「元帥府でお話できますか?」

「大丈夫だ。では明日」

 

 こうして二人きりで会う約束を取り付け、地上車は、会場である軍人会館へと到着 ―― 彼女の場合は、数十分ぶりに戻って来たというのが正しいが。

 

 ラインハルトにエスコートされ会場入りし、夫婦として挨拶をこなす。

 

―― すごい注目を集めてるような気が……どの面下げて、夫と一緒にいるのかってことかしらー。やだわー

 

 彼女とラインハルトに視線が集まるのは、このような華やかな場に、二人が一緒に現れたのが初めてであることが原因の一つ。

 他の原因は、両者がとにかく人目を引きつけ、離さない容姿の持ち主であること。

 彼女が気にしていることに関して、会場にいる者の多くは真実を知らない。また真実は知らないが、元々ファーレンハイトやフェルナーは、”彼らに対する”やっかみ半分で、愛人と囁かれていたこともあり、このような場で取りざたされることはなかった。

 

 彼女とラインハルトの仲が拗れているらしいということは、知られているというよりは ――

 

「元帝国騎士階級というのが、嫌なのではないか」

「今は爵位を授かったが、建国以来の門閥貴族の姫君には、下級貴族でしかないんだろう」

「閣下が……なされば、公爵夫人も納得なさるかもな」

「おいおい滅多なことを言うな。俺ももちろん、閣下の栄達を望んではいるが」

「でもそれなら、ローエングラム公爵夫人も納得してくださるだろう」

「ルートヴィッヒ殿下が存命なら、皇太子妃となって行く行くは皇后とまで噂されていたくらいだからなあ」

 

 声をひそめて”閣下が……なされば”の「……」の部分は”皇帝に即位”という、非常に危険な台詞で、ラインハルトの部下以外の者に聞かれたら、問題視されるものであった。

 またこの会話から分かるように、ラインハルトに心酔している部下の将校ですら、不仲の根本の原因は、ラインハルトが帝国騎士の生まれのため、彼女には相応しい結婚相手には思えないのだろうと考えられていた。

 彼女はそんなつもりはないが、下から上まで生まれで身分が決まり、その枠内で生きてきた彼らにとって、姫君が簡単に「下級貴族だけど格好良い!」となびくような生き物ではないことは、よく知っていた。

 

 彼女の結婚と皇太子の死亡時期には、はっきりとした誤差があり、皇太子妃になるという道は、ほとんどなかったのだが ―― この辺り、彼らはそれほど詳しくはなかった。

 

 とにかくラインハルトが皇帝となり、彼女も皇后となれば、貴族の姫君としての矜持も保たれるのではないかと、ラインハルトの部下たちは考えていた。

 

 ラインハルトの部下たちは、それほど門閥貴族に詳しいわけではなく、楽観的ですらあった。

 本当の門閥貴族であれば、ラインハルトが皇帝に即位し、皇后の地位を得たとしても「成り上がり」としてしか見なさず、結局のところ事態は好転しない。

 もちろん、彼女にはそんな考えは微塵もないが。

 

 色々と噂されているその時、彼女は、ロイエンタールを見つめていた。

 

―― ロイエンタール、一人できましたか……婚約破棄? それとも、サビーネ……

 

 招待客の一人であるロイエンタールが、誰もエスコートせず、一人でやってきた。

 彼女自身がそうであったように、どれほど若くとも正式に婚約を発表していれば、公式の場に連れてくることはできる。

 

―― なにか理由があるのでしょうが、今は聞く気にはなれません……でも、近いうちには聞きましょう

 

 別の男性にエスコートされてやってきた、若い娘たちに囲まれているロイエンタールから視線を逸らし、会場を見回して、足りないものがないかなどを確認する。

 

「オーベルシュタイン。なにか不備はありますか?」

「なにもございません」

「現状については後日聞きますから、今日はこちらに全力を」

「御意」

 

 彼女の元へとやってきたオーベルシュタインにそのように指示を出し「そろそろ男性だけでお話したいこともあるでしょう」と、ラインハルトからも離れ、顔見知りの女性客たちと歓談し、一通りの仕事を終えてテラスへと出る。

 

「フェルナー」

「はい」

 

 夜空を見上げ、会場入りしたずっと彼女の後ろを、ずっと付いて歩いていたフェルナーに声をかけた。

 

「なにか言いたいことは」

「ございません」

「言い訳とか、弁明とかしないの?」

「するつもりは、ございませんが」

「あなたたちの、そういう所、長所なんですけれど、言ってくれないと、なにを考えて、このような行動を取ったのか? 私には見当も付かないから困るのよね」

「申し訳ございません」

「後日があったら聞くわ。フェルナー、罰を与えてもいいかしら?」

 

 これに関しては特段罰を与えるつもりはない彼女だが、”これ”に関しては、丁度良い理由ができたとばかりに、罰として命じた。

 

「なんなりと」

「では、自裁用の毒を、明朝までに用意なさい」

 

 ラインハルトと話し合いの結果、自裁もあり得ると考えた彼女は、フェルナーに毒を用意させることにした。

 言われたほうは、まずは絶句するしかない。

 

「……ご自身で使われるのですか?」

 

―― 何を言っているのフェルナー

 

「他人に使ったら、自裁用とは言わないでしょう」

「確かに。馬鹿な質問をしたことお許しください。理由をお聞かせ願えますか?」

「嫌よ。用意しないと、許してあげませんよ」

 

 彼女は夜空から視線を落とし、フェルナーのほうを見る。

 透き通り吸い込まれそうな、翡翠色の瞳を向けられたフェルナーは、一度口を固く結んでから、

 

「お断りいたします。許していただかなくて、結構です」

 

 彼女の命令を拒否した。

 

「フェルナー」

 

 およそフェルナーの口調とは思えぬ、硬いもので、彼女は思わず目を見開いて、彼の瞳をのぞき込む。

 

「お断りいたします。……理由をお聞かせてもらえるのでしたら」

「……まったく。私には事情を説明もせず、今日の今日までエッシェンバッハ侯について、欺していたのに。仕方ないわね」

 

 そこで彼女は、明日ラインハルトにこれまでのことを話し、処断を彼に委ねるつもりであることを告げた。

 

「その選択肢の一つに、自裁があると考えて、あなたに用意するよう命じたのよ。分かった、フェルナー」

「分かりましたが、用意はしません」

「……」

「その場にお供させていただけるのでしたら、用意いたしますが、毒をお持たせしたりはいたしません」

「分かりました。じゃあ、要りません。エッシェンバッハ侯の元に、毒の一つや二つあるでしょうしね」

「ジークリンデさま!」

 

 出来ることなら誰も交えずに話したいと考えいる彼女は、その申し出を却下した。


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