黒絹の皇妃   作:朱緒

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第155話

 扉がなくとも、彼女が困ることはなく ―― 

 

「フェザーンが情報収集のために行ったものだと報告がきた」

 

 扉を取り外すと同時に、近くで張り込み機器を作動させていた者を捕らえ、身柄を社会秩序維持局に送り、取り調べさせた結果、フェザーンが絡んでいることが分かった。

 

 彼女はもともと自分自身は無力で、親族が強大な力を握っていると認識しており、それらが失われた今、自分は取るに足らぬ身だと考えているのだが、そのように思っているのは彼女だけ。

 カザリンの覚えが良いのはもちろん、所持している爵位の数、その莫大な資産。

 大伯父であるリヒテンラーデ公の築いた権力基盤と人脈を継承した形となり、また、亡父の交友関係なども、そのまま彼女の財産となっている。

 そしてリヒテンラーデ公が所持できなかった武力も、忠実で実力のある元帥を持つこととなり ―― 所有している権力だけならばリヒテンラーデ公をも凌ぎ、帝国における権力者の一人となっていた。

 

 そんな彼女の元に情報が集まらないはずはないので、これ以上ないポイント ―― そのように、判断されても仕方がなかった。

 

 社会秩序維持局局長であるラングから報告を受けたオーベルシュタインが、報告書を読み上げる。

 

「重要な情報を手に入れるために、お嬢さまの部屋に盗撮機材を仕掛けたというのか」

 

 話し合いには、扉撤去の理由を作ったケスラーも呼ばれていた。

 

「そうだな。それで業者を調査したのだが、そちらの元帥府のリフォームも請け負っていた。間違いなく、情報収拾されていることであろう。まあ、それを逆手にとって……ということも出来るが、それらに関しては、あとはそちらで調べてくれ」

「ああ。それにしてもお嬢さまから、どのような情報を得ようとしていたのだろうか?」

 

 彼女は政治の中枢に絡むようなことは一切話さず、ケスラーが様子を見に訪れた時も、仕事については聞かず、もっぱら趣味や昔の話など。フェザーンが望むような話を、卿らとしているのか? ―― ケスラーが尋ねるが、オーベルシュタインは否定する。

 

「おそらく通常の情報収集ではなく、個人の趣味や考え方など、その人となりについて知り、弱点を見つけるための盗撮であろう。それと、ジークリンデさまと、どのような関係にあるのかなど。ジークリンデさまを取り巻く人々は、内乱を境に大きく変わったからな。そういったことも調べたいのだろう」

「気分は良くないですよね」

 

 尋問されている容疑者の映像を、頬杖をつき早送りで見ながら、フェルナーが呟く。

 

「私の個人情報なんてどうでもいいんですが、結局は黒狐のところにジークリンデさまが、楽しそうにお話ししている映像が届いていたかと思うと、腹立たしいというか、殺意を覚えるというか。より一層注意を払わないと駄目ですね」

 

 拘束衣を着せられ、意味不明な言葉を呟いたかと思うと奇声を上げ、事切れた容疑者の映像を消して、フェルナーは椅子に座ったまま背伸びをした。

 

「じゃあ、私は戻りますね。そろそろファーレンハイトもジークリンデさまの所に参るころですので」

「そうだな」

 

 彼女の所へ、戻ろうと椅子から立ち上がる。

 

「お嬢さまは、どのように過ごされている?」

 

 先日、彼女の息の根を止めかけたケスラーは、体調を心配していた。

 

「元気に過ごしてますよ。仕立てたドレスをより一層、美しく着こなすために、腹筋をして体を引き締めようとしていますけれど」

「引き締める?」

 

 彼女の体は細く柔らかく、だが適度に引き締まっているので、ケスラーは思わず聞き返してしまった。

 

「仕立てたドレスは透き通るような水色で、ストラップレスのマーメイドラインドレスなんですよ」

「ああ、それは聞いたが……腹筋となにか関係があるのか?」

 

 ケスラーはそれと、彼女の腹筋がどう繋がるのかわらず”はて?”と言った表情で、聞き返す。

 

「あの手のドレスは体のラインがはっきりと出るので、胸の張りや腰のくびれが重要なんです。まあ、ジークリンデさまのお体に合わせて作っているので、問題はないのですが、完成品を着用し姿見で最終確認なさったところ”もう少し頑張れば、もっと見栄えが良くなる気がする”と言い出されましてね。私としては、バストを強調なされたらいかがですか? と提案したのですが、ジークリンデさまは腹筋をして腰回りを絞ると」

 

 ”胸は私の努力に応えてくれませんが、腹筋は確実に私の努力に応えます”……とは、二十一年自分の体と付き合ってきた彼女が導き出した「真実」であった。

 

「あれ以上、細くするおつもりなのか?」

 

 以前は54cmほどあった彼女のウエストだが、精神的に疲れ切ったため、50cmにあと少しなほど、細くなっていた。

 

 彼女は”あと0.5cmで50cm! 身長からいったら、もう少し細くないとエリザベート(オーストリア皇后)と同じじゃないけど、50cmは憧れる”と乗り気だが、採寸の際に控えていたフェルナーやキスリングが、自分の手のひらを見て腰を掴むかのような形を作り、中指と親指の間を少しだけあけ、互いの顔を見合わせ ―― 細すぎだ ―― と、首を振っていた。

 

「細くなったらなったで嬉しいらしいのですが、引き締めるのが目的だそうです。正直あんな細い腰、ますます細く見えるようにしたいって、見てるこっちが怖いくらいですよ」

 

 フェルナーは詰め物をするなりして、胸を上げたほうが良いのではないかと考えたのだが、彼女はウエストを選んだ。

 

「そうか……だが……」

「言いたいことは分かりますけどね、ケスラー中将。あまり無理はさせませんので。それでは失礼します」

 

 フェルナーは爆破された軍法会議所の建て直されるまでの仮庁舎である、内乱でリッテンハイム側についた貴族の屋敷を後にした。

 

 

 ファーレンハイトが彼女のいる軍人会館に到着したのは、フェルナーが戻ってからのこと ――

 

「戻りました……」

 

 唯一残っている入り口扉を開けて、室内に入ったファーレンハイトが見たものは、頬を押さえて膝をついているフェルナー。入ってきたファーレンハイトを鬼のような形相で睨むキスリング。フェルナーを心配する、バレエのレッスンスタイルの彼女。そして転がっているメディシンボール。

 

「大丈夫? フェルナー」

 

「平気です。大したことありませんから」

 

 顔を押さえているフェルナーと、

 

「申し訳ございません、フェルナー少将。手が滑ってしまいまして」

 

 表情と口調が合っていないキスリング。

 彼女の頭の上で、睨んだり睨まれたり。この状況から何が起こったのか、ファーレンハイトには見当はついたが、それに関してなにも触れなかった。

 

「ファーレンハイト! 無事で良かった」

 

 戻ってきたファーレンハイトに気付いた彼女が、声をかけるも、フェルナーが心配で離れられることはない。

 

「ただいま戻りました、ジークリンデさま」

「あの、フェルナーが」

「その程度でしたら、大丈夫ですよ、フェルナー」

 

 立ち上がったフェルナーが、頬から手を離し頷く。

 

「ご心配をおかけいたしました。偶にあることですから。ジークリンデさま、そろそろトレーニングを終了し、お着替えをなさるのでは?」

「そうだったわ。そこで座って待ってなさい、ファーレンハイト」

「はい」

「フェルナーも」

「はい」

 

 ファーレンハイトが帰還したら、式典について説明する予定だった彼女は、小間使いを呼び着替える為に、隣の衣装部屋として使っている部屋へと移動した。護衛のキスリングが、謝罪しながら付き従う。

 ソファーに腰を下ろした二人は、互いに別方向を向き、しばらくして床に転がっているメディシンボールに視線を落とした。

 

 ファーレンハイトがやってくる前に、何が起こったのか?

 

 彼女はキスリングに補佐してもらい、毎日腹筋を続けていた。「真面目に毎日、何百回も腹筋したら、腹筋割れるかしらー」と。彼女以外、誰も喜ばないことを言い出した。

 話を振られたキスリングは「女性の腹筋はそう簡単には割れないと思いますよ……」答えることしかできなかった。キスリング個人としては、彼女の腹筋が割れるのは、勘弁して欲しいというか、そんなこと、考えないで欲しいと言うのが本音。

 そんな彼の気持ちなど知らずに、彼女は「どうしたら、女性でも腹筋割れます?」そのように聞かれたので、「腹筋をメディシンボールで叩いたら、割れるかもしれません。実際、小官もトレーニングの際には使用しています」あくまでも一般論として答えた。

 

「じゃあ、メディシンボールを持ってきて」

「畏まりました」

 

 会館内のトレーニングルームから、メディシンボールを持ってくるように指示を出す。

 ディシンボールが運ばれて来るまでの間に、フェルナーが戻ってきて、もうじきファーレンハイトが戻ってくることを彼女に報告し、隣の部屋で別の仕事に取りかかり ―― 届けられた現物を彼女に見せた。

 キスリングは彼女は見たいだけだろうと思っていたのだが、彼女はマットに仰向けになり、膝を曲げて腕を頭の下へ置き、

 

「はい、ぶつけて」

 

 キスリングにメディシンボールで腹筋を打つように言ってきた。

 

「……」

 

 薄く細く華奢な彼女の胴体に、5kgのメディシンボールを打ちつけろと言われたキスリングは、固まったまま。

 

「最初はあんまり強くしないでね。徐々に強くしてちょうだい。変な声を上げても気にしないでね」

 

 乱暴に触れたら折れてしまいそうな彼女の腹部に、ボールをぶつけろという命令。突っ立っていても話は始まらず、説得するのも難しいので、キスリングは隣の部屋にいたフェルナーにメディシンボールをぶつけ、騒ぎを起こしてうやむやにすることにし ―― 死角から避けられないであろう速度で投げつけた。

 扉がないため、声が微かに漏れ聞こえていたので、フェルナーには彼女がしたいことは分かったが、キスリングがなにを考えているかまでは分からず。開きっぱなしのドア部分から、飛んできたメディシンボールにフェルナーは反応したものの、避けきれずに右頬に直撃 ―― 避けなければ、全面に被害が及ぶところであった。

 

「まあ、いつものジークリンデさまだな」

 

 話を聞いても驚くことはなかった。なにせ、ほぼファーレンハイトの予想通りであったからだ。

 

「いつものジークリンデさまですとも……」

 

 床に落ちていたメディシンボールを拾い上げたフェルナーは、床に向けて落とし、声を出さずに笑う。その表情は苦笑いのようであり、ひどく楽しげのようでもあった。

 

「ああ、そうでした。これだけは言っておかないと。昇進おめでとうございます」

「どうも。俺はこれ以上地位は上がらんから、今度から面倒事の度に、お前の階級が上がるだろうな。覚悟しておけ」

「それは構いませんが、その際は是非ともジークリンデさまの階級も上げてください。私はジークリンデさまより上の階級にはなりたくないので」

「それは俺も同じだ」

「諦めて明後日の式典、頑張ってください。そうだ、扉についてですが……」

 

 そこまで言ったところで、キスリングが扉から顔を出し合図を送ってきたので会話を打ち切り、着替え扇子を持った彼女が、背筋を伸ばしゆっくりと歩いてやってきた。

 

「では、改めて。よく、無事に戻ってきました、ファーレンハイト」

 

**********

 

 目立った功績を挙げていないファーレンハイトの元帥就任だが、何ら問題はなく、世間的には無風に近い状態であった。

 

 皇帝の寵姫の弟という立場で、類い希な美貌を持ち、歴代最年少で元帥に就任したラインハルトであっても、下級兵士は顔も知らず、街中で恐喝し金を要求したことがあるような世の中。

 ファーレンハイトも年齢は若いには若いが、ラインハルトより十以上も年上では話題性もなにもない。

 彼女の近くに仕えていることは門閥貴族の間では有名だが、多くの平民が知るわけもなく、また当人が”フォン”の称号を持っているので、貴族人事なのだと、彼らはすぐに理解し、思考停止した上で納得してしまった。

 末端の帝国騎士であろうが、平民とは大きな隔たりがあり ―― なにより基本誰が元帥になろうとも、下級兵士たちには関係のないこと。

 

 下級兵士たちの多くは興味を持たず、門閥貴族たちは「彼女が命ずることならば、何でも聞く」という安心から事を荒立てはしなかった。

 

 彼女の言うことを聞くのと、彼らの安寧は別物だが、門閥貴族たちはそれらを酷く混同していた。むろん、その思い込みにファーレンハイトが付き合う必要などはない。

 

 ともかく多くの者にとって「帝国貴族が元帥になる」だけの出来事であり、それは彼女のために仕組まれた式典。

 

 その式典が始まった ――

 

「ただの脇役だと分かっていても、緊張するわ」

 

 軍服に似合う髪型を模索し、後ろに一本の編み込みを作り、それをぐるりと頭に回す。自分の髪で王冠を作り、自分の頭上を飾る ―― 黒い王冠は、彼女にとてもよく似合っていた。

 

「えー。ジークリンデさま、緊張なさるんですか?」

 

 彼女がラインハルトに驚いてふらついたら、すぐに助けに迎えるよう、フェルナーは彼女と共に玉座の袖に控えていた。

 

「しますよ! すごい緊張するわよ」

 

 暗い色合いの軍服と、オレンジがかった赤い口紅は、彼女の雪のように白い肌をより一層際立たせる。

 

「陛下の即位やフェザーンの百周年記念の式典に比べたら、大したことないですよ」

「それはそうですけれど」

「ジークリンデさま」

「なに? フェルナー」

「その髪型、似合ってますよ」

「そう?」

 

 式典の開始を告げるラッパが鳴り響き、彼女は口を閉じ、フェルナーは苦笑を浮かべ「欺していて申し訳ございません」の思いを込めて、深々と頭を下げた。

 それを知らない彼女は玉座を囲む重厚な赤いカーテンに身を隠すようにして、その時を待つ。

 

―― 陛下が失敗しなければいいわー

 

 小さなマントを羽織ったカザリンが、ちまちまと歩き、付き添っているカタリナの手により玉座に就く。

 証書を読み上げる低いロイエンタールの声が黒真珠の間に響く。

 それを聞き、彼女は従者から元帥杖が乗った台を受け取り、その時を待つ。

 リハーサル通りに深みのある深紅のカーテンから、背筋を伸ばし、貴婦人の歩みでカザリンの元を目指したのだが、

 

―― え……ライン……ハルト……

 

 彼女の視界に飛び込んできたのは、ラインハルト。

 まさに王冠を思わせる金髪と、それを際立たせる黒いマント、大綬を身につけているラインハルトに、彼女は驚いたが、ここで驚きをあらわにするわけにはいかない。

 元帥杖を乗せている台を持つ手に力を込め、何事もなかったかのようにカザリンへと近づき、元帥杖を差し出す。

 カザリンは慣れた手つきで元帥杖を持ち ―― だが手のひらが小さいので、隣に控えていたカタリナが補佐し、無事元帥杖はファーレンハイトの手に渡った。

 元帥杖を渡した彼女は、歩調を乱さず裏へと戻り、従者に台を手渡してから、フェルナーに視線を向ける。

 

「フェルナー」

 

 彼女もそれほど馬鹿ではない。内乱が終わって帰ってきた、その足で式典に参加したなどという戯れ言はきかない。

 

「申し訳ございません」

 

 困惑の滲む彼女の声に、再度フェルナーが頭を下げた。

 

「事情は明日聞きます。今日一日は、予定通りに過ごします……」

 

 こうして彼女はラインハルトと再会した ――

 


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