黒絹の皇妃   作:朱緒

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第153話

 彼女は不吉な勘違いをしたことをファーレンハイトに謝罪し、それから改めて昇進を祝い、就任を祝うパーティーは自分に任せて欲しいと頼み、彼女が取り仕切ることになった。

 ただ当日までラインハルトがいることを隠すので、招待状の発送などはオーベルシュタインが担当することになる。

 

 原作のファーレンハイトが元帥就任と葬儀がセットだったことを考えれば、生きて元帥になったことがとても嬉しく、彼女はおおいに張り切った。

 

「どの布がいいと思う? カタリナ」

 

 カタリナを招いてマント用の布地を吟味したり ―― 元帥ともなると、軍の支給品ではなく、実費で購入しなくてはならないものが多くなる。

 マントもその一つで、使用する色を軍務省に申請する必要はあるが、布地は自分で用意しなくてはならない。

 軍人が軍の金だけで生活できるのは、地位が低いときだけ。

 相応の地位となれば、出費も増えてゆく。

 

「そうねえ。軍人だから、丈夫さも必要だから、このシルクは駄目じゃないかしら」

 

 ファーレンハイトの使用申請は第二希望の薄めの水色となった。

 第一申請は黒だったのだが、ラインハルトが先に変更申請を出し、許可されていたため、第二希望の色に決まった。

 

「肌触りがとてもいいのだけれど、残念です」

 

 彼女はオーディンやフェザーンの業者から、高価な水色の布を買い集め ―― どれが良いかしら? と。

 どの布も彼女が身につけるには相応しいが、軍人のマントにするには適切ではないものが、いくつか混じっている。

 

「ジークリンデ。あなたが、これでドレスを仕立てればいいじゃない」

「そうね……悪くはないかも」

 

 彼女はパーティーの準備運営責任者として、また、ファーレンハイトのことを祝うために会場入りする。

 最近はドレスを新調する気持ちになれなかったのだが、良い機会だと、思い切って鮮やかな色や、軽やかな色合いの、装飾過多気味なドレスを幾つか新調することにした。

 

「どんなデザインにする? この布地ならマーメイドラインのドレスがいいんじゃない? 膝下からは真珠とダイヤモンドを散りばめたレースで」

「それはいいですね。でもレースが多すぎると、主役のファーレンハイトを引き立てられなくなるので」

「なに言ってるのよ、ジークリンデ。あれは、あなたが主役になったほうが喜ぶ男よ。これでもか! ってほどに、着飾りなさいよ」

「そうは言っても……あ、その前にファーレンハイトのマントに使う布地を選ばないと。今日中に仕立てに出さないと、式典に間に合わないと困るので」

「そうねえ。ファーレンハイトがこの場にいたら、この中で一番安い布地を選ぶと思うわ。だって、あれ、貧乏が染みついちゃってるから、どうしても高いの選べないじゃない」

 

 酷い言いようのカタリナだが、

 

「それはそうですが……そうですけれど……」

 

 これだけは彼女も否定できなかった。

 

「この中で一番安いのか、最も高額なのかの、どちらかにしたら?」

 

 カタリナはそう言い、指触りで値段を判断した二種類を指さす。

 それは当人が言った通り、もっとも値段の差のある二つであった。

 

「そうですね。高額なのにしましょう。安い方は、ファーレンハイトが少し無理すると、仕立てられますから」

 

 元帥ともなれば歳出も増えるだろうから、マントは彼の手が出ない素材にし、彼女が新調しようと考えた。

 

「あら? こっちの布は元帥閣下の給与では無理なの」

 

 カタリナは懐具合の問題ではなく、染みついた習性から安い方を選ぶのだとばかり思っており、彼女の言葉を聞き、少々つりあがっている気の強そうな瞳を大きく見開き質問してきた。

 

「おそらく。元帥って、そんなに収入ないのよ、カタリナ」

 

 貴族の子女たるもの、値段を気にすることは下品なことであり、本物の貴族は値段など気にもしない ―― 彼女も布の正確な値段は知らないが、カタリナと同じく触れば、どれが高価なのかは見当が付き、大体どの程度の値段なのかも推測ができた。

 推測ができるようになったのは、女官長の仕事をしていたため。

 側室たちのドレスが寵姫のドレスよりも良い布で仕立てると問題になるので、当然ランクを落としていた。だが貴婦人の仕事ゆえ、値段は教えてもらえないので、指先が頼り。むろん彼女はこれを間違ったことはない。

 普通の女官長であれば、歳出などは気にしないが、彼女はリヒテンラーデ公に頼み、歳出に軽く目を通し、大まかな数字を覚え、一人無言で暗算し、側室たちのドレス費用を、毎回確認していた。

 その経験から布の質と値段が、頭の中で結びつくようになったのだ。

 

「年収四億帝国マルクくらい?」

 

 なにかを買うとき値段を気にしないほうが正しく、また給与など門閥貴族にとっては微々たるものであり、気にはしない。

 

「まさか。なぜか私がまだ受け取りつづけている元帥の未亡人の遺族年金だって、五十万帝国マルクほどよ。だから元帥の給与は多くても四倍の、二百万帝国マルクくらいじゃないかしら」

 

 彼女は再婚していることもあり、いつ返金を求められても良いように、遺族年金には一切手を付けてはいない。

 

「給与って一ヶ月支払いだったわね。ということは、一年で……いくら?」

 

 カタリナは彼女と違い、暗算などはからきし駄目なので、二百万帝国マルクの給与を一年間受け取ると、総額で幾らになるのか、簡単に出てこない。

 

「カタリナ、一年で二百万帝国マルクくらいですよ」

「一年で二百万帝国マルク? ……なにも買えないんじゃない」

 

 ファーレンハイトを元帥にした張本人のカタリナだが、元帥という役職がどのようなものかは、ほとんど知らない。知っているのは軍人の階級としては最上位で、偉そうなマントを羽織り、偉そうな金の房(肩章のこと)を装着し、式典に並ぶ際に元帥杖を持っているということくらい。

 彼らの給与がどうだとか、どの程度の部下を動かすことができるのかなどは、興味の範疇外。

 

「元帥は貴族ですから、領地収入が主で給与で、生活する人はほとんどいないらしいわ。元帥位は給与よりも名誉だそうよ」

「あーそれは、ファーレンハイトに援助してあげないとね。あれも、今回は黙って援助を受けるんじゃない」

 

 彼女とファーレンハイトが喧嘩した経緯をいくつか聞いているカタリナは、笑いながらそう言う。彼女は「恥ずかしいことを思い出させないでくださいよ」とばかりに、口元を緑色の扇子で隠し照れ笑いを隠す。

 

「度が過ぎないよう、注意しつつ、元帥の威厳を損なわないように身の回りのことには、気にかけるつもりよ」

「それがいいわ」

 

 そんな話をし、布を選び終える。

 

「失敗を笑って欲しかったんですけれど”ご心配をおかけいたしました”って、詫びられてしまって」

 

 その後、彼女とカタリナは金枠の細工が見事な革張りのソファーに並んで座り、クリームをたっぷりと入れたコーヒーを飲み ―― 彼女は”元帥になった”の意味を勘違いしたこと「笑ってちょうだい」と言った口調で語る。

 それを聞いた白磁のコーヒーカップにボルドーの口紅を塗った唇をつけていたカタリナが、肩を軽く震わせて笑った。

 

「そこに突っ込んでこないところが、あの男の駄目なところよね」

 

 控えているフェルナーは、表情を変えずに黙っている。

 

「駄目といいますか……私の失態なので、仕方ないのですけれど」

 

 本来、この時間の護衛はキスリングとユンゲルスだったのだが、二人がどうしても調べたいことがあると言い ―― フェルナーが代わりに受け持っていた。

 別に二人とも、カタリナから逃げたわけではない。まったくその意思がなかったかと言われると、彼らも正直に言いがたいところではあるが。

 

「まあね。でもジークリンデ。例え戦死して昇進したとしても、生死が分からないよりは、ずっとマシだと思わない?」

 

 半分コーヒーが残っているカップを、テーブルのソーサーに置き、カタリナは彼女を見つめた。

 

「生死が分からないのは、たしかに辛いですね」

「そうよ」

「カタリナの意見に概ね同意ですけれど、私は今度から戦死したと聞いても、信じないことにしたの」

「どういうこと? ジークリンデ」

「ファーレンハイトが戦死するとしたら、宇宙で消えてしまうでしょう。確認すべき遺体もなにもない。だから戦死扱いになっているけれど、きっとどこかで生きていて、事情があって帰ってこられないのだと……」

「それ辛くない?」

「辛いけれど、そう思いたいの。宇宙のどこか、私の知らないところで幸せに生きていると思いたいの」

 

 きっと戦死している。生きていたら帰ってきてくれる ―― でも、生きているかもしれない。それは歩みを止めてしまう思考だが、彼女は未来を欲してはいないので、そういう生き方を選ぶこともできる。

 

「俘虜っていうの? 半年くらい前に、大勢帰ってきたあれになったって、心配はしないの?」

「ファーレンハイトの性格上、俘虜になるよりは、特攻しちゃうかなって」

「特攻って?」

「玉砕的な」

「玉砕って?」

「俘虜になるくらいなら、死ぬと分かっていても最後まで応戦し続ける感じかしら」

「あーそうよね。あの男、そういう気質だものねえ。穏やかに見せかけて短気だわ、軍人気質っていうの? すっごい怖いものね。ファーレンハイトなら、そう思うのもありね」

「カタリナ?」

 

 ”ファーレンハイトなら”と言う部分に彼女は違和感を覚え、今度は彼女がカタリナを見つめる。

 

「私がまだグーデリアン男爵令嬢だったころ、婚約者がいたの」

 

 控えていたフェルナーは、まさかその男の話題がここで登るとは思ってもおらず、微かに視線が泳いだ。

 カタリナの昔の婚約者。その名はトリスタン・フォン・ベンドリング。

 

「男爵家の三男。似たような家柄の男でね、私より二つ年上。交流のある男爵家だったから、子供のころ何度か会ったことがあるの」

「そうでしたか」

 

 側室時代に昔の婚約者の話をするのは相応しくないということもあるが、彼女とカタリナが出会ってすぐに、トリスタンは”亡き人”となった。

 

「その婚約も、私が公爵家の養女となると同時に解消。その後も細々と交流は続けたんだけど、さすがに入内したら手紙のやり取りも駄目だから、こっちから連絡を絶って……すぐだったわ、トリスタンが交戦中行方不明になったって」

「トリスタン? カタリナの婚約者の名前?」

「ええ。フリッツがわざわざ教えにきてくれたのよ。側室になった私には必要のないことなのにあの馬鹿ったら。フリッツはあの通り馬鹿で馬鹿で正直者だから”戦死したとはっきりと言えない”とか”戦場での行方不明は戦死扱いになる”とか”もしかしたら生きているかもしれない”とか、あれで気を使ってるつもりなんだから、本当に馬鹿よね。もう行方不明になって六年近く経ってるし、この前の大規模な俘虜の帰還の時にも帰ってこなかったから、まあ死んでるんでしょうけれど……思い出すだけで……」

「カタリナ……」

「本当に腹立つのよね! 死んだのなら死んだ痕跡ぐらい残しておきなさいっての! そのくらいは、男爵家の三男としての意地を見せて欲しかったわ」

「カタリナ……」

「もちろん遺体もなにもないから、ジークリンデのように思いたいところなんだけど、惜しむらくは、トリスタンって軍人としてはへなちょこなのよね。大学を出て軍官僚採用されたぼんぼんで。だからファーレンハイトみたいに、しぶとく生き延びて幸せになっているとか、考え辛いのよねえ」

 

 話を聞いた彼女は、勢いよく喋っているカタリナを落ち込ませぬよう、色々な記憶を駆使して話を続ける。

 

「でも、帰還できなかった俘虜はまだ大勢いますから、まだ望みはあると思いますよ。実家の執事だったオルトヴィーンの例ですけれど……」

 

 彼女はケーフェンヒラーの人生をかいつまんで説明する。

 

「こんな感じで半世紀近く、自らの意思で収容所に残っていた人もいますから」

「偏屈な爺さんね。トリスタンにそこまでの根性があるとは思えないけれど、俘虜が収容所の仕事をしているのなら、重宝がられてるかもしれないわね。あれで結構頭は良かったし」

「ところで、なに男爵家の方なの?」

「ベンドリング男爵家の三男」

 

 記憶にあやふやなところが多い彼女だが、その男爵家の名は、ジークリンデとして生を受けるより以前から知っていた。

 

「その偏屈な爺さんは、奥さんへの嫌がらせという目的があったけれども、トリスタンにはそんな困ったことはなかったはず。なにより、何をとち狂って、前線勤務ってのを希望したのか? 士官学校出でもない限り、役に立つわけないじゃない。そして初め遠出して生死不明って、迷惑にも程があると思わない?」

「カタリナ。もしかしたら、彼は諸事情で同め……叛徒の所に逃げたのかもしれません」

 

 ”お姫さま、なんで、そこに到達してしまうのですか。もしかして、ご存じだとか?”

 フェルナーは彼女がベンドリングの亡命の可能性を語ったところで、そんな推測もしたが、彼女は単純にその男がマルガレータと共に同盟に亡命したことを知っていただけ。

 

「叛徒のことろに? 亡命とかいうのかしら?」

「ええ。理由などは分かりませんが、貴族の子弟らしく後方勤務だったことでしょうから、そこで知ってはいけない秘密を知ってしまって……というのは、どうかしら?」

 

 カタリナは彼女の言葉に「気を使ってくれてありがとう」だったが、脇で聞いていたフェルナーは、本当にばれているのではないかと ―― だが本当に知らず、当てずっぽうの場合は下手に聞くとやぶ蛇になるので、言い出すこともできなかった。

 

 彼女が所要で席を外したとき、フェルナーはカタリナに、ベンドリングについて、もう一度調べましょうかと申し出た。

 するとカタリナはフェルナーの耳朶を思いっきり引っ張り、

 

「知りたかったら、ずっと昔に調べてるわよ。きっと私もジークリンデが言ったように、遠くどこかで生きていて欲しいと願っているのよ。そのくらい、分かりなさいよ」

「申し訳ございません」

 

 手袋越しに爪を立ててから耳朶を離した。

 

「それと、言っておくけど、好きとかそういうのじゃないから。なんていうの、耳が取れたぬいぐるみ? 違うわ、からかい甲斐のある男もちょっと違うか……生きてたら、取り潰しになったベンドリング男爵位を復古させるのに協力くらいはしてやってもいいかしら? って思うくらい。もちろん、部下になるのが条件だけどね」

「それでは帰ってくるはずもありませんね、カタリナさま」

「あなたの、そういう所大好きよ、フェルナー」

 

 遠い異国の地でベンドリングが、正体知れぬなにかに怖気を感じていたかどうかは不明である。

 

**********

 

「派手に大量注文しちゃおうかしら」

「それが宜しいかと。お好きなだけ、お好きなように」

 

 フェルナーの言葉に後押しされ、半年ぶりに華やかなドレスを大量注文し、フライリヒラート伯爵家の本邸から、宝飾品を運ばせるなどして、自分の準備を着々と整える。

 もちろん就任を祝うためのパーティーの準備だけではなく、元帥杖をカザリンの元へ運ぶための格好 ―― 中将の軍服も新調し、美容師と共に式典用の髪型を模索する。

 彼女は貴婦人としての格好は、吟味を重ね、回数も多くこなしているので完璧だが、軍服を着用しての式典は、これが二度目なので、まだしっくりと来るものがなかった。

 もともと軍人としての職務は長くは続かないだろうと考えていたことも、理由の一つ。だが侍従武官長の職は、まだしばらく解かれそうにないので、これが良い機会だと、本腰を入れて「軍服に似合うメイクと髪型」を捜すことにした。

 

「陛下、お上手ですわ」

「やー」

 

 それと今回の元帥就任式は、カザリンの初の皇帝としての公務となる。

 玉座に座り、彼女が差し出した元帥杖を、血色悪く睫が長い貧乏人にくれてやるだけの仕事 ―― 後半はともかく、式自体は短く簡単なので、カザリンの初公務としては最適であった。

 

「陛下。もう一度、どうです?」

 

 カタリナに練習を勧められると、

 

「やー」

 

 カザリンは彼女と一緒に居られるので、望むところだと、玉座に座り小さい足をばたつかせながら、彼女が元帥杖を持って近づいて来るのを待つ。

 

「陛下、足をばたばたさせては、駄目ですよ」

 

 この先いつまで座り続けることができるのか不明だが、大きな玉座に座り笑っているカザリンの姿は可愛らしいものであった。


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