山荘での生活は世俗の煩わしさから隔絶され、心に平穏をもたらすが、誰でもできるわけではない。
周りに人がいないというのは、広大な土地を所持しているからこそ。
平穏に過ごせるのは、周囲に厳重な警備が敷かれているから。
街へ出ることなく過ごすということは、生活に必要なものは、部下たちが用意するので、出向く必要はない。
刺繍をしたいと言えば材料を見立てて運び、編み物をしたいと言った時も同じ。
茶葉を所望すれば高級品が、菓子を食べたいと言えば取り寄せ、食事は逸品。
書き出してみれば、首都にいた頃の彼女の生活と何ら変わらない ―― 要は質素に見えるだけで、それは見かけだけで、なんら慎ましやかではない。
街中で暮らし、休みの度に遊びに出ている者たちのほうが、よほど慎ましやかである。
彼女もそのことは弁えているので、長く滞在するつもりはなく、額の青あざが治るまでと期限を決め、邸を整えておくように伝えて、あとはのんびりと過ごすことに。
―― こんなにのんびりしていて、いいのかしら。……私に出来ることなんて、何もありませんけれど
彼女自身はのんびりとしていたが、周囲の者たちは、大変なことがそれなりにあった。
たとえばキスリング ――
彼女は体力の回復を図るべく、キスリングにトレーニングメニューを考えてと頼んだ。頼まれた方は、彼女の帽子で飾られている頭上から、ドレスに隠れているつま先までを見て、頭を抱える。
「ジークリンデさまに、トレーニングって」
彼女としては、テニススクールで教えていたので、それらしいメニューを組めるのではという軽い考えでの依頼だったのだが、キスリングはそのような仕事はしていなかった。
「メニューとかは、もっと熟練の人が組んでまして」
キスリングがアルバイトをしていたのは、士官学校入学前まで。年齢で言えば十五歳の中頃。なにより、彼はそれほど一生懸命テニスを教えていたわけではない。
正確に言えば、スクールの方でも、キスリングに教えることを望んでいたのではなく ――
優雅にテニススクールに通っているのは、裕福な人が多く、裕福な人は年嵩であることが多い。そんな未亡人やら夫はいるが身をもてあましているご婦人などが、テニススクールの若いインストラクターに習うという名目で、彼らの体を触る。
若くて引き締まった体を、これでもかというほど触る。容赦なく触る。ラケットを握っているはずの、大きな宝石が目を引く指輪がはめられている手が、内ももをまさぐるなど珍しいことでもなんでもない。
そんな触られるのが嫌だというと、辞めさせられてしまう。
なにせ客あってのテニススクールであり、寄付してくれる上客の気分を害するようなことをしてはいけないのだ。
”そういった店に行けば”と言われそうだが、帝国には女性向けの性サービスなど存在しないし、多くの女性は”そういった仕事をしている者”よりも、そうではない人を好む ―― この辺りは男性も女性も変わらないと言えよう。
若くて綺麗に筋肉が付き、頭脳も明晰であったキスリングは、それは人気があった。特に彼は、触られようが鉄の意志で無視し、何事もないかにようにコーチを続けるつれない姿勢が気に入られていた。
キスリングとしては、こういう仕事だと理解していたことと、触ってくる相手に何を言っていいのか分からなかったので、黙っていただけなのだが。
「それっぽいのでいいのよ。腹筋何回とか、スクワット何回を何セットとか。付き合ってくれると嬉しいわ」
そんな事情を知らない彼女は、普通にテニススクールのインストラクターをしていたのだろうと思っている。
「ドレスでトレーニングなさるのですか?」
「バレエ用のレオタードで、どうかしら?」
「それでしたら」
「じゃあ着替えてきます。フェルナー、シニヨンお願い。あとはレオタードも」
「はいはい。すぐに用意いたします」
彼女は部屋に戻り、フェルナーは彼女の衣類を積んでいる車両から、数着のレオタードとその他の小物を取り出し、彼女の元へと急いだ。
三十分ほどして、着替えた彼女が現れた。
「待たせましたね」
今回彼女が着用したレオタードは、ラグランスリーブの半袖タイプ。ベロア生地で色はサックスブルー。それに長袖タイプのカシュクールを羽織っている。そしてチュールを重ねたロングのスカートを身につけ、バレエ特有の白っぽいタイツで脚を覆い隠し、シャンパン色のバレエシューズを履いている。
「いいえ」
髪はシニヨンネットとUピンでまとめられ、後れ毛も綺麗になでつけられ、彼女の小さな頭部が強調される。小さいのに強調というのもおかしいが、普段は顔そのものに注目されがちだが、なんの飾りもない、ただまとめただけの髪型は、彼女の顔だけではなく小さく形のよい頭部まで際立たせた。
それでここまでして何をしたかというと、キスリングに足首を押さえてもらっての腹筋。
「1,2,3,4」
細い足首を押さえ彼女の腹筋の回数を数えているキスリングだが、彼女の華奢な足に、自身が少しでも力を込めると、触れている甲の骨が折れてしまいそうで気が気ではなかった。
「キスリング」
「はい」
「腹筋、どこか駄目でしたか?」
キスリングがカウントしなくなったので、どこか悪いところでもあるのかと、なにかを悩んでいるかのようにも見えるキスリングに声をかけた。
「え、あ。いいえ」
起き上がった彼女の顔が間近にあり、キスリングは驚くよりも顔に血が集まり、耳まで熱くなる。
「顔が赤いですけれども、大丈夫」
「お気になさらずに、続けてください」
「そう。じゃあ」
彼女に触れるのは嫌ではないが、手に汗が滲むほど緊張から解放されたいと ―― フェルナーに変わって欲しいと願うも、当のフェルナーは山荘のカーテンを取り外し、新しいものに替えている最中。
リビングにマットを敷き、腹筋している彼女と、力を込めすぎないよう、全身が緊張しているキスリングを横目に、脚立に登りカーテンを取り替える。
「ジークリンデさま、頑張ってくださいね」
「ええ」
我関せずとばかりに声援を送っていた。
**********
常識とは時代や世相で違うもの。
キスリングは「皇帝たるもの愛妾を大勢抱えるのは当然」という、原作のラインハルト陣営のなかでは珍しい、一般的な帝国の常識を持った人物であった。
皇帝というものは、そういうものだと教えられ、多方面から知識を取り入れた彼にしてみれば、ラインハルトの「皇帝に姉上が攫われた」という認識には、いささかどころではない疑問を持ったに違いない。
無論そのような疑問を持ったとしても、語ったら破滅なので ―― 賢いキスリングは語ることはなかったであろう。
「え……」
別の日、彼女はキスリングを連れて散歩をし、斜面に腰を下ろし、色々と彼について色々と聞いた。
フェルナーやファーレンハイトにも聞いたように、その人となりを知るために。
ただ聞かせてではなく、今までの会話から話題を見つけ出し、上手く聞きだそうと。そこでテニススクールについて聞かせてもらったのだが、彼は皇帝は愛妾を多数持つのが当たり前であるという認識と共に、裕福な未亡人が男を買うのもごく当たり前だと思っているので、未亡人が触ってくるのは、常識の範囲内だと考えて、あまり気にせずに彼女に語った。
もちろん、語れないようなどぎつい部分はカットした……つもりだったのだが、彼女は絶句した。
キスリングが語った女性たちの態度はあまり良い物ではないが、それ以上に、自分も似たようなものではないかと。そう感じ、羞恥心にいてもたってもいられなくなり、
「どうなさいました?」
「え、あの……なんか、ごめんなさい!」
立ち上がって駆け出そうとした ―― 斜面だったため、ドレスの裾を踏んで、体勢を崩しひっくり返ることに。
「……」
そのまま倒れそうになったので、彼女は思わず目を閉じた。
実際そのまま倒れて、緑に覆われた斜面を転がったものの、二回転ほどで止まり、
「大丈夫ですか? ジークリンデさま」
声をかけられ目を開けると、自分がキスリングの腕の中にいることに気が付いた。
「え、ええ」
キスリングは立ち上がって倒れそうになった彼女を抱えて、無理にバランスを保とうとはせず、一度倒れてから体勢を立て直した。
「なにかありましたか? 虫とかいました?」
普通の者なら、そのまま一緒に転がっていくところだが、身体能力の優れているキスリングは、転がることなく彼女を止めた。
「あの……ええ、手元に虫いたので、驚いて」
キスリングがまったく気にしていないので、恥ずかしくなった自分に恥ずかしくなり、言い出せぬまま、彼女は回されている腕にしがみつく。
「どうなさいました?」
腕に押しつけられる胸の柔らかな感触に、幸福を感じつつキスリングが尋ねる。触れられると自分にも該当してしまいそうな、恥ずかしい話題から遠ざかったので、そのまま遠ざけようと、別の話題を持ち欠けた。
「この斜面、転がれないかしら?」
「……ジークリンデさまが、お一人で転がるのですか?」
―― もう少し、気の利いたことを言えないのですか! 私ってばもう! 話題転換が無理矢理過ぎます
”なにを喋ってるのだろう”と自己嫌悪しながら、彼女は大きな瞳でまっすぐキスリングを見つめた。
彼女が見つめたのには、深い意味はないのだが、その澄んだ翡翠の瞳で見つめられた側は、頼みを断れるはずもない。
「お一人では危険ですから……小官と一緒でしたら」
彼女に怪我をさせぬよう、望みを叶えようと ――
「え、あの……じゃあ、お願いしてもいいかしら」
彼女はその真摯な好意を拒否することはなく、キスリングに抱きしめられて斜面を転がった。
―― ごめんなさい、キスリング。変なことさせちゃって……きっと、あとでフェルナーに”なにしてたんですか”って言われるのよー。あ、でも楽しいかもー
**********
『帰ってくるのね。分かったわ、使者を立てるから。大丈夫、大丈夫』
彼女から戻る意思のあることを伝えられたカタリナは、皇帝の使者を派遣した ――
山荘は人里離れており、ここまで足を運んでもらうのは悪いということと、身の回りの世話を専門にする者を連れてきていない。
そのため使者を出迎えるに相応しい格好ができないので、彼女は近くのホテルで使者と会うことにした。
前日からホテルに泊まり、呼び寄せた小間使いに身支度を整えさせ、使者の到着を待った。
―― わざわざ足を運んでもらって、悪いことを……
「ジークリンデさま、使者の方が到着しました」
「そうですか」
フェルナーからの報告を受け、声をかけずとも無言で付き従うキスリングを伴い、皇帝の使者を出迎えるために、玄関口へと急いだ。
彼女は普通の役人がやってくるとばかり思っていたのだが、訪れたのは大柄すぎるほど大柄な体躯の持ち主。
「オフレッサー上級大将」
山間のホテルにあまり似つかわしくない、戦場の勇者の登場に、彼女もかなり驚いた ―― もちろん、そんな素振りは一切見せず、使者を出迎え、ロビーで歓談をする。
オフレッサーは彼女の父が亡くなったことに対するお悔やみと、皇帝の近況を語り、
「いつ戻ってきても、大丈夫ですぞ」
「ありがとうございます」
危険はないと彼女に告げた。
彼女にラインハルトの帰宅を告げないよう頼まれたので、それに応えたが、オフレッサーの内心は、帰還を告げるべきではないかという思いがあった。
「陛下も出仕を楽しみに待っておられる。早々に帰られよ」
「光栄でございます」
だが上手く彼女に事情を説明する自信もなければ、オフレッサーの言葉では彼女が信じるとは到底思えず ―― 彼女がフェルナーに全幅の信頼を寄せているのは、故人となった彼女の父から、狩猟の際に聞いていたので、ここでは引かざるを得なかった。
椅子から立ち上がったオフレッサー、彼女も軽やかに、耳に届くか届かないか程度の小さな衣擦れの音を纏いながら立ち上がる。
「わざわざ見送らんでも」
身分で言えば彼女はオフレッサーを見送る必要はないが、
「オフレッサーを見送るのではありません。陛下の使者をお見送りするのです」
今回は皇帝の使者ということもあり、彼女は見送りますと静々と後をついてゆく。そしてオフレッサーの乗った地上車が見えなくなるまで頭を下げて見送り、頭をゆっくりと上げた。
「フェルナー。山荘には戻らず、今日ホテルに泊まって、明日帰る……出来る?」
「もちろんです。私は山荘の後始末をしてきますので、ジークリンデさまは、ホテルでお待ちください」
**********
翌日、彼女は仮住居へ ――
「軍人会館ですか」
彼女がしばしの間、住むことになったのは、軍関係者の為の施設の一つ、軍人会館。
軍関係の式典が行われる建物で、大小合わせて五つのホール、その他に食堂。あとは収容人員百名ほどの宿泊施設がある。
「はい。新無憂宮からも近いですし、なにより軍人会館ですから、軍人のパウルさんの立ち入りは制限されませんからご安心ください」
「それは良かったわ」
フェルナーからの説明を聞き、彼女は笑顔になった ―― この軍人会館と、ラインハルトの元帥府の間には新無憂宮がある。
あの巨大な建物が間を遮っている形となっており、そのため、会おうという意思を持ち、予定を聞き、時間調整してやってこない限り会うことは出来ない。
偶然や手違いなどないように考慮した結果、この建物が選ばれたのだ。
軍人会館は当然ながらバロック建築で、見た目は宮殿を思わせる。
「お部屋は四階にしましたよ、ジークリンデさま」
宿泊施設のある棟は四階建て。帝国の建物であり、軍人が使用する施設のため、エレベーターなどの移動設備はないので、通常は彼女ほどの地位の者ならば、一階を使用するところだが、
「嬉しい!」
「喜んでくださると思っておりました」
彼女がフェザーンでホテルの高層階を喜んでいたので、フェルナーは多少手間でも高い方を用意するように伝えたのだ。
光沢あるペールオレンジ生地に銀色のレースをふんだんに使ったAラインドレスを、白い手袋をはめた手で軽く持ち上げ、華奢なヒールの靴で軽快に駆け上がる。
大きな階段なので護衛のキスリングが真横を、そしてフェルナーは万が一、彼女が間違って足を滑らせて落ちても受け止められるようにと後ろを。
準備がすっかりと整った部屋に到着した彼女は、物珍しげに、あちらこちらの部屋を見てまわる。その後ろをついて歩きながら、フェルナーが部屋の説明を。
「お食事は一階の食堂でも、この部屋でも構いません」
「運んできてくれるの?」
彼女が滞在する部屋だが、一階が有力者で階数が上がれば上がるほど、地位などが落ちるため一室が狭いので、壁をぶち抜き、両側の部屋に通じる扉を急遽設置し ―― 三室で一室として彼女を迎え入れていた。
「はい。たかが四階ですので、すぐに運べます。なあ、リュッケ」
「はい! 小官が運ばせていだたきます」
調理室は一階で、通常でも部屋で朝食を取りたいと言った場合は、召使いたちが部屋まで運ぶので、なんら問題はない。
このような形で、事件以前の生活に近い日々を彼女は過ごすことになった。