リヒテンラーデ侯邸へと戻った彼女とファーレンハイトは、黒絹から脱出できなかったことについては、互いに触れはしなかった。
「……」
「……」
彼女としては触れて欲しくはなかったのは当然だが、ある考えがまとまり初めていた。
運転席から降り後部座席のドアを開けたファーレンハイトに、根本的なことを尋ねる。
「ファーレンハイト」
「はい」
「地上車について聞きたいのですが」
彼女は地上車の基本的な性能については当然知らない。
ずっと運転手付きの車で、乗るのはいつも後部座席。仕切りがあり、運転手の後ろ姿すら見ることはない。
地上車も分からなければ、標識についても分からない。
彼女が窓から見ている範囲では標識が見当たらない ―― 後部座席なので見えないだけという訳でもなさそうだった。
「なんなりと」
ファーレンハイトは彼女の足元に跪き、顔をまっすぐ向けて答える準備は整ったと深く静かな声で返事をする。
「地上車の安全装置について、具体的に教えなさい」
「具体的に言いますと、まずは……よろしければ運転席へどうぞ」
立ち上がり差し伸べられた手に案内され、彼女は運転席へと移動した。
そして安全装置について様々な機能を、全くしらない彼女にも分かりやすく説明した。
安全装置が稼働している場合、人を轢くことはない ―― これは彼女も以前、ブラウンシュヴァイク邸で話合っている時に聞いたので覚えていた。艦隊を自動制御する際に使われるものと同じで精度は高く、雨で視界が悪い時や、周囲に明かりがない夜道の際に重宝されるものである。
「運転手というよりは、オペレーターと言ったほうが正しいでしょう。そのオペレーターが酔ったりしていると困るので、運転手に対しての身体スキャンがありまして、それで不可とされますと車は発車しません」
心臓や呼吸の停止、極端な血圧の上昇、または下降、あるいは飲酒が確認された場合などが確認された場合、地上車は速やかに一時停止をする。飲酒運転の気配がある場合は動かないのだが ―― 安全装置を切ってしまえば動かすことは可能。
「標識といいまして、地上車は公道を走る際はこれらに従います。これが一時停止、これが一方通行」
フロント面に映し出された、彼女が初めて見る帝国の標識。
「見たことないです」
「車を運転なされない男爵夫人が見る機会はないでしょう。これは車のフロントガラスに映し出されるものです。地上車用の信号もここに」
「歩行者用の信号はあるのですね?」
彼女は外出はしたことはあるが、目的地の前で地上車から降りる生活だったため、歩行者用の信号を目にする機会はなかった。
「……」
「どうしました? ファーレンハイト」
出歩いたことなどない貴族令嬢の口から「歩行者用の信号」などという言葉が出てきて、ファーレンハイトは思わず声が詰まった。
「失礼いたしました。歩行者用の信号はあります。帝都の外観を重視するので、数が極めて少ないのが難点ですが」
「そうですか」
―― 進化したカーナビが全て賄っている状態ってこと……交通事故があったということは、安全装置は切られていた。安全装置を切って暴走する貴族は、腹立たしいことだが珍しくはない。ということは……
わざわざ安全装置を切って運転する理由。そして隠さなくてはならない、だが、隠しきれなかった理由。
「……」
ばらばらになっている事象を繋げるもの。
「どうなさいました? 男爵夫人」
「ファーレンハイト。色覚に問題のある者が地上車を運転することはできますか?」
ゴールデンバウム王朝の欠点の一つである先天性疾患に関する差別。それは貴族社会において隠さなくてはならないもの。
「安全装置を切った場合のみ。このフロントガラスに映し出される標識は、運転適性視力を所持している者以外には、はっきりと見えない作りになっております」
初めて触れる帝国の科学力 ―― 普段は機械から遠ざかったところで生活しているので、あまりかつての時代との差を感じなかった彼女は、ファーレンハイトの説明に未来にいることを実感した。同時に銀河帝国は、かの悪法が有名無実化しつつあるとは言え、やはり根本では弱者を排する制度であることも。
―― これほどの科学力があったら……少々の問題くらいフォローできるでしょう
「先天的な理由により運転を許されない者が運転しようとする場合、安全装置は切らなくてはならないというわけですね」
「はい……男爵夫人」
「事故をもみ消させようとしたら、逆に弱味を握られたとは考えられないでしょうか?」
F子爵家の弱味を握った「誰か」
ファーレンハイトは事故書類に書かれていたサインと、覚えていることを吐き出すように語る。
「寵姫の母君と運転手の死亡報告書に、同じ人物のサインがありました。たしか某男爵のサインだとシュトライト中佐が言っておりました」
ラインハルトの母親の死。それは去年まで、取引材料であり、名のある人間ではなかった。ミューゼル家はただ弱味を握るための存在ですかなかった。
だが事態は一変し、アンネローゼへの皇帝の寵愛が大きければ大きいほど、彼らは追い詰められる。疾患を理由に慈悲を求めることはできず、それどころか親戚関係を結んだ者たちから怒りを買うこともあるであろう。某男爵がF子爵を見限り、この情報を皇太子に売ったとしたら? ――
事情を聞いたリヒテンラーデ侯は、思うところがあったようで、早急にファーレンハイトに地上車を運転させ、新無憂宮へと向かうと言ったので、
「大伯父上、残った食事などはありませんか?」
「お前の夜食は作らせておいた」
「どこにあります?」
「運ばせる」
運ばれた夜食の三分の一を自分のハンカチへと移し、残りはファーレンハイトに手渡す。
「ファーレンハイト」
「はい」
「あとで食べなさい」
受け取ったファーレンハイトはかなり困惑していたのだが、彼女が気付くことはなかった。
**********
「予想通りだ。ジークリンデ」
「それは良かった」
「詳細だ」
後日彼女は新無憂宮へと赴き、事件のあらましが書かれた書類を手渡された。
彼女たちの予想通り、F子爵家の者はほぼ全員色覚に異常が認められ、また殺害された運転手は某男爵が送り込んだ内偵であった。
車好きなF子爵の息子が起こした事件の概要 ―― ほぼもみ消されていたが、もみ消すために一応、書類が上がってくる ―― から、某男爵は色覚の異常を疑った。そして運転手を潜り込ませ、予想通りの情報を掴み、運転手は口封じのために殺害。
某男爵はF子爵を強請り、資産が乏しくなったF子爵は娘を働きに出し ―― そして運命の悪戯か? 娘は自分の兄に母親を殺害された寵姫に仕えることとなった。
ミューゼル家を強請りの材料として監視していた某男爵は、すぐにF子爵家と手を切ることを決め、最後に高値で皇太子にこれらの情報を売りつけた。
男爵が何故、皇太子に情報を売ったのか? 男爵の一門は現皇帝フリードリヒ四世のことを良く思っていない ―― クロプシュトック侯一人がフリードリヒ四世の即位を否定していたわけではなく、帝国には未だ燻る暗い感情を抱いている貴族も多い。
「この事件、なかったことには、ならかったのですね」
男爵から皇太子の辺りは抜けているが、F子爵家に関しては隠されることなく記載されていた。
「陛下がお怒りでな」
F子爵家は消え去り、彼らに連なる者たちは強制収容所と言う名の、死刑執行場所へ ―― この事件はアンネローゼを世捨て人にさせるのに充分な出来事であった。
「グリューネワルト伯爵夫人はまだよい。ベーネミュンデ侯爵夫人は……」
アンネローゼとて最初から達観していた訳ではない。偶々今までなにも望まなかっただけのこと。自分がなにかを望めばどうなるか? 彼女は望みもしないのに知ることとなり……そして願わなくなった。自分の望みは誰かを踏みつけることになる。だから、何もかも、そう、自分の未来さえも ――
「グリューネワルト伯爵夫人?」
「そうだ。陛下が……寵姫ミューゼルの過去に心を痛められてな」
「グリューネワルト伯爵夫人を授けたと?」
「そういうことだ。それで、ジークリンデ」
「はい」
「ブラウンシュヴァイク公爵夫人に聞いたところ」
「なにを聞かれたのですか?」
「お前は宮中で女官としてやっていけるかどうかを聞いた。そしたら、ブラウンシュヴァイク公爵夫人は、充分やっていけると言っていたぞ」
「……その前に、大伯父上」
「なんだ?」
「ルートヴィヒ殿下は」
「今回のことはなかったことに」
「……そうなると、思っておりました」
公式の書類にそこら辺がないところから、この事件では追い込むには足りなかったと――
「お前は本当に物わかりがいい」
「よくありません」
「それで、ちょうどグリューネワルト伯爵夫人の館の女官が一人いなくなったので、そこに配属されるよう」
「待ってください、大伯父上……いいえ、国務尚書」
「どうした?」
「私をベーネミュンデ侯爵夫人の下に配属してください」
「理由は?」
「お心の強い国務尚書には分からないでしょうが、人間は弱った時に薬や宗教に走りやすいものです。陛下のご寵愛を失いつつあるベーネミュンデ侯爵夫人が薬に手を出したら厄介なことになります。すでに宮中に麻薬が入り込んでいる以上、隙をつくるわけにはいきません」
「その時は処断する」
「処断は簡単です。……陛下は全く侯爵夫人の元を訪れなくなったのですか?」
「いいや。まだ訪れることはある。回数は減ったが」
「麻薬で発狂した侯爵夫人が、陛下を襲う可能性は」
嫉妬と麻薬で狂った侯爵夫人が、閨でフリードリヒ四世に刃を向けたら――誰も防ぐことはできない。
「……阻止できるのか?」
「確約はできませんが、侯爵夫人の身辺に注意を払います。それと国務尚書、侯爵夫人を西苑から退去させるようなことはさせないでください」
「安心しろ、そのようなことはできぬ。あの方の権力は私を凌駕しておる」
「それは良かった。失意、あるいは焦っているであろう侯爵夫人の周囲には、麻薬を仲介する者がいる可能性は極めて高い」
「使用人たちの背後を洗い直せということか」
アンネローゼの一件で、リヒテンラーデ侯は新無憂宮で働いている者たちの再調査の重要性を痛感していた。
「無意味かと」
「無意味だと?」
「麻薬を扱っている組織がはっきりとしない限り”見えなかった接点”が新たに発見されることはないでしょう。麻薬を扱っている組織はそれで資金を稼ぎ、なにかをするつもりでしょう」
「雲を掴むような話だぞ、ジークリンデ」
彼女はそれが地球教の仕業であることを知っているのだが――ここで”もっともらしく”地球教徒の仕業であると、提示することはできなかった。
彼女はただ知っているだけで、証拠は何一つない。国務尚書を説得できるような証拠はなにもない。
「そうでもありません」
いきなり地球教という名称を出しても、信用はされない。
「なんだと?」
「フェザーンです」
なによりこの時点で地球教徒を追い詰めても、抵抗する手立てがない。あの皇帝となったラインハルトですら手を焼いたテロ組織。まだ一介の生徒であるラインハルト、もしくはキルヒアイスがテロに巻き込まれて死亡したら、救えるはずの未来すら救えなくなる。
「フェザーンに拠点があるというのか?」
「結果を急ぎすぎです、国務尚書。私が言いたいのは、帝国と叛徒、両方の国家に蔓延しているのですから、中継地点であるフェザーンを無視するわけにはいかないということです。領主が指示しているという可能性もあるかもしれませんが」
「……あの男ならば、それもあるであろうな」
「そうそう、領主の名は?」
「アドリアン・ルビンスキーだ」
「国務尚書。フェザーンには軍人が派遣されることはありませんか?」
「駐在武官というものはあるが」
「妻同伴では?」
「……フレーゲルをフェザーンに配属させろと言うのか」
「私が単身フェザーン入りしたら、おかしいではないですか。ですが現地へは足を運んでみたいのです」
「たしかにな。よかろう、フレーゲルが妻を伴い、意気揚々とフェザーンへ赴くような用事を作ろう。期待しているぞ、ジークリンデ」
「あ、その際は、ファーレンハイト少佐も同行させてくださいね」
「分かっておる」
事後報告から時を少々戻し ――
ファーレンハイトが運転する車でリヒテンラーデ侯が夜の新無憂宮へと向かった翌朝、ジークリンデは眠い目をこすりながら起き、
「ジークリンデ」
「おはようございます、父上」
すでに身支度を調え食卓についている父親に挨拶をした。
「おはよう」
「お兄さまはお元気ですか?」
「ああ。寄宿舎での生活にも慣れたそうだ」
彼女の兄は文官を目指し、貴族の子弟らしく中高一貫教育全寮制の学校へと進んでいた。
息子が進学することは前々から決まっていたが、娘がこれほど早くに嫁ぐとは思っていなかった父親は、一人だけになった邸を少々広く、そして寂しく思っていたが、娘の前ではそんな素振りをみせることはない。
「ジークリンデ」
「はい」
朝食後、少し話をしただけで帰宅するといった娘に、父は長方形の箱を入れた長細い袋を差し出した。
「これを男爵に」
「お土産ですか?」
「ああ」
「なんですか?」
「ワインだ。男爵はワインがお好きだそうだ。お前も覚えておくように」
「はい。それでは父上、失礼いたします」
「気を付けて」
美しい娘の後ろ姿を見送った父親 ―― 彼女は実家に帰ることはほとんどなかった。嫁いだらその家の者。頻繁に帰るほうが目立つし、なにより彼女は忙しかった。
帰宅した彼女から受け取ったワインのラベルを見て、
「このワインは、お前が二十歳になった時に一緒に飲もうではないか」
フレーゲル男爵は喜び、彼女にそう告げた。
帝国の飲酒は男は十八歳から、女は二十歳からと解禁年齢に差がある ――
「はい」
だから彼女はフレーゲル男爵と共に父が贈ってくれたワインを飲むはずであった。
彼女の夫であったレオンハルト・フォン・フレーゲル。彼は知らず知らずのうちに彼女の希望を全て叶える。
彼女が十五歳の時、フェザーンへと連れて行ってくれた。
彼女が十九歳の時、
「イゼルローン方面艦隊司令官ですか? おめでとうございます。レオンハルトさま」
「以前、行ってみたいと言っていただろう。今回は連れていってはやれないが、叛徒共を蹴散らし戻って来る。そしたら連れていってやるから、用意しておくようにな」
「二十歳の誕生日祝いですか?」
「それはまた別に用意している」
彼女が二十歳になったら、イゼルローン要塞へも連れて行ってくれる約束であった。
―― 叛徒共め、惨めに帰っていった。ああ、そうだ。そろそろ……ブラウンシュヴァイク公邸でのパーティーが終わったら、出かけるぞ。行き先は……その時に教えてやる ――
あの場でフレーゲル男爵が死ななければ、彼女は秘密裏に作られていたフロイデン山荘で、フレーゲル男爵と共に父親が持たせてくれたワインを開けていたのだ。できることなら、それは一生知りたくなかった――