黒絹の皇妃   作:朱緒

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第149話

「……と、思うわけですよ」

『それしか、考えられんな』

 

 眠っているところを、副官にたたき起こされたファーレンハイトは、フェルナーから事情を聞いてすっかりと頭が冴えてしまい、寝直す気にもなれなくなってしまった。

 

「私たちが勝手に思っていることを、伝えてもいいものでしょうか?」

 

 なぜオーベルシュタインが登録されていたのか? 彼らはフレーゲル男爵の性格から、あることを推測した。

 それらに関しては、彼らは当たっている自信はあるが、それを彼女に告げるかどうかは悩むところ。

 

『立ち直られているとは思うが、お前が全力で慰めろ』

 

 死亡してもう一年、されど一年、たった一年 ―― 死んだ夫のことを思い出し、彼女が悲しむ可能性がある。

 

「嫌です」

『じゃあ、言わないで適当に済ませておけ』

「……まあ、なんとかしてみます」

『お前のことを応援している』

「相変わらず適当な人だ……忙しい所、済みませんでした。しっかりと休養を取って、万全の態勢を整えてください。それでは」

『どうなったか、教えろよ。では』

 

 通信を切ったフェルナーは指を組んで背伸びをしてから立ち上がり、山荘へと引き返した。

 

「フェルナー。パウルが夫人手作りのお菓子を持ってきてくれたの」

 

 彼女とオーベルシュタインはテーブルを挟んで向かい合っており、彼女はアイスティーを淹れている最中であった。

 氷の入ったグラスに、二倍の濃さの紅茶を注ぎ入れる。

 

「それは良かったですね。では今、皿を用意します。お待ちください」

 

 背の高い透明なグラスが、透き通る水色で満たされ、窓から差し込む光がテーブルに琥珀色の影を映し出す。

 

「フェルナー」

「はい」

「入り口のシステムは、故障だったの?」

「それについては、お皿を用意したら説明させていただきますので」

「そう。はい、パウル。どうぞ」

 

 彼女が編んだレースのコースターをオーベルシュタインの前におき、入ったばかりのアイスティーを乗せる。

 

「ありがとうございます」

 

 彼女が淹れたアイスティーは五人分。客のオーベルシュタインと自分、フェルナーにキスリング、そして窓の外にいるリュッケ。

 

「暑いでしょう」

 

 同じように編んだレースのコースターを出窓の床板に、そこにグラスを置く。フェルナーが食器を二セット持ちリビングへと戻ってきて、彼女とオーベルシュタインの前へ。

 

「フェルナーは食べないの?」

「一応、警護中なので。後でいただこうかと思ってます」

「そう。アイスティーはどうします?」

「それはいただきます」

 

 菓子の箱を開けて、ふわふわのロールケーキを切り分ける。

 帝国の菓子はドイツ菓子の系譜のため、中身がみっちりと詰まっているものが主流で、

 

「柔らかくて美味しいわ」

 

 ふんわりとした菓子は、あまり多くはない。

 

「お口に合って良かったです」

「本当に美味しいわ」

 

 ほどよい甘さの生クリーム ―― 彼女にとって”ほどよい”は、帝国では甘みが少ない部類に入る ―― と、口当たりのよいスポンジに、思わずおかわりをしてしまうほど。

 

「フェルナー。もう一切れ食べたいのですけれど」

「はいはい。もう少し厚めに切りますか?」

「さっきと同じで良いわよ」

 

 太ることを気にする彼女にしては珍しく、二切れも食べるほど、ロールケーキは彼女の舌にあった。

 

「夫人。お菓子作り、上手なのね」

「ええ、まあ」

 

 幸せそうな笑顔でロールケーキを食べている彼女。

 控え目だが健康的な赤味のある唇が、白い生クリームを上品にほおばる。口元にクリームを付けるような真似はしないが、食べている姿はとても愛くるしく、これを目の前にして平常心を保てというのは難しい。

 フォークを持ったまま、食べている彼女を見つめるオーベルシュタインの表情は、驚きと幸せがない交ぜになった物であった。

 

―― もう少し食べたい……ところで、止めておくべきよね

 

 我慢しなくてはならないほどの美味しさのロールケーキを、冷蔵庫に片付け、新たにお茶を淹れ直してから、システムについての説明を聞くことに。

 普通は客人が帰ってからであろうが、オーベルシュタインは客ではあるが関係者であり、システムに不具合があるかも知れない状況では、心配で落ち着けないので、彼自身事情を聞きたいところであった。

 

「おそらくですが、レオンハルトさまはこの山荘に、視覚障害者の方を招くつもりだったのでしょう」

 

 彼女は先天的を含めた視覚に問題を抱えている者たちに対して、様々な寄付を行っている。ただ寄付だけで、義眼を装着して生活している者たちと直接会うことはなかった。

 劣悪遺伝子排除法が有名無実化していようが、やはり今でもそのような障害を持っている者は、劣っていると見なされ、同じような扱いはされないことが、ままある。

 そんな彼らを本邸に招くのは、誰もいい顔をしない。

 

「いつかは彼らと会って話を聞いてみたいとは……たしかに言った覚えはありますけれど」

 

 フレーゲル男爵も門閥貴族らしく、彼らに対し良い感情を持ってはいなかった。

 だが男爵はそれ以上に妻に好かれることを望んでおり、妻を喜ばせることに労力を惜しまなかった。だから、周りに人気のないこの山荘に招いてやろうと ―― そう考えたとしても、不思議ではない。

 

「システム側は調べるのに時間がかかるので、はっきりとは言い切れないのですが、以前シューマッハに、先天性の事情で義眼を使用している、貴族の軍人を捜させていたそうです」

 

 フレーゲル男爵の性格では、貴族以外を招くという認識はなくて当然。

 貴族にとって忌避すべき劣性遺伝子排除法に抵触するとしても。

 

「そうだったの」

「誰を招くつもりだったかは分かりませんが、パウルさんはこの山荘を訪れるべき人だった可能性が高いですね」

 

 あとこれらの調査に、フェルナーを使わなかったのは、彼らが彼女にこっそりと教えてしまうことを避けるため ―― フェルナーは彼女に聞かれると、守秘義務という言葉など知りませんとばかりに教えてしまうので。

 

「あの人に、会わせたかったわ」

 

 彼女がフレーゲル男爵に「義眼の人間に会いたい」と言ったのは、最早過ぎたことだが、自分が助かりたいという気持ちから出たもの。それ以上でもなければ、それ以下でもなく。

 だから、二人が出会ったとしてどうなったか? なにか変わっただろうか? それは彼女にも分からないが、フレーゲル男爵に”会ってみよう”という気持ちがあっただけで嬉しかった。

 

「私もお会いしたかったです」

 

”きっとジークリンデさまが綺麗なことを自慢して、美しいジークリンデさまを見ることができるのは、ジークリンデさまの寄付による義眼の進歩によるものだと自慢したことでしょう”

 

 フェルナーは今回のことを総合して、そう判断した。

 ロールケーキを食べていた時の楽しげな空気が薄れ、彼女は百合がモチーフのイヤリングに少し触れる。

 指先から硬質な音が静かになった室内に、すっと消えて行く。彼女はやや陰ってしまった表情を切り替えて、

 

「私の散歩に付き合ってちょうだい、パウル」

 

 つま先が見える程度、ドレスの裾を持ち上げた。

 小径を歩く予定はなかったので、靴はドレスにあった華奢な作り。大きめで宝石を散らしたバックルで、他の宝飾品と釣り合いが取れている。

 

「御意」

「いま靴をお持ちします。お待ちください」

 

 オーベルシュタインは深々と頭を下げると、先に山荘を出て、周囲の警備に当たっているリュッケに散歩の小径について尋ねた。

 

「やっぱり気になるものかしら」

 

 あからさまに視線を逸らし、絶対に彼女の足下を見ないようにして出ていったオーベルシュタインに、彼女は「そんなに気にしなくていいのに」と。

 だが彼女と違って、帝国の常識では貴婦人の足は、夫でもない限り、異性は見てはいけないもの。

 

「気にしますよ。本来でしたら私だって、拝見してはいけない箇所ですし、なにより触れるなんて」

 

 小間使いがいないので、身の回りの細々としたことを全て請け負っているフェルナーが靴の紐を緩めながら、オーベルシュタインに同調した。

 靴を履かせる者が他にいないので、この山荘ではフェルナーが担当しているが、小間使いを連れてきて身の回りの世話を任せたいというのが本音だった。

 世話をするのは苦にならないのだが、彼女の脚など秘められている箇所に触れると、自分が悪いことをしているかのような感情がわき上がるとともに、もっと触れていたいという感情も顔をのぞかせ ――  彼女が気恥ずかしくなるほど丁寧に、壊れ物を扱うかのようにハイヒールを脱がせ、本革スエードの紐靴を履かせる。

 

「じゃあ、自分で履きますよ」

「ジークリンデさま、靴紐結べないでしょう」

「結べますよ」

 

 そんなに気にしているのならと、彼女は前屈みになり靴紐に指を伸ばす。

 

「ああ、止めてください。しっかりと結ばないと、途中で紐がほどけて踏んで危ないですから」

 

 屈んでいるフェルナーの耳元に彼女が近づき、久しぶりに含んだ香り玉で飾られた吐息がフェルナーの耳朶を撫で、頬をなぞる。

 

「本当に結べるのよ」

 

 更に彼女は前屈みになり顔を寄せて、出来ると言い張った。話すたびに彼女の吐息が、フェルナーの癖のある髪をくすぐる。

 彼女が警戒心など微塵も持たず近づいてくると、フェルナーでも鼓動が早まるほど。

 

「はいはい。でも今回は私に結ばせてくださいね」

 

 だが何事もないように平静を装い、フェルナーは彼女の靴紐をしっかりと結び、レースが縫い付けられているドレスの裾をそっと下ろして立ち上がり、頭を下げて手を出し出す。

 彼女は手を乗せて立ち上がり、靴の感覚を確かめる。

 

「きつくもなく、緩くもなく。相変わらず上手ね、フェルナー」

「お褒めに与り光栄です。さ、行きましょうか」

 

 フェルナーは出際に玄関脇に置いている白地の日傘を手に取った。外へ出ると、すぐに日傘を開き、彼女の頭上に掲げる。

 

「日傘は私が持つわ」

「はい、どうぞ」

 

 木製の手元を彼女の手にしっかりと握らせてから、身を離す。彼女はその日傘を肩にかけるようにして差し、オーベルシュタインと共に散歩へ。

 キスリングは二人の少し後ろについて警護し、フェルナーは離れた位置から二人を見ていた。

 

「やっぱり、お姫さまの隣には貴族だな」

 

 フェルナーは微笑み話し掛けながら歩く彼女と、それに受け答えするオーベルシュタインを眺め呟いた。その声が届く範囲にいるのはリュッケだが、彼に向けて話し掛けたような口調ではなかったが、

 

「そうですね」

 

 リュッケもその意見には同意であった。彼女は平民にも分け隔てなく接するが、そのまとう空気は決して他の階級の者とは交わらない。

 むしろ彼女が近づけ近づくほどに、その差が明らかなものとなり、別の世界の人間だと実感させる ―― 彼女本人はもちろん気付きはしない。

 

「キスリングも悪くはないが、どうしてもなあ……私やキスリングがジークリンデさまの近くにいるのと、ファーレンハイトやパウルさんが隣にいるのはまったく違う……ああ、お前も私よりずっとジークリンデさまの隣にいるのが似合っている」

 

 適当に付け足されたような感じだが、フェルナーとしてはただ忘れただけで、リュッケのほうが良いというのは、本心から出た言葉。

 

「爵位を持った方のほうが、より相応しく思えます」

「まあな……」

 

 フェルナーは彼女の今の夫の姿を脳裏に思い浮かべ、白い雪を残している山々を背に歩いている彼女を見て、意味もなく首を振った。

 

「来てくれて、本当に嬉しかったわパウル」

「私も……はい」

 

 決められている散歩コースを周り、オーベルシュタインは帰途につく。

 彼女の気持ちとしては、山荘に繋がる道に設置されているゲートまで見送りたいのだが、身分が身分なので、山荘前でオーベルシュタインに別れを告げ、すぐに山荘に戻らなくてはならない。

 

「機会があったら、また山荘に来てちょうだい。きっとあの人も喜ぶわ」

 

 故人が本心から喜ぶかどうかは別として、彼女がそう思うのならば、故人となった彼は、あの頬骨の張った痩せた頬を引きつらせつつも、きっと歓迎するに違いない。

 

「恐れ多いことです。それでは、失礼いたします」

 

 彼女は山荘へと戻り、窓からオーベルシュタインの背を見送る。

 彼女はその背に、もしもフレーゲル男爵が生きていて、この山荘にオーベルシュタインを招いたとして、一体どんな話をしたのだろうかと想いをはせる。

 

―― ブラウンシュヴァイク公爵家の偉業とか、馬術大会優勝の自慢とか……ルドルフを賞賛するようなことは言わなかったでしょうが……きっと言わないわよね……

 

 曲線が目を引くソファーに腰を下ろしたフレーゲル男爵の自慢を表情一つかえず、立ったまま黙って聞いているオーベルシュタインの姿が思い浮かんでしまった彼女の表情から、笑いがこぼれ落ちる。

 

 オーベルシュタインの背が見えなくなるまで見送ってから、彼女はふわりと振り返り、

 

「フェルナー。今日の夕飯は少なめにしてね」

 

 本日の夕食を減らすように伝える。

 

「は?」

「ロールケーキ、もう一切れ食べたいから」

 

 彼女は痩せているほうが良いと考えるタイプなので、今の体重を維持したいと考えていた ―― 今の体重というのは、フレーゲル男爵が死去する以前よりも、3kgほど落ちている。

 

「却下させていただきます」

「ロールケーキは明日ですか」

「ロールケーキはどうぞお食べください。ですが食事は減らしません」

 

 彼女は細いが、曲線が美しい女性的な体つきを保っており、触れると柔らかだが、身長と体重の割合でみると痩せすぎの部類。

 

「太りたくないのに」

「元の体重に戻してください」

「……」

 

―― どうして私を太らせようとするのですか! むちむちしたら、大変でしょう! むちむちしたって、フェルナー責任とってくれないでしょう! どう責任をとるのかは、私にも分かりませんけれど

 

 彼女は透き通る瞳をやや大きく開き、少し上目遣いでフェルナーに「夕食を減らして欲しいのです」と訴える。

 こんな訴えをしなくても、残せば済むことだが、彼女は元の記憶から料理を残すことに抵抗があるので、量を少なめにして欲しいと希望する。

 

「そんな顔しても駄目です」

 

 彼女が料理を残すのを嫌っていることを知っているフェルナーは「盛ったら勝ち」であることも分かっている。なので、フェルナーは彼女の顔を手で覆うようにして視線を外し、自制心を総動員し、なおかつ、ぎりぎりのところで「駄目」と言い切った。

 

「駄目なの?」

「駄目です。しっかり食べないと、胸が元に戻りませんよ」

 

 フェルナーに言われて彼女は自分の胸の膨らみに軽く手のひらを乗せる。

 

―― そう言われると……

 

 普通は下着のサイズが合わなくなったりして気付くものだが、彼女ともなれば、彼女が知らぬうちに新しい下着が作られるので、違和感を覚えるようなことはない。

 また下着の数もかなりのものなので、見たことがない下着が続いても、不思議ではない。

 

「でも、食べてもあまり胸につかないのよ」

 

―― そう言えば、元帥府で泣きわめいている時に、採寸されたような……身体検査の一環かと……。あの時期なら、体重も減ったし……しぼんだ? フェルナーがそう言うのですから、きっとしぼんだんですね。あんまり胸が減るとドレスを着たとき格好悪いのよね……詰め物をすれば、きっと大丈夫

 

「努力は必要ですよ」

「でもね、フェルナー。私の胸が小さくなろうが、大きくなろうが、誰も困りもしなければ、喜びもしないじゃない。だから……」

「私が悲しくなるので、お願いします」

 

―― そう言えばフェルナーは、胸が大きい女性が好きだと言っていましたね。……私は見た目が全てですから、好かれる為にも、少しは頑張りましょうか

 

 彼女の最大の武器にして、窮地にも追い込む武器である容姿の手入れに精を出そうと、軽い握り拳を作り目を輝かせる。

 

「ジークリンデさま」

「なに?」

「また、ろくでもないこと、考えてるでしょう?」

 

 前向きなことを考えている時の表情だとフェルナーは分かるものの、彼女の前向きな思考は、方向性が間違っていることが多々ある。

 悪意あるものではなく、また、彼らが対処できる範囲のものなので、さほど問題ではないのだが、フェルナーは一応聞いてみた。

 

「いいえ」

「じゃあ、なに考えてたんですか? 教えてください」

「もっと見た目に注意を払い、容姿を磨こうと考えていたのですよ。必要でしょ?」

「それ以上、その美貌を磨かれると仰るのですか」

 

 その方法に助言を求められたら答えられないなと ―― フェルナーは苦笑し問いただす。

 

「美貌って……でも、フェルナーが綺麗だと思ってくれるなら、頑張って維持だけではなく、より一層磨かないとね。だからまずは、夕食はいつも通り食べます。バストケア用のクリームも用意して、あとは、そうですね。内出血を治す薬も」

 

 まずはフェルナーに小さくなったと言われた胸の手入れと、額に負った自業自得の傷の治療をし、その後に肌の手入れを丹念に……と。

 

「胸はそれほど気になさらなくても宜しいでしょう。内出血の薬は至急用意いたしますが……塗ると痛いですよ」

「我慢して塗ります。額の青あざが消えたら、前みたいに額にキスしてね」

「…………かしこまりました」

 

 こうして夕食を取り、”太る、太る。きっとむちむちで、ぱんぱんになる”と内心で呟きながらもロールケーキをもう一切れ食べ、入浴してから、その間に調合され届けられた薬 ―― 容器がアラバスター製の小さなクリーム入れなので、それが彼女の手にあると、薬が入っているようには見えないが、ヘアバンドで切りそろえられている前髪を上げ、額をあらわにし、鏡の前に座り、内出血の回復が早まる薬を指にとり、薄くのばして塗る。

 

「いたい……」

 

 内出血の治りが早くなる薬があることは、フェルナーも知っているが、塗るときに痛みがあるので勧めなかった。

 

「無理して塗らなくても良いのでは」

 

 そのため、塗らなくてもいいのでは? と、鏡越しにうかがえる、彼女の痛みを堪える表情に声をかけるが、

 

「早く治したいですし、フェルナー、私の額が好きでしょう」

 

 ”キスするなら、額が良いです。身長差や意味合いなど、全て含めて”とフェルナーは彼女に言っていたこともあり、早く額の腫れを引かせなくてはと、丹念に塗る。

 そして塗れば塗るほどに瞳が潤む。

 

「あのー、ジークリンデさま」

「腫れが引くまで待ってちょうだいね」

「あ……はい」

 

 痛みにより涙で潤んだ瞳をそっと伏せ ―― 手元にある薬の入った容器の蓋を閉めるために、やや視線が下向きで伏せ気味になっただけだが、いつは降りている前髪が、しっかりと上げられているので、表情がよりあらわとなり、およそこの表情を前に、平静を保てというのが無理なほど。

 

「ジークリンデさま」

「なんです、フェルナー」

 

 彼女は蓋をした容器をフェルナーに手渡す。

 それを恭しく受け取ったフェルナーは、彼女のヘアバンドを外す。やや多めの前髪が白く形の良い額を隠す。

 

「薬が前髪についてしまいます」

 

 ヘアバンドで前髪を上げたまま休もうとしていた彼女は、フェルナーの突然の行動に驚く。

 

「変な癖がつくよりいいでしょう」

「あまり癖がつかないタイプの髪ですから、平気です。薬の場合は洗い流さないといけないから、ヘアバンド返してちょうだい」

「翌朝、丁寧に洗わせていただきますから、ヘアバンドはお許しください」

「額の青あざ見えるの嫌?」

「……まあ、そんなところで……」

 

 油断させてフェルナーの腕に飛びつき、ヘアバンドを取ろうとした彼女だが、簡単に動きを読まれて回避されてしまった。

 それだけではなく、勢いよく飛びついたせいで体勢を崩して、彼女はフェルナーの腕に倒れ込む。

 

「ジークリンデさま」

「悪気はなかったの。ヘアバンドは諦めるから、許してちょうだい」

「許すもなにも。お怪我はありませんか?」

「ないわよ」

 

 彼女は傷が気になるのなら仕方ないと承知して、前髪を下したままにした。

 

―― 額の青あざが治ったら、街へ戻りましょう


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