黒絹の皇妃   作:朱緒

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第148話

 リュッケが迷った理由だが、大本は彼女にある ―― 今まで迷ったのも、ほとんど彼女が原因なので「またか」といった所でもあるが。

 

 山荘に居るときの彼女は、窓際にいることが多い。カーテン越しに差し込む光の下、彼女は刺繍をし、視界にリュッケが入ると窓を開けて、彼を呼ぶ。

 山荘に立ち入ることができない彼だが、

 

「異常はなかった?」

「ありませんでした」

 

 窓越しに会話はできるので、彼女はエラーで立ち入ることができない(と、思い込まされている)リュッケに、細やかに声をかける。

 

「警備ありがとう」

「いいえ。お気になさらずに!」

 

 以前は四桁の使用人に指示を出し邸を維持・管理していた彼女。

 いまは身近には、片手で足りるほどしかいないので、その能力を彼らに向けた結果、彼女と付き合いの浅いリュッケとキスリングは、今まで以上に心がざわつく。

 

「山中で変わった花ですか?」

「はい」

 

 針を刺す手を止めて、リュッケの話を聞き、

 

「見てみたいわ」

「では今度見かけたら、摘んで参ります」

「楽しみに待ってるわね」

 

 軽い気持ちで花を見たいと告げるも、言われたリュッケは必死になり、見かけた紫色の小さな花を見つけ出した。

 

「見つかった! ……あれ?」

 

 あまりに花を捜すのに夢中で、下を向いて歩き続けた為に道に迷い、軽く遭難することに。

 そんな迷っている状態だと理解して、まずは花が枯れぬように飲み水に挿し、その後は士官学校時代の訓練を思い出し、無事に帰還を果たす。

 喉は渇いたままだが、その足で窓際にいた彼女の元へと急ぎ、小さな花を差し出した。

 

「この花です。ジークリンデさま」

 

 リュッケは水に挿したまま花を差し出し、彼女はかたくりの花に似たそれを、丁寧に受け取る。

 

「わざわざ取ってきてくれたのですか。……これは、私がもらっていいの?」

 

 茎についていた水滴が、彼女のモスグリーンの手袋を濡らす。

 

「はい」

「ありがとう。これは押し花にして、大切にしますね」

「はい!」

 

 手のひらに収まる小さなサイズだったので、彼女はそれを押し花にし、栞に加工した。

 

 

 そんなのんびりとした時間を過ごしていた彼女。

 

 

 夕食の片付けをしているフェルナーの手元を見ていた彼女は、自分が山荘へとやってきた理由を思い出した。

 

「あ……フェルナー」

「はいはい、なんですか? ジークリンデさま」

 

 食器をワゴンに乗せたフェルナーは”なんでしょうか?”と振り返る。

 

「オーベルシュタインのことなんですけれど……」

「パウルさんがどうしました?」

 

 ワゴンの下の段から冷えた炭酸水を取り出し、クリスタルガラスのシャンパングラスにそれを注ぎ、彼女に差し出す。

 

「私がオーベルシュタインに会えないのは嫌だと言ったのが、山荘へとやってきた理由の一つよね」

 

 彼女は小気味の良い音を立てている透明なグラスを受け取り、口に含む。

 

「そうですね」

 

 その理由を考えると、

 

「オーベルシュタイン、ここに呼べる?」

 

 呼んだ時にに来てくれないのが嫌だと言った手前、一度はオーベルシュタインを呼ばなければと ―― 

 

「もちろん。きっと呼ばれるのを心待ちにしていることでしょう」

 

―― それは……どうかしら。遠すぎて面倒というのが……

 

「連絡取ってちょうだい」

 

 オーベルシュタインにも面倒をかけますね……とは思ったが、一度くらいは甘えても許してくれるのではないかと考えて、彼を呼び寄せることに。

 

「はい。畏まりました」

 

 フェルナーは彼女に礼をしてワゴンを押し部屋を、そして山荘を後にする。外で待機している兵士にそれらを渡して、自身は通信車に。

 

 仕事がありまだ庁舎に残っていたオーベルシュタインへ連絡を入れた。「ジークリンデさまから、火急の命が」と ―― 嘘ではないが、焦らせるように呼び出し、上記のやり取りを告げた。

 

「……というわけです、パウルさん」

『……』

 

 山荘に名指しで呼ばれるなどとは、思ってもいなかったオーベルシュタインは絶句する。

 

「なにか言ってください」

『土産はなにがいい?』

「あまり気を使いすぎると、ジークリンデさまが困りますから」

『困らせるつもりはないが、手ぶらというのも……』

「そうですね。持ってこないほうがいいのがユーストマ。特に中心が白で、縁が紫色のユーストマは、絶対に駄目です。今は亡きレオンハルトさまが好んでいた花でしたので。それ以外の花なら大丈夫です。あ、そうだ、格好はアビ・ア・ラ・フランセーズでお願いします。軍服ばかりだと、ジークリンデさまの息が詰まりますので。あとはケーキとか。家庭料理的なのもお好みですね」

『……』

 

 会いに行くのは、翌日ではなく二日後。

 本来は即日にでも ―― オーベルシュタインは考えたが「ジークリンデさまが、無理してきたのではと、心配なさるので」そのように言われ、間一日おくことになった。

 

 通信が終わるとオーベルシュタインは残業を切り上げ、自宅に戻り執事のラーベナルトと、その妻に明後日にジークリンデの元を訪れることを告げ、その準備を依頼した。

 

 執事は外出着一式の用意を整え、夫人はシンプルなロールケーキを用意した。もちろん手作り。

 そのあまりの素っ気ないロールケーキに、オーベルシュタインが「これで良いのか?」と聞き返したほど。

 聞かれた夫人はというと「素朴な菓子のほうが喜ばれますよ」そう言い切った。

 自信満々に言われたこともあるが、オーディンの一流の菓子は全て食したことがおありだろうと、またフェルナーが「家庭料理的なのもお好みですね」言っていたことも思い出し、オーベルシュタインはそれを土産にすることにした。

 花は彼女の好みが分からないので、持っていくべきかどうかかなり悩み、結局持って行かないことにする。

 

 準備が整い、明日は彼女がいる山荘へと向かう ―― その夜、オーベルシュタインの元にカタリナから連絡が入った。

 

「なんでございましょう」

 

 風呂上がりのカタリナの栗毛の髪は濡れており、ワイン色のバスローブを羽織っただけで、胸元が大きく開き、美しい鎖骨と豊かな胸の谷間が見え、画面越しでも伝わってくるほど、妖艶さを醸し出していた。

 

『明日ジークリンデのところに行くんでしょう』

「はい」

 

 カタリナは切り子細工のグラスに注がれていたウィスキーを一口飲み、なにも塗っていない唇を舌で舐める。

 

『どんな話をしても構わないけれど、帰宅や帰って来ることを促すようなことは言わないように』

「畏まりました」

『あなたなら、細かく説明しなくても分かるでしょうけど』

「はい」

『私の話はそれだけよ。あ、他にもあったわ。ジークリンデの様子を伝えに、私の家に来なさい。良いわね』

「……畏まりました」

『最初の沈黙は気付かなかったことにしてあげる。じゃあね』

 

 そう言い、残っていた指に二本分ほどの琥珀色の液体を一気に飲み干し、カタリナは通信を切った。

 

 カタリナが念のためとオーベルシュタインに連絡を入れた「ジークリンデに帰宅を促すな」

 その理由は簡単で、ジークリンデの帰還を促すのは皇帝だけ ―― 皇帝が立てた使者が山荘まで赴き、帰ってくるように説得するという筋書き。内乱の結果、彼女は帝国の筆頭門閥貴族の当主となったため、皇帝も軽くは扱えないと言うことを、知らしめるためには、避けては通れない。

 もともと皇帝には、軽く扱われてはいないが、このような示威行為は皇帝にとっても、彼女にとっても必要なことであった。

 

 通信を切ったカタリナは、まだグラスに残っている角のなくなった氷を指で弄んだ。

 

**********

 

「何故だ! キルヒアイス」

「落ち着いてください、ラインハルトさま」

 

 原作では死亡したはずのキルヒアイスは無事に生き延び ―― ラインハルトの怒気を必死にいさめていた。

 ラインハルトが激高した理由は、部下の昇進を断られたため。

 自分の手足となり戦ってくれた部下たちを全員昇進させようとしたのだが、軍務省の方から「昇進は一人だけ」との通達が来た。

 

 元帥は自らの麾下の将兵の地位を、自身の裁量だけで昇進させることができる。……が、それは建前で、実際は色々な”しがらみ”があり、本当に自由にできるわけではない。

 元帥が部下全員を上級大将にしたいと言い出したら ―― 当然止められる。

 要は元帥府であろうとも定数があり、昇進には通例通り、相応の人物からの推薦状が必要であった。

 かつては自分の意思だけで簡単に昇進させることができたが、それは彼が皇帝の寵姫の弟だったからで、そうではなくなった今、他の軍人たちと同じような扱いとなったが為、部下の昇進は軒並み見送られることとなった。

 

「あいつら、内乱鎮圧は武功ではないと!」

「彼らにそれを認めさせることは難しいでしょう」

 

 また原作のヤンがそうであったように、外敵と戦ったわけではないので、昇進に値する戦闘ではないと見なされた。

 ただ戦ったことは事実なので、褒美としてラインハルトの推薦で一人だけは階級を上げて良いとの達しがあり ―― 気持ちとしてはキルヒアイスの地位を上げたかったラインハルトだが、武勲ではミッターマイヤーのほうが上回っており、

 

「ミッターマイヤー提督にすべきです」

「キルヒアイス」

 

 部下たちの支持を失わないことを優先し、ラインハルトはミッターマイヤーを昇進させることに。

 

 元帥府に属していない外部の者が推薦状を上げれば、昇進する道もあったが、問題児が多く、上によく思われていない者たちの集まりであるラインハルトの麾下の将兵。

 彼らの上司であるラインハルト自体、上層部の者たちに好かれておらず、なにより「皇帝の寵姫の弟」ではなくなった今、彼に近づいても何の利益にもならないと見なす者が多く、他と連携を取りたがらない、孤立した元帥府の将兵を推薦しようとするものは”ほとんど”いなかった。

 だが、ただ一人、推薦状が届き軍務省側から昇進が通達された人物がいた ―― ナイトハルト・ミュラーである。

 

 

”お前みたいな平民は、武功をあげても、推薦者がいなくて困ることもあるだろう。こちらに一報を入れれば推薦してやる”

 

 

 六年前フェザーンで、嫉妬を隠しきれないながらミュラーに、このように告げた故フレーゲル男爵。

 ミュラーは自力で出世を目指したのだが「なんでお前、私に推薦状が欲しいと言わんのだ!」と ―― フレーゲル男爵は自分の発言には責任を持つ性格であった。

 ミュラーが二十六歳の若さで中将まで昇ったのは、会戦ごとにフレーゲル男爵が手を回し、有力者から推薦状が出たからに他ならない。

 ファーレンハイトたちがこのことを知らなかったのは、フレーゲル男爵が自らが行っていたためである。それとフレーゲル男爵は徹底して「貴様のような平民など知らん」という姿勢を貫いており、推薦のお礼を受け取ることもなかったので、あまり知られることはなかった。

 

 そして今回は、息子が平民の部下を推薦してやらなくてはならないと、こぼしていたのを聞いていた父親 ―― 内務尚書フレーゲル侯爵が故人となった息子の代わりに、ミュラーの推薦状を軍務省へ直接上げたのだ。

 

 フレーゲル侯爵の推薦は簡単に受理され、ミュラーは大将に。

 

 ミュラーの出世そのものはラインハルトも喜んだが、あまりの融通がきかない状況に、鬱屈としたものが募り、またより一層の力を得るために戦いを求める。

 いま帝国が出来る戦争はただ一つ、イゼルローン要塞の奪還。

 

 本来ならばこのイゼルローン要塞攻略は、ガイエスブルグ要塞をワープさせ、要塞対要塞となるところだが、全権を握っていないラインハルトは、予算を自由にすることができず、当然要塞をワープさせるような金の使い方はできず。

 

 今度は内乱鎮圧ではなく、外敵を伐って ―― キルヒアイスの階級をも、文句なく上げようと。そのため、遠征軍はキルヒアイスが率いることになる。

 だがさすがにあの要塞をキルヒアイスの艦隊だけで落とすのは不可能だろうということで、ミュラーの艦隊も共に向かうこととなった。

 

 次の遠征にも出陣することになったミュラー。

 彼は今回の戦いで、まさか自分が昇進するとは思ってもいなかった。

 今回は戦闘はともかくとして、オーディンでの混乱を収められず、結果彼女が悲しみ、それを目の当たりにしていたこともあり、結果は勝利だが、彼の心情としては敗北であったため、この昇進を喜ぶことができなかった。

 

 ミュラーの気持ちはどうあれ、礼は尽くさねばならぬと ―― フレーゲル男爵とは違い、侯爵はお礼を受けてくれるということで、礼を言いに行くことに。

 アポイントを取った際に、ジークリンデの様子を教えて欲しいと言われたため ―― ケスラーかミュラー、どちらが彼女の様子を見に行くか? となった時、このことがありミュラーに任が与えられた。

 

 侯爵邸へと赴き、この度の推薦についての礼を述べる。

 侯爵は淡々とそれを受け取り、そして彼は言った「恩を返す相手が誰か、分かっているだろうな」と。

 それが侯爵ではないことは、ミュラーも分かった。

 今まで推薦してくれていた故人となったフレーゲル男爵ではないことも。

 侯爵が名を語らずに指し示した相手 ―― 彼女。

 

 彼女にどのように恩を返せというのか? ミュラーは分かるようで分からない言葉を胸に、侯爵邸を後にした。

 

 フレーゲル侯爵はこの後、内務尚書を勇退しオーディンを離れ、辺境とまでは言わないが、かなり首都から離れた土地を買い、そこで余生を送ることになる。

 

 侯爵が尚書を辞して、オーディンを離れたのは、内乱によるもの。

 

 内乱は帝国の中枢に大打撃を与えた ―― 原作はそれは大打撃にはならず、ラインハルトが権力を握るための大規模な清掃で済んだのだが、ここでは”そう”はならなかった。

 フリードリヒ四世の長く何もしなかった在位期間を支えた者たちが軒並み倒れ、ラインハルトは独裁政権を作ることができないでいた。

 その結果、内乱は終結したが、帝国は舵取りをするべきものがいなくなり、千々に乱れていた。

 この状況を収めるためには、いままで支配者であった門閥貴族が動くしかない。いきなり平民に任せたところで、収拾が付かないのはラインハルトにも分かっていた。

 

 内乱中は緊急措置で軍が管理していたが、内乱が終わったのだから、それらを元のあるべき場所へと返さなくてはならないのだが、返すべき相手がいない。権力を持ち、門閥貴族たちをまとめられる人物がいないため、尚書の座に誰が就くべきか? 混乱した状態が続き ―― そこで、尚書になりたい門閥貴族が立候補し、それに門閥貴族が投票するという形を取ることになった。

 立候補できる門閥貴族は伯爵家以上の当主のみ。投票権は公爵は一人で五票、侯爵は一人四票と爵位によって票の価値が違う。

 選挙に似たもののようにも見えるが、賄賂や買収を禁じておらず ―― 今まで隠れて行われていたことが、表に出ただけのこととも言える。

 

 フレーゲル侯爵はこれらの工作は得意で、単独で最大の票数を所持する彼女の元義父ということもあり、尚書の座を維持することはできたが、ここが引き時だと見た。

 

 これらのことを整えたのは軍。その主軸となったのは、オーベルシュタインであった。

 

「パウル」

 

 最大の票数を一人で所持し「ローエングラム公爵夫人の同意がなければ、尚書の座を射止めるのは不可能」と言われることになる ―― そんな自分を取り巻く世情が変化していることを知らぬまま、彼女は山荘でオーベルシュタインの訪問を喜んでいた。

 

「ジークリンデさま」

 

 髪を結う小間使いを連れてきていないのでフェルナーにまとめてもらい ―― 髪型は高い位置の一本結いで、結わえた部分を小さなクラウンで飾り、前髪はいつも通り下ろしている。

 かっちりとまとめられた髪型と、直線的な前髪、寒色系のアイシャドウ、ドレスは光沢ある色鮮やかな濃いめの黄色で、彼女が好むレースのハイネックに、パフスリーブのスレンダーラインドレスで裾は長いが、フリルなどの飾りはない。

 それにロンググローブと、やや”きつめ”に見られてもおかしくない装いだが、彼女の大きく柔らかな眼差しと、雰囲気のせいか、まったくきつさは感じられず、むしろ甘やかな空気が漂うほど。

 

「待っていたわ、パウル」

 

 オーベルシュタインは深みのある青い上着を羽織ってやってきた。

 

―― 本当に貴族の格好が似合うわ……貴族ですから当然なんですけれど。オーベルシュタインというと、軍服のイメージが

 

 見慣れぬオーベルシュタインの私服を目に焼き付けようと、澄んだ瞳でじっと彼を見つめる。興味深そうに、悪意なく、笑顔で見つめられて ―― オーベルシュタインが耐えられず、思わず視線を逸らした。

 

「ジークリンデさま、見過ぎです」

「そ、そう? 失礼なことをしてしまいました。許してね、パウル」

「いえいえ。ですが、私など見ずとも」

 

―― お客さんを見ないで、誰を見ろと言うのですか……じろじろ見過ぎましたか

 

 珍しいからと見過ぎたことを反省し、

 

「フェルナー。登録するから番号を教えて。あと手袋を脱がせて」

 

 山荘にオーベルシュタインを招待すべく、登録番号を打ち込むことに。

 

「はい」

 

 生体反応が必要なので、手袋越しでは反応しない仕組みになっているため、フェルナーに長い手袋を脱がせてもらい、昨晩フェルナーに塗ってもらった、ローズのマニキュアで飾られている指で、注意深く番号をタッチした彼女だが、番号を入力し実行を押すと登録済み。彼女が首を傾げるのも、無理はない。

 

「あら? 登録されている……誤作動かしら?」

「ちょっとお待ち下さい、ジークリンデさま」

 

 ”お前ら以外、登録していない”とフレーゲル男爵に言われていたフェルナーは、登録済みに驚き、本当にシステムが壊れているのだろうかと確認する。

 

「…………あー、これは……まず、中に入って、お話をしていてください。私はファーレンハイトに聞いてきます」

 


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