黒絹の皇妃   作:朱緒

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第147話

 山荘は立ち入りが制限されているので、細かい作業はフェルナーとキスリングが担当することになる。

 

「懐かしいですね」

 

 キスリングは彼女のベッドのシーツを取り替えつつ、士官学校に在籍していた頃のことを思い出していた。

 

「あの頃は、嫌々だったがな」

 

 士官学校の寮では、上級生のシーツの取り替えや洗濯、食事の支度などは、下級生の仕事。

 学業の他にこれらの雑事をこなすのだが、シーツがよれていると言われては殴られ、洗濯物がしっかりと畳まれていないと言われては殴られ ―― 上級生の気晴らしに殴られることは、珍しくもなかった。

 

「本当に。今は嫌ではありませんけど」

 

 キスリングは彼女が休むベッドの、分厚いスプリングマットに、厚手で肌触りのよい純白のシーツを皺一つないように丁寧にかける。

 

「まあな」

 

 フェルナーは枕カバーを取り替える ―― 彼らが室内の細々としたことをしている最中、彼女はどこにいるかというと、山荘の周りを一人で歩いていた。

 山荘近辺には関係者以外は近寄れないので、一人で歩いていても襲われる危険はない。だが、危険がまったく無いかというと、そうでもない。

 

 淡い紫色のスレンダードレスで、腰にアクセントとして金糸と赤い糸で刺繍されたダイヤ型が並ぶ、ゆったりとした紐ベルト。紐ベルトと同じ柄で色違いのトーク帽を被り、フリルのついた水色の日傘を差し、彼女は片付けと準備をしているフェルナーたちの迷惑にならないよう、邸近辺の散歩をしていた。

 

 そこに風が吹き、彼女の帽子が煽られて、山荘の外灯の一つに引っかかる。

 この程度なら自分で何とかできるだろうと ―― 彼女は日傘を閉じ掲げるようにし、つま先立ちをして下から突こうとしたが、後一歩のところで届かず。

 

「……」

 

 ”届きそうで届かない”

 フェルナーやキスリングを呼べば良いのだが「なんとか出来そう」と、紐ベルトを外してぶつけて落とそうとする ―― だが、これも失敗。

 

―― 当たっても、全然動かない。先端に重りを付ければいいのかしら? 重りになりそうなもの……そうだ!

 

 彼女はブレスレットを外し紐ベルトに結わえ付け両手で掴み、背後から思い切り振り上げた。

 その結果はというと、帽子に当たらず壁に激突し跳ね返り、彼女の額に直撃。

 

「いたっ!」

 

 自業自得な叫びを上げた彼女の元へ、二人が窓から飛び出して駆け寄る。

 

「どうなさいま……ジークリンデさま! 私やキスリングをお呼びください」

 

 彼女が手に握っている物と、外灯にぶら下がっている帽子を見て、フェルナーは彼女がなにをしようとして、どうなったのか、すぐに理解した。

 

「額ですか? 大丈夫ですか? まずは冷やしましょう」

 

 目蓋を固く閉じ、額を押さえて、唇を噛むようにして痛みを堪えている彼女に、キスリングは必死に声をかける。

 

「わざわざ、医者に診察させなくても」

 

 その後、医師を呼び寄せ「打ち身」という診察が下り、うっすらと青くなった部分を冷やしていた。

 

「ジークリンデさまが、私のことを呼ばなかったから、医者を呼ぶ羽目になったんです」

「そうですけど……こうなるとは、思わなかったんですもの。もちろん、簡単に上手くいくとは思ってませんでしたし、失敗はするんじゃないかなとも思ってましたけれど、額に直撃するなんて思ってなかったんです」

「その結果、ダイヤが散りばめられたブレスレットで額に青あざですよ。少しは反省してください」

 

 彼女が紐ベルトに結んだブレスレットは、ホワイトゴールドの土台が見えないほど、プリンセスカットのダイヤモンドがびっちりと埋め込まれ、飾られているもので、紐の先に括り付けて、物を打ち落とすために使うようなものではない。

 

「今度からは、自分の額に攻撃を加えないように気をつけます」

「そっちじゃなくて、呼んでください。すぐに呼んでください、お願いですから、自分で取ろうとしてないでください」

 

 フェルナーに言われた彼女は、視線を斜め下へと移して、少し考えるような素振りを見せた。

 

「…………」

「嫌な理由でもあるんですか? その理由をお教え願えれば」

「……フェルナー、ファーレンハイトから聞いてない?」

「なにも聞いておりませんが。えー、なんか秘密があるのなら、お教え下さいよ」

 

「秘密と言うほどではないのですが。それこそ今から十年近く前のことですけれど……」

 

 彼女の命令の”せい”で色々な所に出向していたファーレンハイトは、ある時期、憲兵のほうへ。

 憲兵と言えばあの制帽。

 固めで格好良いその制帽に興味を持った彼女は、ある日、ファーレンハイトが仕事のため、彼女のもとを離れた隙を狙って、制帽を被って遊んでいた。

 

「なんで、離れた隙に?」

 

 頼めば良かったのでは? と、キスリングが問うと、彼女はやや困ったように笑い答えた。

 

「その頃、仲が悪かったのよ……」

 

 無条件で懐いてくる彼女と、それに戸惑う若い軍人。その戸惑いは冷たさに変換され、なかなか距離を縮めることができないでいた。

 

「そうだとは聞いていましたが、本当だったんですか」

 

 ”二十過ぎた男が、十代前半の少女にそれはどうよ”と、キスリングは思ったが、さすがにソレは口には出さなかった。

 

「ええ。私が悪かったんですけど。それで、見つからないうちに被って楽しんで、元の場所に返しておこうとしたのですが、今回と同じように風で飛ばされて。運悪く、庭のリンデンバウムの木に引っかかってしまって」

 

 人を呼んで取ってもらっては、証拠が残ると考えた彼女は、納屋から梯子を引きずり出した。未来ゆえに軽い素材で作られた梯子は、彼女でも持ち運ぶことができた。

 制帽がぶら下がっているリンデンバウムの木の側までやってきた彼女は梯子を伸ばし、目的の枝に立てかけ、片手でドレスを持ち上げながら、注意深く登った。

 

「でもかけ方が甘くて、枝にたどり着いたところで、梯子が倒れてしまったの。運良く枝につかまって乗ることができたんですけど、周りには誰もいなくて、しばらく制帽と枝を握って”誰か!”と叫んだのですけれど、邸は結構広いので、誰にも気付かれず。後は葉が生い茂っていたので、注意しなければ私がいるとは分からない状態だったの」

 

 ”枝から落ちて、死んでしまうかも知れない”

 木の枝にしがみつく力がなくなってきた彼女は、悲観的になりながら覚悟を決めようとしていた。

 その頃、彼女が居ないことに気付いたファーレンハイトが「もしかしたら」と、邸から離れたところまで足をのばし、葉の生い茂ったリンデンバウムの木と、その根元に放置されたかのような梯子を見つけ、視線を上へと向ける。

 葉に隠れ見えづらかったが、そこに彼女がいるのを見つけて声を「かけず」に近づき、梯子をかけ直して彼女の元へと登っていった。

 

 何事も起きなければ良かったのだが、ここから問題が発生した。

 

「私は知らなかったのですけれど、ファーレンハイトのことを嫌っていて、出来ることなら怪我をさせたいと考えていたらしいの」

 

 彼女の護衛に選ばれることを切望していた男が、梯子を登るファーレンハイトと周囲の人気のなさに、今ならば……と、駆け寄り梯子を蹴り倒した。

 ちょうど彼女に手を差し出し、声を掛けようとしていたファーレンハイトは、体勢を崩し落下。その際彼女も一緒に落下したが、

 

「ファーレンハイトをクッションにして、無傷だったの。酷いわよね」

 

 ファーレンハイトの上に落下したので、軽い打ち身だけで済んだ。

 

「正しいですよ。ジークリンデさまが、ファーレンハイトのクッションになったら大変なことです」

「正しいってフェルナー……とにかく、それ以来、帽子を取ってもらうのが苦手なのよ」

 

 目の前で落下するファーレンハイトを見て以来、帽子を取ってもらうのは、軽いトラウマになった。

 

「ジークリンデさまがそこに居なければ、なんの問題も起きないということです。だから、呼びましょう。新しい冷えたタオル持ってきますから」

 

 帽子が飛んでも、絶対に自分で取ろうとしないようにと言い聞かせ ――

 

「梯子から落ちたんですね」

『そうだな』

 

 すでに済んでしまったことだが、フェルナーは彼女が知らないであろう詳細を、梯子から落ちた側から聞くために光速通信を入れた。

 彼女の側についているキスリングも、通話だけは聞きながら、浴室前で待機している。彼女はと言えば「おでこ痛い。今度は成功させてみせます」と内心で呟きながら、顔を洗っていた。

 

「あなたが憲兵に出向している時期は、ジークリンデさまが十二歳の頃ですね……いい年して、お姫さま相手に」

 

 フェルナーはいつもと同じく、やや遅めの夕食を食べつつ、梯子を蹴られた経緯についてファーレンハイトに尋ねた。

 

『否定はしない。それで、なにを聞きたいのだ?』

「ジークリンデさまから聞いただけでは足りなさそうなので、詳細を全て教えていただければ」

『分かった』

 

 彼女が知らない幾つかの出来事を交えてたファーレンハイトの説明だが、まず梯子を蹴った男は、身分そのものは帝国騎士だが、家柄は伯爵家の分家筋で、由緒正しい下級貴族のファーレンハイトなどとは、比べものにならないほど良い家の出であった。

 その男はフレーゲル男爵の部下選びという名の、ジークリンデの護衛を選ぶためのサロンに招かれたことがあった。

 男が招待されたのは初回。その時はファーレンハイトが選ばれたので、その男は「負けた」ことに。

 生まれは自分のほうが優れているのに、何故だ? 男は考えた。

 男が考えたところで、理由など分かるはずもないのだが。

 当然考えても分からず ―― とりあえず目障りなファーレンハイトを、排除しようという結論に至った。

 厄介なのは男が伯爵家の分家筋だったこと。その血縁を使い、ただの帝国騎士とは比べものにならないほど、ブラウンシュヴァイク邸に出入りすることが容易かった。

 男に敵意を持たれていることには気付いていたファーレンハイトだが、

 

『ジークリンデさまの護衛に選ばれたことで、そいつだけではなく、多数の男から敵意を向けられていたので、一々構ってはいられなかった』

 

 嫉妬多めの敵意をいたる方向から向けられていたため ―― 当時、ファーレンハイトに嫉妬多めの敵意を持っていた、もっとも困る相手は、言うまでもなくフレーゲル男爵。

 男爵に比べたら、その男は有象無象のひとかけらにしか過ぎなかった

 

 そして男は、ファーレンハイトが単身、人気のない場所で高所を目指して梯子を登っているという、千載一遇の好機を得た。

 

「そいつから、ジークリンデさまは見えなかったんですか?」

『葉が生い茂っていて、着用されていたドレスも、軽やかな緑色だったこともあり、あいつが居た位置からは見えなかった』

「ところで、なんで何も言わずにジークリンデさまに近づいていったんです? ”ジークリンデさま、いまお助けいたします”くらい言っていたら、そいつだって、あなたが登っている梯子を蹴りはしなかったのでは?」

『あの時口を開いたら、怒鳴ってしまいそうだったからな』

 

 制帽を握り締め、枝に必死に抱きついている姿。

 

「誰を?」

『ジークリンデさまを』

 

 他愛のないいたずらから、危ない目に遭っている我が子を叱る親にも似た感情がわき上がったものの、そこは立場上、堪えるべきだが、どうにも我慢ができそうになかったので、無言で近づいた。

 

「結構危ないことしますよね」

『本当にな。あと叫ばなかったのは、風が強かったからだな。制帽が飛ぶほどの強風だ、枝が揺れ、葉の擦れる音で声が届かない可能性もあったからな』

 

 下手に声をかけて体勢が崩れたら落下する危険性もあったので、静かに近づき、安心させるように、できる限り穏やかな雰囲気を作り梯子を登り、手を差し出す。

 

「なるほど。だから駆け寄ってきた男は、気付かなかったんですね」

 

 怒られるかと思っていた彼女は、穏やかそうな笑顔に安堵して手を伸ばそうとした。

 すると人影が近づき、梯子を蹴り倒す ―― 彼女はその時点では、梯子が蹴られたことは分からなかった。分かったのは自分に向けられていた手が、突如宙を握ったことだけ。

 

『そうだな。だが目の前のジークリンデさまに気を取られて、周囲に注意を払っていなかったのも事実だ』

 

 そして落ちると分かったとき、彼女は咄嗟にファーレンハイトの腕を掴んだ。

 

「ジークリンデさまに”馬鹿”とか言ったそうですね」

『言ったな。本当は”馬鹿、離せ”と言いかけたのだが、言い終える前に落下した』

 

 見ていた彼女は理解できなかったが、梯子を蹴られて体勢を崩したファーレンハイトは状況をすぐに理解し、下手につかまり彼女を巻き添えにしないようにと手を遠ざけたのに、その努力を無駄にするように彼女は身を乗り出し、腕を掴んで落下を阻止しようとした。それは行為としては無意味であったが ――

 

「ジークリンデさまらしい。そして落下後、あなたの身を心配したんでしょう」

『そうだ。怪我を心配して”人を呼んできます”と走り出しそうになった』

 

 落下した直後の彼女は衝撃で混乱しており、目は開いていたが意識が半分失われたような状態であった。

 

「蹴った男はどうしたんですか?」

『ジークリンデさまが呆然としている間に撃った』

 

 彼女が混乱している間に、ファーレンハイトは逃げた男をブラスターで射貫いていた。その辺りのことを彼女は覚えてはいない。

 

「射殺?」

『頭を射貫こうかと思ったが、ジークリンデさまを怖がらせた相手を、簡単に楽にしてやることもないだろうと思い直し、足を撃つだけにとどめた。それに、あの状況では狙いは俺ではなく、ジークリンデさまかもしれないと考えるのが普通だ。そうなれば、尋問する必要があるから、殺すわけにはいかないだろう』

 

 正気を取り戻した彼女は、下敷きにしてしまったファーレンハイトのために、助けを呼びに行こうとしたが”走らなくても大丈夫です”と、通信機で応援を呼ぶ。

 その間に、足を撃たれ少し離れた位置でもがいている男に彼女も気付いたが、どれほど彼女が優しかろうが、人が登っている梯子を蹴り倒して逃げるような男の身を気遣うことはできなかった。

 

「ジークリンデさま狙いじゃなくて良かったですね」

 

 尋問したところ、ファーレンハイトの負傷を狙ったものだと、尋問した側が拍子抜けするほどあっさりと男は答えた。

 彼女に危害を加えるつもりは、全くなかったとも証言する。

 

『ああ。結果的に、俺は叱責されたが』

 

 ファーレンハイトが叱責された理由は、彼女から目を離していたこと ―― 目を離したというよりは、仕事中のファーレンハイトの隙をついて、彼女が帽子を持って邸を出たのが原因だが、護衛なのだからそこはしっかり見ていろと言うことで。

 

「そうでしょうね。ちなみにその男はどうなったんです?」

『お前も会ったことがあるぞ、フェルナー』

「記憶にありませんが」

 

 過去にそんな危険なことをやらかした人物なら、引き継ぎの書類が作られ、必ず目を通し、覚えているはずだがフェルナーには覚えがなかった。

 なので肩をすくめて”思い違いでは?”と、体で表した。

 

『教授の家に”いる”ランプシェードだ』

 

 その問いに、ファーレンハイトは疲れたような表情に、若干の嫌悪感を浮かべて、居場所を教える。

 フレーゲル男爵の元にいた教授は拷問も好きだが、加工も特技であり趣味であった。加工品は古典好み ―― 産毛があることにより、明かりを灯すと、柔らかい光になるのだと滔々と説明された時、フェルナーやファーレンハイトは素で教授を殺しそうになったが、自制心を総動員して耐えた。

 

―― ランプシェード? ランプシェード? 暗号かなにかか?

 

 通信を聞いているキスリングは、教授が誰かは教えられていて分かったものの、ランプシェードが何を指しているのか、皆目見当が付かなかった。

 前線白兵戦の雄は、人肌でランプシェードを作る趣味のある生物と遭遇したことはなかった。そういう人間がいることは知っていても、すぐに頭の中では結びつきはしない。それは健全であり、当然のことだが。

 

「あーはいはい。見たことはあるでしょうけれど、どれかは分かりませんね。たくさん居ますから……じゃあ、割と美形だったんですか?」

 

 教授は素材の原型の美しさにこだわる性質で、彼の手元にあった加工品の元となった人間たちは、一人の例外もなく美しかった。

 それでは彼女も候補に入ってしまいそうだが、教授は非常に冷静なサイコパスで、そこは弁えており、軽口を叩くことすらなかった。

 

『容姿は良かったぞ。それこそ、レオンハルトさまが、絶対に採用しないであろう見た目だった。頭の中身は若干どころではなくアレだったが』

 

―― …………

 

 二人の話の内容を聞いていたキスリングは、ランプシェードとその男と教授がなんとなく繋がってしまい、ランプシェードについて聞いていいものかどうか? 少しばかり悩んだ。

 

「思考能力が貧しいのは、梯子を蹴った時点で分かってます。公爵邸の敷地内で、梯子が放置されていて、それを立てかけて登っている人がいたら、何事か? と警戒するのが普通ですから」

『ただ落ちていると思ったらしいぞ』

「その男の脳に皺なさそうですね」

『あった』

「あ……あったんですか。ああ、そうですか。ああ、そうですよね。教授ですもんね」

 

 ファーレンハイトが脳の皺をどのようにして確認したのかどうか? 触れる必要もないことである。

 

『ところで、突然どうしてこの話に? ジークリンデさまは、自分から語ったりしないだろう』

「帽子が飛ばされましてね……」

 

 フェルナーが彼女が自爆した経緯を説明すると、ファーレンハイトは頭を抱えた。

 

『あれほど目を離すなと』

「本当に。ちょっと目を離すと、すぐに自分で何とかしようとするのが……自立心ないように見せかけて、旺盛なんですから」

『ジークリンデさまが山中で迷わないよう、気をつけろよ』

「細心の注意は払いますが、その斜め上行くのがジークリンデさまですので、あまり期待しないでください」

『おい』

 

 一応彼女も気をつけていたので、フロイデンで遭難することはなかった ―― リュッケは若干迷ったが。


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