黒絹の皇妃   作:朱緒

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第146話

 フェルナーが彼女に伯爵を撃つまでの経緯を説明している時、離れた位置から二人の姿を見ている者がいた。

 その人物の背後にキスリングが音もなく近づき、膝の裏を押して体勢を崩す。膝が曲がり上半身が後ろに傾いたところで、キスリングはその後頭部をフルスイング。

 

「関係者以外は立ち入り禁止です、ミュラー大将閣下」

 

 草の上に倒れ込んだ”その人物”ことミュラーに、冷たく声をかけた。

 

「キスリング……」

 

 殴られた頭を押さえながら立ち上がったミュラーは、不機嫌さを隠さず自分を見下ろしているキスリングに、ここへやって来た理由を説明する。

 

 帰還したラインハルトは彼女の様子を聞き、まだ会いたくないと伝えられた。彼女の意思を尊重するという名目で、夫婦間の問題から逃れたラインハルトだが、彼女のことは気になっていた。

 そこで部下に彼女の様子を見に行かせることにする。

 下手に近づかれ、ラインハルトが帰還していることが知られたら困るので、遠くから様子をうかがうだけと言う条件で。

 当初はもっとも信頼している部下、キルヒアイスを送る予定だったのだが、元気な彼女を知っている人物のほうが良いのでは? となり、ケスラーとミュラーが候補に挙がり、ミュラーが選ばれた。

 

「理由は聞いていますが」

「いや、だったら……」

「ジークリンデさまに気付かれないように、様子を見て、さっさとお帰り願いたいのですが」

 

 歓迎されていないのは分かっているが、同期で仲も悪くなかった相手に、こうまで露骨に拒否されると、ミュラーとしても若干言葉を失い落ち込む。

 

「……」

 

 そのミュラーの視線の先には彼女。

 ただし、彼女に見つかってはいけないので、死角に入る必要がある。

 山荘以外これといって遮蔽物のない場所のため、彼女の背後が確実 ―― 彼女の様子をうかがいに来たミュラーだが、

 

「フェルナーさん見てて楽しいか? ミュラー」

 

 彼の視界に映るのは、彼女に日傘を掲げているフェルナー。

 

「まさか……だが、表情が見える側に回るわけには、いかないからな」

 

 その後ろ姿だが、上半身は大きな日傘に隠されており、腰から下のギャザーがふんだんに寄せられたドレスしか見えない。

 

「気付かれないうちに、帰っていただきたいのですが」

「分かっている。ところで、なにか足りないものなどはないか? 必要なものがあるならば、閣下が早急に用意すると…………ないよな」

 

 トパーズ色の瞳が「こいつ、何言ってんの」と、あからさまに愚者を見るような視線を向けてきた。

 命令を語ったミュラーも、ラインハルトが用意できるものなら、彼女も簡単に用意できるだろうと思えて、徐々に語尾が弱くなり、僅かな沈黙の後、自分の考えを述べた。

 

「ない」

「そうだよな……」

 

 かつてフェザーンで見ていた光景 ―― フェルナーが彼女に日傘を差し、その影の中で、それは軽やかに、そして鮮やかに笑う彼女。

 今どのような表情を浮かべているのか、ミュラーには分からないが、あの頃のような笑顔であれば良いなと願っていた。

 彼女がフェルナーの頬に手をかけて顔を近づける。ミュラーは何か必要なものがあったら、できればこちらに依頼して欲しいとキスリングに頼み、その場を後にする。

 

 キスリングはミュラーを視線で追うこともせず、彼女に注意を払う。

 

 キスリングは二度も彼女がゼッフル粒子で死にかけた所に居合わせ、なにも出来なかったことに関し、自責に念に駆られていた。

 一度目も二度目も、防ぎようのないことだと、責められることはなかったが、彼だけは自分が許せなかった。

 

 フェルナーが持っていた日傘を彼女が受け取り肩に乗せ、腕を組んで山荘へと向かって歩き出す。

 

 一定の距離を保ちながら、キスリングも彼女たちの後をついていった。

 

**********

 

「……という刑罰になりました」

『ジークリンデさまに、ご迷惑をおかけするな』

 

 彼女の入浴中にフェルナーは、山荘からは見えない位置に待機している通信車に乗り込み、ファーレンハイトに事実を語ったことと、罰を求めて彼女を殺す役を仰せつかったことを、超光速通信で伝える。

 

「すごい迷惑かけた自覚はあります」

 

 いまはフェルナーの休憩時間なので、行儀は悪いが食事を取りながらの会話となっている。

 

『だが、それで一段落したのなら、良いだろう』

「私自身としては失敗したと思いましたが」

『そうか』

 

 後は双方の状況を報告し合い、

 

「あ、ジークリンデさまに会いたいですか? 会いたいのなら、事情を話して連れてきますよ。髪を乾かしてからですので、随分と時間はかかりますが」

『そっちは夜だったな』

「はい」

『湯上がりのジークリンデさまが、夜風にあたったら、すぐに体調を崩されるだろうが』

「ええ。言ってみただけです。本気で連れてくるつもりはありませんよ」

『分かっている。ところでいま、ジークリンデさまには、キスリングが付いているのか?』

「そうですよ」

『……湯温を上げてるだろうな』

「きっと上げていることでしょう。一応山荘を出る前に”湯温は上げないように”とは言ってきましたが、ジークリンデさまに頼まれたら、断りきれないでしょう。ファーレンハイトみたいに」

『いやいや、フェルナーほどではない』

 

 彼女が湯上がりに目眩を起こして倒れる前にと、通信を切り、フェルナーは山荘へと戻った。

 長湯の彼女はまだ入浴しており ――

 

「湯温上げたか? キスリング」

「……上げました」

 

 予想通り彼女は高温の風呂に、心ゆくまで風呂に浸かっていた。

 その後もいつも通り、ふらつきつつ風呂からあがり、バスローブを羽織ってリビングのソファーに腰を下ろして、フェルナーは小言を言いながら、彼女の黒髪を乾かす。

 

「キスリングをあまり困らせないように」

「ごめんなさいね、キスリング」

 

 指で黒髪を踊らせ、距離を保ちドライヤーをあてる。

 

「いいえ。なにも問題はございません」

「大丈夫って言ってるわよ」

「まったく。どいつもこいつも、ジークリンデさまには甘いんだから」

 

 まだ湿り気が残るくらいになったので、今度はブラシを持ち梳かしながら乾かす。彼女は白いストローが挿された、冷たいグレープフルーツジュースを飲みつつ”またお願いね、キスリング”と言わんばかりの視線を向けてくる。

 

「……(少将に言われたくないなあ)」

 

 キスリングは無言のまま笑顔で、彼女の視線に答えた。

 彼女の滑らかな髪を乾かしているフェルナーは、自分も大概甘いことを理解しており、また、彼女に頼まれたら絶対に断れないことは、身を以て経験しているので、期待はしていない。

 

「相変わらず上手ね」

 

 スカラップレース地のシンプルな、七分袖の白いネグリジェに着替えた彼女は、ドレッサーの前のスツールに腰を下ろし、寝化粧のために鏡をのぞき込んで、自分の髪のまとまり具合に、思わず感嘆の声を漏らす。

 髪を結う技術は雇っている美容師に劣るものの、洗ったり乾かしたりするだけなら、フェルナーも負けてはいない。

 綺麗にセットされた髪型に、彼女は気分良く化粧をする。

 

「フェルナー」

 

 化粧を終えた彼女は部屋を出て、リビングへと向かうと、フェルナーがクッションカバーを新しいものに取り替えていた。 

 

「どうなさいました? ジークリンデさま」

 

 部屋に戻った彼女は、そのまま寝るものだとばかり思っていたフェルナーは、外したカバーを床に置く。

 

「忙しい?」

「いいえ。暇なのでカバーの取り替えをしていただけです」

 

 彼女の部屋には呼びだし用のベルが設置されているのにも関わらず、わざわざ足を運んだのには意味があるのだろうと、フェルナーは用件を聞こうと、やや腰をかがめて顔を近づけた。

 

「まずはお座りください」

 

 彼女は素直に腰を下ろし、そして”フェルナーも座って”とばかりに手招きをする。

 

「それでは」

 

 フェルナーは間に人一人座れるくらい離れて座り、彼女のほうを向く。適切な距離を保って座ったフェルナーだったのだが、彼女はその距離を縮めて身を寄せてきた。

 

「どうなさいました」

「私もフェルナーに、言っておきたいことがありまして」

 

 再度距離を取るような真似はせず、フェルナーは彼女の話に耳を傾ける。

 彼女は自分が意識を失う前後から、フェルナーが退院してくるまでのことを語った。

 内容そのものは、はすでに彼女の周囲にいた者たちから聞いていたフェルナーだが、その時の彼女の心境も交えての話は、聞いていて飽きることはなかった。

 むろん、悲惨な時期であり、彼女自身が壊れそうな時期であったこともあり、心が躍るような内容でもなければ、当人も語りたくないような部分も多くあるのだが、それらを包み隠さずに語った。

 

「きっとフェルナーが周囲の者たちから聞いた意見のほうが、正しいでしょう。私が語ったのは、私の気持ちが多く入っているので……でも、聞いて欲しかったの」

 

 それはフェルナーが身内の最後を正直に語ってくれたことに対しての、ジークリンデなりの感謝でもあった。

 

「ジークリンデさまのお気持ちを聞くことが出来て、まことに……」

 

 ”良かった”や”光栄”などの表現は使わず、すっとソファーから降りて膝をつき頭を下げる。

 

「部屋につれていって頂戴」

 

 膝をついたフェルナーに、彼女はほっそりとした手を差し出した。

 その手を取り、甲に軽く口づけてフェルナーは立ち上がる。

 

「お連れいたします」

 

 手を引かれた彼女は”ふわり”としか言いようのない、可憐な仕草で立ち上がる。

 

「眠るまで側にいてくれる?」

「もちろん。なんなら子守歌もつけますよ」

「それは良いわ」

「遠慮なさらずに」

「聞き入って眠れなくなったら困りますから」

「わー光栄です」

 

 部屋へと戻った彼女は、カーテンを開けて夜空を見上げた。

 話し込んだこともあり、随分と夜も更けたが、最早子供でもなければ、明日用事があるわけでもないので、フェルナーは早く寝るように声をかけることもなかった。

 彼女の背後に回り、出窓の床板に手を置いて、彼女に覆い被さるような体勢を取る。触れてはいないが、触れそうなほど近い位置で、星々について幾つか説明をして、彼女が眠るまで付き添った。

 

**********

 

 彼女が時間をかけて山荘に到着した頃には、すでに新しい住居が決まり引っ越し作業が行われていた。

 戻ろうと思えばいつでも戻れる準備は整っているのだが、帰ることを急かすものはいなかった。

 

 戻りたくなったら戻られれば宜しいでしょう ――

 

 そして彼女はゆったりと、そして体力の回復を図る生活を送っていた。

 寝過ごすようなことはなく、しっかりと起きて、リビングの窓際へと行き、外専門の警備のリュッケと朝食を取りながら窓越しに話をし、フェルナーを連れて山歩きを楽しむ。

 昼は外に置かれたテーブルで、彼ら三人以外の警備を担当している者たちとも会話をし、午後は近くのテニスコートでキスリングからテニスの手ほどきを。

 

 なぜテニスを始めることになったのか? 

 

「知りませんでした」

「準優勝ですから」

「すごいわよ。準優勝なんて」

 

 キスリングが出身惑星のもっとも権威ある大会で、準優勝を収めていたことを聞かされた彼女は、素直に褒め称えた。

 この時代、権威ある大会というのは、惑星全土からプレイヤーが集い、その惑星一を決めることを指す。

 

「いや、優勝してませんので……」

「素直に褒められておけ、キスリング」

「はい……」

 

 士官学校にいる「身体能力が優れている」タイプの学生は、大体が生まれ育った惑星でスポーツをしており、その成績が五位以内に入っている者ばかり。

 士官学校では準優勝者は、かなりの数がいるので、キスリング当人もわざわざ言いはしなかった。

 

 彼女の認識からすると、惑星で二位というだけでも、尊敬に値する。

 それと彼女は「惑星で二位、多分一位は貴族か金持ち平民でしょうから、実質一位でしょう」帝国の仕組みもよく知っていた。

 キスリングは別に優勝などは狙っておらず、大会で良い成績を収めると、アルバイトをしていたテニススクールの時給が上がるので、それ目当てでの大会参加 ―― テニススクールでコーチのアルバイトをしていたのならば、ということで近くのテニスコートを借り、彼女はキスリングからテニスを教わることにした。

 

―― そうよねー。当たり前よねー

 

 テニスを教わるのだから、テニスウェアに着替えるのだが、彼女が着ているのは、いつもと変わらぬ長さのドレス。

 丈の短いスカートをはきたかったわけではないが、彼女の記憶では、テニスはかなり丈の短いウェアだったため、いつものドレスと変わらぬウェアを出された時の衝撃は、用意した彼らには分からない、かなり大きなものであった。

 

 腰の部分が広く取られているドレスウェアに身をくるみ、あまりつばの大きくないストローハットを被り、ラケットを持ちキスリングに習う。

 

「キスリング、打ち方教えて」

「はい」

 

 まったくの初心者の彼女に教えるために、ラケットを握っている彼女の手を握りしめ、持っていたボールを ――

 

「どうしたの? キスリング」

 

 ボールはコートに転がっただけ。

 

「御手が折れてしまいそうで」

「そんなことないわよ。大丈夫よ。結構丈夫よ。ねえ、フェルナー。私の手、見た目より丈夫よね?」

「ジークリンデさまのご意見に、一ミリたりとも同意できぬ不肖の部下をお許しください。といいますか、そうなることが分かっていたから、レオンハルトさま、ジークリンデさまにテニスを習わせなかったんですよ」

 

 ボールを打つために手に力を込めると、握っている彼女の手を壊してしまいそうだということで、その教え方は無しということに。

 

 彼女は試合に出るわけでもないので、五回ほど素振りをさせたあと、キスリングに相手をしてもらい、好き勝手に打ってみたり、

 

「プロ級のサーブを間近で見てみたいから、打ってみて」

 

 キスリングのサーブは200㎞を越えると聞き、是非とも体感してみたいと反対側のコートで頼む。

 

「嫌です」

 

 彼女の頼みはなんでも聞いてしまうのだが、コレばかりは聞けなかった。

 

「えー。駄目なの」

「そ、そんな顔なされても、駄目です。失敗したら……」

 

 当てない自信はあるが、万が一のことを考えたらとても打てないと、光沢のあるベージュのドレスと、ひまわりのコサージュで飾られたストローハットがよく似合う彼女に、まっすぐ見つめられキスリングは困ったが、自分自身を過信せず、断ったことに対する罪悪感を覚えながらも ―― リュッケとフェルナー相手に、200㎞越のサーブを披露することで、我慢してもらうことにした。

 

「当たったら、痛いだろうな」

「ですね、フェルナー少将。でもキスリングさん、上手なはずですし」

「プロでもジークリンデさまに気を取られて、失敗することは珍しくない。狙撃犯がスコープをのぞき込んで、その美しさに戦意喪失したこともあるくらいに。逆もまたしかり。その場合は漏れなく失敗する」

「怖いこと言わないでください、フェルナー少将」

「くるぞ、凶悪なのが」

「な、なんですか?」

「ジークリンデさまの声援」

 普段のキスリングならきっと失敗しないだろうと、フェルナーも思っている。だが、ここには彼女がいる。

 

「キスリング、頑張って!」

 

 歌うように軽やかに、彼女がキスリングを応援する ―― 二人に当たったかどうかは、どうでも良いとして、

 

「ジークリンデさまの声援で、人生でもっとも良いサーブが打てました」

 

 彼女に最高のサーブを見せることができた。

 


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