彼女は乗馬しやすいロングスリーブのエンパイヤドレスに、つば付きの帽子。
胸元には花を挿して、地上車で馬を預けている牧場へと向かった。
この辺りは門閥貴族が、馬を飼育するための牧場がいたるところにある。
彼女が景色を楽しめるように、あまりスピードを出さずに走らせた。牧場に到着し地上車から、美しい緑が広がる中へと降りる。
視線の先、柵の向こう側にはかつてフェザーンで買い求めた黒馬バビエカが、草を食んでいる姿があった。
彼女が歩き出すと、バビエカは足音に気付いたかのように顔を上げる。
「久しぶりね」
問いかけにバビエカは嘶きを上げることはなかったが、ずっと彼女を見つめているかのようであった。
リュッケがトランクから持参した鞍や鐙を取り出し、乗馬の準備を整える。
バビエカは大人しくリュッケを背に乗せた。そして騎乗の人となったリュッケの手を借りて、彼女も馬上へ。
僅かな高さで変わってしまう視界。それは懐かしいものでもあった。
リュッケは彼女を前に乗せて、黒馬を歩かせる。
独特の揺れと蹄が大地を蹴る音を感じながら、彼女は目を閉じた。
リュッケは広い牧場を一周てから、もう一周するかどうかを尋ねる。
彼女は首を振り、目蓋を開く。
「リュッケ。この黒馬、もらってくれない?」
夫が気に入っていた馬だということもあり、彼の死後も手元に置いていた彼女だが、それなりの名馬を、何もせず埋もれさせてしまうのも忍びないと考え直し、乗馬が得意なリュッケに譲ろうと決めた。
「とても嬉しいのですが、維持費を工面できないので」
手綱を握っていたリュッケは、彫像のような彼女の横顔に正直に答える。
「それは私が持つわ。たまにここに来て、バビエカを走らせるだけでいいの」
「……かしこまりました」
「ありがとう。フェルナー、降りるわ」
呼ばれたフェルナーが彼女の元へと駆け寄り、腰を掴んで馬から下ろす。
こうしてリュッケは牧場ごと、黒馬バビエカを受け取ることになる。
**********
彼女が列車で移動している間に、ラインハルトたちは帰還する。
それと前後して、リッテンハイム侯とその部下が取った、原作と同じような非常識な行動を喧伝し、人気取りを行った。
門閥貴族に対して不満を持っている者たちは、喝采を持って彼らを出迎える。
ただ、ラインハルトたちの戦果に喜ぶ彼らだが、帝政ではなくなることを望んでいるものはいなかった。そういった思想の持ち主は摘発されるということもあるが、彼らは長い歴史の中で、名君が立てば自分たちの生活が劇的に良くなることを知っていることもあり ―― ラインハルトの台頭を受け入れても、劇的な変化が望めない支配方法が変わることは、ほとんどの者が希望しなかった。
ラインハルトの帰還を知らない彼女は、牧場を去り、列車でもう一泊し、山荘近くの駅で列車から降り、待機している地上車に乗り目的地であるフロイデンの山荘へ。
夏を迎えた山々だが、山肌に残る白い雪が、高地特有の涼しさを、彼女が滞在するあたりに届ける。
「ジークリンデさま、登録お願いします」
「分かりました」
美しき山並みを背にしている山荘入り口で、ジークリンデはフェルナーが持っている端末画面の「登録方法」を読みつつ、リュッケとキスリングの登録を行う。
「立ち入り制限があるとは知りませんでした」
細く長い指で、フェルナーに言われる通りにキーに触れ、彼らの軍人登録番号を入力する。
(キー部分で生体承認が行われているので、他者が登録するのは不可)
彼女はこのような操作をほとんど行うことがないため、その動きはぎこちない。
「あら? 間違ったみたい。えっと7886MB49……」
キスリングの登録は簡単に終わったのだが、続いてリュッケの番号を入力したところ「登録不可」の文字がモニターに現れたので、彼女はリュッケの登録番号が書かれているメモを見直す。
そんな彼女の頭上でフェルナーとキスリングは視線を交わし、頷いてからリュッケの方を見た。
「フェルナー。これ再入力はどうするの?」
下手に触ってはいけないと、ジークリンデは端末から指を離して尋ねる。
「ジークリンデさま。ちょっとお待ちいただけますか? 調べてみないと分かりませんが、どうもシステム側のエラーのようですので」
「私、なにか変なところに触れてしまいました?」
「いいえ。あとは待っていただきます」
彼女が登録している間に、山荘前に中心部に鉄製のすかしが入っている、木製の長方形のテーブル、同じようなすかしが入っている背もたれのあるベンチが設置されている。
彼らが山荘内の掃除をする間、彼女はそこに座り、茶を飲み本を読んで景色を楽しむことになっていた。
彼女がベンチに腰を下ろすと、担当者がハンギングタイプのガーデンパラソルで彼女のために日陰を作る。
「リュッケ」
彼女が座って本を読み始めたのを確認してから、フェルナーがリュッケに声をかけた。
「はい、フェルナー少将」
彼女はなんらかのエラーだと考えたが ―― 登録不可は間違いなく登録不可。
「お前、レオンハルトさまの不興を買った覚えはないか?」
故人となったフレーゲル男爵が、妻に近づけたくない輩を軒並み登録した結果以外の何物でもない。
「え……」
リュッケは黙っているだけで嫌われるようなタイプではない。むろん、黙っているだけで好感度が上がる彼女のような性質でもないが、見た目は軍人らしくはなく、いま玄関前で声をひそめて問いただしているフェルナーよりは、ずっと好青年的で人当たりも良い。
「どこかで会ったことはないか」
「会った……という表現が正しいかどうかは分かりませんが、男爵閣下が参加していた馬術大会に、借り出されたことはあります。ですが話など、したことはありません」
「話はしたことはない、それは信用する。そこで”レオンハルトさまの奥様は美人らしい”などと話してはいなかったか?」
「…………あ、話してました。いや、でも、男爵閣下御本人の前ではそんなことは」
リュッケはフェルナーと同じく「あのボックス席に、男爵の奥方さまがいらっしゃる」と、友人たちと、内側が見えないことを知りながら視線を向けて、軽くそんな話をしていた。
もちろんリュッケに他意はない。ただ噂になる高貴な貴婦人がいるらしいことに、その人物が稀な美しさを持っていることに ―― 暇な時間を潰すための、他愛のない会話だった。
むろん若者らしい憧れもあったが、それは本当に憧れにしか過ぎなかった。
「多分聞かれていたな。……卿は顔だちが良いからな」
フェルナーが目を細めて視線を逸らす。
「いやいや。小官は、その!」
「要するに嫉妬ですか」
辺境任務が多かったため、生前のフレーゲル男爵とかすりもしなかったキスリングが、その器の小ささにやや困惑気味に尋ねる。
「そうだ。あの方の器の小ささエピソードは、枚挙にいとまがない」
フェルナーは目頭を摘まむようにして、いつも曖昧を装う彼には珍しい、はっきりとした苦悩の表情を浮かべた。
―― フェルナーが困ってるようですけれど……直せないのかしら
本を読んでいるふりをしながら、ちらちらと彼らをうかがっていた彼女は、フェルナーのその表情に事態が深刻なのだろうかと、内心はらはらしながら見守っていた。
何にせよリュッケの登録は不可能。
このシステムを購入した会社に依頼をすれば可能だが、
「フェルナーさんが入れないなら問題ですが、リュッケが入れないのは別に……なあ」
そこまでしてリュッケを山荘に立ち入らせる必要もないのでは? キスリングは、当のリュッケに同意を求めた。
「はい。なんら問題はないかと。小官は山荘の周囲の警備を担当させていただきます」
リュッケは彼女の髪を洗う訳でもなければ、服選びに役立つわけでもない。
たまたま馬に乗れたので、連れてこられ、そのまま警備を任せられそうになったまで。
ここでリュッケを返して別の者を呼び、登録したところで、彼女の身の回りの世話を担当することはない。
「まあ……」
と言うわけで、立ち入れないリュッケは、山荘の周辺警備を担当させると、掃除を終えたフェルナーが昼食を取り終えた彼女に伝えた。
「不具合ですか?」
「そのようです」
もちろんリュッケが何故登録されないのかについては、しれっと嘘を吐く。
「困ったわね」
「はい。業者を呼べば解決するとは思いますが、せっかくの落ち着いた空間に、知らない人が来るのは嫌でしょう? ジークリンデさま」
「ええ」
「それに、もともと山荘内のことは、私が全部こなす予定でしたので、リュッケは立ち入れなくても問題はないと判断いたしました」
当初から山荘内で生活するのは彼女とフェルナーだけで、キスリングやリュッケは少し離れた位置に止めている、野外活動用の軍車両に寝泊まりすることになっている。
「……」
濡れたような輝きの翡翠色の瞳がフェルナーをじっと見つめる。
「どうなさいました? どうしてもリュッケを室内に入れたいというのでしたら、手配いたしますが」
「それは良いです。ただ……リュッケ、大丈夫なの?」
「なにがでしょうか?」
「フロイデン山脈は、毎年かなりの遭難者が出ていますから。迷子から遭難ということになったら」
「ああ、その心配なら無用です。現在地が分かる装備をさせますし、なにより遭難しそうな場所まで巡回させませんので、ご安心ください」
フェルナーは彼女の誤解を解くことはせず ――
**********
周囲に明かりのない山荘は、日が落ちると星空が美しい闇夜に包まれる。
彼女は窓から外をしばし眺めてから、常夜灯を灯したまま眠りについた。
それから少し時が経ち、フェルナーは音を立てぬよう注意深く静かに扉を開けて、彼女が眠ったことを確認した。彼はいつあの日のことを告げようかと、柔らかな蝋燭の明かりに似た明かりに照らされている、彼女の寝顔を離れた位置から見つめながら考えた。
入院中もずっといつ言うか? 逡巡していたのだが、言い出すタイミングがつかめないでいた。
「……」
だがこれ以上長引かせるわけにはいかないと ―― 明日の午前中に告げる覚悟を決める。
「きっと許してくださるでしょう」
”悲しみ怒るかもしれないが、許してくれる”
彼女の父親を撃つ瞬間から、ずっと頭にあった。そして誰も否定しない。
普段であればフェルナーは喜んでそれを受け入れるが、彼女に対してはそう言う気持ちになれなかった。
理由を突き詰めるような無駄なことはしないが、彼女の無条件の許しはフェルナーには受け入れ難かった。
かといって罰を受けていいものかも悩む。
彼自身はどんな罰でも受ける覚悟はあるが、罰するか否かを判断するのは彼女。
彼女の重荷になるようなことは、フェルナーとしては避けたいのだ。
他の誰かが罰を与えてくれたらとも思ったが『ジークリンデさまが懇願して、刑罰がうやむやになるだけだ』と他者から言われた。言われなくても、彼自身分かっていた。
ただ許されてしまうのが罰なのだろうと ―― 翌朝フェルナーは、
「朝食後にお話したいことがあるのですが、よろしいでしょうか? ジークリンデさま」
メイプルシロップがかかったフレンチトーストに、ナイフを入れていた彼女は手を止めて、パラソルを直しているフェルナーの方を見る。
「いま話せないようなこと?」
「はい」
間髪入れずに返事が返ってきたので、彼女は聞き出すをのを止め、言われた通りにすることにした。
「では急いで食べてしまいますね」
「ゆっくりでよろしいですよ。食後すぐというわけでもありませんので」
―― 何かしら?
昨日の玄関前での登録不可に頭を悩ませていた時とは違い、まったく変わらぬ表情に、彼女は話の内容など気付きようはなかった。
なによりフェルナーが自分の父親を撃ったなど、考えるはずもない。
食後すぐではなくてもいいと言われたが、彼女としては気になって仕方がなく、いつ話してくれるのかしら? と、笑顔を浮かべてフェルナーのほうを”ちらり”と見る。
その笑顔から、心の傷が癒えてきたことがわかる分、言い出しづらい気持ちが大きくなる。
「歩きながらでも宜しいでしょうか?」
「いいわよ」
彼女は貴婦人らしからぬ勢いで椅子から立ち上がり、外を歩くための靴に履き替えるために山荘へと急ぐ。ドレスの両端を持ち軽やかに、木製の五段ほどの階段を軽快に駆け上がった。
「そんなに急がなくても結構です」
そう声をかけてきたフェルナーに見返り、
「いや。すぐ聞かせて欲しいの。早くきて頂戴、フェルナー」
そう言い部屋へと戻った。足取りはとても軽く、その踊っているかのような足音を聞き、目で追っていたフェルナーの心は沈む。
「あんなに嬉しそうに言われたら、言い出しづらい」
そうこぼしたフェルナーに、事情を知っているキスリングやリュッケは、かける言葉はなかった。
―― 散策しながら話って、なにかしら
予想していた惨劇に遭遇し、終わってしまった彼女にとって、それ以上悪い知らせなど思いつきもしない。
遅れてやってきたフェルナーが、履き替えた彼女の靴の紐を結ぶ。
帽子は前側につばがつき、両サイドには幅広のリボンがあり、それを顎の下で結ぶタイプのもの。
ドレスはバッスルスタイルで、上側は帽子と同じく淡い桜色、裾は銀糸のレースが五重に重ねられている。
山を歩くような格好ではないが、彼女が外出するのには相応しい格好。そしてフェルナーはアイボリーの日傘を持った。
「少し一緒に歩いてくださいますか?」
彼女は快く応じ、日傘を差したフェルナーと共に、この山荘のために作られた小径を歩く。山荘がまだ見える位置あたりでフェルナーは足を止め、彼女に調子を尋ねた。
「お疲れではありませんか?」
「平気よ。多分ですけれど」
彼女があまりにも楽しそうな表情をするので、フェルナーは彼女の腕を掴んで足を止める。
「ジークリンデさま……」
「なに、フェルナー」
不意に腕を掴まれた彼女は、隣に立っていたフェルナーのほうへと体を向けた。
「私が旦那さまを撃ち殺しました」
傷つく事実であることは確実。ならば、遠回しに喋るよりはと、最後の断片だけを伝える。
彼女が傷つくことは分かっていたが、言葉を選んだところで何も変わらないとばかりに。
「そう……ですか」
彼女はフェルナーの言葉をすぐに理解し”くすり”と笑った。
さすがに彼女が笑うとは、フェルナーも想定していなかったので、その反応にフェルナーの方が狼狽する。
「ジークリンデさま?」
「正直に話してくれてありがとう。あとは気にしなくていいわ」
きっと、どうしようもない事情があったのだろう ―― 自分の信頼に今まで期待以上に応えてくれていたフェルナーの告白を、彼女なりに全て受け止めた。
「詳しく聞きたいとは思いませんか?」
「フェルナーが話してもいいというのなら。でも、無理はしなくて良いわ」
「……」
日傘を彼女の頭上に掲げたまま、今度はフェルナーが笑った。それはとても優しげで、語りたそうでもあったので、喋るように促す。
「困らせてしまったようね。いいわ、聞かせて頂戴」
「はい」
そしてフェルナーは、できるだけ感情を込めずに淡々と、リヒテンラーデ公から連絡が届き、カタリナの邸へと向かい、そこからフライリヒラート邸へと急いだが、なにも出来ず、伯爵から殺すように命じられたことを告げた。
「そうでしたか」
「旦那さまは最後まで、ジークリンデさまの幸せを願っておいででした」
フライリヒラート伯爵の最後の言葉「娘を返せ、金髪の孺子」を言い換えて、彼女に伝える。
「そう……そうですか」
憤怒を抱えて死んだと伝えるよりは、幸せを願って撃たれたほうが、幾らか彼女の気持ちも楽だろうと。
「はい」
「お父さまの最後の言葉まで伝えてくれて、ありがとう。あの場にあなたが居てくれて、本当に良かった。でも嫌な仕事を押しつけてしまいましたね」
「本来でしたら、お守りしなければならないところ、力及ばず」
「気に病む必要はないわ。現フライリヒラート家の当主である私が、そう言っているのですから」
彼女はフェルナーの頬に、両手を添えて、やや首を傾げるようにして頷く。
この話はこれで終わったと思い、”もう良いですよ”とばかりに彼女は再び笑顔に。ベージュの口紅を乗せた口角が、形良く上がる。
だがこの話はまだ終わっていなかった。
「ジークリンデさま。実は……」
”それで、フェルナーの罪状については、ジークリンデに決めさせましょう”
カタリナからの指示とは言わなかったが、フェルナーを裁くのはジークリンデになっていることを説明した。
「私があなたを裁く? ……私の感情だけで決めていいの?」
フェルナーの頬に両手を添えたまま、彼女は自分の役割を聞き、少し手に力を込めて自分の方へと引き寄せる。
「はい」
「私はあなたを罪に問うつもりはありません」
まっすぐ目を見て迷いなく、彼女はすぐに言い切った。
「そう仰るとも思っていました」
「じゃあ、これで終わりにしましょうね……どうしました?」
「我が儘を言ってもよろしいでしょうか」
彼女が自分のことを許してくれることは、分かっていた。だからこそ ―― なにがしかの罰を与えて欲しいと言いかけたフェルナー。
「罰して欲しい?」
知っていたはずなのに助けられなかった ―― 彼女にもその気持ちは分かる。
「ジークリンデさま……」
「私があなたに、なにかの罰を与えればいいのでしょう……待って、いま考えるから」
長い睫を瞬かせ、唇が触れそうなほど近い位置で、彼女はしばし考える。
「そうだ。私が死ななくてはならなくなった時のために、薬を用意して。フライリヒラート家最後の一人として、礼を失することのないように死にたいから」
フェルナーは自分の頬に当てられている、手袋をはめた彼女の手に自分の手を乗せて、違うものにしてくださいませんかと。
「そんなこと、ないように努力いたしますので」
「努力ではどうにもならないことも、あるでしょう」
「ですが」
「信頼しているのですよ。私が死ぬとき、あなたは側にいてくれると、信じているからこそ。私は弱い人間だから、きっと自分では自害のための薬を飲むことができないでしょう。だから私に、どんな手段を用いてもいいから飲ませてちょうだい。罰らしい罰だと思うけど、どうかしら?」
フェルナーは触れているだけだった手に力を軽く込めて握る。
「自分から望んだことですので、その命、賜りますが……罰を望まなければ良かったというのが本音です」
「あんまり苦しくないのがいいです。あと苦いのも嫌ですけれど。薬で死後、死体が膨れあがるとかは……」
「ああ、自分で話題を振っておきながらですが、そういう具体的な話はしないでくださいジークリンデさま。決して銃で自害などという事態にはならぬよう、しっかりと用意いたします。だからもう、お許しください」