黒絹の皇妃   作:朱緒

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第144話

「止めて」

 

 実家があった場所が見えたところで、彼女は停車を命じた。

 以前はすでに門が見えた位置だが、いま見ることができるのは、立ち入り禁止を現す黄色いテープと衛兵だけ。

 

 地上車から降りた彼女は僅かな距離だが徒歩で近づき、随分と色褪せてしまった門柱に触れる。

 衛兵たちが彼女に敬礼したが、その姿を見る余裕はない。

 そこから先には、まばゆい程の純白の邸が目に飛び込んで来るはずなのだが ―― そこに広がっていたのは、廃墟としか表現のできない風景が広がっていた。

 かつては邸や庭の樹木などに隠されて、正面からは見ることができなかった裏門まで臨むことが出来る状態。

 

「結構広い家だったのね」

 

 彼女自身、大きな邸だったことは実感していたが、正面から裏口まで見ると、改めてそう言いたくもなるような敷地であった。

 

「とっても広いお屋敷でしたよ」

 

 斜め後ろに控えているフェルナーが、空に消えそうだった彼女の呟きに答えた。彼女はそのまま、朽ちて境界線がはっきりとしないが、見当を付けて外周を歩き、伯爵の書斎があった場所を捜す。

 

「お父さまの書斎はこの辺りかしら?」

 

 目印になるものが、ほとんどないので、彼女は感覚で指さす。

 

「もう少し東側かと」

 

 フェルナーは若干東よりの部分を指さした。

「そこまで連れていって」

 

 彼女はドレスの裾を軽く持ち上げて、もう片方の手をフェルナーに差し出す。

 彼はその手をとって、前に進み出て瓦礫を蹴り、彼女が歩けるよう道を作り、手を引いて進む。

 ガラスの破片や一部だけ焼け残った額縁などの隙間を抜け、本棚の一部らしきものが残っている場所へとたどり着いた。

 

「こちらかと」

「そうですか……」

 

 フェルナーにそう言われ、彼女は辺りを見回す。

 焼け落ち焦げ崩れ落ちた壁に、証拠を求めるが ―― かつて伯爵の書斎の壁紙がどうであったか、彼女には思い出すことができなかった。

 だからフェルナーが言った通り、ここが書斎なのだろうと、彼女はもはや主のいないそこで、深々と頭を下げた。

 

「申し訳ございませんでした」

 

 ぼやけてしまった記憶ながら、未来を知っていたのだから、死んでしまった人々に対して、もう少しなにか出来たはず ―― 結局はなにもできはしなかったのだが。

 それでも”何かできたのではないか”と、焼け落ち廃墟と化した邸跡を前に、思わずにはいられなかった。

 

 かなり日は経っているが、撤去していないこともあり、まだ焦げ臭さが残っている。

 

「少し歩かれますか?」

「そうね」

 

 フェルナーに手を引かれて、焼け落ちた瓦礫の隙間を縫いながら歩く。

 その焼け残ったものに、名残を求めて ―― 名残があったところで、廃棄されるだけなのだが。

 

 それほどの距離ではないが歩き、彼女は足を止めた。

 

「どうなさいました?」

「……疲れてしまって」

 

 彼女の脚力はまだ衰えたまま。以前のつもりで歩いていたところ、足が止まってしまった。

 

「では」

 

 フェルナーは彼女を肩に担ぐ。

 

「戻ります? それとも、もう少しこの辺りを歩きますか?」

 

 彼女はフェルナーの肩に腕を乗せて上半身を起こして、周囲を見回した。

 

「そうね……病み上がりのフェルナーに無理をさせるわけにはいきませんから、戻ります」

「私のことはお気になさらずに。いくらでも歩けますよ。なんなら走っても」

「いいです。……行きましょう」

「かしこまりました」

 

 フェルナーは瓦礫を蹴るようにして建物跡から離れ、庭だった場所へと出て、地上車が待機している玄関跡へと進む。

 

「フェルナー」

「はい、なんでしょう」

 

 フェルナーの視線の先には地上車。担がれ進行方向とは反対を見ている彼女の視界には、遠ざかる庭。

 

「今年の薔薇は、どんな薔薇だったのでしょうね」

 

 建物は破壊されたが、草木は芽を出している。その僅かな緑は彼女の胸中を落ち着かせた。

 

「フロレンツは白い薔薇だと言っていました」

「そうでしたか……」

 

 死んでしまった庭師の青年の笑顔を思い出し、彼女は目を閉じた。

 

「ジークリンデさま」

「なに? フェルナー」

「あの……あ、いえ」

 

―― あの約束をした時から八年後、今から二年後、このフェルナーと一緒に薔薇を見てくださいますか? ――

 

 かつての約束を改めて言おうとしたフェルナーだが、自分がこれから彼女に家族を殺害したことを告げなくてはならない立場にあることを思い出し、言葉を濁した。

 

「なんですか? 気になりますよ、フェルナー」

「え? 気になります? ジークリンデさま」

 

 体をねじり自分をのぞき込んでくる彼女に、フェルナーは笑顔を向けた ―― つもりだったのだが、その表情に影があったので、彼女は引き下がった。

 

「……あ、いいです」

「そんな簡単に引き下がられると、言いたくなっちゃうんですけど」

「無理しなくていいです。無理強いはしないわ」

 

 彼女は顔を背けて、体を逆方向にねじり離れようと体重を移動させる。それによりバランスを崩しかけたフェルナーが急いで腕に力を入れ直し、彼女を落とさないように、自分の体の重心を変える。

 

「離れないでください、ジークリンデさま」

「分かりました」

 

 地上車の前で下ろされた彼女は、そのまま倒れ込むようにして後部座席に腰を下ろした。

 

「靴紐、ほどけてますね」

 

 乱雑に座ったためドレスの裾が乱れ、靴があらわになり、同時に靴紐がほどけているのが分かった。

 

「そうね」

「お待ちください」

 

 フェルナーはポケットから手袋を取り出してはめ、膝をついて靴紐を結び直す。

 

「きつくはありませんか?」

「大丈夫よ」

 

 そして手袋で靴を軽く撫でて拭き、甲の部分に軽く口づけた。

 

「突然どうしたの?」

 

 彼女は足に口づけられるのはあまり好きではない。まして足の甲は「隷属」を意味する ―― 彼女はフェルナーに対して、そのようなことは望んではいない。

 

「誓いを新たに」

「足は止めなさい。それなら額や頬のほうが良いです」

「偶にですからお許しください」

 

 彼女はフェルナーの手にある足を上げ、車中に引っ込めた。

 

「偶になら許してあげます」

「ありがとうございます」

「ところでフェルナー」

「はい」

「フライリヒラート邸跡、更地にして」

「畏まりました」

 

 フェルナーが彼女の隣に座り、リュッケがドアを閉め、キスリングの運転で走り出す。

 

 彼女は遠ざかる跡地を振り返ることはなく、

 

「ところでフェルナー」

「なんでしょう」

「あの跡地、売れると思います?」

 

 十年少々しか住まなかった邸だが、家族との思い出が詰まった場所。それが奪われ消え去った今、所持しているのは彼女には辛かったので、売りに出そうかと考えた。

 だが隠しようがないほどの惨劇のあった場所なので、売れるかどうか?

 

「無理じゃないでしょうかね」

「やっぱり無理ですか。あれだけ人が殺されていたら……」

 

 ”そうよね”と彼女は表情を曇らせる。

 

「それもありますが、今の帝国にあれだけの土地を買える人は、そういませんから」

「……」

「内乱で色々あって、財産的に苦しい家もちらほら。あの広大な一等地を買って維持できる貴族は、そうはいないことでしょう。購入できる門閥貴族もいますが、土地だけ買っても。門閥貴族は、大体邸とか庭とか込みで買うじゃないですか。だから、購入を打診してくる方もいませんし」

 

 彼女はいまだ内乱中だと勘違いさせられているのだが、内乱後に多くの門閥貴族が財産を失うことを知っているため、フェルナーの台詞を深読みするでもなく、すんなりと受け入れた。

 

「私が所持して管理していたほうが、良いのかしら?」

「権勢のある門閥貴族が所持している土地という肩書きは、治安維持にはもってこいですから、帝国としては所持していて欲しいことでしょう」

「帝室に返還するのは?」

「それは構いませんが、いまの帝国に返還された土地を維持管理する能力があるかどうか。ちょっとした人手不足で」

「ないのですね?」

 

 フェルナーの受け答えから、帝国は土地を管理する能力が衰えていることを察した彼女は、帝国が落ち着くまで跡地を責任を持って管理することにした。

 

―― 帝国が落ち着くのは、いつ頃かしら

 

 跡地を公園にたらどうだろうか? など、とりとめの無いことを彼女は考えるが、やはり惨劇の現場になったという事実が、彼女にためらわせた。

 

 

**********

 

 このように考えていた彼女だが、結局この実家跡地をどうすることもなかった。忘れてしまったというよりは、忙しくなり、そこまで手が回らなくなってしまったのだ。

 では邸跡地はどうなったか?

 のちに彼女からローエングラム公爵を受け継いだ人物が、その邸跡地を整備する。

 敷地は苅り揃えられた青々とした芝生が広がり、その中心に彼女に贈る、短い言葉だけが書かれた大理石碑が建てられた。

 彼女の最期が最期なので、その文面に関しては賛否両論があるが、彼女を偲ぶために建てられたものであるのは、誰も否定しない。

 その碑とは墓のない彼女を偲べる場所として、参拝者が途絶えることはなかった。

 

**********

 

 

 大まかな歴史は分かっても、自分の未来など分からない彼女は、窓の外を眺め ―― そして地上車は駅に到着し、彼女は装甲車両が連結された、自家用列車に乗り込む。

 

「明日には牧場に到着しますので。久しぶりに車中泊をお楽しみください」

 

 高速車両で移動すればすぐだが、時間をかけてゆっくりと。

 門閥貴族は金も時間もあるので、あえて無駄を楽しむもの。

 

「牧場から山荘までも一泊ですか?」

「そうなります。車中泊がお嫌でしたら、ホテルを取りますよ」

 

 フェルナーはホテルを取るとは言ったものの、実際はホテルに宿泊されるとテレビ放送で帰還を知ってしまうので困る。

 テレビを排除したとしても、ホテルの従業員が「旦那様、お見事でしたね」などと、好意的に漏らす可能性もある。

 ならば、何故そんなことを言ったのか?

 

「山荘に到着するまでは、車中泊で構いません。関係のない人を巻き込んでしまうことは回避したいので」

「そうおっしゃると、思っておりました」

 

 彼女がホテルに泊まると言わないことを、分かってのこと。

 大人しくしてくれるのは嬉しいことだが、外へ出たがる生来の彼女の気質を押さえつけていることを承知しているため、少しどころではない罪悪感も抱えていた。

 

 そんな僅かな日程の列車旅だが、人員は最小限に抑えていた。どれほど少ないかと言えば、給仕はおらず、小間使い一人いないほど。

 この徹底的な排除は、ラインハルトの帰還を彼女に教えないためのもの。

 当の彼女は、このような状況では、軍人以外の者を側に置くのは好まないので、この状況を喜んで受け入れていた。

 彼女は召使いがいなくても、さほど不便を感じない過去と性格。

 過去は誰も知らないが、不満を漏らさず、不便も前向きに受け入れる性格は、周囲の者たちも知っている。

 もちろんその性格に彼らが甘えることはない。

 彼女の側には、フェルナーがいる。

 生来の器用さと、他者が呆気にとられるほどの要領の良さ。それらに彼にはないと思われがちな真剣さが足された態度で、彼女の食事を運び、着替えの手伝いをし、髪を洗い梳く。

 

「かゆいところなどは、ありませんか?」

「ないわよ」

 

 彼女は洗髪台でフェルナーに髪を洗ってもらう。

 

「髪、伸びましたね」

「ええ。また以前と同じくらいまで伸ばすつもり」

 

 軍人とは思えぬ器用さを発揮して、甲斐甲斐しく彼女の身の回りの世話をやく。

 

「キスリング中佐」

「なんだリュッケ」

「フェルナー少将は以前、公爵夫人の専任護衛でしたよね」

「そうだ」

「専任護衛って、護衛だけじゃ駄目なんですね」

「そうだな……だが、俺はあんなに器用じゃない」

 

 リュッケはフェルナーが当たり前のようにこなす、数々の雑事に感動すら覚えていた。

 

**********

 

「できないよりは、できたほうがいいだろうな」

 

 キスリングから彼女の身の回りの世話をした方が良いかどうかを問われたフェルナーは、上を見るようにして少し考える。

 

「そうですか」

「相手がジークリンデさまだから難しいような気がするだけだ。従卒気分で仕えればなんとかなる」

「そうですね……でも、従卒経験もありませんし、従卒付けられたこともないので」

 

 帝国では従卒は、高級将校につくので、キスリングは彼らと接したことはない。

 帝国の従卒といえば、すぐに幼年学校の幼い若者を思い浮かべてしまうが、幼年学校の生徒は少なく、ヤンがエコニアで知り合ったチャン・タオ一等兵のような従卒のほうが、はるかに多い。

 

「熟練の従卒を手配するか?」

「大佐からでしょう」

 

 帝国では高級将校は大佐以上をさすので、中佐のキスリングはその条件に到達していない。

 

「大佐に昇進するか? ってことだ」

「なんで?」

 

 つい先日、中佐に昇進したばかりのキスリングは、怪訝さをまったく隠さず。

 

「今回の内乱で貴族将校が大量に死んだので上が空いた。エッシェンバッハ元帥が自分の部下の地位を上げるから、ついでにどうだ?」

「ついで、でもらって良いものなんですか?」

「帝国の人事はそんなもんだ。卿もそう感じることは往々にしてあるだろう」

「いつもそう思っていましたが」

 

 貴族は別枠で平民とは違う速さで出世し、それ以外は上に気に入られているか、いないかで出世の速さが決まる。

 実力だけで評価されないことを不服に感じる者も多いが「上に取り入ることができるのも実力」と言われてしまえばそれまで。

 

「覚えているだろう? 叛徒にイゼルローン要塞を奪われた際、エッシェンバッハ元帥が三長官を兼任するのでは? と言われたほどに、帝国の人事は私情で動く」

 

 ヴェストパーレ男爵夫人がアンネローゼに「あなたがおねだりすれば……」と言っていたように、皇帝の気持ち一つで、二十歳そこそこの青年が三長官を兼任することも可能だと ―― 帝国の多くの者は、疑いをいだくこともなかった。

 役職は、そういった決め方をされることも往々にしてある。

 

「そうですが……まだ中佐でいいです」

 

 キスリングは昇進に興味がないタイプではないが、とくに何の功績もあげていないのに大佐の地位に就くのは、いささか抵抗があった。

 

「欲がないタイプ?」

 

 彼は自分の実力を過信してはいないが、いま、自分自身が正当に評価されて昇進できるところで働いていることを確信できたので、真面目に責務を果たし、推薦をもらい、順当に昇進していけたらと ―― ある意味、贅沢な希望を持った。

 それ以外にも、理由はある。

 彼は自分が大佐になるのは、まだ早いと考えた。

 

「違います。まだまだ、覚えるべきことがあるので」

「具体的には?」

「ジークリンデさまの御髪を洗ったりとか」

 

 警護については自信はあるが、さきほどのフェルナーのような行動をとれる気がしない。

 それは警護の軍人の任務外だが、

 

「それはできないでも、構わないが……いや、できたほうがいいか。ジークリンデさまは、襲撃から逃れたあとは、召使いが側に近寄るのも嫌がるからな」

 

 出来ないよりは出来た方が良いと、彼女の小間使いが諸手を挙げて降参するほど世話をするのが得意なフェルナーが、同意をする。

 

「フェルナーさんは、すぐに近づいても大丈夫なんですね」

「今は……な。仕えて間もない頃、誘拐未遂事件後に顔を出したら、即座に”下がって”と言われたことがある」

「ショックですね」

「ああ。すぐに改めて呼んでくださったが、扉を開けて入るのに、随分と勇気が要った」

 

 フェルナーは彼女の寝室に繋がる扉へと視線を移す。

 

 いまフェルナーとキスリングがいるのは、主寝室用車両の一角で、彼らが寝泊まりする場所でもある。

 寝室用車両は通路から、この彼らが控えている部屋を通らなければ、主寝室に入ることができない造り。

 いま彼女が休んでいる主寝室は、職人が織り上げた絨毯が敷き詰められ、邸と同じような大きなベッドが据え付けられ、窓には黒みがかったベルベットのドレープカーテン、天井には大型クリスタルのシャンデリア、壁は薄い青に金で百合の花が描かれ ―― 門閥貴族の自家用車両らしいものであった。

 では門番を兼ねている彼らが寝泊まりする部分はどうか?

 そこだけ内装が劣っているようなことはない。

 むろんベッドやその他の設備も小さいが、品物そのものは、彼女が使っても良いほどのグレードのもので揃えられている。

 寝室に入る際に、どうしてもその部分を通るせいもあるが、彼女としては単純に「良い部屋」で休んで、万全の体制で自分を守って欲しいと願ったことも大きい。

 

「リュッケに任せて休みますか」

 

 彼女が休んでいる主寝室のカーテンと同じ、分厚い暗めの青いベルベット生地のドレープカーテンで目隠しされているベッドに腰をかけて話していた二人は、休めるときには休まなければいけないのだが、

 

「……リュッケに任せて大丈夫だと思うか?」

「大丈夫なのではないでしょうか……」

 

 内側の警備と小間使い代わりを兼ねて、リュッケが主寝室の隅で彼女の眠りを見守っている。

 

「そうだな」

 

 リュッケが彼女に対し、愚かなまねをすることを疑っているのではない。

 彼女が元帥府に滞在していた時は、多少問題はあったが、任務をこなしていた ―― その多少が、いまの状況。

 それは休んでいる彼女の警護につくと、彼女を起こしてしまうというもの。

 眠りを妨げぬよう、気配を消し、音を立てぬように気を使えば使うほど、リュッケは止まらないクシャミに襲われたり、普段ではぶつからないような置物の角に激突したりと、眠りを妨げることにかけて、なかなかの達人であった。

 

 ちなみにこの夜リュッケは、なぜかしゃっくりが止まらず、目を覚ました彼女が枕元の水を飲むように勧めることに。”ジークリンデさまのお飲み物に口をつけるわけには”と、リュッケは寝室を出る許可を入り口控えの彼らに求めて、彼女を起こしてしまったことを”また”注意されることに。

 

 その後警備はキスリングに変わり ―― それ以外は、列車は何事もなく、翌日の午前には牧場近くの駅に到着した。


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