第143話
帝国歴四八八年六月。フライリヒラート邸の庭にて ――
「今年も極上の薔薇を咲かせると、言っていたな、フロレンツ」
目蓋も治り退院したフェルナーは、彼女のいる元帥府へ向かう前に、廃墟と化したフライリヒラート邸へと立ち寄った。
彼女が所持している他の邸跡地は、すでに更地になっているのだが、実家だけは、自分が足を運ぶ時まで、そのままにしていて欲しいと、たっての希望により、焼け焦げ朽ちたその姿まま残されていた。
黒く焼け焦げた建物と、芽生えた緑。
生命感と同時に、手入れされていない草花は、跡地の退廃ぶりをも強調する。
『このオレンジ色の薔薇綺麗ね、フェルナー』
『そうですね』
「……」
フェルナーは目を閉じて、しばし上を向く。
「お嬢さまに似合う、白い薔薇を咲かせるって言ってたが、どんな薔薇だ」
焼け焦げた庭師を思い出し、フェルナーは責めるかのように呟いた。
際立つ純白の壁が美しかった、在りし日のフライリヒラート邸 ―― 目を開き空を仰ぎ見る。視界を占領する美しい青い空と白い雲。
フェルナーが初めて伯爵邸を訪れた日も、こんな天気の良い日だったと、
「六年後か」
不意に、六年前の十月のことを思い出し、何とも言えない無力感を覚えた。
「ローエングラム公爵夫人のところへ」
いつまでもこうしては居られないと、フェルナーはヴェストファル中佐に声をかけ、地上車に乗り込んだ。
車中でフェルナーは目を閉じ、指を組み、黙ったまま。
彼女がラインハルトの元帥府に到着してもしばらくは微動だにせず。
「閣下」
「寝てはいない」
退院したばかりのフェルナーの体調が優れないのかと、ヴェストファルが声をかけると、フェルナーは何事もないと首を振り、地上車から降りた。
そしてジークリンデが隔離されている区画へと、やや早足で向かった。
誰もが厚顔だと認めるフェルナーだが、彼女に対しては、その横着さ発揮されない。
会いたいと言えば会いたいが、邸にいながら家族を守り切れなかった……どころか、直接手を下した本人。
ここにやってくるまで散々悩んだが、まだ悩み足りず、まっすぐ彼女の元へ行くことができず、オーベルシュタインたちが詰めている部屋へ ――
「なにがあったんですか?」
フェルナーが足を踏み入れた室内は、とても混乱していた。
状況が分からないフェルナーが事情を聞くと、彼女が用意された館のどちらにも移動しないと言い出したと ―― 今まで”警備上の問題です”と言えば、素直に聞き入れてくれていた彼女の拒否は、フェルナーも想定していなかった。だが「嫌だ」と言われたら、無理強いするわけにもいかない。
「珍しいですね。理由は?」
だが理由無しでは、そんなことは言わないだろうと、室内にいる事情を知っている者たちに尋ねた。
フェルナーの問いに全員が一度オーベルシュタインの方を向く。
原因であるオーベルシュタインは、彼らの視線に気付くことなく、机に肘をつき、手に額を預けて俯いていた。
どうやら事情がオーベルシュタインにあることは、フェルナーにも分かったが、思い当たる節はなかった。
とても当人が事情を言えなさそうなので、リュッケが一歩前へと出て、オーベルシュタインが言われた「嫌な理由」を教える。
「新無憂宮内は、パウルさんが立ち入れないので嫌だそうです」
「あー……」
ラインハルトが近づけない場所を厳選した結果、通常ではオーベルシュタインも立ち入ることができない場所に「一時避難」となってしまった。
彼女としては、オーベルシュタインが近くに来られないのは困ると。
「説得はしたのだ」
オーベルシュタインとしては、自分が近づけないことは、些細なことだったことと、
「いままでノイエ=シュタウフェン公爵夫人が特別に許可して下さったこともあり、全員忘れていた」
差別感情がもっとも薄いキャゼルヌが、頭を掻いて苦笑する。
”内乱期間中の特別措置”として、特別に立ち入りが許可されていたことで、すっかりと頭から抜け落ちていた。
ラインハルトが帝国に帰還して、皇帝カザリン・ケートヘンに報告をしたら、内乱は完全に終了となる。そうなれば、特別措置期間も終わる。
「追加でカタリナさまに許可を申し出……たんですね?」
自分でカタリナさまに頼んでみると言いかけたが、彼らの表情から、頼んだことがうかがえた。
「顔見知りということで、取り次いでもらえたのだが」
シューマッハが眉間に皺を寄せ、目を閉じて首を振ってから、拒否された経緯を語った。
そもそも西苑の館に彼女が住めるよう手配してくれたのは、カタリナの力が大きい。そのカタリナに、彼女が拒否している理由を正直に伝えて ―― 特別措置の継続を申し出たのだが、
『あ、そういうこと。ジークリンデってそういうところ、よく気が付くし、優しいわよね。そうよねー。あーうん……嫌よ。別のところを捜しなさい。そのくらい出来るでしょう』
事情を聞いたカタリナから、笑顔で拒否された。
「許可してもらえなかったんですね」
「そうだ。そこで我々はジークリンデさまに”特別許可をもらえるよう、カタリナさまに頼んでみては”と提案したのだが、カタリナさまに迷惑をかける訳にはいかないと、これもジークリンデさまが拒否」
「まあ、そうなるでしょうね。実際、色々と言われるでしょう」
「そこで、オーベルシュタインの家はどうでしょうかと提案したのだが、警備が増えると犬が落ち着かないでしょうからと」
”オーベルシュタインの家に泊まれるのは嬉しいのですけれど、私のせいで執事や犬が今まで通り生活できないのは嫌よ。警備対象から外れたら、是非とも泊まらせて頂戴”
オーベルシュタインの家が候補に挙がったのは、単にそれ以外の者たちは独身で官舎住まい。まさか官舎に彼女を移すわけにもいかず。キャゼルヌは官舎住まいではないが、妻子が住む家に、警備対象になっていると「思い込まされている」自分が住むのは危険だと言うのは目に見えている。独身で相応の邸を持っているのがオーベルシュタインだけだったのだが、だが、当然これも上記の理由で拒否された。
彼らはジークリンデの身の安全を考えて嘘を吐いて、最善の環境を用意するが、それを強制する力はない。
「その名目で隔離続けるんですもんね。……新しい住居の選定はパウルさんたちに任せます。私は一時、ジークリンデさまを連れて首都を離れますね」
住む場所は重要だが、今は元帥府から遠ざけるのが先。
「それがいいな。その間に、邸を用意する」
「ジークリンデさまは襲撃された場合、他に被害が及ばないを希望されるでしょう。その条件で頼みますよ、パウルさん……キャゼルヌ」
計画をことごとく覆す原因となったオーベルシュタインは、彼女の優しさを噛みしめつつ、自分の身の不自由を、心から呪っていた。
「どちらへ?」
荷物の運搬を任されているリュッケは、表情から心当たりがあるのがはっきりと分かるフェルナーに尋ねた。
「フロイデンの山荘に籠もる。あそこなら、世間の喧噪とは無縁で済む」
「では急いで用意します」
彼女は遺産で多くの邸や別荘を受け継いでおり、オーディンだけでも相当な数の建築物を所持しているので、フロイデンの山荘がどこなのか、リュッケは詳しいことを知らない。
むろん”フロイデン”という山脈名が出たので、その辺りなのは分かるが、山脈を挟んで西側なのか、東側なのか? 北側なのか? 南側なのか?
フェルナーは地図に山荘の緯度と経度を打ち込み、表示させる。
「その準備だが、私しかできない」
画像の山荘の玄関を、人差し指で叩くような仕草をしながら、フェルナーは山荘について、簡単な説明をする。
「フェルナー少将だけ?」
「あの山荘は、見た目は簡素だが、なかなか厳重な防犯システムを用いていてな、立ち入れるのは故人となられたフレーゲル男爵閣下に、ご友人のランズベルク伯。山荘はジークリンデさまの為に作ったのだから、当然ジークリンデさま。あと使用人が二名、一名はファーレンハイト、もう一人は私」
夫妻とランズベルク伯の親和性は、もはや語る必要もないであろう。
「ジークリンデさまの権限で、追加登録ができる……まあ、絶対に追加登録ができないヤツも、設定されているが」
「誰ですか?」
「ロイエンタール卿とか。これはフレーゲル男爵閣下の権限でしか削除できない。ジークリンデさまよりも上位権限が必要だから、実質山荘には立ち入れないということだ。なんら問題はないが」
「そうですね」
ちなみにラインハルトは、追加登録拒否リストに加えられてはいない。その当時は、関係は良好だったこともあり、機会があれば招こうかという話すらあった。
山荘までの荷物の運搬等を軽く打ち合わせ、フェルナーは彼女の元へと向かおうと、椅子から勢いよく立ち上がる。
「では、ジークリンデさまにお会いしてく……」
その言葉を待っていたかのように扉が開き、キスリングと共に彼女が現れた。
「フェルナー!」
彼女は歩くよりは速く、だが小走りという程でもない速度で、乱雑に置かれた引っ越し前の荷物を避けてフェルナーへ近づき、顔を見上げて一息入れてから、首に腕を回して抱きついた。
「ただいま戻りました、ジークリンデさま」
「なかなか来てくれないから、心配になって」
彼女はフェルナーが到着したら教えて欲しいとケスラーに依頼した。
依頼を受けたケスラーは、忠実に到着時間を分単位まで正確に彼女に伝える。
報告を受けた彼女は、お茶の用意をして、今か今かとフェルナーを待っていたのだが、一向にやってくる気配がない。
キスリングが”連絡を入れてみます”と申し出たが、彼女はそちらに行きたいと言い出したので、こうして連れてやってきた。
「申し訳ございません」
フェルナーは彼女の背中に片手を回し、もう片方の手を肩に置く。誰が見ても”抱きしめ慣れてるんだろうな”と思わせる仕草。
抱きしめられている彼女も、特に違和感を感じていないのが誰の目にもはっきりと分かる。
「どうしてすぐ来てくれなかったの?」
「ジークリンデさまが、新無憂宮の館は嫌だって言うからですよ」
「それは……」
彼女を殊更物憂げに見せる豊かな睫が震えて、目が大きく見開かれ、口元が僅かに開き、歌うように息をのむ。
「言ってくださって良かったですよ。私たちが言っても、パウルさん聞きませんから。でも他を用意していなかったので、新しい邸が決まるまでの間、フロイデンの山荘でお過ごしください。あそこなら、物々しい警備をしていても目立ちませんし、なにかあった場合でも、周囲に被害が及ぶことはありません。ジークリンデさまの、ご希望通りの場所でしょ?」
二の句をつなげなくなった彼女に、泣いている子供を宥めるかのように、背中をさすり、彼らと話していた時とはまるで違う、まさに”甘ったるい”声と笑顔でフェルナーは答えた。
「ええ……」
そのあからさまな態度の変化に関して、とやかく言うような、精神が幼い者はこの場には誰もいない。
「ジークリンデさま、他にご要望があるのなら、なんでも仰ってください。ジークリンデさまの財力でどうにかできることでしたら、全員で完璧に手配しますので」
「要望……あのね、山荘に行く前に、牧場に寄りたいわ」
「バビエカの様子を観に行かれるのですね」
バビエカとは「エル・シッドの歌」の主人公の愛馬で、アンダルシア種の馬の名。もっともそちらのバビエカは芦毛なのだが、アンダルシア種ということで、詩人でもあるランズベルク伯が「バビエカ」の名を押したので、その名を拝借することになった。ちなみにバビエカの意味は「愚か者」
「誰か馬に乗れる人も連れていきたいの」
荷物がほとんどなくなった部屋をフェルナーは見回して、乗馬を得意としている若い尉官に付いてくるよう命じる。
「リュッケ、乗馬は得意だったな」
「はい! 大したことない乗り手ですが」
「ついて来い」
「喜んで」
背筋をあらため敬礼をしてリュッケは答えた。
「他には?」
だが牧場に立ち寄ること以外にも何か言いたいことがある ―― フェルナーも内容までは分からないが、服を握り視線を逸らさない彼女を前にして、それは分かった。
「……」
「思いついたら、その都度言ってください。できる限り、対応しますので」
いつもの彼からは想像も付かないが、彼女から無理に聞き出すような真似はせず。その態度は彼女の意思を尊重しているようだが、臆病者のようにも映る。
「ねえフェルナー」
フェルナーの甘ったるい声と喋り方とは反対に、彼女の口調は硬かった。
「はい」
それに気付かぬふりをしてフェルナーは”なんでしょう”と ――
「……」
「ジークリンデさま。久しぶりに列車を用立てて、景色を楽しみながら行きませんか?」
彼女の背に回していた手を肩に移動させ、両肩を掴み、安心させるように軽く力を込める。
「警備は?」
「装甲車両をつけますので、そこは大丈夫です。ジークリンデさまも、ずっと室内にばかりいて、飽きてしまわれたでしょう。ゆったりとオーディンの山々を眺めつつ、小旅行気分で楽しみましょう。私も夏の山々の緑を楽しみたいですし」
「……そうね…………ねえ、フェルナー」
「はい」
「列車を用意するのに、時間かかる?」
「そんなには掛かりませんが、なにか?」
どんな表情で言えば良いのか? 彼女は悩んだ。真面目な表情では、相手に気を使わせるかもしれない。もちろん笑っても、彼らは心配するだろう。無表情は最悪ななのではないかと考えて ―― 彼女は微笑んだ。
「山荘へ向かう前に、実家に寄りたいの」
「かしこまりました」
”言いたいことはそれでしたか”
フェルナーは肩から手を離し、腕を体の前へと移動させて深々と礼をする。
「フェルナーも付いてきてくれる?」
「もちろん」
目的地も途中で立ち寄る場所も、移動手段も決まったので、手配が終わるまで、今日引き払うことになっていた彼女の部屋へ。
お湯を新たに沸かし、茶を淹れ、彼女は久しぶりにフェルナーと共にお茶の時間を楽しんだ。
楽しんだといっても、再会を喜び、次々と話をしたのではなく、むしろその逆で、二人ともなにも言わず。静けさと相手が側にいる幸せを楽しんだ。
カップが置かれると、ソーサーに乗せられている銀のスプーンが微かに音を立てた。
「ごちそうさまでした。そろそろ着替えましょうか、ジークリンデさま」
「そうね」
紅茶を飲み終えたフェルナーは立ち上がり、ジークリンデの背後に回り椅子を引く。彼女は自らクローゼットに足を運び”帰宅”するための服選びに取りかかった。
「あまり裾を引きずらないタイプのお召し物でお願いします。靴も丈夫なのが良いですね」
彼女からの命令通り、焼け跡をそのままにしているので、彼女がよく履いている、華奢なヒールに甲部分が大きく開いている靴では怪我をする可能性があった。
「ではブーツにしましょう。そうなると洋服は……」
彼女はロングスリーブの、フリルがふんだんに使われている、ゴシックスタイルドレスを選んだ。
レモン色で襟ぐりや袖ぐり、そして裾には蔦がモチーフの刺繍が、明るい緑色の糸で施されている。
彼女がこれほど鮮やかな色のドレスを着たのは、事件に巻き込まれる前。
「派手かしら?」
「いいえ」
実に四ヶ月ぶりに、彼女は軽やかな色の服に袖を通した。
伸びた髪もしっかりとまとめ、雲のような曲線が幾つも重ねられたデザインの、ダイヤモンドが散りばめられたヘッドドレスをつけ、そのヘッドドレスと同じくダイヤモンドのシャンデリアネックレスで首元を飾る。
他にはイヤリング、ブレスレットも身につけて、最後に指輪ケースを手に取り開く。中は空 ―― 彼女は身につけていた、かつての結婚指輪を外し、それをケースに収める。
「準備が整ったようですね」
「そうね。出る前に、ウルリッヒに声をかけたいわ」
「分かりました。大至急、呼びます」
化粧を直し終えた彼女はケスラーを呼ぶ。
「お呼びと」
ケスラーは自らの発言通り、すぐに彼女の元へと駆けつけて頭を下げた。
「今日までよく警備をしてくれました。もうあなたに警備されるような出来事に、巻き込まれたくはありませんが、もしもまた何かあったら、頼りにしますから」
「ありがたきお言葉」
こうして僅かな関係者に見送られ、彼女はフェルナーとキスリング、そしてリュッケを共に元帥府を去った。
そのまま焼け焦げた実家へと地上車を走らせる。彼女は車窓から、復旧が始まった街中を無言で眺めていた。
すっかりと撤去されて更地になった土地もあれば、まったく手つかずのままの建物もある。
―― 跡地、どうしましょう
自分のものになった”実家”
その跡地をどうするべきか?
自宅は欲しているが、惨劇の現場となった実家跡地に新たに邸を建てる気持ちには、どうしてもなれなかった。