黒絹の皇妃   作:朱緒

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第142話

 フェルナーは、ハイデマリーの話を聞かされたあと、国務尚書の執務室の隣の小部屋へと通された。

 室内には、大きめなマホガニー材のアンティーク調の机。

 机には端末と、それを埋め尽くすほどの書類が積まれていた。

 それ以外にも、床に書類の入った箱が二つほどおかれており、

 

「明日の朝までに全て目を通し、必要な書類にはサインをしろ」

 

 国務尚書からの”ありがたい”ご命令を賜る。

 

「これ全部に目を通せと」

 

 部屋にはそれ以外にも、エスプレッソマシーンとカップ。ミネラルウォーターのボトルが四本ほど用意されていた。

 

「端末にも幾つかある」

「こき使いますね」

「軍人であれば、これしきのことは、平気であろう。それに、こき使われたのは、私も同じだ」

 

―― 国務尚書をこき使うって……四世じゃなければ、お姫さまくらいでは。四世だとしたら、こき使うとは言わないでしょうから

 

 針のような鋭い視線を持つ、痩せた老人を、誰がどう、こき使ったのか?

 

「国務尚書閣下をこき使える人がいるとは」

「ジークリンデだ」

「そうだとは思いましたけどね」

「出張中の病休届け出などをな。他の者たちは、フレーゲル男爵の初陣の準備に追われて、手が回らん状態だったのでな。異国で病身となったのだから、手続きに不備があっては、お前がなにかと困るだろうからと、頼みにきおった」

 

 ジークリンデは傷病手当や出張費用追加、その他見舞金などの手配を、もっとも信頼できる実務家に依頼した。

 

「それはお手数をおかけいたしました」

 

―― 他の人に頼みましょうよ、お姫さま。なにも国家の重鎮に、私の傷病手当の書類書かせなくても、いいと思うんですよね。止めましょうよ、みんな……まあ、詐病だから、事情を知っている人に任せたほうが良いってのもあったんでしょうが

 

「もらえるものは、遺漏なくもらえるように手配しておいた。あとはお前のサインだけだ。明日軍務省総務課に回す、早急に処理しろ。それ以外は、お前らが居ない間に帝国領内で起こった、麻薬絡みの事件だ。目を通し、緊急性がある件を選び、対応に当たれ」

「御意」

 

 フェルナーは完全に帰宅を諦めた。

 

「明日の朝、こちらに迎えがくることになっている。安心しろ」

「はい。それでは、早急に取りかかるとします」

 

 ”やれやれ”と椅子に腰を下ろし、インク壺を空けて、万年筆を手に持ち、紙に走らせる。

 国務尚書は帰り支度を始め ――

 

「少佐」

「はい」

 

 いつの間にか戻ってきた部下を従えた国務尚書が、フェルナーに声をかけた。

 

―― 帰るから声をかける……なんていう、人じゃないでしょう。なんだろう?

 

「渡せ」

 

 国務省書の言葉を受けて、部下がフェルナーに大きめな紙袋を差し出した。

 茶色く素っ気のないその紙袋を受け取り、中をのぞき込む。そこには大きな箱と、その上に皿とフォークとスプーン。丸いケースが四つほど入っていた。

 

「これは?」

「ザッハートルテだ」

「国務尚書閣下から、私への差し入れですか?」

「違う」

「じゃあ、安心して食べられますね。用意してくださった方は、見当ついてはおりますが、一応聞かせていただきます。誰ですか?」

「分かっているのならば、聞く必要もなかろう」

 

 国務尚書は人の悪そうな ―― 実際、かなり悪いが ―― 笑っているのか、見下しているのか、はっきりと分からないが、非常に彼らしい表情を作り、きびすを返した。

 ぴっちりとなでつけ、まとめられた白髪。

 夜も遅いというのに、乱れは一切無く、背筋もぴんと伸び、疲れを感じさせない。

 

「国務尚書閣下。目つき悪いですね」

 

 さきほどの国務尚書の表情に向けて、フェルナーはそう言い放った。

 国務尚書は僅かに見返り、フェルナーからも皺の深い顔が少しだが、見て取れた。

 

「少佐。私は目つきが悪いわけではない。人相が悪いだけだ。分かったか」

 

 国務尚書は自身でも、そう思っているので怒ることはなく、鼻で笑ったが、わりと上機嫌であった。

 

「それはそれは、失礼いたしました」

 

 深々と礼をし、国務尚書を見送った。

 扉が閉ざされ、一人きりになったフェルナーは、机の書類を脇に寄せ、紙袋からケーキが入っている箱を取り出し蓋を開ける。

 中には国務尚書が言った通り、滑らかなチョコレート入りのフォンダンでコーティングされている、均等に八つに切られたザッハートルテが現れた。

 フェルナーはその一かけを指でつまみ上げた。

 

「覚えていて下さったのはありがたいんですが、身に余る光栄と言いますか」

 

 ジークリンデはフェザーンで、多種多様な菓子や料理を堪能した。

 とくに菓子は購入してきてもらい、部屋で茶を淹れて楽しんだ。もちろん一人で食べるのはつまらないので、フレーゲル男爵やランズベルク伯、ファーレンハイトやミュラーやフェルナーを相手に甘味を味わった。

 その際に、フェザーンで有名な菓子店のザッハートルテを食べたのだが、フェルナーは「帝国の味のほうが好きですね。悪くはないんですが、やっぱり食べ慣れた味のほうが好きです」そんな意見を述べていた。

 その意見に対してジークリンデは「ブラウンシュヴァイク邸のマイスターが作るザッハートルテ、とても美味しいのよ。帰国したら、食べましょうね」と。

 

「…………まずいわけ、ないよな」

 

 ザッハートルテを一口食べ、そんな言葉を漏らし、指をハンカチで拭ってから、仕事に取りかかった。

 

 

「あー。もう朝か」

 

 徹夜で書類に目を通していたフェルナーは、扉の向こう側に人の気配を感じ、辺りを見回した。カーテンの隙間から差し込む明かりに気付き、照明を消してカーテンを開けた。

 眩しい朝日を浴びつつ背伸びをし、提出書類に不備はないかどうかを、再確認する。

 扉の向こう側の気配は、執務室の清掃。

 フェルナーがいる部屋は、掃除はしなくても良いと命じられているため、小部屋の扉を拭くのみで、開けはしなかった。

 清掃が終わり、登庁してきた国務尚書に、書類を手渡す。

 

「准将が正面玄関に来たそうだ。下がれ」

「それでは、失礼いたします」

 

 三切れほど残ったザッハートルテを入れ直し、紙袋を持って執務室を出た。

 

「……眠い」

 

 ずっと書類を睨んでいて疲れた目の周りを指でマッサージしながら、フェルナー程度の地位の者は、本来ならば使用しない正面玄関へ。

 その先に見える大きな道路に、光沢あるシルバーブルーの地上車が停まり、その車体に軍服を着たファーレンハイトが、寄りかかるように立っていた。

 

「お待たせしました」

 

 フェルナーが近づくと、運転手が降りて、後部座席のドアを開き頭を下げた。

 

「ラルフ・ビアホフと申します」

「わざわざどうも。アントン・フェルナーです」

 

 ラルフは荷物をトランクにと手を差し出したが、それは断り ―― 二人は地上車に乗り込み、そして走り出した。

 

「運転手付きの車で来なくても」

「俺も、グントラムさまのお車で、お前を迎えに来るつもりはなかった」

 

 昨日ジークリンデはフレーゲル男爵と共に、実家に泊まっており、護衛のファーレンハイトも、当然そちらに滞在していた。

 本来ならばフェルナーは、深夜前伯爵邸へとやってくる予定だったのだが国務尚書から連絡を受け、フェルナーを迎えに行くことになり「明日、少し、警備から外れます」と、事情を報告したところ、聞いていた伯爵が、運転手付きの地上車で迎えに行くように言ってくれた。

 

 目立ちすぎるので、若干のありがた迷惑ながらも、好意は素直に受け取ったほうが賢いと言える。

 

「え? これ、伯爵さまのお車なんですか?」

「そうだ。俺らがいまこうして踏んでいる、フロアマットも超高級品」

「最初に言ってくださいよ」

「教えても踏むはめになるからな」

「っとに。今日の11:00に発つんですよね」

 

 フェルナーはそれらを聞いて、足を浮かせるような性格ではないが、なんとも落ち着かない気分に。

 

「ああ」

 

 ”11:00に発つ”

 フレーゲル男爵とファーレンハイトは、会戦に向けて本日、オーディンを離れる。

 ジークリンデは当然ながら、二人の見送りに向かうことになっており、フェルナーはそれに付き従う。

 

「伯爵邸に到着するまで、寝てもいいですか」

 

 腰の位置をずらし、背もたれに深く沈もうとしたフェルナーに、ファーレンハイトは、タブレットを放り投げる。

 

「寝るのは構わんが、その前に、コレを渡しておく」

「なんですか? このリスト」

 

 眠気を少し脇に押しやり、画面を立ち上げると、そこには、人名がずらりと並んでいた。

 

「ジークリンデさまに近づけてはいけない人物リスト」

「そういうのは、もっと早くに渡してくださいよ」

「レオンハルトさまが前線に赴くことで、ジークリンデさまが長期間一人になる。……などということは、想定していなかったから、急遽作った」

「そうでしたか」

「厄介な貴族連中は、リヒテンラーデ侯にすぐに言え」

「分かりました。あ、シュターデンも駄目なんですか」

 

 リストに並んでいるのは、フェルナーの知らない名前ばかり ―― フォン・リンダーホーフやフォン・ブローネ、フォン・マールバッハなど、名字は見たことはあるが、どんな人物なのか、フェルナーには知りようのない相手ばかりの中に、シュターデンの名を見つけた。

 

「なんでシュターデンを近づけては駄目なんですか?」

「それはな……」

 

 

―― 三十秒後 ――

 

 

「なんで、あんた、シュターデン殺さなかった! それでも護衛か! アーダルベルト・フォン・ファーレンハイト!」

 

 リストに載った事情を聞いたフェルナーは、襟首を掴んで詰め寄った。

 

「落ち着け! フェルナー。そいつ、それでもグントラムさまの知人だ! 御本人の目の前だったから、殺さなかっただけだ!」

「腹立つ! なにが……ああ! 言いたくもない」

 

 怒気によりすっかりと眠気が霧散したフェルナーは、リストに載っている者たちが”どうして載せられたのか?”逐一尋ね、気付くと、フロントガラス越しに伯爵邸が望めるような状態となっていた。

 

「伯爵邸が見えてきた。そのリストは、ジークリンデさまの目に付かないところに」

「分かってます。あー、あの正面の、立派な門構えで、奥に見える白い宮殿っぽいあれ……なんで正面から入るんですか?」

 

 タイミングよく門が開き、運転手は当然のことのように、正門を抜けた。

 

「グントラムさまが、正面玄関に案内するように、ラルフに言いつけていた」

 

 伯爵としては大事な娘の護衛を邪険に扱うのは賢くないと考えており、護衛には使用人としては破格の待遇を与えていた。

 

「使用人は正面から入りませんよね」

「まあな。俺も正面から入るように命じられてはいるが、ジークリンデさまのお供以外で、正面から入るのは慣れん」

 

 正面玄関前に地上車が止まり、運転手のラルフが降り、後部座席のドアを開け、帽子を脱いで頭を下げた。

 それを待っていたかのように、鈴を転がすような声がフェルナーの名を呼ぶ。

 

「フェルナー!」

 

 玄関から声の主であるジークリンデが、ドレスの両脇を上手に持ち、フェルナーの元へと駆け出す。

 真珠のカチューシャを付けた、腰まである艶やかで滑らかな黒髪。

 ジークリンデには珍しい、襟ぐりが大きく開いたデザインの、目にも鮮やかなレモンイエローのドレス。

 首元は幅のあるダイヤモンドのチョーカーで飾り、満面の笑みを浮かべて駆け寄り、そしてフェルナーに飛びついた。

 

―― え、お姫さま、ちょっと……

 

 想像もしていなかったジークリンデの行動に、さしものフェルナーも驚き、バランスを崩して、そのまま地上車のドアに頭を打つ。

 

「フェルナー? フェルナー!」

「おい、平民。お前は……」

「フェルナー。気を失ってますね。ジークリンデさまはお気になさらずに」

 

 寝不足と相まって、そのまま意識を失った。

 

***********

 

「……」

 

―― なんだ、この高級そうな天蓋……いや、お姫さまのご実家だから、高級には間違いないでしょうが

 

 ジークリンデに飛びつかれ、気を失うという失態をおかしたフェルナーだが、目を覚ましてすぐに、自分がどのような状況なのかは理解した。

 

―― 窓の外はもう暗いから……完全に寝過ごした。伯爵閣下の前で、大失態だな。気を失ったところを、見られていないのは、まだ救いですけれど

 

「充分休めたかね」

 

 扉が開いた音がしたので視線をそちらに向けると、

 

「……これは、伯爵閣下」

 

 召使いか看護師かと思っていたフェルナーの予想に反して、この邸の主たるフライリヒラート伯爵が執事を伴って現れた。

 

「伯爵閣下? なぜ、私のところなどに」

「オルトヴィーン。アントン・フェルナーが目を覚ましたと、ジークリンデに伝えてくれ。あと医師もこちらに……私が足を運んだ理由は、レオンハルト殿が”よろしくお願いします”と言ったからだよ。それに謝っておこうと思ってね。もう少し淑やかな娘だと思ったのだけれど、玄関から飛び出して、護衛を突き飛ばすとは。見ていたのだから止めればよかったのだろうが、私も驚いてしまってね」

 

―― なんで伯爵閣下が玄関に来てたんですか。お姫さまだけでもびっくりだってのに……情けないところ、見られたわけだ。そしてフレーゲル男爵。帰国したら、色々と言われるんだろうな。仕方ないが

 

 フェルナーが目を覚ましたのは、夕食の時間に掛かる頃。

 ジークリンデは夕食を取ってから呼ぶので、フェルナーにも食事を取るようにと命じた。

 

「病み上がりだとは聞いていたけれど、本当にそんな体で、お嬢さまの護衛が務まるのかい?」

 

 使用人の食堂へと連れて行かれ、やや古びているが清潔なテーブルクロスが掛けられている木製のテーブル。

 そこに大量に並べられた料理の前に座り、他の使用人たちからせっつかれながら、それらを口に運ぶ羽目になった。

 

「ほら、たくさん食べて」

「フェルナーさん。あんた小食だね。ファーレンハイトさん、もっと食べるよ」

「病み上がりにしても小食だろう。ほら、旦那様の所にくる、あの軍人……そうそう、オフレッサーとかいう人、ものすごい食べるよ」

 

 あのオフレッサーと比べないで下さいと思いつつ、フェルナーはとりあえず食べ ――

 

「フェルナーさま。お嬢さまがお呼びです」

 

 次々と料理を並べられ、逃走を考えていたところ、執事が呼びに来て、大食い大会会場となりかかっていた食堂から逃れることができた。

 

 先ほどまでの雑多な食堂とは違い、豪華で静かな主の食堂で、伯爵はワインを、ジークリンデは、いつも通り白ワインジュースを飲んでいた。

 

「お呼びと」

 

 ジークリンデはテーブルに飲み残しの入っているグラスを置き、やってきたフェルナーのほうを申し訳なさそうに見る。

 

―― 朝お見かけしたときとは、格好が違ってるな。当たり前だが

 

 ジークリンデは自宅ということもあり、長袖で首元までレースでぴっちりと隠れている、ボルドーワイン色のベルベット生地のドレスに着替えていた。

 

「大丈夫?」

 

 胸元に施されているゴールドの刺繍がポイントになっており、首元は小ぶりなエメラルドのネックレスで飾られている。

 

「もちろん。ジークリンデさまに、お怪我はありませんでしたか?」

「ないわよ……お父さま、庭を散策してきてもよろしいですか?」

「構わんよ」

 

 伯爵は空になったワイングラスを給仕に傾け、注ぐように促す。

 

「オルトヴィーン。部屋から持ってきて」

「かしこまりました。少々お待ちください」

 

 しばらくして執事はジークリンデの灰色と赤のアーガイル柄のショールと、深みのあるロイヤルブルーのカーディガンを持って戻ってきた。

 

「フェルナー」

「はい」

「手編みのカーディガンとか、嫌いじゃない? 嫌なら嫌って言ってね」

 

 グラスを持ったまま、微笑を浮かべてフェルナーを見つめる伯爵と、大きな瞳で不安げに見つめてくるジークリンデ。

 

「ジークリンデさまが編んで下さったんですか?」

「ええ」

「喜んで着させていただきます」

 

 軍服の上に着るサイズではなかったので、脱いでシャツになり、そこにカーディガンを羽織った。

 

「ぴったりですね」

「型紙があったから」

 

 ジークリンデはショールを羽織り、フェルナーは執事からランタンと、庭の地図を渡される。

 

「じゃあ、お父さま、行ってきます」

「アントン・フェルナー、ジークリンデに激突されないように気をつけなさい」

「お父さま! ……もう、行きましょう、フェルナー」

 

 ジークリンデは食堂の大きな窓から、外へと出ていった。

 

 その食堂の明かりが小さくなるまで、ジークリンデは無言で歩き続け、鉄細工の四角い外灯の下で足を止めた。

 

「朝は本当にごめんなさい。帰ってきてくれたのが、嬉しくて」

 

 フェルナーに向き直り、ぎゅっと目を閉じ、手を祈るように合わせて謝罪した。

 

「こちらこそ、ひっくり返って、まったく面目ございません。見送りに同行も出来ず、帰宅まで遅らせてしまって」

 

 フェルナーはただの寝不足だったのだが、起こすのは可哀想だと、眠らせたままにし、ジークリンデはフレーゲル男爵とファーレンハイトの見送りへ。

 本来は見送った後、ブラウンシュヴァイク邸の敷地にある男爵邸へと戻る予定だったのだが、フェルナーが目覚めそうになかったので、帰宅を一日遅らせることにした。

 

 先ほど目覚めたフェルナーの元へとやってきた伯爵は”君のおかげで、娘の帰宅が一日延びた。その感謝を伝えようと思ってね” ―― 滅多に帰ってこない娘と過ごす時間が増えたことを喜んでいた。

 

「それはいいの……」

「どうなさいました?」

「異郷に病身のあなたを、一人きりにして帰ってきてしまって……ごめんなさいね」

 

 帰途の船上で「フェルナーは感染していました」と嘘を聞かされたジークリンデは、彼を一人で残してきたことを、ひどく後悔した。ジークリンデは門閥貴族になったこともあり、平民の視点を失わないようにと、常々「自分がされて嫌なことは、相手にしない」を心がけていた。

 

「気になさらずとも。手配が行き届いていましたので、なんの不自由もありませんでしたよ」

 

 今回のフェルナーの件は、自分自身がその立場に置いて考えると、事情があったとは言え、薄情だったのではないか、もっと色々なことができたのではないかと ―― ジークリンデは後悔しきりであった。

 

「分かってます。あなたなら、その程度のことでしょうけれど……」

 

 澄んだ声は変わらないが、軽やかさは消えて、いまにも泣き出しそうな声に変わる。身長差からジークリンデの細く華奢な項から肩にかけてを見下ろす形となるフェルナーは、微かに震えているその肩を前にして、どうして良いものか悩んだ。

 肩に気軽に手を置ける相手ではなく、かといって知らないふりをするのは、本心ではない。むろん、フェルナーは本心を偽るのは得意とするところだが。

 

「寒くはありませんか?」

 

 フェルナーはジークリンデのショールを軽く掴み、かけ直す。

 

「大丈夫よ」

 

 そして腰をかがめて視線を合わせ、安心してもらおうと笑顔をつくる。

 普段は誰にどう思われようが気にしないフェルナーだが、この時ばかりは、安心してもらおうと、いつになく真摯な態度で臨んだ。

 

「本当にご心配をおかけいたしました。今度から病を得たりしないよう、注意いたしますので……伯爵家に来て早々、お姫さま受け止めるの失敗して気を失った上に、人気のない庭で泣かせたとなると、護衛から降格させられそうなので。失態を取り戻す機会をあたえるためにも、笑ってはいただけないでしょうか」

 

―― 病気と偽って、任務に就くのは二度としたくないな

 

「勝手に心配したうえに、泣きそうになって……信頼しているのよ。とっても信頼しているから」

 

 切りそろえられた重めな前髪と、けぶるような長い睫。

 闇夜に際立つきめ細やかな白い肌。潤み不安げな瞳が、フェルナーの言葉を受けて喜色が満ちる。

 

「せっかく散策に出たのですから、見て回りましょうよ。それにしても、立派なお庭ですね。暗くて全然見えませんが、そんな気がします」

 

 フェルナーの台詞に、ジークリンデは小さな声を上げて笑い、

 

「今は季節じゃないので、地味ですけれど、ここら辺は、季節になると薔薇が綺麗なのよ」

 

 外灯に照らされている部分を指さした。

 

「へえ。薔薇の季節って六月頃でしたっけ?」

「そうよ」

「じゃあ来年の六月を楽しみにしています」

「その頃には、見劣りするでしょうけどね」

「どうしてですか?」

「新無憂宮の薔薇園にも足を運ぶことになりますから」

「はあ、なるほど……でも、楽しみですよ。今から日付も決めて、しまいましょうか。そうですね、来年の六月二十二日あたりはどうです?」

 

 フェルナーにとって、特に日付に意味はなかった。

 

「……」

 

 だがその日付を聞いたジークリンデは、愕然とした。

 

「なんか、変なこといいました?」

 

 この世界に関する記憶はおぼろげで、曖昧なジークリンデだが、幾つかの日付は覚えていた。

 魔術師、還らずの宇宙歴八〇〇年六月一日。

 新帝国歴三年七月二十六日、ラインハルト崩御。

 そして、ラインハルトが即位した帝国歴四九〇年六月二十二日。

 

「いいえ……いいわね、六月二十二日。そうしましょう」

 

 膨大な日付が存在する物語の中で、しっかりと記憶しているのは僅かこれだけだが、その一つが挙げられ ―― 因縁とまでは言わないが、その日はこの世界では、はやりなにか特別なことが起こる日付なのだろうと、まだ存在しない未来に、決して嬉しくはないのだが、目を細めた。

 

「どうなさいました」

「いいえ。そうね、六年後も八年後も、六月二十二日には実家に帰ってきて、薔薇の花を愛でましょう。フェルナーも絶対一緒にね!」

 

 六年後の六月は、リップシュタット戦役の最中。

 八年後の六月は、ゴールデンバウム王朝が滅亡する日。

 

 その日が来て、この邸を離れることになっても、ずっと一緒にいられたら良いなという思いの丈を込めて、フェルナーの腕を掴む。

 

「喜んで……でも、なんで六年後と八年後なんですか?」

 

 あまりにも半端な年数に、フェルナーはやや首を傾げたものの、ジークリンデの雰囲気が、決して冗談を言っているそれではなかったので、軽く聞くに留めた。

 

「なんとなく……だめ?」

「いいえ。さ、もう少し散策しますか? それとも、お部屋に戻られますか?」

「もう少し行ったところに、射撃場があるの。フェルナー射撃できる?」

「一応はできますよ。でも、明るくなってから……」

 

帝国歴四八二年十月。フライリヒラート邸の庭にて ――

 

 

Kyrie【承】帝国歴四八二年・終

 


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