ジークリンデとファーレンハイトがシュトライトから講義を受けるような形をとり、三人は実行犯の弱味を探りだすべく話合いをしていた。
アンネローゼの母親クラリベルの正式な死因が事故死 ――
そこから調査をしたところ、アンネローゼに仕える女官の一人が、クラリベルをひき殺した子爵家の娘であることが明かになった。
皇帝の寵姫の母親をひき殺した一族……ともなれば、生きた心地がしないのも事実。彼らが心の安寧を得るためには、フリードリヒ四世がこの地上から去るしかない。
だがこの仮説が正しいとすると、彼らは皇太子と手を結ぶ必要性がないのだ。皇太子がアンネローゼの身辺を調べた気配はなく、彼らを結ぶ線はない。
その線が確実なものとなれば、皇太子を排除できるかもしれないから調べろと ―― リヒテンラーデ侯に命じられ、こうしてシュトライトにブラウンシュヴァイク公爵家に関する講義をしてもらうという形で、紙にもタブレットにも記載せず、会話のみ ―― 盗聴に関しては細心の注意を払っている。
―― さすが! ラインハルトに投降直後に、その場で仕官を勧められるだけのことはある
彼女は口元を優雅に扇子で隠しながら、二人の涼しげで無駄のない議論を聞いていた。無駄の全てを省き、堂々巡りなどしない建設的すぎる会話は、もはや心地良い以外のなにものでもない。
さる子爵 ―― ここではF子爵とする ―― は事故を病気と偽るよう指示を出した。
「些か奇妙ですな」
ファーレンハイトは血色がよくない唇を薄く開き、シュトライトに同意する。
轢いた相手が貴族ならば、金を払ってもみ消すこともあっただろうが ―― 平民よりも貧乏な貴族をひき殺して、死因を偽造するのは、彼女もファーレンハイトと同じく奇妙だと感じた。
「男爵夫人。なにかご意見は?」
シュトライトに促され、彼女は根本的な疑問を尋ねることにした。
「轢いたのは誰ですか?」
「はっきりとは分かりません」
「ということは、F子爵家の誰かですね」
「どうしてそのように言い切れるのですか?」
「先程までの話を聞く分には、F子爵家の者たちは召使いを守るような性質ではありません」
「ええ」
「通常は運転手に罪を着せて解雇するのではありませんか?」
裕福な貴族が運転手を持っていないとは考えられず、
「運転手は解雇されてはいませんが……死亡しています」
「口封じに殺されたのではないでしょうか?」
その運転手が事故後すぐに、不自然ではない”不自然な死”を遂げていた。
書類に不審なところはないのだが、どこかが不自然 ―― それは彼女だけではなく、他の二人も感じ取っていた。
「男爵夫人?」
「F家は事件をもみ消したかった。だがなかったことにはできなかった? なる、不思議な状況。また、雇っていた運転手は殺したが、ミューゼル家の面々は殺さなかった」
F子爵の財力や縁戚関係からすると、ミューゼル家をひねり潰すことなど容易かったはず。だがそうはならなかった。
「そうなります……理由については、小官には分かりません」
「ファーレンハイト少佐に同じく」
シュトライト中佐もかぶりを振る。
「私は詳しい状況が知りたいのですが」
「それは無理かと。相手が貴族では目撃者がいたとしても……」
「ですが目撃者はいた。そうでしょう? シュトライト」
「家族の目の前でしたから」
もみ消された事故だが、事故であるということは調べがついた。それは引っ越す前ラインハルトの家族が住んでいた近辺で聞き込んだからに他ならない。
以前であれば周囲の住人たちも貴族を恐れて口を開かなかったであろうが、ミューゼル家のアンネローゼが寵姫になったことは聞き及んでいたので重い口を開いたのだ ―― かつてセバスティアンがそう言っていたと。詳しいことは彼に聞いて欲しいとも。
「では家族に聞きましょう」
「男爵夫人?」
「寵姫殿に聞いてF子爵の耳に入ってはいけません。セバスティアンという人は、アルコール中毒……覚えているかもしれませんが、頼りないですね。ラインハルト・フォン・ミューゼルが覚えていると思いますか?」
「どうでしょう。事故は彼が四つの時に起きたようですから」
ラインハルトにとって母親はほとんど記憶にない ―― だが最後の時は覚えているのではないか?
「……弟君に会いましょう。もちろん、秘密裏に」
ラインハルトの賢さに彼女は賭けることにした。
ちなみに彼女はシュトライトから本当にブラウンシュヴァイク家についての講義を受け、公爵夫人アマーリエに、新無憂宮の礼儀作法について教えてもらっていた。リヒテンラーデ侯は彼女を女官長の後釜に添えることを諦めていないので。
「無駄な作法が多すぎて、覚えられる気がしない」
自宅へと戻ってきて、一人ベッドに仰向けになりながら愚痴るも、死亡フラグ回避に役立ちそうなので努力は怠らなかった。
「ラインハルトとの接触は知られないほうがいいよね。いまはまだ、寵姫の弟でしかないけれど」
接触を知られないようにするために、彼女はシュトライトに頼み、フレーゲル男爵がブラウンシュヴァイク公の邸に泊まるように仕向けてもらった。
フレーゲル男爵と彼女が住む邸はブラウンシュヴァイク公邸の敷地内にあるが、かなり距離があるので、酒で潰れてしまった場合は泊まったほうがよい。
彼女はリヒテンラーデ侯の邸で久しぶりに家族に会うという名目で外出し、
「気付かれぬようにな」
ファーレンハイトに作ってもらった、座席の下が刳り貫かれた車に乗り換えて、ラインハルトがいる幼年学校へと向かう手はずになっていた。
運転手はファーレンハイト。
ブラウンシュヴァイク公は爵位を持った軍人限定のパーティーをひらき、二人の行動を補佐した。
運転手がファーレンハイトであることに関して、フレーゲル男爵は全く気にしなかった。なにせファーレンハイトは下級貴族。むしろ自分の妻の運転手を務められることを幸運に思えと ―― 脇で聞いていた彼女は冷や冷やしたが、この世界で二十年以上生きているファーレンハイト。表情も声も、雰囲気すら変わらず礼を言い頭を下げた。
リヒテンラーデ侯の邸で彼女は父とおざなりの面会を済ませ、
「ジークリンデに話がある」
邸の主であるリヒテンラーデ侯の書斎へと足早に立ち去る。
「本棚の後ろが隠し通路になっておる。なんだ?」
「あまりにもスタンダードで……隠し通路の意味がないような」
「たしかにな。私も常にそう思っている。時間に関しては心配せぬように」
「ミューゼル殿との面会手はずは?」
「整っておる。些か強引だがな」
意味ありげな引きつったような笑いを背に、彼女はファーレンハイトが待機している地上車に乗り込むべく、僅かな明かりが足元を照らす通路を急いだ。
地上車の隣に、運転手の格好をしたファーレンハイトが立っていた。―― 結構、似合ってるかも ―― 彼女は思ったが、言いはしなかった。彼は軍人であって運転手ではない。言われて気分が悪くなったら困ると。
「どうぞ」
ファーレンハイトは手慣れた動きで、後部座席のドアを開ける。
向かい合う形の二列の後部座席の片方の座面が開き、刳り貫かれ彼女が隠れるスペース。その反対側の座席には彼女が用意するよう命じた、大きい黒絹の一枚布が畳まれ置かれていた。
彼女は黒く肌触りのよい大きめな布を用意するよう告げただけで、絹にしろとは言わなかったのだが、大貴族の男爵夫人が用意しろと言ったら絹であろうと、ファーレンハイトとシュトライトにとっては当然のことであった。
「これが黒い布ですか」
「よろしいでしょうか?」
なにに使うのかは分からないが、そんなことを尋ねることはしない ―― 尋ねておけば良かったと、ファーレンハイトは後悔することになったが。
「ファーレンハイト。これで私を巻きなさい」
「夫人を巻くのですね?」
ファーレンハイトは賢い男なので、言われたことは分かった。だが、それ以上のことは分からなかった。
「布を敷き、私を巻いて、隠れるスペースに入れて発車しなさい」
「……かしこまり、ました」
追加の注文を聞き、彼女がなにをしようとしているのか? 気付き、この状態ではあまり上手くいかないと思ったが、つい最近知り会ったばかりの男爵夫人に意見を述べることなどできず、彼女の言う通りに動いた。
苦しくならないようやや緩めに巻き、丁重に身を隠すスペース内に収納し、蓋となる座面を降ろし運転席に乗り込んで安全装置を確認して、
「では発車いたします、男爵夫人」
「おねがい」
運転席に声が聞こえるよう設置された機器から、布越しの声を聞き、ファーレンハイトは地上車を発車させた。
その日彼女は気合いが入っていた。ラインハルトに会える ―― なにもしなければ自分を殺す相手だが、接触して有能と思われないまでも、殺さないようにと思わせるくらいには! と。
そしてその気合いは、空回りしたのだ。
彼女は、クレオパトラが絨毯に巻かれて忍び込み、カエサルと出会う場面を思い出し、ラインハルトに覚えてもらうべく、インパクトを与えるため同じ行動を取ろうとして……失敗した。
転がりながら現れるには、座席の上部ではなく側面が開かなければならない。またきつくはないが、ミイラに近い形で巻かれたため、腹筋で起き上がることもできず、
「ラインハルト・フォン・ミューゼル。向かいの座面を開けて、中の方を起こしてください」
運転席のファーレンハイトが乗せたラインハルトに頼むはめになった。
事態が飲み込めていないラインハルトは ―― この頃は原作でもそうだが、暗殺されそうになるようなことはなかったので、警戒心も薄かった ―― 言われた通り座面を持ち上げ、焦って動いているらしい黒いものを起こして、
「大丈夫か?」
上半身の黒絹を剥がした。
「ありがとう……」
現れたのが予想もしていなかった美少女で驚いたのだが、当の美少女は明かにこの言動に驚いているのだろうと勘違いした。
これがラインハルトとジークリンデの初対面であり ―― 後年、あの日貴女に出会った時の衝撃は忘れられないと、ラインハルトに言われる度に、彼女はいたたまれない気持ちになるのだ。
自分の行動の愚かさに打ちのめされた彼女は、ラインハルトを幼年学校に送り届け、リヒテンラーデ侯邸へと引き返した。
【その日のことは、良く覚えてはいない。姉上ならば……いや、姉上には聞くな。ああ、その日は寒く、雪が降っていた。いや、雪は止んでいた。白く染まった車道を横断するとき。横断歩道を渡った。そうだ、あの貴族が運転していた地上車が母上を撥ね飛ばした。他に? なんでもいいと言われても。そうだな、辺りは酷く灰色にくすんでいた】
ラインハルトは彼女の問いに答えてくれた。ラインハルトは彼女を警戒はしなかった。布に巻かれて座席に隠れて出てこられないような少女を警戒しろというほうが難しい。