ジークリンデが誘拐されかかったのは、あまり人通りがない場所。
さらに門閥貴族が立ち寄りそうな施設は、なにもないので、ベンドリングは自分を撃ってきた相手が、ファーレンハイトだと気付いたとき、
「どうしてこんなところに! 門閥貴族お抱えの軍人が来るような場所じゃないのに!」
彼らがどうして、この場にいるのか、不思議でしかたがなかった。
その疑問に答えてもらうわけにはいかないので、彼はひたすら階段を駆け上がっていた。追い詰められるような形だが、降りると地上車が追ってくると考えて、ベンドリングは階段を昇り振り切ろうとした。
だが残念なことに、ベンドリングは脚力も体力もファーレンハイトより劣っていたため、どれほど必死に走っても振り切るどころか、距離を縮められてしまった。
必死に走り早鐘のように鳴る心臓の音に重なる足音が、徐々に大きくなる。
外付けの硬くて、足音が響く階段を駆け上がり、先ほど自分が通り抜けたドアを再び開き、建物内へと引き返す。
テナントが撤退したフロアを走り、角を曲がろうとすると、フロアを閉鎖する仕切り板が突如現れて激突。
足下がふらつき、体勢を崩して壁に寄りかかるような形になったところで、
「ビル内は走り回らないでください」
額に銃口が突きつけられていることに気付いた。
「え、あ」
フェルナーはファーレンハイトが派手に追いかけ回して注意を引きつけている間に、先回りして物陰に隠れ、ベンドリングの足を止めた。
「来てもらおうか」
「その前に、武器を持っていないかの確認を」
フェルナーが何者なのか分かっていないベンドリングは、襟首を掴まれ来た道を引き返すことになる。
またも非常階段を降り、地上車まで連行する。
「捕らえました」
車中にのフレーゲル男爵が窓を開けて、板にぶつけて額が赤くなっているベンドリングに声をかけた。
「久しぶりだな、トリスタン」
「あ、いや、その、お久しぶりです、フレーゲル男爵」
年齢はさほど変わらないが、片や中将、片や大佐。貴族は安全なところで、何をせずとも出世すると言われているが ―― 家柄の差による出世速度の違いは、平民よりも格段に大きい。
「どうしてお前がこんな所にいるんだ?」
「あの、私は、フェザーン駐在武官でして」
ベンドリングは連れて来られる途中に、言い逃れできないかと、色々と考えていたのだが、
「嘘は吐かんほうがいいぞ」
「…………」
「リッテンハイム側に属している貴族は、フェザーンから遠ざけた。この私が危険を排除せずに、ジークリンデをフェザーンへ連れくるとでも?」
ジークリンデの危険もそうだが、DNA鑑定などをしているのをかぎつけられては困るので、フレーゲル男爵はできる限り、ブラウンシュヴァイク家と敵対しているリッテンハイム側に属する者たちを遠ざけていた。
「それは……」
「立ち話もなんだ、乗れ」
全員地上車に乗り込み、その場を離れる。
滑らかに走り出した車中で、フレーゲル男爵は足を組み直し、血の気の失せた顔のベンドリングに声をかけた。
「それでは、改めて訊こう。危険から縁遠い、統帥本部にいるはずのお前が、どうしてこんなところにいるのだ? ベンドリング」
ベンドリングは正直に事情を話すべきかどうかを悩む ――
「この方を、教授がいる拷問施設にご案内すれば宜しいのですね」
「昨日から尋問しているのは、そろそろ動かなくなりそうだから、教授も喜ぶだろうな」
「喋ります、喋ります、喋らせてください!」
貴族のベンドリングには「教授」が誰なのか? すぐに見当がつき、背筋を冷たいものが撫で、大急ぎで事情を説明した。
教授の元へと連れて行かれたら最後、マルガレータの元へ五体満足では戻れないので、彼はよどみなく真摯に、同盟に亡命を希望していることと、その理由を答えた。
「そういうことか」
ベンドリングがここに居る理由と、ヘルクスハイマー伯爵家が追われた出来事に、おかしな点はなかったので、フレーゲル男爵は彼の言葉を信じてみることにした。
「どうなさいます」
「まずは、お前の話が本当かどうか、確認しなくてはな。マルガレータに会わせろ」
ベンドリングとマルガレータが宿泊しているホテルに、彼らが直接立ち寄ると目立ちすぎるので、メッセンジャー・バシリオをベンドリングの見張りに使うことにした。
「ではそのメッセンジャーと共に行け」
ホテルの部屋へバシリオと共に向かい、部屋を引き払って ―― バシリオが運転する車で、待ち合わせの場所へ。
ベンドリングは一瞬解放された形となったので、逃げようかと考えたのだが、メッセンジャーを撒くか、殺害して、財力と権力で遙かに上回るフレーゲル男爵が本気を出したら、今より悪い状況になるだろうと諦めた。
バシリオに刃物を向けなかったのは、ベンドリングにとって幸運であったのは、言うまでもないこと。
待ち合わせ場所だが、不幸なツィタを捜すべく借りたDNA検査が可能な施設。滞在期間中、借り上げていたことが幸いした。ちなみにマルガレータとベンドリングを待っていたのは、フレーゲル男爵とフェルナーだけ。
ファーレンハイトは、
「……あいつ、ジークリンデによからぬことしてないだろうな!」
―― またミュラー中尉ですか。よほど嫌いなんですね……好意がダダ漏れしてるのは、私も感じますが
「さあ?」
「”さあ”って貴様!」
「私はミュラーではありませんので」
「お前は戻ってジークリンデの警備につけ!」
「御意にございます」
このような理由で、迎賓館へと戻った。
「お前がマルガレータか」
検査設備しかない室内に不似合いな、可愛らしい少女。
腰の辺りまでの長い金髪に、グリーンの瞳。頬は柔らかな弧を描き、小さく赤い唇から発せられた声は、その少女によく似合っていた。
「そうです、閣下」
マルガレータはややくたびれ、色褪せた感のあるピンク色のドレスの端をつまみお辞儀をする。
「本物のマルガレータかどうか、確認するために幾つか質問をする」
「はい」
由緒正しい貴族の令嬢は、あまり人前に出ることはない。まして社交界にデビューもしていなければ、リッテンハイム側に属していたマルガレータなど、フレーゲル男爵でも知る術はない。―― 人によっては綺麗な娘が居ると聞けば、邸に忍び込んだりすることもあるが、フレーゲル男爵は、他の美しい娘というものに興味が無かったこともあり、ヘルクスハイマー伯爵に、可憐な娘がいるとは聞いていたが、わざわざ顔を見ようとは思ったこともなかった。
マルガレータに父であるヘルクスハイマー伯爵について、幾つかの質問をして「娘と認めてもいいだろう」という答えを得た。
そして最後に、
「ところでマルガレータ。お前はサビーネ・フォン・リッテンハイムのことを恨んでいるか?」
マルガレータが亡命する理由でもある人物の名を告げた。
家族と故郷を失った十歳の少女は、その問い少しばかり唇を硬く結び、目を閉じる。そしてゆっくりと二度ほど首を振り、
「恨んではおらぬと言えば嘘になりましょう。ですが、嫌いではありませぬ」
一年足らずだが遊び相手として仕えたサビーネに対して、マルガレータは悪い感情はなかった。
恨んでいると言ったのも、嘘ではないが、その恨みは燃えさかるようなものではなく、あとは消えて、よき思い出だけが残るであろう残滓のようなもの。
「私はリッテンハイム侯のことは、あまり好きではないので、侯が心配事から解放され枕を高くして眠れるような環境を作ってやるつもりはない」
フレーゲル男爵は口の端を持ち上げ、人の悪そうな笑みを作る。
「見逃してくださるのですか?」
「見逃しはせん」
ベンドリングの質問に、さきほどマルガレータと受け答えをしていた時とはうって変わって、冷たい口調でフレーゲル男爵は言い返す。
「え?」
女の子と話しをするのが好きというわけではなく(もちろん、嫌いではなく、かなり好きだが)マルガレータの着衣のくたびれ加減に、フレーゲル男爵はかなり同情した。
伯爵家の娘が着るものにも不自由するなど ―― その同情は「保護者です」と言い切ったベンドリングに向かう時、怒りとなる。
「同盟に亡命するつもりだと言っていたが、それは勧めんな」
門閥貴族の鏡であるフレーゲル男爵は、女性に対して完璧に衣食住を整えられない貴族は、貴族を名乗るなかれと考えの持ち主。
こんな男にマルガレータを任せて、同盟に亡命させては ―― それよりならば、フェザーン籍にして、同盟にも行き来できるようにした方が良いだろうと考えた。
「ルビンスキーにですか?」
フェザーン籍を得て、同盟で居を構えるとしたら、自治領主を通したほうが早い。
「あいつは信用はできんが、必要経費さえ払えば、国内の貴族よりは裏切りはせん」
「ですが、”重大な秘密”を知っているとなると、取引材料にするかもしれませんよ」
「分かっている。そこでマルガレータ」
「はい」
「不名誉なことだろうが、お前には”不具”になってもらう」
フレーゲル男爵は亡命の理由をマルガレータの身体的なものにすると言い出した。
「ですが、フェザーンでも検査すると言われたらどうします?」
「させるがいい。そこでなにも発見されなかったら、検査した医師が何者かに買収されていたのかも知れないと言えばいい」
同盟への亡命途中、マルガレータ以外の乗員は全員死亡した。長い航海になるので、その中には、お抱えの医師も含まれていた。
「事故死した医師が診察したと告げれば済むことだ。その医師の単なる誤診だったのか、買収されたものなのかは、自治領主が勝手に調べるだろう」
この後、大まかな方針を決め、あとはこちらに任せるようにと。
「ありがとうございます」
「感謝いたします」
―― 事務的な手続きやらなにやらするの、当然、私ですよね。フェザーンに残れるなら、もう少し調査できそうだから、願ったりですけれど……夫人は帰国なさるんですよね
心よりの感謝を現そうと、深々と頭を下げているマルガレータとベンドリングを見ながら、フェルナーはジークリンデと共に帰国できないことを、少しばかり残念に感じた。
「閣下、一つお願いがございます」
「なんだ?」
「遠目からでよろしいので、男爵夫人を直接、拝見しとうございます」
頭を上げたマルガレータは、いつか社交界にデビューして、会ってみたかったジークリンデに会わせて欲しいと頼んだ。
「よかろう。帰国前日のパーティー会場に入れるよう手配してやる。任せたぞ、フェルナー」
「かしこまりました」
―― 私なんですね。当たり前ですけれど
どう手配するかを考えつつ、マルガレータとベンドリングをこの場に残して、フレーゲル男爵を迎賓館まで送る。
「男爵閣下、随分と伯爵令嬢に、お優しいんですね」
妻以外の女性には、一切の優しさを見せない人だとばかり思っていたので、少しばかり驚いたフェルナーは、疑問を率直にたずねた。
「誰にでもではない。マルガレータを見ていたら、僅かだが、嫁いで来たころのジークリンデを思い出してな」
「へえ」
「伯爵令嬢で十歳。ジークリンデは十一だったが。交流のない、異国にも似たブラウンシュヴァイク家に一人嫁いできたときの、不安を押し隠していたジークリンデの笑顔に、今のマルガレータが重なってな」
「ああ……それで。今ではあまり、見られない表情でしょう」
完全にと言い切れないのは、昨日の誘拐未遂から今朝、彼らを送り出す時の表情が、まさに”そう”であったため。
「見たくはない表情だな」
「同意いたします。ああ、すっかりと帰宅が遅くなってしまいました。そろそろ連絡を入れましょう。きっと夫人は、男爵の帰宅を心待ちにしていることでしょう」
**********
「自分で誘っておいて、こんなことになってしまって」
ジークリンデが滞在期間を切り上げなかったのは、ミュラーのことを思い出したことも大きい。
「気になさらないで下さい。小官はこうして、男爵夫人とお話できるだけで幸せです」
ここでしっかりと顔見知りになるだけではなく、ミュラーに嫌われないような女性でいるために ―― 薄ぼんやりとしている記憶を引きずりだす。
「私もとても楽しいですけれど……本当は色々なところを見て回りたかったわ」
銀河英雄伝説に女性が少なかったこともあるが、ミュラーが敬意を払ったのは、ヒルダとフレデリカ。どちらも、国を代表するような才色兼備な女性。どちらも旗艦に乗り込み、砲火飛び交う前線に居続けることができる胆力をも持っている。
自分とはまったく違うな……と、二人の才媛ぶりに、ため息がこぼれる。
「帰国を早める可能性もあると聞かされておりましたが」
―― 頼みの綱の容姿も、ミュラーの好みかどうかが問題なわけで……知的な美女が好きとか言われたら……ああ! あの二人だとしたら、金髪系が好み! 正反対
「私も今朝は帰国を早めるつもりでしたけれど、グレーテルおばさまに注意されて、考えを改めました」
ジークリンデとしては、知性と好みはどうしようもないので、責務を放棄するような真似はしないという、責任感だけは見せておこうと、病人よろしくベッドの上だが、自身としては心持ち表情を引き締め語る。
「そうでしたか。小官としては、男爵夫人のお側に仕えられる期間が増えて、嬉しい限りです」
ジークリンデは細い指を、まとめていない黒髪に通して、ミュラーを見上げる。
「ありがとう……ねえミュラー中尉。今回はデートできませんでしたけれど、いつか絶対に」
「そのお気持ちだけで」
「いや。絶対にデートしたいの」
見上げてくる透き通るような翡翠色の、濡れたような瞳を前にして、ミュラーは静かに誓った。
「承知いたしました。男爵夫人のお供をするに相応しい地位になりますので、それまで暫しお待ちください」
その誓いは不確かな未来のデートに関してではない。
自分の力で出世して、中将の地位を得て、ジークリンデが主催するパーティーに参加することで、再会できるようにと、彼はこれから努力することになる。
もっともジークリンデは、ミュラーはこの先、躓くことなく出世してゆくことは知っているので、発言に対して疑問を持つことはなかった。
「待ってあげますけど、少しだけよ」
五年後には中将になっているミュラーに、幾ばくかの望みを託し、身を乗り出して近づく。ネグリジェの襟ぐりはやや大きく開いており、谷間と評するのにはやや難のある、未成熟な胸元が無防備に晒されていた。
透き通るようなきめの細かい、柔らかそうな肌が、ミュラーの色々なものを揺さぶる ――
「あら? アーダルベルト。帰ってきたの」
「ただいま戻りました。なにをしているのかな? ミュラー」
「?」
思わず手を伸ばしかけていたところに、現れたファーレンハイトに、ミュラーは正気に戻り、急いでその手を下げた。
**********
ミュラーはフレーゲル男爵の元で出世することもできた。
フレーゲル男爵はミュラーは嫌いだが、妻が気に入り、才能もありそうなので我慢はした。
ミュラーも似たようなもので、ジークリンデの夫には仕えたくなかったので、さまざまな人のところを渡り歩くことにした。
最後にラインハルトの配下となったのだが、前後するようにジークリンデがラインハルトと再婚してしまい、無意味な回り道をしたかのような状況となった。