黒絹の皇妃   作:朱緒

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第137話

 誘拐された恐怖から生まれた不安に、押しつぶされそうになりながら眠っているジークリンデ。

 後日立ち直ってから、ジークリンデは「身代金目的の誘拐」という嘘だけを教えられる。実際はいつも通り、ジークリンデ自身が目的であったのだが、それは伝えはしなかった。

 

 この身代金目的の誘拐という嘘は、フレーゲル男爵や、彼が属するブラウンシュヴァイク公が桁外れな金持ちということもあり、ジークリンデは一度も疑うことはなかった。

 

 そんな当事者は知らない、ジークリンデ誘拐未遂事件に関わった者たちの立ち位置等 ――

 

**********

 

スヴェトラーナ・ドブロフスカヤ

 黒人の女性警官。

 スヴェトラーナは以前、誘拐事件を担当していた。

 結局その事件は未解決のまま、

 捜査本部は解散することになったのだが、その時に、フェザーンの人身売買組織が、関係しているところまでは突き止めた(ここまで突き止めてしまったので、解散させられたのだが)

 また警官が何人か関係しているらしいという情報も掴んでおり、以来、独自に内部の調査を続けていた。

 そしてブカーチェクが貴族の女性を誘拐しようとしているとの情報を掴み、見張っていた。

 式典の日、ジークリンデの服に薬物を塗布した所もみていたが、身内の犯行のため、帝国側には気付かれないようにすることに腐心するも、ブカーチェクの協力者(カジェタノ)に背後から撃たれ重傷を負い、病院へ搬送。手術により一命を取りとめた。

 

 

カジェタノ

 ブカーチェクの協力者。ミュラーに捕らえられた人物。

 協力者に選んだ理由は、給与を担当しているため。

 誘拐を実行したさいに、警備担当が疑われるのは分かっているので、スケープゴートを用意することに。

 そのスケープゴートを作るために、分け前と共に協力を持ちかけた。

 

 

黄玉華

 ブカーチェクが誘拐を実行する日、公休日だったために、犯人に仕立て上げられそうになる。

 彼女を犯人に仕立て上げる方法は、口座に出所不明な大金が振り込まれることになっていた。

 この大金を振り込むのが、カジェタノの仕事。

 玉華に生きて発言されては困るので、殺害する予定だった。

 ミュラーが駆けつけ、危機を脱する。

 

 

ベネディクト

 ブカーチェクに誘拐を持ちかけた張本人。

 人身売買ブローカー。

 買い手は宗教団体だというところまでは分かったが、そこから先は、彼らの滞在中には判明しなかった。

 じっくりと調査をすれば分かったかもしれないが、彼らはいつまでもフェザーンにいるわけにもいかないので ―― 調査を怪我から復帰したスヴェトラーナが担当することになる。

 

**********

 

 翌日の明け方間近、空がやっと白み始めた頃、睡眠薬が切れたジークリンデは、体を大きく震わせ、苦しげな声を上げて目を覚ました。

 指が白くなるほどシーツを固く握り締め、荒い息をし、怖ろしいものを見たような表情で身を起こす。

 

「ジークリンデ」

「……」

 

 いつの間にか戻り、隣で眠っていたフレーゲル男爵もすぐに起き上がり、青ざめて震えているジークリンデを抱きしめた。

 

「もう大丈夫だ。今日はゆっくりと休んでいいぞ」

「……」

 

 ジークリンデも抱きしめたかったのだが、指先が氷のように冷たく、力が入らず、抱きしめ返すことができなかった。

 

「予定を早めて帰国するか?」

 

 最重要の公務はすでに終えているので、帰国しても構わないだろうと、フレーゲル男爵は帰国を持ちかけた。

 オーディンが安全というわけでもないが、フェザーンよりは安心感がある。ジークリンデはフレーゲル男爵の言葉に甘えて、帰国しようとしたのだが、グートシュタイン公爵夫人グレーテルに、繰り上げて帰国するのは止めるように諭された。

 

 式典や関連行事は大切なものなのだから、出来る限りしなくてはならない ―― まして、十年以上行われていなかった、女性皇族が関係する公務なのだから、最後までやり遂げ、下々に行事の手順を教えるのは、この旅におけるジークリンデの大事な仕事だと。

 

 フリードリヒ四世は精力的な皇帝ではなく、公務も疎かで、式典などにも積極的に参加することもない。

 また皇后は死去し、皇太子妃はなく、皇女たちも貴族に嫁ぎ ―― この十年ちかく、帝国では女性皇族が公務に携わることがなく、それらに関する決まり事などを覚えている者たちは年々減っていた。

 

 記録はあるが、経験に勝るものはない。自らの経験はもちろんだが、準備などに携わる者たちが経験できる場を作るのも、主役である貴族の大切な仕事。

 

 だから最後までやり遂げるべきだと、グレーテルはジークリンデを叱咤激励する。

 

 ジークリンデはグレーテルの話を聞き、少しばかり冷静さを取り戻し、

 

「自分で行きたいと我が儘を言って、ここまで来たのでした……」

 

 ここで甘えて帰国しては情けないし、下手をすれば国務尚書の顔を潰すことにもなりかねないと ―― 思い直して、最後までやり遂げることに決めた。

 

 ”余計なことを”と顔に書かれていたのは、フェルナーか? ファーレンハイトか? 定かではないが、ミュラーでないことは確かだろう。

 

『不服そうだな、准将』

「いいえ」

 

 国務尚書から”ジークリンデの様子はどうだ”と、確認の高速通信が入った。最初はフレーゲル男爵が応答していたが、最後に護衛役とも話したいと ―― ファーレンハイトの失態を一通り罵ってから、一層表情を厳しくし尋ねた。

 

『ジークリンデは予定を早めて、帰国したりはせぬのだな?』

 

 それは距離による画像の荒さだけではなく、たしかな変化。

 

「はい。今日は休みますが、明日からは予定通りに公務に就かれるそうです」

 

 遠きオーディンにいる国務尚書の不快感が、ダイレクトに伝わってくるかのような ―― 冷酷な政治家である彼にしては、珍しいほど表情に表れていた。

 

『そうか。心して警備にあたれ』

 

 帝室の遠縁の娘(ジークリンデ)を皇族扱いで式典に送り込むという、かなりの力業で不満分子をねじ伏せて送り込んだこともあり、ジークリンデに帰ってこいとは、国務尚書も言い辛い。

 

「御意」

『ジークリンデに、無事に帰国することを心待ちにしていると伝えておけ』

「閣下ご自身が伝えられたほうが、ジークリンデさまもお喜びになるかと」

『帰って来るまでは会わんと決めている』

 

 ざらついた画面に、不愉快さを滲ませてそう言い、国務省書は通信を切った。

 

「素直じゃないですね、国務尚書」

 

 通信室にはファーレンハイトだけではなく、フェルナーもいたのだが、国務尚書には一瞥すらされず。

 もちろんフェルナーは気にするような性格でもなければ、慣れているので、どうということもない ―― そんな彼だが、国務尚書の態度には、思わず笑ってしまった。

 声を出して笑うようなものではなく、かといって蔑むようなものでもなく。

 溺愛している孫を心配する好好爺というには、雰囲気が鋭すぎ……と。なにかに無理矢理当てはめようとするとおかしいが、国務尚書がジークリンデのことを気に入っていることは、フェルナーにもダイレクトに伝わってきた。

 

「素直なリヒテンラーデ侯を見たいか?」

「遠慮します」

「遠慮しなくても、見るはめになる」

「えー」

 

 肉がそげ落ち、高い頬骨と深い皺が刻まれた、鋭い目つきの老人が素直など、誰もあまり見たいとは思わないだろう。

 

「ジークリンデさまの前では、さすがの国務尚書も素直だぞ」

「さすが、一番お気に入りの姫さまですね」

 

 二人は通信室をあとにした。

 

「警備は?」

「警官たちはさすがに、見える範囲に配置するわけにはいきませんので、ミュラー中尉だけを、寝室内の護衛として配置しました。デート代わりになっていいのでは」

「良かったのか、悪かったのか」

 

 ジークリンデが誘拐された次の日、要するに今日だが、予備日として日程が空いていた。そのため、ジークリンデはこの日にミュラーとデートするつもりだったのだが、さすがに誘拐未遂の翌日に出歩けるような精神の持ち主ではないし、出歩かれては警備たちが困る。

 

 フレーゲル男爵は妻が怖ろしい思いをしたのは腹立たしいが、平民(ミュラー)とのデートが潰れたことは、大いに喜んだ。

 

「でも夫人が、ミュラー中尉のことは怖がらなくて良かったです」

「そうだな」

 

 ミュラーが裏切るという認識はないので、ジークリンデは本日の警備に彼が選ばれたときには、いつも通りに近い態度を見せた。

 

「私は怖がられましたけどねー」

「お前の雰囲気と顔と声のせいではないか? 剣呑そうな雰囲気に、目つきもあまりよろしくなく。喋り方も」

「その言葉、そっくりそのままお返しします……気分は乗りませんけれど、行きますか」

「まあな」

 

 話ながら二人は裏口へと出て、駐車場に停めているダークブルーの地上車に乗り込んだ。運転席にフェルナー、助手席にファーレンハイト。

 ため息を吐きつつ、フェルナーが目的地をセットし、裏門を出て、迎賓館の周囲を二回ほど回り、異変がないかを確認してから、ブカーチェクや、彼に関係している者たちを尋問している場所へと移動した。

 

 迎賓館から離れ、上流階級が行き交う場所からは少し外れたビルの地下駐車場。

 ”秘密の区画”に繋がる扉の前に地上車を停める。

 辺りをうかがいながらIDカードを通して扉を開いて体を滑り込ませ、扉を閉めて再度IDカードを通し、扉がしっかりと施錠されていることを確認してから、赤い壁に囲まれ赤い絨毯が敷かれた廊下を歩き出す。

 黒服が二名立っている部屋の前へとやってきて、手を上げるだけの挨拶をすると、黒服の一人がドアを開いた。

 室内から漏れてくる血の濃い臭いと、くぐもったような、数種類のうめき声。部屋全体は暗いが、拷問されている者だけは、スポットライトに照らされているような状態。

 

―― あれ生きてるんだ、すごいな

 

 人間の外見を構成する「皮膚」はすでに残っておらず、誰が誰なのか? フェルナーにはさっぱり見分けが付かない。そんな凄惨を極めた尋問が行われていたが、彼らはそれよりもベネディクトが残した資料に釘付けとなった。

 

「これは……地球教関連の会社かもしれん」

「地球教も夫人を狙っているんですか。警告的な?」

 

 二人は少し外れたところで、押収された資料に目を通し、小声で話し合う。

 

「探っているから狙われているとうより、単純に欲しいと思われているようだが」

 

 それら資料を端末にコピーする。

 

「取引材料としてではなく、御本人が望みですか」

「そのようだ」

「厄介ですね」

 

 二人は資料ざっとだが目を通し終えると、少々高い位置に置かれた革張りの椅子に一人座り、乗馬鞭を折るかのように両手で曲げ、うめき苦しんでいる物体を睨みつけているフレーゲル男爵の元へと行き、

 

「これについての情報は?」

 

 地球教関連の会社について尋ねたかどうかを聞いた。

 フレーゲル男爵はフェルナーの質問に、苛つきを隠さず舌打ちをし、別の者に調べさせた情報に目を通すように言いつけた。

 

「昨日のうちにベネディクトは吐いたようですね……でもそんな社員はいないと」

「そんなヤツ自体、フェザーンにはいないらしいな」

 

 ジークリンデが手順を踏んで、地球教と歴代自治領主が繋がっていることを知らせたため、裏で自治領主が糸を引いていてもおかしくはないだろうとは考えたものの、さすがに確固たる証拠が無い状態で”社員の行方を知っているだろう”などと訊くこともできない。

 

 若干の悲鳴を完全に無視し、昨日から今朝にかけての自白の内容や、裏付け調査の報告書を隈無く読んでいた。

 

「おい、帰るぞ」

 

 血溜まりに鞭を投げ捨て、フレーゲル男爵が立ち上がった。

 

「もう、よろしいのですか?」

「ああ。教授、あとは好きにしろ」

 

 来た時の部下と共に帰られては ――

 そうは思ったが、彼らもこの場に留まりたい訳ではないので、帰るから従えというのなら、喜んで従う。

 暗い室内から明るい鮮やかな赤い廊下に出たため、三人ともまぶしさに目を細める。

 死ぬまで見届けなかったのは、きっとミュラーとジークリンデを二人きりにしてきたのが、気になるのだろうな……と思った二人だったが、意外なことにフレーゲル男爵はすぐに帰るとは言わなかった。

 

「帰宅前に犯行現場に寄れ」

「かしこまりました」

 

 フレーゲル男爵が乗る、最高級グレードの地上車ではなく、さきほど二人が乗ってここまでやってきたダークブルーで、ややグレードの落ちる地上車に乗り込み、昨日の事件現場へと向かう。

 

 事件はなかったことになっているため、現場に警官が立っていることもなく、なにごとも無かったかのような空間が取り繕われていた。

 

 だがよくよく見ると、車道に真新しい復元跡が、至る所に残っていた。

 地上車を降りて、昨日の状況を歩いてフレーゲル男爵に説明をする。

 とは言ってもヴィクトールやバシリオの存在は、語れないので、ある程度は誤魔化して。

 

「ここで救出いたしました」

「よくやった」

 

―― そう言えば、私も准将も男爵から叱責されてないな……驚いてますね、准将。私も驚いてます

 

「お褒めにあずかり、光栄です」

 

 叱責を受けなかったどころか、救出したことを褒められるなど、二人とも思ってもみなかったこと。

 残暑の熱気と、ビルの谷間からのぞく、夏とは違うやや色が薄くなった青空 ――

 

「ん?」

 

 そんな中、辺りを異常なほど気にしながら、ビルの非常階段を降りる男を三人は見つけた。動きがあまりにもおかしく ―― 気付かれないようにし過ぎて、逆に目立ってしまっている状態。

 あからさまに不審者だが、彼らにはフェザーンの不審者を捕らえる義理はない。

 ただフレーゲル男爵が額に手を当てて庇をつくり、眉間に皺を寄せ、目を細くしてその人物を、更に注意深く追う。

 

「どうかなさいましたか?」

 

 フェルナーが持っていた小型の双眼鏡を渡し、フレーゲル男爵がのぞき込み、大きく息を吸い込んで、

 

「あいつを捕らえろ!」

 

 彼らに不審者を捕らえるように命じた。

 

「いかがなさいま……」

 

 その不審者はベンドリング。

 

「あいつは、カタリナの婚約者だ!」

 

 どの”カタリナ”なのか? その名を聞いただけでは、フェルナーには分からなかった。かろうじてこの場で分かるのは、フレーゲル男爵が知っているので、そのカタリナが門閥貴族の女性であることくらい。

 

「はやっ!」

 

 そのようなことを考えて、僅かに出遅れたフェルナーに対して、ファーレンハイトは早かった。すでにホルスターからブラスターを抜き、ダークパープル地に控え目な金と白で刺繍を施された、アビ・ア・ラ・フランセーズの裾をひるがえし、すでにフェルナーから離れ疾走していた。

 

「逃がすか!」

 

 一応、辺りをうかがっていたベンドリングは、自分に向かって突進してくる人物を見つけ、慌てて逃げ出す。

 そのベンドリングの背中に向けて、ファーレンハイトは威嚇射撃。ただ威嚇射撃とはいっても、本当にすれすれの所。

 少しでも立ち位置がずれていたら、ベンドリングの足は撃ち抜かれていた。

 

「止まらんと撃つぞ!」

 

―― 止まったら、頭をぶち抜かれそうなんですが。准将、なんでそんなに殺気立ってるんですか?

 

 なぜこんなにも必死にファーレンハイトが「カタリナの婚約者」を追いかけるのか? フェルナーがその理由を知るのは、帰国後のこと。

 捕縛を命じたフレーゲル男爵は、双眼鏡をのぞき込んだまま、威嚇という名の、本気の射撃を見て声を漏らした。

 

「……あー」

 

 彼は「捕まえろ」としか言わなかった己の軽率さを少しばかり後悔した……が、ベンドリング男爵家はリッテンハイム侯側についている、弱小貴族だったことを思い出し、

 

「トリスタンは権門の出でもないし、まあ、いいか。それにあいつらなら、苛ついて銃を乱射し、殺すこともないだろうしな」

 

 ブラウンシュヴァイク公の甥らしい判断と、士官学校を好成績で卒業した彼らの射撃の腕を知っているので ―― 双眼鏡を降ろし、地上車へと戻って待つことにした。

 


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