黒絹の皇妃   作:朱緒

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第136話

 ファーレンハイトとフェルナーは、ブラスターしか所持していない。

 

「武器はどうします?」

 

 これだけでは心許ないが、武器庫から小銃を取り出している余裕もないので、彼らはそのまま現場へと急いだ。

 

「ヴィクトールが、なにか用意しているだろう」

 

 取るものも取りあえず、二人は庁内を出て、目的地へと急いだ。

 

 そして彼らが駆けつけた時に見た光景 ―― 車に連れ込まれたジークリンデが、恐怖と戦いながら目を開けた時に見た銀色の細長い物体。やや現実逃避気味で、声や音も耳に入らなかったジークリンデのすぐそばで起こった出来事。

 

 ジークリンデを盾にして後部座席に逃げ込んだブカーチェク。その彼の背後には、反対側のドアを開けて侵入したヴィクトール。

 ジークリンデの頭に押しつけている銃口。そして引き金にかかる指。

 ヴィクトールはその指を背後から、剣で切り落とし、そのまま突き出した。

 指が「ぽろり」と落ち、剣を僅かだが血が伝う。

 引き金を引く指を切り落としたヴィクトールは、ジークリンデの頭に押しつけられている銃を掴み奪い取る。

 指が切り落とされたことに「まだ」気付いていないブカーチェクは、銃を握り直そうとして、力が入らないことに焦る。

 ジークリンデの襟を握っている手には力が籠もるが、今度はそちら側の肩を剣で突き刺す。

 襟を掴んでいた手から力が抜け、ジークリンデの体が自由になる。

 その好機を見逃さず、ヴィクトールはジークリンデの背を押した。

 

 ジークリンデが車外に落ち ―― ファーレンハイトが援護し、フェルナーが駆け寄る。

 

「ジークリンデさま!」

 

 ジークリンデは状況が分かっているが、理解が追いつかず、フェルナーが側にいることにも気づけず、呆然としたまま。

 

「アントン・フェルナー。バイクの運転はできるか?」

「出来ますよ」

「運転しろ」

 

 フェルナーはバイクに跨がり、ヴィクトールと共に逃げたブカーチェクを追い、宅配業者を装ったトラックは爆破炎上。

 最初にジークリンデを地上車に乗せるために手を引こうとして、崩れおちた人物は、頭を撃ち抜かれて、すでに死亡していた。

 

 辺りの状況など分からないまま、迎賓館へと戻ったジークリンデは、すぐに医師の診察を受けることになる。

 普段の診察は医師と看護師だけで、護衛は下がるのだが、

 

「退室しないで」

「かしこまりました」

 

 今日は誘拐未遂が起こった直後なので、ファーレンハイトには離れて欲しくないと希望する。

 医師や看護師もオーディンから連れてきた者たちなのだが、信頼度という点では、ファーレンハイトよりは劣る。

 単純に名前を知っていたか、いないかの違いだけでもあるが、とにかく安心感を求めて。

 

 医師の診察では軽い打ち身が幾つかで、他に外傷はなかった。

 精神的なものとなると、休むしかない。

 薬などで眠るのも手だが、ジークリンデがもう少し起きていたいと言ったため ―― 医師の仕事は終わり。

 診察を終えた医師が、診察をしていた寝室から出ると、召使いたちが着替えを持ち部屋へと入ってこようとしたが、部屋を出たばかりの医師が止める。

 しばらくは人の気配がないほうが良いと。

 だがまったく人がいないのも不安なので ―― 護衛としてファーレンハイトが残った。

 ジークリンデは診察を受けたため、血がついた水色のドレスは脱ぎ、白いロングのキャミソール姿。そのままベッドに膝を抱き、顔を埋めている。

 

「入浴の準備が整ったそうです」

「そう」

 

 銃を頭に押しつけられた際に解れた黒髪が、細い首や華奢な鎖骨にかかる。

 ジークリンデは動こうとはせず。

 入浴はしたい時で良いのだが、下着姿ではいくら空調が適切でも冷えるだろうと、ブラウンゴールドのナイトガウンを持ち、ファーレンハイトは許可をとる。

 

「ガウンをお持ちしても宜しいでしょうか?」

 

 ジークリンデは時間をかけて顔を上げ、ゆっくりと頷き、また膝に顔を埋めた。

 近づいて肩にガウンをかけ、ファーレンハイトは再び離れる。

 

 門閥貴族の夫人と、護衛の下級貴族の距離。それはどんな時でも間違うことはない ―― はずだった。

 

 滑らかなガウンの端を掴み、眠るわけではないが、顔を上げることなく。

 

―― あの警官のこと、信用していたのですけれどね……

 

 繭に包まったかの如しのジークリンデの元に、誘拐犯を追跡し、捕らえフレーゲル男爵に引き渡したフェルナーが帰ってきた頃には、空もすっかりと闇に染まっていた。

 

「失礼します」

「戻ったか」

 

 部屋は明かりが灯されているが、カーテンは開いたまま。

 大きなベッドの上で、縮こまっているジークリンデの姿を見て、フェルナーは自身の失敗に、内心悪態をつく。

 ジークリンデはというと顔を上げて、自分では意識していないが、切なげな表情を浮かべ、フェルナーに下がるように指示を出す。

 命じられた通りに部屋を退出したフェルナーは、ジークリンデの気持ちは分かっているものの、自分が信頼されていないことを肌で感じ、憤りとまでは言えないが、ひどく悔しさ覚えた。

 

「あの警官と一緒にして欲しくないのですが」

 

 広い廊下で、独り呟く。

 だが拗ねている場合ではないので、気を取り直し、扉の脇に立ち警備につく。

 

 信用を得るためには、自分も信用するが ―― 裏切られることもあった。そのようなことが何度かあったせいで、ジークリンデは彼らをどうしても信用しきれなかった。

 

「ジークリンデさまがお呼びだ」

 

 部屋を出されて三十分もしないうちに、フェルナーは部屋に入るように命じられた。

 

「いいのですか? まだ不安なのでは?」

「ジークリンデさまが、呼んで欲しいと言われたのだ」

 

 部屋に呼ばれるのはいいが、再び拒否されたら傷つくなと ―― 図太い精神の持ち主だと自負している自分らしからぬ気持ちに、苦笑しつつ、ベッドから降りているジークリンデのもとへと近づいた。

 

「連れてまいりました」

「ありがとう、アーダルベルト」

 

 さきほどまでは乱れたままの髪で、ガウンも羽織っていただけだが、いまは髪を下ろし櫛で梳き整え、ガウンにも袖を通してしっかりと着込み、口紅まで塗り直していた。

 

「お呼びと」

「ええ……あの……下がらせてしまって……あなたは、あの警官とは違うことは分かっているのですけれど……」

 

 恥ずかしそうにややうつむき、下がらせたことを詫びる。

 光沢のある滑らかなシルクのガウンの上を、艶やかな黒髪が伝い落ちた。

 

「気になさる必要など。そもそも私は部下になってから、まだ日が浅いですし。ジークリンデさまが、警戒なさるのも仕方のないことです」

「違うの! ……いいえ、違わないのかも知れませんが……」

「お気持ちだけで充分です」

 

 ジークリンデはフェルナーの右手を両手で包むように握りしめ、けぶるような長い睫で彩られた、潤んだ翡翠色の瞳で見つめる。

 うまく言葉を紡げず、無言でなにかを言いかけ、唇を閉ざして頭を振る。

 そんな困り果てているジークリンデの肩にフェルナーは手を置いて、

 

「いまはお疲れでしょうから。落ち着かれたら、教えてください」

 

 できるだけさりげなく、自然にジークリンデを引き離した。

 それは嫌だからではなく、ひどく残酷な錯覚をしてしまうことを恐れてのこと ―― そう考えている時点で、すでに手遅れなのだが。

 

**********

 

 ジークリンデがベッドに入ってしばらくすると、寝息が聞こえ始めた。

 

「薬が効いたようですね」

「そうだな」

 

 寝室で警戒についていた二人は、やっと眠ったことに安堵した。

 帰宅してから、食事も取っていなかったジークリンデに”せめて、これくらいは”と勧めたホットミルクに、睡眠薬が混ぜられていた。

 

「気付いてらっしゃいましたよね」

「まあな。誘拐されたあと、毎回ホットミルクで眠られてるから気付かれて同然だろう」

 

 ジークリンデは自分から薬に頼れるような性格ではないので、自ら欲したりはしない。自身の意思がそれほど強くないことを知っているので、依存してしまうのではないかという恐怖から。

 だが彼らが与えてくれるのならば ―― 少々の恐怖はあれど、それらをねじ伏せ、心配してくれていることに感謝の姿勢を見せて飲み干す。

 

「たまに、変えてみたらどうですか?」

 

 ジークリンデがあまり薬を好まないことは、医師も彼らも気付いている。

 

「俺もそう考えて、ポタージュに混ぜたことがあったんだが、あれは失敗だった。薬の苦みが増してな」

 

 ストレスを与えられたあとなので、極力ストレスを与えないようにしたいからこその、飲み物に混ぜての睡眠薬だが、ばれてしまっては、その役目も果たせないというもの。

 

「それは大切ですけれど……二人で味見して、居眠りするわけにもいきませんしね」

 

 多少の不味さは我慢できるが、睡眠薬を美味しくいただいてもらうための毒味となると、そう簡単にするわけにもいかない。

 

「それもそうだが、なにより高額だからな」

「薬が?」

「そうだ。自然成分由来で、製法も手間暇がかかっている。副作用などはなく、成長をも阻害しないとグートシュタイン公爵夫人が仰っていた」

「グートシュタイン公爵夫人は、薬物に詳しいのですか?」

 

 公爵家は薬品会社を所持しているので、薬を入手しやすい立場にあるが、そのトップが薬に詳しいとは、フェルナーは思ってもみなかった。

 

「詳しいな。貴族相手に、良い仕事をしている」

 

 金髪のふくよかな女性は、意外な一面を持っている ―― 門閥貴族は意外とは感じないのだが、事情を知らない者からすると、意外さを禁じ得ない。

 

「”良い仕事”……ですか?」

「門閥貴族が名誉を重んじ自裁する際、使用するのは?」

 

 門閥貴族といえば、強制されたものであろうとも、服毒自殺がメイン。

 その毒薬だが、当然市販されはいない。貴族社会で毒薬を作り、売っている家がある。それがグートシュタイン公爵家。

 

「あー……なるほど。そっち方面を一手に担ってるとか?」

 

 門閥貴族=服毒死の図式を作り上げたのも、このグートシュタイン公爵家と言われている。

 

「毒入りワイン自殺を考案したのが、グートシュタイン家だとか」

 

 門閥貴族が自殺する際に使用する毒薬は高額。たまに破産した貴族が銃で頭を撃ち抜いて死ぬこともあるが、それは名誉ある自裁にはならない。

 貴族というのは死ぬ時まで、色々と面倒な慣習がある。

 

「へえ……それはまた。貴族って色々な秘密を抱えているんですね。あ、そうだ。あの暗号について教えて欲しいのですが」

 

 自ら進んで服毒自殺 ―― などという行為とは、明らかに真逆の位置にいるフェルナーは、ジークリンデの寝顔を見て、暗号らしきものを思い出した。

 あの場ではファーレンハイトの意見に従ったが、なぜあれがブカーチェクを現しているのか? 彼には理解できず、自分の疑問をねじ伏せての行動だった。

 

「あれか」

 

♭ロ ♯Ⅱ ロⅢ イ ハ ホ ロⅢ

 

 この暗号は♯や♭が使われていることから分かるように、音階を用いたもの。それを特定の人以外わからないようにするために、ジークリンデは日本式の音階を用いたのだ。

 

日本式  ハ ニ ホ ヘ ト イ ロ ハ

ドイツ式  C  D E  F G  A  H C

(フランス ド レ ミ ファ ソ ラ シ ド)

 

 これで「イ → A」「ハ → C」 「ホ → E」となる。

 

「これ、文字なんですか?」

 

 ジークリンデから少し離れた位置で、端末の画面をのぞき込んでだフェルナー。彼には片仮名は、筆を拭った跡にしか見えない。

 

「そうだ。エルネスト・メックリンガーを知っているか?」

「芸術家と呼ばれている彼ですか?」

「そうだ。あいつはピアノも弾くから、尋ねてみたところ、たしかにこの表記を使っていた国があったと言っていた」

 

 ”ブカーチェクが読めたらどうしよう”

 ジークリンデが警戒したのは、メックリンガーは読めたので、覚えている人が存在することを知っていたため。

 

「へー。で、♭ロ ♯Ⅱ ハⅢ は?」

「♭ロはそのままBだ」

 

 ♭ロは変ロのこと。漢字まで教えると怪しまれそうだと考え、フラットをそのまま書くことに。当初ジークリンデは”いろはにほへと”を全て教えようと思ったのだが、覚えてもらったところで、どうにもならないので、あくまでも音階で対応しているものだけで乗り切ることに。

 

「baceまでは分かりました。ということは、♯Ⅱは”u”で、ハⅢはkなんですね?」

 

 規則性は分からないがスペルが「Bukáček」である以上、指し示すものは「uとk」しかないことは、フェルナーにも理解できた。

 

「その通りだ。♯Ⅱは”sから二つ目”を差す」

「そのsってどこから?」

「#がついている場合Cis Dis Eis……と、最後はSになる。♭でも同じだが」

「s……tu。なるほど」

「ロⅢは”ロから数えてⅢ番目”ロはH」

「Kですね。ああ、ちょっと足りませんがBukacekになりますね。あの状況で夫人、よく残せましたね」

「音楽に造形が深いお方だからな。俺は覚えるのに苦労した。お前も苦労しろよ」

「解読失敗したら目も当てられないので、誘拐されないように努力します。ところで男爵閣下は?」

「教授をつれてブカーチェクの尋問に向かったから、帰宅は深夜だろうな」

 

 教授とは子飼いの拷問係のこと。

 たしかに医学博士で、教授と呼ばれる地位にある人物なのだが、中身は拷問が好きなサディストで、その趣味であり特技を生かすために、門閥貴族に仕え、命令にしたがい拷問を行っている人物。

 拷問係のほうが通りは良いのだが、公衆の面前で「拷問係」もないので、一般的には「教授」と呼ばれている。

 

 ジークリンデが教授は教授だと信じて疑っていないのも、大きな理由の一つ。

 

「教授の腕の見せ所ですか……私はあまりご一緒したくはありませんが」

 

 教授は爪を剥いだり、肉をそぎ落としたり、皮を剥いだりという拷問が得意であり、趣味なため、最後あたりになると、対象者は一目で人間とは分からない形状になることが多い。

 人の死に慣れている軍人であっても、年に一度見るかどうかのような惨状。

 自白剤を使うべきだと進言したところで、怒りの感情を爆発させ、溜飲を下げるための儀式なので、聞き入れるはずもない。

 

「俺もだが、こればかりはな。明日か明後日には、ブカーチェクが知っていることは、全て明らかになるだろう。それが事件の全容解明に繋がるかとなると……」

「ならないでしょうね。あれ、誰からのメールですか?」

「知らんコードだな」

 

 登録されていないため、コードが剥き出しになっているメール。誰からだ? と、思いながら開くと ―― 今日の功労者の一人、バシリオから、ジークリンデの具合を案じるものであった。

 

「……あいつだったのか」

 

 教えてもいないのにバシリオがなぜファーレンハイトのアドレスを知っているのか?

 ヴィクトールに誘われて、ジークリンデを守るさいに、従者(ファーレンハイトやフェルナー)のアドレスを所望したため。

 

「銃撃戦を担当していたんですか」

 

 ジークリンデに手を伸ばし、地上車に乗せようと腕を伸ばしたベネディクトを撃ち殺し、宅配トラックから降りてきた者たちを、彼らからは決して見えない位置から狙撃した人物こそ、バシリオだった。

 

「そのようだな。……なあ、フェルナー」

「なんでしょう? 准将」

「バシリオへの依頼は、幾らぐらい掛かると思う?」

「さあ。なにを依頼するんですか?」

「ジークリンデさまが帰国する際、搭乗する軌道エレベーターの外壁を当日に撃ち抜き、使用不可にできないか? どうかだ」

 

 ジークリンデの願いは極力叶えるが、負担にならないように手を回すのも仕事のうち。希望通りに軌道エレベーターで帰国するように整えて、直前で、機器の不具合ということでシャトルに乗せてはどうかと。

 

「理由を説明したら、無料でやってくれそうですけど」

 

 話を聞いたフェルナーも同意し、バシリオに打診したところ、快諾を得られた。

 

―― 予定が早まる可能性もあるので、帰国予定日まで全て空けておいてくれ ――

 


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