二週間の休暇を終え、残り一週間の公務についた途端に誘拐されかけることに ――
ジークリンデが知らぬ間に、誘拐事件は解決していることが多いが、全てが秘密裏に片付けられているわけではない。たまにジークリンデも誘拐に直面し、神経をすり減らすことがある。
―― 警察庁で誘拐されるなんて……
公務の一つとして、警察庁の見学へジークリンデたちは赴いた。
警察庁ならば、防犯も行き届いているだろうと言うことで視察先に選ばれたのだが、買収された実行犯が警官であった場合、最悪の事態を招きかねず ―― まさにその通りのことが起こってしまった。
―― ブカーチェク警部補でしたね
ライトブラウンの髪と、黒い瞳を持つ、三十過ぎの白人男性。
特に疑わず、彼に促されるまま見学して歩き、ミュラーたちが近くにいないことにジークリンデが気付いた時には、すでに遅し。
ブカーチェクは態度を変えず、誘拐したとも言わず。
ジークリンデをとある会議室へと連れてゆき、
「こちらでしばらくお待ちください」
嫌な笑顔を作り、ジークリンデにそう告げた。
「……鏡を持ってきて」
ジークリンデは確かに鈍いが、馬鹿ではないので、誘拐されている途中なのには気付き ―― そうなった際に取って欲しいと、彼らに教えられた行動を取ることに。
”間違っていても良いのです。勘違いでも構いません。自意識過剰で結構です。おかしいと思ったら、行動に移してください”
ファーレンハイトやシューマッハ、シュトライトから何度も言われたことを反芻し、できる限りの虚勢を張ってブカーチェクにそう告げた。
「何にお使いでしょう?」
鏡を探しに行っている間に、逃げ出す ―― などという、ことではない。
彼らの指示は、誘拐犯を怒らせないようにすること。
鏡はジークリンデが自分で考えたことをするために必要。
「化粧を直すの」
ジークリンデは努めて冷静な口調で、ドレスのポケットから口紅と紅筆を取り出した。口紅はパレットタイプで、紅筆は折りたたみ式。
鏡は会議室の壁に据え付けられているので、その場まで机や椅子を移動させるようにという指示。
「少々お待ちください」
ブカーチェクはジークリンデ自身が化粧直しをしている姿は見たことはなかったが ―― 化粧を直している姿を男性に見せるのは好ましくないということで、彼は立ち入らせなかった ―― とくに疑いを持たずに、ブカーチェクは机とテーブルを大きな姿見の前まで運び、簡易のドレッサーを作る。
「お待たせいたしました、どうぞ」
「化粧をしているところは、男性には見られたくはないのですけれど、警護だからそうも言って入られませんね。鏡に映らないところに控えてちょうだい」
「かしこまりました」
ジークリンデは極力、自分が誘拐されかかっていることに気付いていない素振りで接する。
―― ブカーチェク、ブカーチェク……
犯人の名前くらいは残しておこうと、ジークリンデは震える手を押さえながら、紅筆で名を記す。もちろん見られた時に、すぐには分からないよう「暗号」で。
―― 殺されるわけじゃないんだから、落ち着いて。エリザベートみたいに殺される訳では……多分……
ジークリンデが思い描いているエリザベートとは、ユリウス一世の殉死させられた五人の寵姫の一人で、ブレスレットの内側に事情を口紅で記した人物。
あの出来事が一般に公開されたのは、ゴールデンバウム王朝が滅びてからだが、ジークリンデはそれらを知ることが出来る、近いところに居たことと、なんとなく「その事件」を記憶していたこともあり ―― 寵姫エリザベートに倣い、なにか緊急事態があった際には、口紅で暗号を残す提案をした。
最初に聞いたとき、彼らは当然、良い表情はしなかったが、ジークリンデの心の支えになるのであればということで、使いもしない口紅と、文字が書きやすい筆を用意した(化粧には適していない)
―― ブカーチェクが読めたら終わりですけれど
「ティッシュペーパーを」
「申し訳ございません。持ち合わせておりませんので、我慢していただけないでしょうか?」
「では口紅を、テーブルに拭いますけど、いいかしら?」
「なんのために拭うか、教えていただけますと」
「刷毛に付いた余分な口紅を拭うの」
「然様でしたか」
ジークリンデはそう言い、紅筆に大量の口紅をつけて、拭う素振りをしながら暗号を書く。最後には、わざとリップパレットを落として、さらにテーブルを汚して暗号を隠す。
「やっぱり、自分で直すのは慣れないわ。小間使いを呼んで」
「申し訳ございません。それはちょっと」
「どうして?」
―― きっとブカーチェクは私が馬鹿だからと油断している……確かに馬鹿ですけれど……彼の油断を誘ったまま
「少々問題がありまして、ここから移動しなくてはなりません」
「そうなの? では連れていって。ところで、アーダルベルトは?」
「先に行って、待っているそうです」
「分かりました」
近づいてきたブカーチェクを制して、口紅と紅筆はテーブルに置き去りにしジークリンデは一人で立ち上がる。
ブカーチェクは念のためにとテーブルを見たが、「彼の知識では」なにも書き記していないことを確認して、ジークリンデを会議室から連れ出した。
―― 良かった! ブカーチェク、読めなかった……どこに連れていかれるのかしら
ファーレンハイトが暗号を見つけてくれることを願いながら、ジークリンデはブカーチェクを刺激しないよう、変わらぬ態度で歩き続ける。
―― 鈍いと嘲笑って、些細なことでも見逃してちょうだい。怖いわ……逃げたいよ……
誘拐されると分かっているのに、逃げ出さず、犯人と共に、そちらへ気付いていないふりをして進むというのは、かなり精神力を必要とする。
―― 犯人を刺激しないように。泣かないように、大声を上げないように、何度も質問をしないように……でも、いつも通りに
ファーレンハイトたちがジークリンデに教えた対処方法は、護身術でもなければ、射撃でもない。走って逃げることでもなく、とにかく犯人を刺激しないことを教えた。
誘拐犯はほぼジークリンデ自身が欲しいので危害を加えたりはしないが、犯人の精神状態がまともであるという確証はないので、できる限り刺激をしないようにと。
ジークリンデは彼らの教えを守り、出来るだけブカーチェクを刺激しないように振る舞い、完璧なほどに成功していた。
誘拐を実行したブカーチェクは、しばらく見ていたジークリンデの性格から「あまり人を疑わない」と判断し ―― 世間知らずな貴族の姫君を欺すのは簡単だと、甘く見ていた。
ジークリンデはこうして、警察の重要人物の避難経路を通り、警察庁から離れた川沿いの道へと出た。
「なんか、じめじめした通りね」
「緊急避難経路でして」
「なにかあったの?」
「安全なところに到着したら、ご説明させていただきます」
この先に逃走用の車両が待っていることが分かると、ここまで耐えてきたのだが、ついに限界が訪れ、恐怖から足が思うように動かなくなる。
―― この程度の距離、いつもなら平気なのに
このまま上手く意識を失えたらいいのにと願うも、都合良く意識がなくなることもなく、重い足を引きずり、ブカーチェクに遅れることなくついて行くと、黒塗りの地上車の側面が見えてきた。
その車中後部座席から、ジークリンデには見覚えのない男性が降り、ブカーチェクに手を上げて合図を送る。
―― 車に乗せられた痕跡を残したいけれど……脱げるような靴でもないし
ジークリンデの靴は、本人の足を採寸して作っているので、足にぴったりと合っていて、転んだ程度では脱げはしない。
”どうしよう、どうしよう”と怯えながら。
ジークリンデの恐怖が伝わっているかどうかは不明だが、下車した男はジークリンデを早く車に押し込もうと手を伸ばす。
―― ここでもみ合えば、靴脱げるかし……
手を伸ばした男は、ジークリンデが見ている前で、なにかに押されるかのように倒れ、車体に体をぶつけて、道路に崩れ落ちた。
「え?」
開いたドアの前で、ジークリンデは立ち止まる。
倒れた男も何が起こったのか分かっていない表情のまま。
「早く、乗れ!」
男が撃たれたことに気付いたブカーチェクは、急いでジークリンデを車に乗せて、この場を去ろうと、背中を強く押す。
唐突に背を押されたジークリンデはバランスを崩し、車の段差に躓き、上半身だけが車中に乗り込む形に。
「なにをするのですか」
身を起こして、首を捻って問いかける。
だがジークリンデの問いにブカーチェクが答えることはなく ―― 目の前で突如、銃撃戦が始まった。
光の乱射と怒号。
ジークリンデが気付いていないだけで、地上車の前後に停車していた、宅配トラックも誘拐犯の仲間。
武装した彼らが続々と降りてきて、銃を構えて撃っていた。
「姫君に当たる! 銃は控えろ」
そんな状況のなか「銃を撃つのを止めろ」との声が響く。
その声に反応するように銃撃が止まり、ドアを盾にして交戦していたブカーチェクは、この隙にと、ジークリンデの襟元を掴んで、綺麗にまとめられた美しい黒髪が目を引く頭に銃口を当てて、
「下がれ!」
今度はドアではなくジークリンデを盾にして地上車に乗り込み逃走を図ろうとした。
ジークリンデはごりごりと押しつけられる銃口に、ぎゅっと目を閉じて恐怖に耐える。
―― どうしよう、どうしよう
この状況でジークリンデが出来ることなどないのだが、誰かが指示を出すかもと考え、固く閉ざしていた目蓋を恐る恐る開く。
「……?」
ジークリンデの右後方から銀色の細い物体が突き出していることに気付いたが、その物体が血を滴らせていることには気付かなかった。
「く、くるし……」
自分の襟元を握っている手に更に力が加わり、首が絞まり息苦しくなる。
―― 銃口が離れてる?
なにが起こっているのか? さっぱり分からないまま、首を押さえていた手が離れ、再び誰かに背を押されてジークリンデは車外に転げ落ちる。
幸い腕をつくことができたので、全身を打つことはなかった。
乗せて連れ去ろうとしていた地上車は走り出し、硬直しているジークリンデが取り残された。
「ジークリンデさま!」
駆けつけたフェルナーに保護され、ファーレンハイトに引き渡され、そのまま迎賓館へと戻った。
**********
ジークリンデのそばに配置するのは、警備や護衛に実績ある者を選出した。
能力で見た人選は間違っていなかったため、自分の庭とも言える庁内でフェルナーたちの一瞬の隙をつき誘拐に成功した。
ファーレンハイトやフェルナーはとしては、どこへでも付き従いたいのだが、男性が立ち入れない場所がいくつかある。そのために婦警を採用していた。
「ジークリンデさまは、どちらに?」
ジークリンデが休憩から戻ってこないことに気付いたファーレンハイトが、付き従っていたはずの婦警に声をかけた。
「お疲れになったとのことで、別室でお休みに」
「どこで休まれると?」
「応接室へご案内すると、聞かされましたが」
「警官」
「はい」
「お前はジークリンデさまが”疲れたと”言われたのを聞いたのか?」
「聞いておりません」
「誰か聞いた者はいるか?」
婦警たちは顔を見合わせ、互いに”聞いていない”と首を振ったり、手で否定したりする。
「応接室にジークリンデさまがいるかどうか、大至急確認しろ」
数名が確認に走り出す。
「建物の出入りを制限しますか?」
「ああ」
一斉に出入り口の警備についている者たちに警戒のメールを送り、警備部に連絡を入れる。
「本当に休憩している可能性は?」
派手に大事にしたが、ジークリンデが普通に休んでいる可能性もと、ファーレンハイトに問いかけた。
だがファーレンハイトは、ソレはないと ――
「ジークリンデさまは、疲れていても、ご自身から言い出すことはない」
ジークリンデは「もう少し頑張ってみようかな」で倒れるタイプ。
「倒れるまで我慢するお方ですもんね」
「もしも、本当に疲れて休みたいのなら、警官ではなく俺たちに言うはずだ」
警戒に関する通信を終えたフェルナーは、無駄だと分かっているが、端末を取り出して発信器でジークリンデの居場所の特定をしようとしたが ―― 庁内は情報漏洩や、テロを警戒し、要人の居場所が分からないように、ジャミングされているため、場所は特定できなかった。
「まだ庁内にいるということか」
「もう連れ去られ、圏外なのかも知れませんよ」
「まだ居ると思うか? フェルナー」
「連れ出されている最中だと思いますよ、ファーレンハイト」
全庁放送をかけるよう指示を出し、護衛の点呼を取る。
「護衛で連絡が取れないのは、ブカーチェクとドブロフスカヤの二人か」
式典の日、ジークリンデの下着に薬物を塗った可能性のある二人が、ここでも行方が知れなかった。
「どちらかが犯人か、それとも両方犯人か。それとも、どちらも関係ないか……」
ジークリンデの他に、この二人をも捜すよう指示を出し ―― 庁内で撃たれ重傷を負ったドブロフスカヤが発見された。
「ということは、犯人はブカーチェクか」
「どうでしょう。ブカーチェク一人とも限りませんし」
応急処置を施されたドブロフスカヤに、二人がジークリンデについて何か知らないかを尋ねると、彼女は行き止まりの廊下を指さし、微かな声で「会議室」と告げた。
そこで彼女の意識が途絶え、救急隊員が急いで運び出す ―― 二人はドブロフスカヤが指し示した会議室へ。
窓にはクリーム色のシェードが下ろされており、かなり広々としている。
その部屋の広さに反して、テーブルや椅子の数は少なく、高官が使用するのだと一目瞭然。
室内は鏡の前にテーブルが置かれた、不自然な構図。ファーレンハイトはまっすぐそのテーブルへと近づき、フェルナーは室内になにか痕跡がないかを探る。
フェルナーはいま入った扉ではなく、もう一つの扉を開けてみた。
見た目は行き止まりのところの会議室なのだが、そのドアから入り、別のドアから出ると、行き止まりの反対側に出る仕組みになっている。
「こっちから入って、こっちから……」
ファーレンハイトが端末を取り出して、必死に机を睨んでいる脇でフェルナーは庁内の地図を開く。
そこへ庁内の案内を担当していた警官がミュラーと共にやってきて、
「犯人は黄玉華です」
公休日の婦警の名を告げた ―― その声に被さるように、ファーレンハイトが叫ぶ。
「ミュラー。その男を捕まえろ!」
ミュラーはなんのためらいもなく、隣の男の腕をねじり上げ、引き倒して、体を床に押しつける。
「ブカーチェクから、幾らもらったのかは知らないが、命と引き替えにしても惜しくはないほどもらえたか?」
「ブカーチェクで間違いないんですか?」
「間違いない。ジークリンデさまが、そう記されている。ミュラー、拘束しろ」
置き去りにされた黒檀ケースの口紅と、紅筆を手に持ち、ファーレンハイトは言い切る。
「どこにそう、書かれているんですか?」
「これだ」
そこにはブカーチェクと同じく、フェルナーにも読むことができない、筆を拭った際にできたとおぼしき模様が残されていた。
「……え? 意味が」
テーブルに書かれているのは 「♭ロ ♯Ⅱ ロⅢ イ ハ ホ ロⅢ」
フェルナーがかろうじて読めるのは「♭」「♯」「Ⅱ」「Ⅲ」
「ロ」「ハ」「イ」「ホ」などは、ただの記号にしか映らない。あまりにも漠然としたもので、どう読むのかと ――
「対応表だ」
ファーレンハイトが端末の対応表を指し示す。
「……細かいことは、後で教えてください。ですが、たしかにこの部分は……そう読めそうですね。分かりました信用します」
「そいつの口でも割らせるか」
事情を知っていそうな男から教えてもらおうかと、ブラスター片手に近づくと、突如、いま彼らが立っている場所からかなり離れた、西側隅の内線が鳴った。
フェルナーが駆け寄って受話器を取る。
『アーダルベルト・フォン・ファーレンハイトさま、もしくはアントン・フェルナーさまは、そちらにお出ででしょうか?』
「アントン・フェルナーだ」
交換手の問いかけに早口で答える。
『ウィン・ファンデンベルグさまより、通信が入っております』
「繋いでくれ」
フェルナーの偽名を名乗った相手は、本名は名乗らなかったが声を聞いて、誰なのか? フェルナーはすぐに分かった。
『姫君は、もう建物の外だ。窓から川が見えるだろう。姫君はその川沿いを歩いている。建物からは見えない。なにせ高官の避難経路だからな。逃走用の高級車両が一台。前後に民間の宅配業者を装った、武装した兵士が乗り込んでいるトラックが二台。武器を持って、急いで来い。目印に狼煙を上げておく』
相手は伝えたいことだけ伝え、通話を切った。フェルナーは受話器を投げ捨て、窓へと駆け寄りシェードを上げる。
目に飛び込んできたのは黒煙を上げているなにか ――
「川のほうです」
肉眼ではなにか分からなかったが、黒煙を上げているのは、街中に設置されている公衆の通信機。
「誰からだ?」
「ウィン・《ヴィクトール》・ファンデンベルグからです」
ヴィクトールはそこから連絡し、彼らの目印にと爆破したのだ。
「そうか。ミュラー、そいつを拘束したあと、部隊を率いて黄玉華の自宅へ向かえ」