フェルナーは店の味や用板、立地だけではなく、資本のほうも軽くだが調べていた。
この店のオーナーは女性で、名を「ニコール・ブリュレ」と言い、ジークリンデが訪れた店の他にも、五つほど店を持っている実業家 ――
ジークリンデたちの着席後、すこし遅れて隣の席へとやってきた黒人のカップルは、見るからに門閥貴族であるジークリンデの姿に驚いたものの、その当人が気にしていないことと、彼らの側に座っている従者らしい人物が”どうぞ”と手を合図したので、予約していた席に着いた。
ジークリンデは隣に座ったカップルが気にはなったが、ファーレンハイトの体越しに、まじまじと見るのも失礼だろうと、できる限り気にせず ―― 実はこの時、ジークリンデたちの隣に座ったカップルの女性は、同盟のシトレ元帥の親戚。
同盟籍のイワン・コーネフの親戚が、フェザーン籍を持つボリス・コーネフだったように、この親戚も同盟籍ではなくフェザーン籍となっている。
隣の席に座ったのが、シトレの親戚だと分かったところで、ジークリンデはいつも通り、何もできはしない。出来ることと言えば、目の前に運ばれてきた料理を食べることだけ。
ほとんどの料理が三人前からとなっており、大皿で運ばれてきた料理を、小皿に取り分ける形になっている。
まず最初に運ばれてきた、やや派手な花柄模様の楕円形の皿に盛られたサラダ。フルーツトマトに玉葱、レタスにオリーブの実、そしてモッツァレラチーズが混ぜられたもの。
「では私が」
ファーレンハイトが取り分けるために、大きなスプーンとフォークを持った。その場にいた誰もが、妥当な人選だと思ったのだが、
「自分でできますよ」
ジークリンデが自分でやると言い出した。
「お止めください。ジークリンデさまに、給仕の真似事などさせるわけには」
「それを言うなら、あなたもでしょう、アーダルベルト」
「あのような失態はいたしませんので、ご安心ください。決してジークリンデさまに、恥をかかせるようなことはありません」
「あれは、私が悪かったの。だから……」
ジークリンデとファーレンハイト以外は、何のことを言っているのか? 皆目見当も付かなかったので、
「何があったんですか?」
フェルナーがさっくりと聞いてきた。
「実は……」
「言っちゃだめ!」
「私の失敗ですので、ジークリンデさまにはご迷惑が掛かることは」
「嫌なの」
ジークリンデはむくれ、フェルナーの側を向いた。
むくれているジークリンデだが、その表情は”嫌そう”というよりは”恥じらっている”と表現したほうが、しっくりとする。
「ジークリンデさまが、そこまで駄目だと仰るのでしたら、無理に聞きませんよ」
いまここで聞く必要もないので、申し訳ございませんとばかりに、ジークリンデに視線を合わせて侘びた。
その反対側では、好機とばかりにジークリンデの皿にファーレンハイトがサラダを取り分けた。
「小官は兄弟が多いので、取り分けには慣れております。小官でもよろしければ」
彼らはジークリンデがファーレンハイトに給仕の真似事をさせるのは、あまり好まないと理解して ―― ミュラーが任せてくださいと、自ら名乗りを上げた。
「十人兄弟?」
兄弟が多いのと、取り分け上手の関係は不明だが、ミュラーが十人兄弟だと知ったジークリンデは、周囲に二桁代の兄弟がいる人がいないので、純粋に驚く。
(異母や異父、非嫡出子やら庶子やら私生児は、含めていない)
「……」
実は驚いたのはジークリンデだけではなく、ファーレンハイトやフェルナーも驚いたのだが、そこは大人の余裕というべきか「知ってました」といった面持ちでやり過ごす。
「……」
ジークリンデの護衛を任せる者に関する身辺調査は、国務尚書が信頼できる者に任せており彼ら、とくにファーレンハイトは関与していない。それら集まった伝える情報だが、必要がないことは伝えないので ―― ミュラーが十人兄弟であることは、書類のどこにも書かれてはいなかった。書かれたいたのは、姉妹が五人だけ。
姉妹がいるかどうかは、ジークリンデと接する際に必要なことなので、必要と見なされる。
書類に目を通したとき随分と多いと二人は思ったが、それだけ。
「はい」
「いいわね。私もお姉さまが欲しかったわ」
兄弟の構成を聞いたジークリンデは、ミュラーに姉がいると聞き、本心から羨ましがる。
妹や弟は父親の再婚で出来ることもあるが、姉はそうはいかない。
もちろん再婚相手の連れ子で姉がいたら嬉しいが、父親が「連れ子がいる女性とは再婚しないよ。財産を分けてあげられないからね。可哀想だが、財産は守らないといけない。それが伯爵家の当主の最低限の仕事だ」そう言っていたので、姉は諦めている。
―― ミュラー中尉の姉も、私の姉と似たような感じか……
帝国は男尊女卑傾向が強いものの、全ての家庭が男尊女卑というわけでもない。
また帝国は多数決など存在しないが、家庭内では数が多い方が勝つのは暗黙の了解となっている。
ジークリンデは羨ましがったが、三人の姉の暴虐に晒され続けてきたフェルナーは、ミュラーの僅かな表情の動きから”自分と似たような境遇”を感じ取った。
「ジークリンデさま、次はなにを注文なさいますか?」
「このレモホン・グラナディーノを食べてみたいわ」
「かしこまりました」
―― サラダ、二連続ですか
レモホン・グラナディーノとは、塩干し鱈とオレンジのサラダ。
鱈の白さとオレンジのコントラストが食欲を誘う。
かつて食べた覚えがあったので、フェザーンでも味は同じものなのか? ジークリンデは気になり希望した。
ちなみにレモホン・グラナディーノの次にサルピコン(魚介のサラダ)を注文し、その次は人参サラダを注文しようとしたジークリンデに、フェルナーは果敢に自分の希望を述べた。
「ジークリンデさま。肉料理が食べたいのですが」
「好きなの注文していいのよ?」
「ジークリンデさまがお好みではない料理を、注文する勇気はありません」
「食べてみたい品を指ささないと、デザート頼んでしまいますよ」
「うわ、酷い脅しです、ジークリンデさま。ではこれを……」
そんなやり取りはあったものの、ジークリンデは自分がいかなる時であろうとも、貴族らしく、またこの場の女主人であることを思い出し「テーブルを囲んでいる人たちが、楽しく食事できるよう、バランスよく注文しないといけませんね」と、少し考えて注文をすることに。
テーブルに料理が並び、盛大なパーティーを主催し、成功させる女主人たる技能を発揮して、婦警たちとも話を弾ませる。
婦警たちとの会話は主に学校や進路に関して。
フェザーンは帝国領でありながら、女性の多くが進学をする ―― 婦警たちの話を聞けば聞くほど、ジークリンデは羨ましかった。
どうせ生まれ変わるのなら、フェザーンに生まれたかった。そうしたら地道に努力し、新王朝の世界を見ることもできたのに……と。
門閥貴族の生活は、確かに経験したことがないほど豪華で贅沢だが、大伯父が権力を失うと共にどん底に落ちることになるのを知っていると、どれほど優雅な生活をしていても、虚しさと恐怖がつきまとう。
ジークリンデが婦警たちと会話をして知ったのは、フェザーンの公務員は、わりと人気のある職業だということ。ボリス・コーネフは、全力で否定していたが、フェザーン人の全てが金儲けに人生を捧げ、誰もが起業家を目指しているわけでもないので、当然とも言えよう。
そんな話をしているうちに、シトレの親戚カップルのプロポーズは無事に成功し、周囲の人たちが祝福の歓声と拍手を送る。
ジークリンデも優雅に手を叩き、このチャンスに! と、ファーレンハイト越しにカップルを見ることができた ―― シトレの親戚は、シトレと似ていたのだが、シドニー・シトレそのものを見たことのないジークリンデには、分かるはずもない。
ジークリンデがデザートのバニラアイスを食べ始めた頃、店長がフェルナーに声をかけてきた。
「フェルナーさま、少々お時間をいただきたいのですが」
「ああ」
「出入り口のほうで」
「はい」
見当は付いているが、聞かないことには答えられないので、場所を移す。店員は奥に通そうとしたのだが、フェルナーはそれを断り、出入り口に陣取った。
「オーナーがフレーゲル男爵夫人にご挨拶したいと」
―― まあ、出てくるだろうな
フェルナーはオーナーのニコール・ブリュレの姿と、彼女の経歴を脳裏に描く。フェザーンで事業を展開し、成功させている人物が、この好機を逃すはずもない。
「それは男爵夫人御本人に伺わないと、答えられない」
また野心はなくとも、挨拶に伺わず帰したとなれば、それはそれで問題になりそうなところもある。
―― 気軽に出歩けないご身分ってやつか……大変だな
店長に下がるよう命じて、フェルナーは席へと戻り、事情を告げた。
「ジークリンデさま、宜しいでしょうか?」
「なに、アントン」
フェルナーは柔らかな耳朶の側まで顔を近づけ、やや声をひそめて
「オーナーが挨拶したいと、申しております」
オーナーに挨拶されるのは慣れているジークリンデだが、今は挨拶を受けたい気持ちではなかった。
「いま、ここでですか?」
体ごとフェルナーの方を向き、あからさまに”いや……”という声色で。
「そのつもりのようです」
ジークリンデとしては、せっかく「普通の客に近い形」で楽しんでいたのに、オーナーが出てきたら、いつもの特別になってしまうことと、なにより店内で門閥貴族がいることを気にしない空気がやっとでき、良い雰囲気となっているのを壊したくなかった。
「わざわざ私に会うために、来たのですよね?」
「そうでしょうね。ですがお嫌でしたら、断っても平気ですよ」
只でさえ、偏見を持たれやすく、反感を買いやすい門閥貴族。
あまり下手にでるのは良くないが、かといって高圧的でも良くはないので、
「私は知らない人には、良人の許可無く会えないと伝えて。そして、帰ったら良人から許可をもらうから、明日の朝、ホテルに来るよう伝えて」
「かしこまりました」
会う時間を特別に作るということで、この場では一般客に近い形で楽しみ、帰宅の途に就いた。
**********
明日の急な面会に備えて、ファーレンハイトとフェルナーは、どの部屋に通すか警備体制を整えるとともに、ニコール・ブリュレの身辺調査を詳しく行った。
「夫人は嫌がってましたが、給仕の真似事で、なにかあったんですか?」
フェルナーは警備要項の清書をしながら、ファーレンハイトは早朝、ジークリンデに渡すニコール・ブリュレの年齢や趣味など、会話のために使う調査書の清書をしながら、給仕の真似事にまつわる失敗談についての話を始めた。
「あれは、俺がジークリンデさまの部下になってすぐの頃 ――」
―― 准将、男爵閣下の部下じゃあ……まあ、良いんですけれど
さらりと、ジークリンデの部下発言をしているファーレンハイトに、いつもなら容赦もためらいもなく突っ込むフェルナーだが、この時はそのまま流しキーを叩き続ける。
「レオンハルトさまが出場している馬術大会の応援のお供をした時のことだ。お前も知っての通り、ジークリンデさまはボックス席から応援をなさる」
空調が完備されているボックス席で快適に過ごす。
食事や菓子が提供される。
この馬術大会の一週間ほど前に、ジークリンデの誘拐未遂事件が起こり、その際、手引きしたものが元々仕えているものであった。
本来ならば外出させたくはなかったフレーゲル男爵だが、どうしても応援したいという強い願いと、見える範囲にいた方が安心できるのでは? ファーレンハイトが後押しする。
フレーゲル男爵はジークリンデの身の安全を考えて、ファーレンハイト以外の者は近くに置かないという条件で許可を出した。
大きな窓越しに、必死にジークリンデは応援し ―― 甘い物が食べたくなり、バニラアイスを頼む。
調理室からボックス席入り口までは会場が手配した給仕が運ぶが、上記の通り、席内には立ち入らせず。
アイスを受け取ったファーレンハイトが運び、最後の仕上げをすることになる。
「仕上げ?」
「ジークリンデさまが注文なさったのは、バニラアイス、トリュフ入りキャラメルソースがけ。仕上げにトリュフを削りかけるものだったが、俺はトリュフを削りすぎてな」
ジークリンデはその時、ファーレンハイトには背をむけ、フレーゲル男爵を応援していた。応援を終え、振り返った時、トリュフによってバニラアイスを完全に覆い隠されていた。
「削りすぎって。大体、分かるでしょう」
「普通には分かるのだが、門閥貴族のデザートと、士官学校のテーブルマナーで食べたデザートが同じとは考えんだろう?」
「まあ……それは、同意します」
ファーレンハイトはその時まで、食事に同席したこともなければ、警備を担当したことはなく、自分が少しどころではなく節約したがる性質だったことも分かっているので、かなり意識して大量に削った。
「おそらく、相当まずかっただろう。だがジークリンデさまは、文句も言わずに食べてくださった。表情はやや苦しげだったが」
ファーレンハイトが言う通り、おかしな味になってしまったのだが、それ以上に「提督に給仕の真似事なんてさせるから」と、後悔の念が押し寄せた結果の表情。
「准将が失敗しただけですよね」
「まあな。だが、ジークリンデさまは、随分と責任を感じられたようでな。軍人に給仕の真似事をさせて、悪かったと」
「侘びなければならないのは、准将ですよね」
「そうだな。それで、ジークリンデさまが、俺に謝っているところに、レオンハルトさまが戻ってきて、問答無用で叱られた」
「それはそうでしょう」
事情を聞いたフレーゲル男爵は、貴族然としているファーレンハイトの、貴族らしからぬ失敗と知識不足に上機嫌となった。
ジークリンデの前で失敗したのが、嬉しくて仕方なかったのだ ――
「相変わらずの小ささですね」
「だが、また誘拐未遂があり、同じような状況になった場合、俺が給仕をするような場面もあるだろう。その都度、失敗していてはジークリンデさまが悲しむと言うことで、それ以来、ご夫婦の食事の席にも護衛として付くよう命じられた。それまでは、軍服を着た男が近くにいると、落ち着いて酒が飲めないと遠ざけられていたからな」
ジークリンデの前で失敗するのは良いが、自分が無知な部下を連れて恥をかきたくはない。フレーゲル男爵はそのように考えて、ジークリンデにファーレンハイトを連れて食事に行っても良いと許可を与えた。
「今回のミュラーや婦警たちとの食事があっさりと許可されたのは……まあ、そういう理由だ」
ファーレンハイトに対する嫉妬心は収まったが、ミュラーに対するものは、いまだ収まらず「ぎりぎり」と言った面持ち。
「ミュラー中尉の失敗狙い?」
「否定はしないし、肯定もしないでおく」
報告書を上げた二人は、休むことに ――
さてジークリンデが早朝に”会う”約束をしたニコール・ブリュレ。実はドミニク・サン・ピエールその人であった。
ルビンスキーの愛人であることを生かし、別の名を持ち、店を幾つか経営していた。
もう少し時間があれば、フェルナーは本名ではないと突き止めることができたかもしれないが、フェザーン自治政府公認の別名なので ―― 短い時間では、正体を明かすことはできなかった。
原作でドミニクは幾つか店を持っていると記載されていたのだが、ジークリンデの記憶には残っておらず。会った際、顎にほくろがあったので「ドミニクみたい」とは思ったものの、顎にほくろある人など、無数にいるので、特徴がある別人だろうと解釈した。
ニコール・ブリュレとの会談は、思った以上に有意義で、得られるものは多かった。
「投資コンサルタントもしておりますので、入り用な際には是非ともお声をかけて下さい」
「良人に伝えておきますわ」
ジークリンデは何故投資コンサルタントの話をされたのか? まったく理解できなかったが、この話題を振られたのには、それなりに理由があった ―― それが関係するのは、帰国の途についた客船で起こる殺人未遂事件。
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ニコール・ブリュレ(ドミニク・サン・ピエール)との面会にワンクッション置いたことからも分かるように、ジークリンデは簡単に、部下も知らない初対面の人とは会わない。
だが、顔見知りには警戒心が働かず。
―― もしかして私、誘拐されました……いいえ、誘拐されかけているといった方が正しいのよね。ああ……警官だから安心したのに
だが誘拐されたことはあるので、自分が置かれている状況は分かる。
二週間の休暇を終え、残り一週間の公務についた途端に誘拐されかけることに ――