黒絹の皇妃   作:朱緒

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第131話

帝国歴四八二年頃の、ジークリンデの人物認識補足

 

 ナイトハルト・ミュラー

 イゼルローン攻略時のミュラーはともかく、良識人を思わせる行動が多かったことと、ヒルデガルドに淡い好意を抱いていたような描写が幾つか見られたので、貴族全員を一纏めにして嫌うような人物ではなさそう。

 自分がヒルダのようになることはできないが、嫌われないように振る舞うことは出来るかもしれないと ―― 会話をした際に感じたのは「ごくごく普通の若者」

 

**********

 

 ファーレンハイトとフェルナーの二人は休暇を与えられたので(実際は仕事をしていたのだが)ジークリンデがフェザーンにやってきてから、ずっと警護を担当しているミュラーにも休みが与えられることになった。

 

「明日会えないのは、とても残念ですけれど、しっかり休んでね。これは、明日、目を覚ましたら見てちょうだい」

 

 ジークリンデからねぎらいの言葉と、ホログラムレターが手渡された。

 

「明日の朝ですか?」

「そうよ」

 

 機能だけで灰色一色、飾り気などないのが一般的な媒体だが、そこは門閥貴族。薄い桜色に、銀細工が施されている、目を惹く媒体。

 

「ご命令に従います」

「そんなに堅苦しく取らないで。目が覚めて覚えていたらで。もう、下がっていいわ」

「失礼いたします」

 

 ジークリンデの前を辞したミュラーは、すぐにでも内容を確認したかったのだが「命令に従います」と言った舌の根も乾かぬうちに、再生するわけにもいかない。

 ファーレンハイトとフェルナーが含みのある視線を向けているのも気付かぬまま。

 落としたりしないよう注意を払い、買い出しもせず、まっすぐ自宅である官舎へと帰った。

 官舎はフェザーンが自治権を得てすぐに建てられた年代物。

 広くはないが不要品がほとんどないので、広々として見える、古びた部屋へと戻ったミュラーは軍服を脱ぎもせず、軍用の簡素なベッドに腰を下ろし、ジークリンデから手渡された、小さな菓子箱のような媒体をかざして眺める。

 ベッド同様、安い照明の明かりを受けたそれは ―― とても場違いなものに見えた。

 ミュラーはホログラフレターを持ったまま、着替えもせずにベッドに転がり、枕元の時計を見て、時間の流れの遅さにため息をつく。

 ”明日、目を覚ましたら”

 ジークリンデの命令を守りたいのだが、

 

「内容が気になって眠れそうにない」

 

 目を覚ます以前に眠ることができない。

 なまじ体力があり、徹夜をものともしない若さもある。

 眠っている間に、無くしてしまったらどうしようという恐怖すらあった。

 広くない部屋で、少し視界をずらせば、ジークリンデに買ってもらったコートと、ジークリンデの手で直してもらったコートが吊されているクローゼットも見える。

 

 フェザーンの季節は夏 ―― 早くから白む夏の空を前にして、寝てはいないが目は覚めたと、誰に対してのものかは不明だが言い訳をして、ホログラフレターの封を開け、端末に挿して ―― 見たくて悶々としていたのだが、再生を押す指が鈍る。

 白んでいただけの空に一筋の光が差すまで、たっぷりと考えて、やっとの思いでミュラーは画面に表示されている再生ボタンを押した。

 

 小さな画面から現れる、透けているジークリンデ。

 息をのむほど美しい黒髪は降ろしたまま、ジークリンデによく似合うゴールドのドレスを着ている。

 手紙が始まったときは澄まし顔。

 その表情がほころび、後ろから音量を絞ったピアノの音が聞こえてくる。

 

『おはよう、ミュラー。今日は仕事のことは忘れて、楽しんでちょうだい。私は明日、あなたに会えるのを、楽しみにしているわ……ナイトハルト』

 

 そう言い満面の笑みを残して、ジークリンデの姿は消えた。

 ホログラフレターのモーニングメッセージは珍しいものではない。

 

「……」

『おはよう、ミュラー。今日は仕事のことは忘れて、楽しんでちょうだい。私は明日、あなたに会えるのを、楽しみにしているわ……ナイトハルト』

 

 好意を持っている相手からもらえば、何度も再生するのもよくあること。

 

**********

 

 ミュラーが休暇をもらう前日 ――

 

 ジークリンデは、ピアノの練習を終えるとすぐに、ミュラーにホログラフレターのモーニングメッセージを渡したいと二人に告げた。

 

「かしこまりました。おい、アントン」

 

 ファーレンハイトに言われるよりも前にフェルナーは端末を取り出し、ホログラフレター撮影機能を立ち上げて、画面をジークリンデに向ける。

 

「撮影できますよ。いつでもどうぞ、ジークリンデさま」

 

 ピアノの前に座っていたジークリンデは”違う、違う”と、手袋と付け爪を外した手を振り否定する。

 

「待って、フェルナー。こんな姿を撮影されるのは嫌よ。着替えて化粧を直してから」

 

 ピアノの練習に袖は邪魔なのでパフスリーブのドレスを着て、手袋も外しているので、ほっそりとした腕があらわになっている。

 それに練習用のドレスなので、見栄えがしない ―― ジークリンデはそう思った。

 

「充分お美しいですよ。わざわざ着替えてやる必要などないかと」

 

 練習用のドレスだが白いフリルとレース、ピンクのリボンがふんだんに使わている、お姫さまドレス。年齢より幼く見えるジークリンデが更に幼く見えるデザイン。

 ジークリンデはこの子供っぽいデザインは好きではないのだが、周囲の人たちが「似合う、似合う」と口を揃えて言うので、自分の好みだけではなく、客観視も必要だろうと ―― 実際のところ、よく似合っている。

 

「アントンの意見に同意です」

 

 ホログラフレターを撮影の際には、白よりももっと色鮮やかな着衣の方が映えることは、ファーレンハイトも分かっているが、あまりにも艶やかに映ったホログラフレターをもらうと、それはそれで困ることも、身を以て知っていた。

 

「私が嫌なの」

 

 ホログラフレターの写りは重要。専門の者を雇い、撮影の際に映えるドレスの色や髪型から、喋り方に仕草なども、ジークリンデはしっかりと学んでいた。

 指示通りの格好や化粧をすると写りが違うこと知っているので ―― 自分ができる範囲で、最高の姿で撮影したいと希望するのは当然のこと。

 

「失礼いたしました」

「それでね、曲も入れたいの。何曲か弾くから、どれが良いか選んで」

「ジークリンデさま、弾かれたものを、録音するのはお嫌いではありませんでしたか?」

「私が弾いた曲を録音するのではなく、いま弾きますから、どれが合うかをあなた達が選んで。手紙に挿入するのは、プロの曲です」

「そうでしたか」

 

 馴染みのある曲を三曲ほど奏で、ホログラフレター用のメイクをしに化粧室へと消えた。

 

「夫人、録音されるの嫌いなんですか」

「ああ。恥ずかしいそうだ」

「恥ずかしいレベルじゃないような」

「まあな。だが恥ずかしいそうだ。曲を選ぶか」

 

 ジークリンデの準備が整うまでの一時間、

 

「これでいいのでは?」

「じゃあ、それにしておけ」

「適当ですね、准将」

「ミュラーの耳には曲は届かんだろうしな」

「さすが経験者」

 

 最初の三分ほどで曲を決め終え ――

 

「そう言えば、ミュラーはコートの申請を出したか?」

 

 支給品のコートの肩が解れたので、新しいコートを支給してもらうために申請しなくてはならない。

 

「出してませんよ。むしろ紛失届けを出しそうです」

 

 新しいコートを支給される際には、古いコートは返却する必要がある。

 

「ジークリンデさまが繕ってくださったコートを、返却しろというのもな」

 

 解れただけならば何事もなく返却できるのだが、ジークリンデの手で繕ってもらったとなると ―― ちなみに紛失したとなると、書類に記載され、昇進の際に少しばかりだが影響もでる。

 

「本当に夫人は凶悪ですよ」

「……もう一着、特別に支給してやるか」

「ですねー。夫人はミュラー中尉に出世して欲しいようですから、瑕疵はないほうがいいでしょうし」

「手配は任せた」

「自分でやるんじゃないんですか? 准将」

「俺は面倒が嫌いでな」

 

 面倒が嫌いだから”なんだ?”といった状況だが、階級は准将と少佐なので、仕方ないとフェルナーはその仕事を引き受けた。

 

「まあ、いいですけれど」

 

 コートの手配を終えるのと、ほぼ同時にジークリンデが準備を整えて戻ってきた。

 

「あー緊張する」

 

 ジークリンデが自分から言い出したことなのだが、実はホログラフレターの撮影は苦手。

 

「ああー緊張する」

「止めますか?」

「止めませんよ、アーダルベルト」

「無理しなくていいんですよ、ジークリンデさま」

「無理してないとは言いませんけれど、やります! 撮影してちょうだい、アントン」

 

 三度ほど取り直しをして、納得はいかなかったが、これ以上は二人に迷惑をかけるだろうということで諦めた。

 

「これで大丈夫かしら?」

「大丈夫ですよ、ジークリンデさま」

「編集のほうはお任せください。ちなみに曲は、こちらを選びました」

 

 

『おはよう、ミュラー。今日は仕事のことは忘れて、楽しんでちょうだい。私は明日、あなたに会えるのを、楽しみにしているわ……ナイトハルト』

 

 

 ホログラフレターを作るのは簡単な作業なのですぐに終わるのだが、ジークリンデのホログラフレターはそれ以外の処理が必要となってくる。

 

「……時限設定するか」

 

 できあがったホログラフを見て、二人はしばらく無言となり、この危険な手紙をどのように処理するかについて語り合う。

 

「しないつもりだったんですか?」

 

 時限設定とは「一度、もしくは○回再生したら消える」や「所定の時間になったら消える」などの設定のこと。

 それをしなければ、媒体が破損しないかぎり、半永久的に再生し続けることができる。

 

「まさか。時限設定しないと、日常生活に支障を来すのは、経験済みだ」

 

『おはよう、ミュラー。今日は仕事のことは忘れて、楽しんでちょうだい。私は明日、あなたに会えるのを、楽しみにしているわ……ナイトハルト』

 

 胸元で祈るように指を軽く組み、まっすぐ見つめる翡翠色の瞳。半透明であっても、吸い込まれるような美しさを感じることができる瞳と、鈴を転がすような声での初めてのファーストネーム呼び。

 かつて似たようなホログラフレターをもらったのだが、時限設定が施されていなかったため、何度も見返した記憶のあるファーレンハイトとしては、制限なしに渡したらミュラーが使い物にならなくなることは、確実だと言い切れる。

 

「あー。素晴らしく良い思い出ですね」

「まあな。それでミュラー宛てのホログラフレターだが、時限は再生回数にするか? それとも時間にするか?」

「再生回数ならすぐに消えそうですね」

「そうだな。一回再生で消すか?」

「あんたは悪魔ですか? 准将。血も涙もないんですか? 激しく同意しますが」

 

 二人は結局、丸一日再生できるように設定した ―― 血も涙もない悪魔なみの仕打ちかどうかは、そのホログラフレターを受け取ったミュラー以外には分からない。

 

**********

 

「ナイト……」

 ジークリンデのモーニングメッセージは、日付が変わってすぐ、零時きっかりにホログラフは消えた。

 

 そして翌日 ――

 

「おはよう、ミュラー中尉。昨日はしっかり休めた?」

 

 ジークリンデはやたらと疲れた表情のミュラーを前にして”どうしたのかしら?”と、本気で心配していた。もちろん、一切の心当たりなどない。

 

「は、はい。あの、男爵夫人、ありがとうございました」

「私、なにかミュラー中尉に感謝されるようなことしたかしら?」

「昨日いただいた、ホログラフレターです」

「ああ、それ。喜んでもらえて良かった」

 

 この日のジークリンデの予定だが、ほぼ一日フレーゲル男爵と一緒に過ごすことになっていた。

 

 まずはフレーゲル男爵が買った馬を観に行くことに。

 ジークリンデも乗せてもらうことになっているので、乗りやすいデザインのロングドレス。ジークリンデ本人としては、

 

―― ドレスよりズボンのほうが、乗馬しやすい格好だと……

 

 と、いささか矛盾を感じないでもないのだが、貴婦人たるものロングドレスは基本中の基本なので仕方が無い。

 用意されたパラソルの下、椅子に腰掛けて、日陰から買ったばかりの黒馬の乗り心地を確認するフレーゲル男爵をジークリンデは眺めていた。

 

―― 乗馬している姿は、普段の八十倍くらい格好良く見える。馬に乗ってる時は、マールバッハ伯より格好よく見えるのよ……そんなこと、有るはずもないし、私以外の人には見えないでしょうけれど……べつに、妻の私が格好良いと一人で思っている分には、なんの問題もないし! 誰にも同意を求めたり、強要したりしてないから迷惑もかけてないし……いいんです、格好良く見えるんですもの。病院行けって言われたら行くわよ!

 

 なにがどうしたら、そこまで格好良く見えるのかは不明だが、夫婦仲が良くなる類いの幻視なので、誰も困りはしない。

 

 ただジークリンデほどではないが、実際乗馬しているフレーゲル男爵は、誰が見ても普段よりも数割増しに格好良く映る。

 悠々とアンダルシア産の黒馬を走らせるその姿は泰然として、まさに大貴族の子弟といった風格があった。

 

「ジークリンデも乗るか?」

「はい!」

 

 赤いリボンが目立つ、白っぽいストローハットを被り馬へと近づく。

 ジークリンデは馬に”ひらり”と乗れるような運動神経は持ち合わせていないので、ファーレンハイトなりフェルナーなりに持ち上げてもらい、騎乗しているフレーゲル男爵に受け止めてもらわなくてはならない。

 下手に体に力を入れると、扱いづらくなる”らしい”ことは分かっているので、全身の力を抜いて、本当になされるがまま。

 

―― 荷物のようです

 

 壊れ物のように扱われ馬上の人となり、座る位置を確認。

 

「ドレスの裾を引っ張って、アントン」

「はいはい」

 

 ドレスを着ているので、もちろん横乗り。馬を走らせる前に、ドレスを整えたりすることも必要。その間、フレーゲル男爵はジークリンデが背中を向けている側にいるミュラーを三白眼で見下ろして、歪な勝者の笑みを張り付かせ、ジークリンデの帽子を外し、

 

「つばの向きが、気になってな」

 

 頭を掴んで口づける。もちろんその時の視線は、ミュラーに向けられたまま。口元の歪みは「ふふん! これは私のものだ!」そう物語っていた。

 

「直してくださったの? ありがとうございます」

 

 背を向けたままのジークリンデには、その嫉妬しかない笑顔は見られてはいない ―― フレーゲル男爵が計算しての行動である。

 まさに小人といった行動を、つぶさに見るはめになったフェルナーとファーレンハイト。

 

「……(器小さいですねえ)」

「……(何時のもことだ)」

 

 馬上の人である二人に聞こえないよう小声で会話し、

 

「しっかりとサドルにつかまったか? ジークリンデ」

「はい」

 

 ジークリンデとフレーゲル男爵が乗った馬を見送った。

 二人を乗せた黒馬は少し離れたところで止まり、馬上で二人は仲むつまじく会話を始めた。楽しげに笑うジークリンデの目元に口づけるフレーゲル男爵。

 そこまではいつものことなのだが、ことあるごとに、ミュラーの方を見ては不必要なほどに、勝ち誇った表情を向ける。

 

「あー。本当に器が小さいお方ですね」

 

 見ている側が恥ずかしくなるレベルの、小さ過ぎる行動。

 

「ジークリンデさまに関してはな」

「ジークリンデさまのことに関してだけですか? アーダルベルト」

 

 ファーレンハイトは肯定も否定もせず。

 

「ジークリンデさまがお幸せなら、それでいいだろう?」

「たしかにそうですけれど」

 


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