黒絹の皇妃   作:朱緒

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第130話

「小物は私が選んでもいいかしら?」

「はい! 光栄です」

「コートに合わせたいから着てちょうだい。ケースから出して。アーダルベルトとアントンもコートを一着選びなさい」

 

 十着ほど仕立ててもらっている二人だが、素直に従いコートを選ぶ。

 

―― ミュラー中尉。でれでれし過ぎ

 

 ラム革の黒いハーフコートを選んだフェルナーは、首にマフラーを巻いてもらっては笑顔で、帽子を砂色の髪に乗せられても笑顔のミュラーの背後に音もなく近寄り、ジークリンデに「静かに」と口元に人差し指を立ててから、背後を取られたことにまったく気付いていない、無防備なミュラーの膝を膝で押した。

 膝がいきなり曲がり驚いたミュラーは、

 

「ギュンター! ……失礼いたしました」

 

 士官学校の同期で、稀な身体能力、とくに足音を消すことに長け、いつもこのような悪ふざけを仕掛けてきた人物の名を思わず叫んだ。

 ”ギュンター”から”キスリング”を連想できるほどジークリンデは名前を覚えておらず ――

 

「もう少し周囲に注意を払ってください」

 

 フェルナーの声は穏やかだが視線は冷たく。

 

「はい」

「びっくりしたでしょう、ミュラー中尉」

 

 まさか大の男が、膝かっくんしてくるとは思ってもいなかったジークリンデも、目の前でミュラーがおかしな感じに縮んで、かなり驚いた。

 

「それについてはお詫びします。済みませんでした、ミュラー中尉」

 

 悪いなど欠片も思っておらず、微量どころではない非難が混ざっているフェルナーのお詫び。だが、された側のミュラーは、警護の仕事を果たせていなかった自覚があるので、それを含めて再度謝罪した。

 

「いいえ。こちらこそ、気付かず」

「ところで、アントン。コート選びました?」

「はい。もう選び終えてます」

「そうですか。ミュラー中尉のマフラーを選ぶの、もう少し時間かかってもいいかしら?」

「もちろん」

 

 白いボア付きカシミアのロングコートを選んだファーレンハイトは、それらのやり取りを眺めながら、辺りに警戒を払っていた。

 ファーレンハイトが選んだコートに関してジークリンデは、似合っているのだが、もう少し温かい色のコートがいいな……とは思ったが、言うのを我慢した。

 もともと寒々しい色彩に、それを更に寒々しく感じさせる色 ―― 似合っているのだが、やはり寒々しい。

 

 ミュラーの小物だが、黒い無難な手袋に、同じく黒の帽子。唯一目を惹くのは、鮮やかなトパーズ色のマフラー。これらを選び、首都がある北半球へと戻った。

 

 ホテルに戻ったが、まだフレーゲル男爵は帰宅していなかった。

 そこで冷えた体を温めるために入浴の準備をさせ、

 

「針と糸を」

 

 ミュラーのコートの解れた部分を縫うことに。

 

「ジークリンデさま。裁縫なされるのですか?」

 

 刺繍とレース編みをしている姿しか見たことのないファーレンハイトは、金属製の指貫を身につけ、黒い糸を針に通しているジークリンデに声をかける。

 

「基礎は習いましたよ」

「でしたら。布が厚いので気をつけてください」

「いつも心配かけて、悪いわね」

 

 ファーレンハイトはジークリンデが刺繍している姿を見るのも苦手であった。器用で危なげないのだが、いつか刺すのではないかと気が気ではない。

 

「いいえ。勝手に心配しているだけですので」

 

 コートを裏返し、途中まで縫い合わせたところで”針子に任せたほうが良かったかしら”、少し肩が凝り、後悔したが、最後までやり遂げてこそ ―― 

 

「それなりに縫えたと思うのですけれど。途中で気付きました。連れてきた針子に任せたほうが、良い仕上がりになるということに」

「そうですね」

 

 ”そう思っていましたよ”フェルナーは同意した。彼もジークリンデが針を持ち、刺繍する姿は好きではない。優雅で女性らしいと思う反面、指に間違って刺さったら……という気持ちが先行してしまうため。

 

「縫い目が納得いかなかったら、針子にやり直させます。どう? ミュラー中尉」

「縫っていただけただけで……」

「ジークリンデさま。門閥貴族の男爵夫人当人を前にして”じゃあ、針子に縫い直してもらいます”そう言える者はいませんよ」

「そうね、アーダルベルト。なにか問題があったら、滞在中なら針子を使っていいわよ。手配しておいてね」

「かしこまりました。ところでジークリンデさま、入浴の用意ができたようです」

「そう」

 

 指貫を外し、まさに体重を感じさせぬ動きで椅子から立ち上がり浴室へ。

 ゆっくりと体を温め、髪を洗わせ、眠気に従い微睡み ―― 着替えて髪を乾かした。そして大きな円形の鏡と猫足のドレッサーの前に腰をかけ、長く艶やかな黒髪を結おうとしたところ、

 

「男爵閣下がお戻りになられます」

 

 帰ってきたという報告がフェルナーからもたらされた。

 

「では、お出迎えに」

 

 ミュラーのコートを縫い終えた時と同じように立ち上がるが、髪が自由になっていると、それが翼のように見え軽やかさがさらに増し、ふんわりと浮くのではないかと誰もが錯覚するほど。

 エレベーターに乗り込み、中央のホールへと。エレベーターは一階ではなく、正面入り口から入ると目に飛び込んでくる、大きな階段と踊り場のある、中二階の広い踊り場でドアが開くようになっている。

 

「階段を優雅っぽく降りるのには、自信があります」

 

 新無憂宮は徒歩限定。当然、他の階に移動するには階段しか使用できない。

 大きな階段を、手すりになど頼らず、躓くことなく、ドレスをたなびかせ優雅に駆け下り、トレーンと共に典雅に駆け上るのは、貴族の女性の嗜みであり、彼女たちを美しく見せる技でもあった。

 ジークリンデが階段を上り下りする姿は、国務尚書のお墨付き。

 

 クラシカルなドアのエレベータを降り、中二階の踊り場でフレーゲル男爵を待つ。回転ドアを通り抜けて現れたフレーゲル男爵を確認して、ドレスを両手で持ち、階段を駆け下りる。肘から下がった、金色の刺繍が入った飾り布と黒髪をたなびかせて。

 

「お帰りなさいませ」

 

 ルビンスキーたちと共にホテルへと戻ってきたフレーゲル男爵は、回転ドアを通り抜けたところで、すぐにジークリンデがホール付近にいることに気付いた。

 彼の妻がいる場は、静かで一定の方向をむいている人ばかりになるため。

 

「ただいま」

 

 抱きついてきたジークリンデを抱き返し、髪に口づけて、周囲の者たちを大いに見下し、勝ち誇った表情でジークリンデと腕を組み、部屋へと戻った。

 

**********

 

 帝国歴四八二年頃の、ジークリンデの人物認識 ―― 五年後でもあまり変わってはいないが ――

 

 アルツール・フォン・シュトライト

 現時点でジークリンデの信頼と希望が最大。

 原作の駄目な貴族の代名詞・ブラウンシュヴァイク公を見限ることなく、忠誠を尽くし、ラインハルトの部下になった経緯も、恩義のある親族に頼まれ取りなし、二回目のスカウトで臣下に下った人物。

 ジークリンデとしては、あまり我が儘を言わず、良好な関係を気付いていれば、助けを求めたときに、むげにされることはないだろうと。

 

 レオポルド・シューマッハ

 原作名前ありキャラクターで数少ない、ラインハルトに心酔していない平民士官。

 当然ながら、ジークリンデは盲信しない彼のことは、かなり信頼している。

 農業関係の仕事に就きたがり、開墾などをしていたが、あまり知識や経験があるようでもなかったので、現段階からそれらの知識を得られ、経営が成功するように ―― できることなら、付いて行って開拓したいなと、ジークリンデとしては思っている。

 

 アーダルベルト・フォン・ファーレンハイト

 実はあまり信頼していない。

 前線指揮官だということもあるが、死ぬ間際にラインハルトに対する心酔っぷりを、熱にでも浮かされたのかという勢いで、大いに披露してくれた。そのインパクトがジークリンデには強く、きっとラインハルトと共に戦うことがあったら、その才能に傾倒する可能性が高いと。

 唯一の希望はリップシュタット戦役のとき、ラインハルト側ではなく貴族側に属するので ―― 信頼を築ければ、逃がしてくれるかも知れないという淡い希望くらいは持っている。

 ちなみに逃亡先は、シューマッハの農場(ジークリンデは牧場と勘違いしている)

 

 アントン・フェルナー

 ある意味まったく信用していない。

 フェルナーが忠誠心を捧げるに値する相手になれるとは思っていない。

 信用していないのは、自分とも言える。

 とにかくジークリンデとしては、自分がフェルナーを部下にする力量がないと信じている。

 (フェルナーは、貴婦人に対して貴族の当主と同じような器を求めたりはしないが)

 冷酷な性格かどうか? はっきりとは分からないが、オーベルシュタインの部下が務まるくらいなので、ジークリンデのような普通の育ちの人間からは想像できないくらいの、冷たさは持ち合わせていると考えている。

 なので、命乞いをしても無駄だろうとも。

 

**********

 

 奇妙な信頼、もしくは何もしていないのに不審感をもたれている四名は、ジークリンデが食べたいと言っていた菓子類の毒味をしながら、一日の出来事の報告会を行っていた。

 

―― 固い。お姫さまに、こんなもの食べさせるの

 

 フェルナーは堅焼きせんべい類担当。

 

「これ、苦くないか? シュトライト」

「苦いな」

「淹れ方を間違ったか?」

「いいや、書かれている通りに淹れたはずだが」

 

 味わったことのない緑茶の苦みに、わさびの時と同じく首を捻るファーレンハイトと、飲み物は腹にくるので、もう一人飲み物担当となったシュトライト。

 

「テルエスについてだが、一人ではなく二人組であることが判明した」

 

 甘味担当のシューマッハが、チョコレートマフィンを食べつつ、掴んだ情報を伝えた。

 テルエスは男女の二人組。

 

「狙撃を担当しているのが女のほう。男はそれ以外、ターゲットを狙撃しやすい場所へと誘導したり、ターゲットのスケジュールを調べたりと。この男女の関係は分かっていないが、組む以前に、一人、もしくは他の相棒と仕事をしていたという情報はない」

「ばり……済みません、口内のせんべいが。あの誘導方法は?」

「変装が得意で、片足を引きずったり、盲目のふりをして話し掛け、足止めをすることもあれば、蜂をなどを放してパニック状態にしたりと様々だ」

「昆虫とか火事は厄介ですね……その飲んでるの、くれません? ファーレンハイト」

「飲んでも良いが、苦いぞ」

「口の中が痛いんで……これ、夫人に食べさせるんですか? 食べてみてくださいよ」

 

**********

 

 ホテルに滞在している期間はフリー。

 自分だけが休日を堪能するのも……と思っていたジークリンデは、フレーゲル男爵がファーレンハイトとフェルナーに一日だけだが休暇を与えたことに、心から喜んだ。―― レオンハルトって結構、優しいわよね ―― 

 

「レオンハルトと楽しんできますから。二人も仕事のことは忘れて楽しんでね」

 

 ジークリンデは本当に二人が休みだと信じていたのだが、この休みはDNA検査を行うために与えられた時間。

 

「はい、フェザーンを楽しんでまいります」

「お二人……と、ランズベルク伯もお楽しみください」

 

―― なんでランズベルク伯が一緒なんだ。デートスポットを捜したのは、ランズベルク伯だとは聞いたが、付いて行く必要はないだろう……

 

 夫婦水入らずのデートだと聞いていたフェルナーだが、当たり前のようにランズベルク伯が付いて行くらしいことに、いささかどころではない疑問を持ったが、深く追求はしなかった。

 

「フェザーンでデートに相応しい場所を捜したよ」

「それはありがたい」

「楽しみね。レオンハルト」

 

―― ご夫妻が気にしていないなら、いいか

 

 疲れた顔をしているシューマッハをうかがい見て、フェルナーたちはジークリンデたちと別れた。

 

「普通は一緒に行きませんよね」

「気にするな、いつものことだ」

 

 DNA検査だが、当然のことながらジークリンデは、フライリヒラート伯爵の実子。母親も間違いなくリヒテンラーデ侯の姪。

 兄のローデリヒとも血がつながっており、どこにも可哀想なツィタは存在しなかった。

 証拠品などが残らぬよう、丹念に清掃し(検査よりも、この清掃に時間がかかった)結果を持って二人はホテルへと引き返した。

 

 すでに夜も遅く、ジークリンデは寝るための準備中。

 

「結果は?」

 

 どんなときでも男性の身支度は女性よりも早く終わるもの。準備を終えて、ブランデーグラスを傾けていたフレーゲル男爵は、人払いをして彼らから報告を聞く。

 間違いなくジークリンデ・ツィタ・フェオドラ・フォン・フライリヒラート当人であることが判明し、

 

「その書類は厳重に保管しておくように」

 

 フレーゲル男爵は一人、祝杯でもないがグラスを掲げて、ブランデーを一気に飲み干した。そこへタイミングを見計らったかのように、ジークリンデにはしては短い膝丈のネグリジェに、引きずるほど長い、レースのナイトガウンを着て現れた。

 

「お待たせしました……あら? 二人とも、もう帰ってきてたの?」

 

 一晩帰ってこないものだとばかり思っていたジークリンデは、二人の予想以上に早い帰宅に、目を見開いて”え?”とばかりに声を上げ。

 

「はい」

「充分遊んできました」

「そう。でも眠る前に、顔を見られて良かったわ」

 

―― なんか、嗅いだことがない香りが……ラベンダー?

 

 ジークリンデが現れてから、遅れるように微かな香りがフェルナーの鼻腔に届いた。いままでジークリンデは柑橘系のものを好んで身につけていたこともあり、かなり変わった香りに感じられた。

 

「新しい香水買ったの? どう?」

「とても良い香りです」

「柑橘系の香りがお好きだと思っておりましたので、少々驚きました。もちろん、良い香りですよ、ジークリンデさま」

 

 ”お世辞でも嬉しいわね”と二人に褒められ上機嫌になったジークリンデは、フレーゲル男爵の隣に座り、酒瓶を遠ざけて、

 

「ラベンダーの香りって、不安や緊張を取り除き、安眠できる効果があるんですって。お酒ではなくて、ラベンダーの香りでぐっすり休みましょう。私が枕代わりになりますから」

 

 ”良いこと考えた!”と語るジークリンデと、口元を押さえて視線をそらすファーレンハイトとフェルナー。

 フレーゲル男爵は、持っていたブランデーグラスをテーブルに置く。

 

「そのために、選んでくれたのか」

「はい。もちろん良い香りだったということもありますけれど」

 

 フレーゲル男爵の酒量が気になっていたジークリンデは、香りの専門店に立ち寄った際に”そういえば”と思い出し、気休め程度だがとラベンダーの香料を購入した。

 

「そうか。では酒はこのくらいにして、早々に休むとしようか」

「本当? うれしい」

 

 まだ一本目のボトルの半分ほどしか空けていない状態でフレーゲル男爵は立ち上がり、

 

「お前ら、下がっていいぞ」

「お休みなさい、アーダルベルト、アントン」

「お休みなさいませ」

 

 ジークリンデを伴って寝室へと消えた。

 

「……」

「……」

 

 ジークリンデは本当に眠るつもりのようだが、そうはならないだろう ――

 

「お姫さまはもしかして、本当に刺客なのでは?」

「かもしれんな……俺たちには阻止のしようもなければ、殺されるほうも本望だろうし。……戻るか」

「ですね」

 

 二人は部屋を出ると、自前で設置した警備システムの操作部屋へ。扉を傷つけぬよう設置した暗証コードキー。出入りを極端に制限しているその部屋へと入ると、すっかりと見慣れた顔が映し出されていた。

 

「アンドリュー・フォーク」

 

 ファーレンハイトは「仕事しろ。お前は門閥貴族のお坊ちゃんか? 良いところのお坊ちゃんだったな」同盟名士の息子の行動に ―― 政治形態は違えど、長年戦争を続けていようが、人間は変わらんものだなと変なところで納得した。

 

「雪祭りにもアンドリュー・フォークいましたよね」

 

 四対一なら勝てるのでは? と、かなり本気で暗殺計画を練ったフェルナーだったが、相手の白兵戦能力が今ひとつ分からないために断念。

 ここでフェルナーの暗殺計画が実行に移され、成功していたら、同盟は滅びなかったかも知れない ――

 (四人の内訳:フェルナー、ファーレンハイト、シューマッハ、ミュラー)

 

「いたな。一体どうやって情報を入手しているのか。雪祭りに行くことまでは予想できても、訪問日までは分からないと思うのだが。情報分析能力に優れているのだろうな」

「怖ろしい解析能力ですよね。その能力、前線で使って欲しいものです」

「前線でからっきしだったら笑えるが、ここまで優れていれば、そういう訳でもなさそうだ。精々無能な指揮官の下、有能過ぎる案を出して煙たがられているところを、葬り去りたいものだ」


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