黒絹の皇妃   作:朱緒

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第127話

 大綬と勲章で飾られたローブデコルテをまとい、一筋の解れもなく、しっかりとまとめられた黒髪に光り輝くティアラ。

 

―― 緊張しますわー。座って笑ってるだけですけれど

 

 式典当日、ジークリンデは朝早くから身支度を整える。

 準備が終了すると場所を移動し、椅子に腰掛け、迎賓館を訪れた要人たちと挨拶を交わしていた。

 

―― これさえ終われば、二週間は自由に……

 

 基本的に誰も重要な話などはジークリンデにはしないので、とにかく良い笑顔を向けてやり過ごす。

 一通り挨拶が済むと、背後に控えていたフェルナーが、腰をかがめ耳元で囁くように声をかけてきた。

 

「ジークリンデさま、飲み物をお持ちしましょうか?」

 

 ホーフ・ジークリンデの一件で、ジークリンデと呼ぶよう命じられたので ―― 彼にしては、少しどころはなく緊張した声で、ジークリンデと呼びかけた。

 

「気を遣ってくれるのは嬉しいですけれど、水分は控えておきます。このような場面では、汗は大敵ですから」

 

 式典は見た目が重要なので、汗をかくのは避けなくてはいけない。

 室内で空調が完備されているとは言え、入念に準備し、注意を払ったほうがジークリンデ自身、安心できる。

 

「あー。それは……式典が終わったら、水分は取ってくださいね」

「分かりました、アントン。あっ、ところで」

 

―― ところで、号令は大丈夫……

 

 聞きたかったジークリンデなのだが、会場へ向かう時間となったため、最後まで聞くことができず。そのまま地上車へと乗り込み式典会場へと向かった。

 車中では沿道に集まった市民に手を振らなくてはならないので、フェルナーに話かける余裕はなかった。

 

「ジークリンデ」

「なに? レオンハルト」

「そちら側だけではなく、反対側の方にも手を振ってやれ」

「はい」

 

 自分が座っている側の窓越しに手を振っていたジークリンデは、言われた通りやや前屈みになってフレーゲル男爵越しに手を振る。もちろん笑顔も忘れずに。

 訪問予定などは諸事情により検索ができないようにしたが、メインでもある式典だけは削除するわけにもいかず、沿道に警備を置き、沿道を埋め尽くしている人々の声援に応える形となった。

 

―― それにしても、大勢の人がいるわ。さくらかしら? きっとさくらよねー。そうでもなければ、フェザーン人がこんなに集まるなんてないわよねー。皇帝でもその身内でもない男爵夫妻を見たい、奇特な人たちもいないでしょうし。お給料分は働いてくださいね、さくらたち

 

 ジークリンデがそう思ったのは無理もないのだが、沿道を埋め尽くしているのはさくらではない。

 愛国心を持って……などは、むろん少なく、ほとんどは興味本位。

 だが見に来て良かったと思わせるくらいに、ジークリンデは美しかった。かつてフリードリヒ四世の皇后のお后教育を担当した女官長から、しっかりと教え込まれた手を振る仕草は、気品に満ちあふれ、フェザーン人にも「皇族らしい」と思わせるほど。

 

―― 女官長に合格点をもらっているから、不格好ではないでしょうけれど……まさか、お后教育がこんなところで役に立つとは。次のお后さまにお教えするべきでしょうけれど、伝えられる機会がないのは残念ですね。ヒルダに伝えたいけれど、あの闊達なお嬢さんに、皇后になるための礼儀作法をお伝えしたいなんて言っても……

 

 手を振り微笑み、次の皇后だと信じていたヒルダに、この技術は必要なのか? それとも……と思いつつ、最初から最後まで変わらぬ笑顔を作り続ける。

 式典は黙って座っているだけで済むジークリンデだが、会場にたどり着くまでの仕事は多い。

 

 式典そのものは、ジークリンデが途中で目眩を覚えたが、なんら問題なく無事に終了した。

 

―― なんか、くらくらします

 

 押し隠して次の行事に臨むことも出来そうだったが、途中で白目をむいたら、無様過ぎるとい考えて、体調不良を訴える。

 医師の診察を受けて、少し休めば体調も回復するでしょうと言われたジークリンデだが、そう休んでもいられない。

 

「パーティーに出席しても、大丈夫よね」

 

―― 目眩にきく薬を処方してもらえると思ったのに……

 

「お勧めいたしませんが……どうしてもと仰るのでしたら」

 

 目眩を起こして倒れるのは不格好だが、だからといって次の行事であるパーティーを欠席するわけにはいかない。

 

「無理をしないとは言いません。今日は無理する必要のあるパーティーですので」

 

 式典そのものは終わったが、そこから続くパーティーを大過なく過ごして、初めて責務を果たしたことになる。

 

―― 遠足は家に帰るまで。それと同じで、式典はパーティーが終わるまでですからね

 

 医者は下がり、今度はメイク担当を呼び、顔色の悪さを隠し、体調が良いように見せるのではなく、不調なのかどうかすら分からないほど、顔色を隠すことにした。

 

「顔色を一切感じさせないようにして」

 

 もともとジークリンデの容姿は、半神じみているので、人間味を消すようなメイクを施しても滑稽になることはない。

 あまりに整いすぎて少々取っつきづらくなるが、体調不良で上手く笑えない可能性もあるので、笑わずともやり過ごすのには、突き放してしまうかのような美貌を全面に出したほうが、どちらにとっても良い。

 

「ジークリンデさま」

「なに? アーダルベルト」

 

 腕に予備のローブデコルテを乗せたファーレンハイトが、一礼してから話し掛けてきた。

 

「ご面倒かもしれませんが、衣類を全て新しいものにお取り替えになったほうが良いかと」

「着替えるのは慣れてますから、いいのですけれど。どこかに、おかしな皺でもつきました?」

 

 ジークリンデの背後に立っていたフェルナーが、ドレスの後ろの裾を持ち、見て下さいとばかりに指さす。

 

「どこかに引っかかったようです」

 

 上質なシルクで仕立てられているローブデコルテの裾が、僅かだが裂けていることを指摘する。

 

「引っかけた記憶はありませんけれど」

 

 貴族の子女にはあるまじきことだが、ジークリンデは「勿体ない」という感情があるため、出来るだけ服は傷つけないよう、注意を払った立ち居振る舞いをしてるので、裂けるようなことは滅多になかった。

 

「目眩に襲われた際に、引っかかったのかも知れません」

「そうですか。では着替えましょう」

 

 裾が裂けているようなドレスを着て歩くわけにはいかないので、なんら不思議に思うことはあったが、特に深く考えることなく、言われた通りに着替え、化粧も一度落として最初からやり直し ―― 開始時間に少々遅れたが出席する。

 

―― 下着まで取り替えたら、すっきりしたみたい。目眩したときには良いのかしら?

 

 先ほどまでの軽い目眩が収まったことを喜び、背筋を伸ばしてパーティーを無事に乗り切った。

 

**********

 

「よくある手段ですけれど、実際使われると、嫌ですね」

 

 フェルナーはジークリンデが脱ぎ捨てた着衣に、薬剤を吹きかけて、薬が使用された痕跡を確認する。ジークリンデの目眩の原因は薬物の摂取によるもの。経口ではなく、体温により気化した薬を吸い込むと、目眩が誘発されるもの。

 

「まあなあ」

 

 医師は早々にジークリンデの目眩の理由が、薬品であることに気付き、ファーレンハイトたちに伝えた。

 医師は薬物が使用されたのは分かるが、どのような経緯でジークリンデが、薬物を吸ったのかまでは分からない。吸引した方法や、誰が犯人なのか? それらを突き止めるのはフェルナーでありファーレンハイト。

 目眩の理由を聞かされた彼らは、即座に調査を開始しする。

 手袋や扇に毒を仕込むのは、古典的だがよくあること。最初は彼らもそれを疑い、ジークリンデが医師の診察を受けている最中に、手袋と扇を確認したが検出されなかった。

 大綬などの勲章類は彼らが管理していたので、万全と言い切れる。

 残るはローブデコルテか、ファウンデーション類か、もしくは化粧品。髪をまとめるために使われた整髪料など ――

 現在身につけているものは、全て対象となるため、着替えてもらうことに。そしていつものことだが、事情を説明するわけにはいかない。そんな中、着替えをそれとなく勧めるために、フェルナーはジークリンデの死角に入り、ドレスの裾を気付かれぬように裂いた。

 裂けてしまったドレスを着替えるのは異論はなかったジークリンデだが、”ついでに下着も着替えられたほうが”という勧めには、やや首を傾げたものの、まだ軽い目眩がしていたこともあり、疑問を口にするのも億劫だったため、彼らの意見に従った。

 

 それで調査の結果、薬物が仕込まれたのはビスチェであることが判明した。

 

「実行犯は女の可能性が高いな」

 

 ファーレンハイトとしては実行犯は女性であって欲しい。

 ローブデコルテならば、男性が近づいても、目立ちはするが立ち入りを禁止してはいないが、下着類が保管されている部屋は、基本男性の立ち入りは禁止されている。

 

「ですね。犯罪者に良いも悪いもありませんが、ジークリンデさまの下着を触ったのが、女性実行犯ならまだマシです。見ず知らずの男が触った下着を着せたなんて。薬品が散布された下着を着用させてしまっただけでも失態だというのに、その犯人が……うわ、気持ち悪い」

 

 フェルナーもそれに同意する。

 

 実際ジークリンデも、知らない誰かが触った下着を身につけたなど聞かされたら ―― 誰でもそうだが、非常に不快な気持ちになる。

 

「薬品の特徴から考えると、ジークリンデさまが身につける直前、男性立ち入り禁止区域の警備を担当していた婦警が怪しいか。スヴェトラーナ・ドブロフスカヤか」

 

 想像だけでジークリンデ以上に不快になった二人は、犯人を挙げて、不愉快さを少しでも軽減したいと、警備情報にアクセスし、該当者の割り出しにかかる。

 

「自分の犯行だとばれやすい……でも、それが狙いということもありますし」

 

 担当していたドブロフスカヤが犯人だった場合、あまりにもお粗末だが ―― ”ない”とも言い切れない。

 他に近づくことができたフェザーンの警官はただ一人。

 

「フェザーンの警官で、担当日時以外に部屋に近づけるのは、責任者のブカーチェクとかいう刑事だったな」

「どちらかでしょうかね?」

「両方とも考えられる」

「では私は迎賓館に戻って、証拠を捜してきます」

 

 明日からジークリンデたちはシュッセンリート迎賓館を出て、ホテル・シュワーヴェンに宿泊することになっている。また戻ってくるため、全ての荷物を運び出すことはないが、重要なものの片付けが始まっている。

 いま戻っても、証拠品は処分されている可能性もあるが、捜さないよりはよい。

 

「俺は連れ出そうとした方法を探る」

 

 たまたま酷い目眩ではなかったので、パーティーに出席することになったが、犯人が意図した通りに薬が効いた場合、別室で休んでいるところを拐かすと考えられる。

 

 その方法がどのような物なのか? 不審な車両などが映っていないかを早急に確認して ―― 出来ることならば、犯人を捕まえたい。

 

**********

 

 式典の全ての日程を終え、主たちがベッドの住人になったところで、ファーレンハイトとフェルナーは、互いの調査報告を行った。

 

「ミュラー中尉が落としたそうですよ」

 

 フェルナーは”いかにも”と言った薬品の小瓶を、取り出した。

 

「成分は?」

「ジークリンデさまに使われた薬で間違いありません。入手経路も調べてみましたが、分かりませんでした」

 

 ”見ます?”とばかりに、その小瓶を差し出す。

 

「なるほど」

「疑ってます? ミュラー中尉のこと」

 

 受け取ったファーレンハイトは、なにが分かるわけでもないが、ラベルが貼られていない瑠璃色に似た瓶を、シャンデリアの明かりにかざす。

 

「いいや」

「疑ってないんですか」

「ジークリンデさまが選んだということもあるが、あの男は薬を使って誘拐しようとするタイプには見えんな。それはお前の領分だろう、フェルナー」

 

 ミュラーがどんな人間かは彼らも理解したとは思っていないが、ジークリンデに対する態度と、今までの言動から考えて、薬物を用いるタイプには到底見えなかった

 

「うわ、ひどい。ですが、意見としては、全面同意です。ミュラー中尉が上手にジークリンデさまのビスチェのレースアップ部分に、あれほど器用に薬品を仕込めるとは思えません。私ならもう少し上手ですけれどね」

「で、その薬を拾ったのは誰だ?」

 

 薬が入った瓶を、ファーレンハイトはテーブルに置く。

 

「ブカーチェク警部補が、届けてくれました」

 

 瓶の蓋部分に人差し指で触れ、斜めにしてもてあそび、フェルナーはやや暗い嗤い顔になる。

 

「なんで”私に渡したほうがいい”と思ったのか不思議ですけれどね。フェザーン人って、落とし物を当人に渡さない習慣でもあるんでしょうかね?」

 

 確かにミュラーが落としたとブカーチェクは語ったのだが、落とした相手が分かっているのなら、その場で落とし物だと声をかければ済むこと。

 普通に考えれば、当人が使用している薬だと考えるはず。

 まして薬品の瓶の全てが危険なものではない。ラベルが貼られていないこの薬瓶を見て、危険な薬物だと瞬時に判断したとしたら ――

 

「変わった習慣だな。ブカーチェクは警戒しておこう」

「そちらは、どうでした? ファーレンハイト」

「逃走手段は分からなかった」

「ジークリンデさまがパーティーに出席したから、早々に引き上げた?」

「そう考えるべきか、もしくは最初から用意していなかったか。もしくは……徒歩で逃げるつもりだったか」

「ジークリンデさまは、細くて小さいから、ちょっとした大きさのケースに詰めることが可能ですからね」

「確かに、ドレスを脱がせてしまうと、持ち運ぶのは簡単だ。着ていても、慣れてしまえば平気だが」

 

 ジークリンデを運ぶことが多いファーレンハイトは、経験しているその軽さと小ささに、改めて誘拐のしやすさを実感し、かすかに身震いする。

 

「慣れてる人でしたら……もしかして、下着に薬を浸したのは、目眩もそうですけれど、ドレスを脱がせるためかも知れませんね」

 

 掴むべき箇所と、持つべき場所さえ押さえれば、ドレスを着ていても運べるのだが、経験がない者からすると、ドレスは優雅で柔らかだが、確かなる鎧であった。

 それを自らの手で脱がせるのは不可能な場合、当人に脱がせるのが確実。

 

「ドレスを剥いで連れ去るつもりなのか……」

「貴婦人の服を脱がせるなんて、最悪ですよ」

「犯人はまだ確定していないが、方法は見えてきたな。気を失わせ、ドレスを脱がせて運び出す」

「ドレスを脱いでいる時は、できるだけ近くに控えている必要があるんですね……誘拐犯をとっとと捕まえるか、早急にオーディンに帰るかしましょうよ。式典が終わったんですから、サイオキシン麻薬もフリーデリーケが放った殺し屋も、独立派も無視して、国務尚書が守る堅固な要塞にお戻りになられたほうが……はあ。楽しみにしていらっしゃいますもんね」

 

 黙って首を振るファーレンハイトに”分かってます、分かってます”と、ため息を吐き出し、フェルナーは明日からの自由時間の危険さに頭を悩ませた。

 


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