黒絹の皇妃   作:朱緒

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第126話

「なんでございましょう、男爵夫人」

「今日は私の誕生日なの」

「存じております」

 ジークリンデはそのほっそりとした腕を伸ばし、ミュラーの胸の前に手のひらを差し出した。

「誕生日プレゼント、頂戴」

「……」

 

**********

 

 出会い頭に言われたことを思い出し、ミュラーはとても幸せな気持ちになる ――

 

 ミュラーが護衛対象のジークリンデに願ったことはただ一つ。「あまり我が儘ではない」こと。その願いが叶ったというと、そうでもない。

 

 ジークリンデは我が儘な部類に入る。

 

 ミュラーはいままでの人生で、もっと我が儘な人間と遭遇し、腹立たしい思いをしたことはあるが ―― ジークリンデの我が儘は、たしかに我が儘なのだが、言われると幸せな気持ちになれる。

 

 要は惚れた弱みなのだが、生まれて初めての感覚にミュラーは戸惑った。

 

 我が儘の一つとして、自転車に乗りたいと言いだし、屋内グラウンドを借りたのに、野外が良いと言い出して ―― 怒鳴ったりはせず、微笑んでその我が儘を通すさま。

 話だけ聞けば「たちが悪い」相手だが、目の当たりにすると、それが当然のことのように思え、願いを叶えるべきだと使命感すら覚えるほど。

 

 宿泊しているシュッセンリート迎賓館の庭に場所を移し、自転車の後ろに乗るために着替えたジークリンデが現れる。

 

「ねえ、ミュラー中尉。この格好似合ってます?」

 

 白地に金糸の刺繍が目をひく日傘をさしたまま、ジークリンデが回ってみせる。体重を感じさせないどころか、”ふわり”と浮きそうな軽やかさを前にすると、ミュラーは無意識のうちに頬がほころびる。

 

「とてもお似合いです、男爵夫人」

 

 生真面目でいかにも軍人らしいミュラーが、職務中にも関わらず、表情が豊かになってしまう。

 

「先ほどまでの服と、この服。どっちが似合ってます?」

 

 ジークリンデに聞かれたミュラーは、一転して困惑の表情を浮かべる。

 どちらのドレスも、いかにも門閥貴族の姫君らしく、美しいジークリンデによく似合っていた。

 ミュラーの周囲には、ドレスを着るような人種はいなかったこともあり ―― ジークリンデに会う前は、裾を引きずるようなドレスを着ている女性は、知らない相手であっても、苦手意識が先行するほどだったのだが、今はそうでもない。

 

「難しいですね。どちらも、とてもよくお似合いですので」

 

 難しく答えづらい質問を、笑顔で聞いてくるジークリンデを前に、正直に答えたのだが、それでは許してもらえず。

 

「ミュラー中尉の好みは?」

「どちらもお似合いですので、どちらがとは言えません」

 

 そんな話をして、自転車に乗る。

 抱きついてきた腕、そして胸の柔らかさと、良い香りに、心臓が早鐘のように鳴るのを感じつつ、ミュラーは漕ぎだした。

 安全運転のために、心を鎮めようと、できる限り無心を目指し ―― つかまり直すためにジークリンデが”きゅう”と腕が力を込め、甘やかに体を締め付けられるだけで、顔が赤くなるほど緊張と羞恥と、その他の感情がわき上がってくる。そんなミュラーだけの攻防がしばらく続いた。

 

「話せる? ミュラー中尉」

「はい」

 

 話し掛けられたミュラーの声は、背を向けた状態であることに安堵して、努めて普通の声で返事をした。

 

「あのね、ミュラー中尉、スポーツは好き?」

 

 当たり前のことだが、護衛対象と話をするなど想定されてはいないので、軍が用意した履歴には、趣味などは載せられていない。

 通常のまともな警備をしていた場合、そんな内容の話をする筈はないので。

 

「自分でプレイするのなら、サッカーが好きです。フライングボールは観戦のみですが、時間が許す限り中継を観戦しております」

 

 ミュラーは前方を注意しながら、僅かに後ろを向く。

 そこには好奇心旺盛な翡翠色の瞳が、迷うことなく自分を見つめていることに気付き、やや狼狽し急いで前をむき直す。

 

「サッカーするの? ボールを用意させるから、あとで、見せて!」

 

 帝国は概ねゲルマンの慣習を引きずっていることもあり、サッカーも盛んであった ―― かつてのジークリンデが知っているルールとは、若干違うのだが、幸いというべきか、生前サッカーに詳しくなかったこともあり、観戦している際に戸惑いを感じることなく情報を集めることができていた。

 

 ジークリンデのスポーツ観戦は、孤児院と同じで下心がある。

 

 生き急ぎ、趣味らしい趣味がなかったとされているラインハルトは別として、麾下の将校たちには、ある程度、趣味があったのではないか? メックリンガーだけが注視されているが、あれは変わった趣味なので目立っていたのだろうと考えて、他の将校たちは、ごく一般的な趣味を持っていた可能性があると想定し、平民の趣味を結婚前から調べていた。

 だが平民だけが楽しんでいる趣味に詳しくなるのは、貴族の姫君としては相応しくないので、平民と貴族、両方が楽しんでいるものに絞った。そうして幾つかのスポーツが候補に挙がる。どの将校がどのスポーツを好むか分からないので、候補に挙がったスポーツ全てのルールに歴史、有名な選手などを網羅するという努力をする。

 さほど興味がないものなので、覚えるのにいささか苦労したものの、流刑地に送られる可能性を考慮すると、止めるわけにはいかなかった。

 

 そんな流刑地送りほぼ確定のリヒテンラーデ一族から、一族全員、処刑される可能性がきわめて高いブラウンシュヴァイク一門の主流に嫁ぎ ―― 結婚後はブラウンシュヴァイク公の私軍にアンケートなどを取り、さらに知識を高めていった。

 

 その知識だが当然ながら、ひけらかすことなどしなかった。

 だが共に観戦している際には、つまらなさそうな態度を取ることなく、ルールにも精通し、話し掛けられたことに対し、見当違いな答えを返すこともない。そして更に、どのスポーツでも網羅している。ジークリンデが男性貴族に人気があるのは、男性だけが好むスポーツであっても、充分な知識を備え、会話をしていても楽しいというのも理由の一つであった。

 

 ラインハルトの部下に近づくための努力が、まったく興味のない貴族男性に好意をいだかれる原因になるとは、ジークリンデは思ってもみなかった。

 

「お見せできるような、技術はありませんので、お許しください」

 

 帝国内のプロスポーツのオーナーは、ほぼ貴族。

 没落した貴族が借金の形に裕福な商人に売り払ったりすることもあるが、ほぼ貴族といっても間違いではない。

 フレーゲル男爵は帝国内でも有数の強豪サッカーチームのオーナーで、夫妻はよく自分たちのチームの試合を観戦している。

 その辺りはミュラーも聞いているので ―― プロ選手の技術を、好きな時に見ることが出来るような人相手に、素人のミュラーとしては、ジークリンデに格好悪いところを、見せたくないという気持ちが強く働き断った。

 

「ええ……まあ、そういうのでしたら。ところで、フライングボールは贔屓のチームとかあるのかしら?」

 

 ジークリンデはプロなみの技術を求めたわけではなかったのだが、気後れしているミュラーに強制するのは避けた。

 気分を悪くするような話は、最初からするつもりなどない。

 将来のラインハルトの部下に、できるだけ好印象を与え、あわよくば救ってもらいたいという気持ちで動いているのだから、当たり前のことである。

 

「はい」

「どのチーム?」

「ヴィーゼンシュタイクが好きです」

 

 ミュラーはジークリンデの護衛のため、フレーゲル男爵に関しての詳しい情報は、渡されていなかった。

 そのため、自分自身で事前調査を行い、フレーゲル男爵はフライングボールのプロチームは所持していないことを知り、どのように答えても気分を害されることはないだろうとの考え、サッカーとは違い気軽に答えた。

 

「あら、そうなの。ヴィーゼンシュタイクは良いチームですものね。でも残念」

「何故ですか?」

「同じチームなら、話が合うと思ったから。私はオクセンハウゼンが好きなの」

 

 ジークリンデと趣味が合わなかったことに、僅かばかりの残念さを覚えるも ――

 

「去年の決勝トーナメントで、ヴィーゼンシュタイクに負けた?」

「そう。でも、これは内緒よ」

「内緒……ですか?」

「勝負を公正にするためです。良人はフライングボール連盟の理事なの。それで、私に”贔屓のチームを勝たせてやる”と……悪気はないのよ! 貴族は大体がそうですから! でも、ほら、そうなると、つまらないじゃないですか。ですから、私は特に贔屓のチームはないと言うことで通してるの。だから良人には内緒ですよ」

 

 ジークリンデはミュラーの背に右頬を押しつける。

 理事に関してミュラーは見逃していた ―― 貴族は複数の役職を持っていることが多いので、たまに取りこぼすこともある。

 

「男爵閣下には秘密ですか?」

 

 夫に好きなものを秘密にしている。そして秘密にしていてと頼まれて、勘違いだと分かっていても、甘美な誘いをかけられているように思えて仕方なかった。

 

「ええ。絶対に……そうだと知ったら、あの人、方々に手を尽くしてしまうんですもの。そうして勝ったのを知っても、私は喜んでしまうので」

 

 皮膚に感じる軽やかな笑い。庭園の中央にある池へとたどり着き、そこを周り、また別の庭へと入り込む。

 

「他に男爵夫人が、オクセンハウゼンを贔屓にしているのを、知ってる方などは、いらっしゃるのですか?」

「ファーレンハイトは知ってるわ。たまにオクセンハウゼン戦に連れていってもらって、ボックス席で一人で騒いでるのを、根気強く見守ってますから」

「根気強くですか?」

「警護だからでしょうが、試合を観ることは一切なくて。ふと視線を感じると、大体、私を微笑浮かべて、私を見ているの。たまには試合を観てもいいのに。私を見ているほうが面白いって」

「ファーレンハイトさんのお気持ち、分かります。警護の仕事を優先している時には、試合を観ても楽しめません」

「貴方たち職業軍人って、本当に真面目ね」

「ファーレンハイトさんも、やはり軍人でしたか」

 

 軍人であることは、隠してはいないが、明言もしていないので ―― 本国に照会すると分かるのだが、ミュラーはそこまではしていなかった。

 

「やっぱり軍人って分かるもの?」

 

 ジークリンデとしてはファーレンハイトやフェルナーが軍人であることを、ミュラーに対して隠し通すつもりはない。

 なにせ建前では「フェザーンの情報を入手してもらう」と彼らに明言している。この計画が上手くいった場合、連絡を取り合うのは、ファーレンハイトかフェルナーなのだから、現時点で所属をはっきりさせたほうが、後々の信頼の度合いが大きく違う。

 本音は「そろそろフェザーンから移動になって、前線に行きそうですから、ファーレンハイトと仲良くとまでは言いませんけれど、顔見知りになって協力体制を作ってくれたら嬉しい」そう考えてのこと。

 

「ええ。立ち居振る舞いといい、歩き方といい、軍事訓練を受けた人だと一目で分かります。小官も軍服を脱いでも、一目でばれるタイプです」

 

 徴兵がなく、軍人という職業のないフェザーンでは、軍人はやはり目立つ。

 

「そうなの。ではフェルナーはどうです? 彼も軍人なのよ」

 

 諜報部は軍人らしさを隠すことが重要。その技術を会得しているフェルナーは、一見したところ軍人には見えない。

 

「フェルナーさんも、軍人でしたか……言われてみると。もしかして、諜報関係の……男爵夫人はご存じありませんか」

 

 ただ「じゃあ、なんに見える?」と聞かれると、誰もが困るタイプ。学生には見えなくもない、学識者という雰囲気でもないが、研究者と言われると否定できない。身のこなしからスポーツ選手のようにも見えるが、それにしては剣呑で、格闘技を身につけているようにも……。最終的には軍人かもしれないに行き着くが、非常に思考を迷走させてくれる。

 

「諜報部よ。ちゃんと履歴書を見て、私自身が選んだんですから。でもミュラー中尉が、一目で分からないあたり、本当に優秀なのね」

「男爵夫人ご自身が、選定に関わっていらっしゃるのですか?」

 

 まさかジークリンデが直々に選んでいるとは、ミュラーは夢にも思わなかった。

 

「もちろん、私の護衛ですもの。私が選ばなくてどうします。ファーレンハイトもフェルナーも私が自ら選びました。当然ミュラー中尉、あなたも私がフェザーンの駐在武官の中から選んだのよ」

 

 誘うように、なにかを求められているかのように、風の音混じりに囁かれる。囁いた方は、少しは声色を変えた意識はあったが、ミュラーの感情をどれほど、ざわめかせたのかまでは、分かっていなかった。

 

 ジークリンデは自らの容姿が持つ力を、ほとんど理解していない。

 

「そ、それは」

 

 フェザーンにはミュラー以外にも多くの駐在武官が配属されている。実家が有爵貴族の者も居れば、ミュラーよりもフェザーン滞在期間が長く、あちらこちらに顔の利く軍官僚もいるし、階級も自分より上の者が多い。

 そんな中、とくに目立つものもなければ、有力者の知り合いもいない自分が選ばれた理由。フェルナーと同じく、疑問はあれど、選定理由など知る術がない筈なのだが ――

 

「良人や伯父さま、大伯父上は残念なことですが、私の護衛に平民を選んだりはしませんよ」

 

 あまりにも想像していなかった出来事に、安全運転を心がけなくてはと気持ちを引き締めようとするが、心が踊り、手のひらに緊張で汗が浮かんでくる。

 

「てっきりフェルナーさんか、ファーレンハイトさんが選んだのだとばかり」

 

 過去に会ったことがあるわけでもなく、自身は門閥貴族に知り合いがいるわけでもない。そんな自分が、なぜジークリンデに選ばれたのか?

 疑問は大きくなるばかり。

 

「フェルナーは最近護衛としてやってきたばかりで、フェザーン関連のことにはタッチしてません。ファーレンハイトがあなたを選んだとしても、誰も許可をしませんよ。私が選んだから、なんとかなったんです」

「なぜ小官を選んで下さったのですか?」

 

 聞いてしまった ―― という思いが脳裏を過ぎるも、どうしても聞きたいという気持ちも大きい。だが、視線の先にはゴール地点。

 停止させるためにスピードを落とすが、答えを聞きたいがために、極端に遅くするわけにもいかず、答えを聞けぬまま、ファーレンハイトたちが待って居る出発地点へと滑り込んだ。

 ジークリンデはその質問に答えることなく、ファーレンハイトの手を取り自転車から降り、振り返ってミュラーに曖昧に微笑んだ。

 その笑みはどこか悲しげに見えた ―― ミュラーには。

 

 ジークリンデとしては、ミュラーを選んだ理由など言えないので、笑って誤魔化すしかないのが真実なのだが、持って生まれた美しさと、西苑の女官長から習った対処法を上手く使い、良いように取ってもらうことに成功した。

 

 良いのか悪いのかは別として。

 

**********

 

『ファーレンハイトは知ってるわ。たまにオクセンハウゼン戦に連れていってもらって、ボックス席で一人で騒いでるのを、根気強く見守ってますから』

『根気強くですか?』

『警護だからでしょうが、試合を観ることは一切なくて。ふと視線を感じると、大体、私を微笑浮かべて、私を見ているの。たまには試合を観てもいいのに。私を見ているほうが面白いって』

『ファーレンハイトさんのお気持ち、分かります。警護の仕事を優先している時には、試合を観ても楽しめません』

『貴方たち職業軍人って、本当に真面目ね』

『ファーレンハイトさんも、やはり軍人でしたか』

 

「夫人はオクセンハウゼンが好きなんですか」

 

 ジークリンデはミュラーが漕ぐ自転車に乗って会話をしていたのだが、内容が聞かれているなどとは思ってもいない。

 

「そうだ。どの選手が好きとは仰らないが」

 

 彼らも会話を盗聴したいなどとは考えていない。

 だが安全を優先すると、どうしてもこのような状況になってしまう。

 なにせフリーデリーケが放った殺し屋以外にも、多数の危険分子が存在している。

 フリーデリーケと同じように個人的な恨みにより、殺害を計画する者や、フェザーンの完全独立を目指しているものなど。

 フェザーンは同盟と帝国のバランスを保たせようとしているのだが、それは自治領主と地球教の思惑であり、全てのフェザーン人がそのように考えているわけでもない。

 帝国からの完全独立を目論む勢力も存在する。

 むしろ独立活動を行っている者たちのほうが、目立つほど。

 どの組織でもそうだが、穏健派と過激派が存在しており、フェザーンに皇帝の代理がやってきたことで、にわかに活気付き ―― 誘拐を計画しているとの情報も入っていた。

 

「軍人だってばれましたけど、いいんですか? 隠すつもりもなかったようですけれど」

「構わんだろう。……お前もばらされたようだが。俺とは違い、簡単には分からなかったようだな」

 

 完全独立を望む過激派の方は、サイオキシン麻薬が絡んでいないため、人員の選出に悩むことなどなく、通常の部隊と、いつも通りの調査でことが足り ―― それにより、警護についているフェザーン警官の誰かが、その一人であることが判明した。

 

 だが「誰」なのか、はっきりと分かっていない。

 人員を総入れ替えすることも考えたのだが、総入れ替えした方にも含まれている可能性を考慮する必要がある。

 彼らを一から調査し直す時間もないので、注意を払い誘拐を未然に防ぐ方法をとることにした。

 

 ”結局実行に移せなかった”で済めば、彼らは罪に問うつもりはなく、調査するつもりもなかった。

 

『てっきりフェルナーさんか、ファーレンハイトさんが選んだのだとばかり』

 

「誰だって、そう考えますよね」

「まあな」

「私だって、ファーレンハイトが選んだのだとばかり思ってました」

「俺はお前みたいな、癖が強くて言うこと聞かそうなのを、選んだりはしないな」

「その言葉、そっくりそのまま、お返しさせてもらいます」

 

『フェルナーは最近護衛としてやってきたばかりで、フェザーン関連のことにはタッチしてません。ファーレンハイトがあなたを選んだとしても、誰も許可をしませんよ。私が選んだから、なんとかなったんです』

『なぜ小官を選んで下さったのですか?』

 

「……」

 ミュラーの質問に、それは彼らも知りたかったことなので、二人とも耳を澄ませた。

 だが残念ながら答えはなく、

 

「お帰りなさいませ、夫人」

「楽しかったですか? ジークリンデさま」

 

 会話を聞かれていたなど、つゆほども思っていないジークリンデは、差し出された手を取り笑顔で自転車から降りた。

 


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